第六章:もうひとつの目覚め
その子がやってきたのは、雨の朝だった。
ぬかるんだ森の道を、大人たちに囲まれながら、
まだあどけなさの残る少年が、怯えたように歩いていた。
制服はしわだらけで、靴も泥だらけ。
目の奥には、わかっていない目があった。
――ここが、どこなのか。
――これから、何をされるのか。
小学校の玄関で待っていたのは、いつもと変わらない着ぐるみの先生たち。
シカぐるみのししょくせんせいが、やさしい声で告げた。
「さあ、準備はできていますよ。あなたの着ぐるみも、ずっと待っていました」
案内された部屋の中。
壁にかかっていたのは、ひとつのクマの着ぐるみ。
――それは、かつてのぼくだった。
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少年の小さな手が、クマぐるみのファスナーに触れる。
少しだけためらい、そして、ゆっくりと着始める。
脚から、腕から、肩から。
温かくて、重たくて、それでいてどこか懐かしい感触が、少年の身体を包んでいく。
最後に、クマの頭を被るとき、
ほんの一瞬だけ、何かが胸の奥で“ざわっ”と揺れた。
(……だいじょうぶ)
声ではない。
思考でもない。
もっと深くて、柔らかい――
毛の奥、ぬくもりの中に眠っていた記憶が、ほんのかすかに触れた。
それは、かつてここで「ぼく」と呼ばれていた何者かの、微かな意識。
消えてしまったはずの“誰か”の想いが、
新しい“ぼく”に、そっと言葉をかける。
(こわくないよ。ここで生きていけるよ)
(忘れても、ちゃんと笑えるようになるよ)
(ぼくも、そうだったから)
少年の身体が、クマぐるみとぴったり重なる。
もう、「着ている」わけじゃない。
ひとつになっていく。
⸻
教室に、新しいクマくんがやってくる。
みんなは笑顔で迎える。
前にいたクマくんのことを、誰も話さない。
でも、誰もがなんとなく、同じような空気を感じていた。
「新しいクマくん、よろしくね!」
「次の“森の役目”、一緒にやろうね!」
「忘れものしないでね、クマくん!」
少年は、最初は戸惑いながらも、
少しずつ、「クマくん」と呼ばれることに慣れていく。
鏡を見たとき、自分の姿に違和感を感じなくなったとき。
それがきっと、**「はじまり直した瞬間」**なのだ。
⸻
夜。
布団の中、少年の夢に、知らない風景が流れる。
教室、白いノート、笑い声、誰かの背中。
見たことのないはずの光景に、胸がじんわりと温かくなる。
目を覚ましたとき、少年はクマぐるみの中で微笑んでいた。
誰にも見えないところで――
「ぼく」は、たしかに今も、生きている。