55 サビール
「この中に、サビール(王国)の現在の状況を知る者は、誰かおらぬか?」
いつの間にか、現れたバルデが、誰とも決めず、使節団の一行に問うた。
どよめくイルマーニアの面々。
言葉が通じぬと高を括り、ステファノに対する揶揄の数々を口にしていた連中の背筋に、無数の細い蛇が這う。バルデの、あまりにもネイティブなイルマン教圏の公用語の発音によって。
「……あの方は、いったい何者でしょうか?」
使節団の代表者が、通訳を介し、フェリクスに質問する。
「彼の者の名は、バルデ。私が抱える楽士のひとりにございます」
(―― 楽士? たかだか楽士風情が高位の者たちを差し置いて、勝手に口を開くとは、帝国の作法はいったいどのようになっているのだ?)
イルマーニアの代表者の感想は、当然至極のものであった。しかしながら、その楽士風情が纏う装飾品の数々は、極めて上質で高級な物ばかりで、単なる楽士と片付けるのは、まだ早計。見るからに風格もある。おそらく――
「きっと名のある吟遊詩人の方なのでしょうね。それにファーリ語(イルマン教圏の公用語)の発音にも、いっさいの揺らぎがなく、完璧です。おそらくかなりの高等教育を受けた貴族家出身の方であると予想します」
「発音は、彼の天性の耳の良さから来るものでしょう。ファーリ語だけでなく、数多の言語を完璧に発音できると豪語しております。真偽のほどは分かりませんが」フェリクスは、少しばかりの冷や汗をかいた。バルデが、この後、どう立ち振る舞っても、不具合のないように、言葉を選ぶ必要があったためだ。
預言者は、水の中で書いた
爪先に火を灯し、神の言葉を水底に
今朝方、石の枕で見た夢は
始まりから終わりのすべてを暗示していた
明けの明星に訪れた天啓
星々のすべてに、それは記録されていた
大いなる知と調和の伝播は
神の影を地上に宿す、祝福となろう
―― バルデによる唐突の<四行詩>のイントロに、場にいた全員が静まり返る。そして、今度は引いた波が押し寄せるように、震えと静かな雄たけびを上げだすイルマーニアの面々。バルデが吟じたのは、イルマン教圏の代表的な詩であったが、あまりにも美しく、また心を揺さぶるバルデの歌声に、涙する者まで現れる事態となった。
「なっ!(―― いったい何なのだ、これは? なぜ、異教徒ごときの詩が、神の子でもある私の心にまで響くというのだ?)」絶句し、混乱するステファノ。
「サビールのことならば、この私が語ろう」
使節の後方から、ひとりの男が前に出てくる。
「現在、サビールは、ハーリド(=偉大なる者)であるアル=ナフル王が逝去し、王子であったアミーンとバシールによる後継者争いが勃発している。どちらも王となる器量はなく、王女であったサーリマをも担ぎ上げようとする勢力が現れる始末。まさに大混乱の状況といえよう。しかしながら、すでにどの候補もそこそこの年齢に達している。ゆえに彼らの子たちの器量にこそ、注視すべきであると主張する部族長たちが、主流になってきているとも聞き及んでおる」
男の視線が、バルデを射抜く。
バルデの方でも、男を見つめる瞳に、様々な感情の揺らぎが現れていた。ふたりは視線で、数多くの会話を行っているようにも、フェリクスには見えた。
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