07 謁見②
辺境伯ジギスムントに対し、まずは<細菌とウイルス>という概念についての説明を長々とし始めるフェリクス。衛生という概念そのものが、ほぼ存在しない今世でのことである。
「閣下は見たことがないものは、お信じになられぬというお方であらせらると思いますが、ここまでの説明の中で何かご不明な点などはございましたか?」
「ああ……問題ない。
見たことがないという事と、ただ見えていないだけという事との間には大きな乖離があるからな。病魔が身体に取り憑くという従来の考えを、お主のいうところの<細菌やウイルス>の侵入による影響という説に置き換えたとしても、そう大差はあるまい。目に見えぬがゆえにあった得体の知れなさの原因を、ある程度絞り込めるというのであれば、たとえその説が間違いであったとしても、状況によっては有効活用も出来よう」
ジギスムントの咀嚼力に舌を巻くフェリクス。この時代にして、これほどの知性があるというのであれば、この後さらに続けるつもりである様々な献策に関しても、問題なく耳を傾けてはくれるのではあるまいか。フェリクスは小さな興奮を覚えた。
「では、細菌とウイルスの存在の証明に関しましてはレンズの開発の後……かなり先の話となるとは思いますが、これらの概念を踏まえ、都市部における衛生管理において早急に改善すべき点を述べさせていただきます」
「ああ、もしそのレンズなるものが本当に完成すれば、世界が変わる。眼鏡に、望遠鏡に、顕微鏡……各地より腕の良いガラス職人と学者たちを直ちに集めようぞ」
「それでは、まずは何より飲料水その他の煮沸処理の重要性から、ご説明させていただきたく思います」
水の煮沸処理に始まり、アルコール消毒や糞尿の始末の方法などを講義し続けるフェリクス。これらはウイルスや細菌という概念そのものがない、この時代において、容易には受け入れられるものではないはずであった。だが、ジギスムントはこれに真剣に聞き入り、メモまで取り始めていた。
「―― なるほどな。思い当たるところがありすぎて恐ろしくもなるわ……細菌という概念ひとつで、これまで全く見えてこなかった病魔の正体が一気に見えてきたような気持ちであるぞ」
「閣下の恐ろしいまでの ご理解力、私は心底驚くばかりにございます」これはお世辞抜きのフェリクスの感想であった。
「で、他にはどのようなものがあるのだ。お主が持つ未知なるの叡智の数々、どんどんとこの儂に教えよ、フェリクス」
「はっ、では次に ―― 」
入浴行為の有用性と、その習慣の再開の提案に始まり、ビタミンの概念、栄養学などについても、延々と語り続けるフェリクス。
「―― ふははははっ、何ということだ。普段口にしておるものにまで、そのような……となると儂も肉ばかりを食ってはおらず、庶民が食す葉物なども適度には食わねばならぬということだな」昼過過ぎに執事が運んできた昼食。その残骸を眺めながら、豪快に笑うジギスムント。
「栄養の偏りは万病の元にございます」
「高貴なる者は庶民が食すような物には口はつけぬというのが慣習。ゆえに他の貴族連中には、まだ勧めることもできぬが……まずは我が家の食卓の改善から始めるとするか」
「辺境伯家の方々のお口にも合うよう、未来の調理法なども料理番の方にお伝えいたしますので、ぜひお試しいただければ」
「誠か、それは楽しみであるな。期待するぞ。にしても……」
窓の外に目を遣るジギスムント。
気付くと、いつのまにか差し込む陽の光が、すでに傾き始めている。昼前からの謁見でのことである。すでに、それほどの時が経過していたことに驚くふたり。
「……家には使いを出しておくゆえ、今日はもう泊ってゆけ、フェリクス。まだまだお主とは語り足りぬわ」ニコリと命令するジギスムント。
「はっ!」感激し、頷くフェリクス。
< ―― コンコン!>
タイミング良く、部屋の扉をノックする音。
「失礼致します、閣下。夕食の支度が整っております」
扉の外から、そう告げてきたのは、昼食を運んできた執事の声か。
「おい、セバスチャン。フェリクスの分の食事も、急ぎ用意させよ」
「フェリクス……そちらの少年の分も、にございますか?」
「ああ、今日はこのまま泊らせていくことにしたゆえ、家の方にも使いを送っておけ」
「はっ、承知致しました」
補足①)
史実では、すでに13世紀ごろには、イタリアで眼鏡の原型が発明されている。これは、イスラム圏で9世紀ごろに発明された矯正レンズの技術を利用したもので、12世頃にラテン語に翻訳された製作記録を元に、誕生したものである。
作中の世界でも、実はすでに眼鏡に近しいものが存在する。だが、様々な知識や技術が公にはされず、一部のみで秘匿されてきた時代のことである。このシュヴァルツヴァルトの領地にまでは、まだ、その存在が伝わっていないという状況であった。
補足②)
ジギスムントがなぜ、これほどまでにフェリクスの話を鵜呑みにしたのかは、また別回で。ジギスムントによるフェリクスの回想回での説明を予定。
補足③)
午前中から話し始め、夕方近くまで話していたというのは、さずがに時間の盛り過ぎな気もするが、フェリクスには夕食も食べていって欲しいところなので、仕方のない話でもある(ご都合主義)。