第五章:クマぐるみの中に残る意識
ある日、ふと気がついた。
「ぼく」として考える時間が減っていることに。
朝、起きる。
制服を着て、クマの着ぐるみに身体をおさめる。
教室へ向かい、ルールを学び、昼には給食を食べ、放課後は森で体操をする。
誰かと話し、笑い、手を振る。
だけど――そのどれもが、まるで自動的に行われているようだった。
思考の間に“空白”がある。
会話の言葉が、ぼくのものじゃないみたいに口から出る。
「おはよう、クマくん」
「うん、おはよう」
そう答えている自分が、遠くに感じる。
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“わすれるじかん”のノートは、もう開いていない。
机に置いてあるのに、手が伸びない。
開こうとすら、思い出せない。
ただ、眠るときだけ、ほんの少し――
意識の底から、小さな声が浮かんでくる。
(ぼくは……まだ、ここにいるの?)
⸻
その夜、夢を見た。
森の小学校。
教室の中。
窓の外には月が浮かび、机の上に広げられた白いノートが一冊。
中には、子どもの文字でこう書かれていた。
「ぼくは、忘れたくなかった」
次のページには、
「それでも、忘れていった」
その文字を、誰が書いたのか――もう、思い出せない。
だけど、胸のどこかが、ぎゅうっと締めつけられた。
夢の中で、クマぐるみがひとり、教室の片隅に座っていた。
中身は空っぽのはずなのに、じっと、何かを見ている。
静かに、何かを感じている。
あれは――きっと、ぼく自身だった。
⸻
翌朝、目が覚めたとき。
ぼくはもう、自分の名前を思い出せなかった。
人間だった頃の記憶も、ほとんど思い出せなかった。
でも、悲しくはなかった。
もう、「クマくん」としての毎日が、すっかり身体に染み込んでいたから。
授業のあと、校舎の裏庭で、新しく来たネコぐるみの子が泣いていた。
理由は、聞かなくてもわかった。
はじめは、みんな同じだから。
ぼくは、ゆっくりと近づいて、
クマぐるみのモコモコの腕で、その子の背中をそっと包んだ。
「……だいじょうぶ。すぐに、なれるよ」
その言葉が、自分の声なのか、クマぐるみの言葉なのか、
もう、わからなかった。
でも、それでよかった。
⸻
その夜。
校舎の倉庫に、古いクマぐるみが並んでいた。
その中のひとつだけが、かすかに、呼吸するように動いていた。
中に入っていた“ぼく”という存在は、もう声もなく、言葉もない。
けれど確かに、どこか深いところで、まだそこにいた。
眠っている。
忘れている。
でも、誰かがまたその中に入るとき――
かすかに、何かを伝えようとするのかもしれない。
「……おかえり」
そんな声が、どこかから聞こえた気がした。