第四章:クマぐるみの中で
朝の鐘の音で、目が覚めた。
ぼくは、クマぐるみのまま、静かに起き上がる。
(……なにか、夢を見ていた気がする)
でも、それがどんな夢だったかは思い出せなかった。
ただ、胸の奥に、小さな穴のような感覚が残っている。
なにか、大切なことを忘れてしまった気がするのに、それが何かがわからない。
制服を着て、ランドセルを背負い、森の道を歩く。
いつもと変わらない朝。
教室の窓から見える森は、今日もやさしい光に包まれていた。
それでも、何かが“少しだけ違う”気がしていた。
⸻
一時間目の前。
教室の空気に、ぴんと張り詰めた気配が走る。
「きょうは、新しいおともだちを紹介します」
ししょくせんせいの声が響く。
ぼくたちの視線が一斉に教室の入り口へ向く。
そこに立っていたのは、小さな男の子。
ぼくと同じように、小学生の制服を着ていた。
まだ着ぐるみは着ていない。
髪も表情も――まるで、**“来たばかりのぼく”**そのものだった。
「今日からこの子も、この森の小学校の仲間です。
みんな、やさしく教えてあげてくださいね」
「……えっと、よろしく、お願いします」
男の子は震える声で挨拶した。
周りの子たちは優しく笑い、拍手を送った。
でも、ぼくの中で、何かがふるえた。
心の奥底にしまったはずの記憶が、ざわっと揺れた。
(ああ……そうだ。ぼくも、こうしてここに来たんだ)
忘れていたはずの感情が、ゆっくりと溶けだす。
最初に着ぐるみを着たときのこと、名前を奪われたこと、
「クマくん」と呼ばれて、最初は戸惑っていたこと。
――忘れたと思っていたのに。
――ぼくの中には、まだ“ぼく”がいたんだ。
⸻
その日の放課後。
校舎の裏で、さっきの男の子が泣いているのを見つけた。
ランドセルを抱えたまま、背中を丸めてしゃがみこんでいる。
ぼくはそっと近づき、隣に腰をおろした。
モコモコのクマぐるみの手が、男の子の肩に触れる。
「……こわいよ……帰りたいよ……」
「……わかるよ」
言葉が自然に出てきた。
まるで、誰かに言われた言葉を思い出したように。
「でも、大丈夫。すぐに慣れるから。
ここでは、みんなそうだったから」
ぼくがそう言うと、男の子はぼくを見上げた。
その目に、少しだけ“信じてみよう”という光が宿った気がした。
「ねえ……君の名前は?」
その質問に、ぼくは一瞬、言葉を失った。
だけど、自然と口が動いていた。
「ぼくは……クマくん、だよ」
そう言って、笑って見せた。
⸻
夜。布団にくるまりながら、ぼくはもう一度、白いノートを開いた。
なにも書かれていないそのページに、今なら書ける気がした。
「ぼくは、まだ忘れていない。
でも、忘れそうになる誰かのそばに、いてあげたい」
ノートを閉じる音が、パタンと響く。
教室の窓から差し込む月の光が、そっとクマぐるみのぼくを包んでいた。
森の小学校で、“ぼく”は今日も、
クマぐるみの中で、誰かの隣にいる。