50 弾劾
「……学術言語でもあるラティウム語によって書かれた聖書の記述を帝国語に訳す。それは庶民レベルにおけるヨハネス教の普及にも大きな一助となるでしょう」
「おお、それではっ!」
フェリクスの言葉に、目を輝かせるバーゼル大司教ステファノ。そして固まる一同。
「―― しかしながら、このバーゼル大司教様より持ち込まれた<帝国語版>なるものは、誤訳と故意の改竄にまみれた大司教の<創作物>であり、到底、活版印刷による刊行を容認できる代物ではありません」冷厳とステファノを睨みつけるフェリクス。
「はぁ、何を申す!誤訳と改竄とはいったい何のことだ!お前のような小僧が、いったい聖書の何を心得ておるというのだ!」
「誤訳・改竄は大きな箇所だけでも108つほどあり、細かい箇所では数え切れぬほどの誤訳の散見。また本来の聖書には記載のない現・教皇庁への批判や異端者への火刑の奨励など、ヨハネス教の教義そのものを冒涜するような看過しえぬ記述も数多く御座いました。このままバーゼル大司教版の聖書の活版印刷を行えば、当方までもが教皇庁よりの<破門>を受ける危険性があります。ゆえに申し訳ありませんが、このバーゼル大司教版の聖書の出版は、今回差し控えさせていただきたく思います」
「腐敗した現・教皇庁への批判や異端者の火刑のいったい何が悪いのだ?それに誤訳とはいったい何のことだ?お前がごとき小僧がラティウム語に精通しているとでも申すつもりか?」
「―― 正気か、こいつは?」
「―― 神童フェリクスの業績を知らぬらしいな」
「―― 自分で自分の首を絞めておるわ」
「―― 火刑はともかく、教皇庁批判の公言はまずいであろうに」
ステファノの<真っ白な悪意>の言葉に、どよめきの波が起こった。
「万民の平等を説く原典に対し、大司教による鞭で隷属的に民を導くという説を述べ、自らを聖者ヨハネスに次ぐ<第二の神の子>のように語られ、また帝国語訳による庶民レベルへの普及を謳いながら、わざわざ帝国語の古典的語彙を多用し、混乱と誤読を誘う記述の洪水。大司教御本人ですら、その洪水に溺れ、章の頭と終わりで、説が真逆に反転しているような箇所まであり、これは出版以前の問題でもあります」
「なっ……!!」
フェリクスの舌鋒に思わず怯むステファノ。自身では巧妙に仕込んだつもりの<第二の神の子>説や、格式を高めるために苦心して用いた古典的帝国語のあやふやさを完璧に指摘されたことに対する絶句でもあった ―― 傍から見れば、茶番にも等しい話でもあったが。
「<第二の神の子>とは、いったい何のことだ、バーゼル大司教?」そう問うたのは、ザールブリュッケン大司教のクレメンスであった。
「いや、その……だな」
「教皇庁への批判というのも、いったい何だ?」
ドレステン大司教のエルンストも、ステファノを睨みつけながら問う。
「いえっ、それはっ……ですねっ」
ステファノの本家筋の家令セバスティアンが、必死の割り込みを図るも、二の句が続けられず、顔面を蒼白とさせる。
「ふっ……これではさすがに話にならぬな。ひとまず、バーゼルの票は<棄権扱い>とし、シュヴァルツヴァルト辺境伯の選帝侯就任の件は、これにて終了とするか。ジギスムントよ、今後は新たな選帝侯として、余と帝国を支えてくれ」皇帝ヴィクトールによる本議題の打ち切りの宣言が出た。
「お、お待ちください!ボヘミア王!」
慌てて縋るステファノであったが、この場で皇帝をボヘミア王と呼ぶことの意味も理解出来ていないらしく、更なる周囲からの嫌悪を招くこととなった。
(ああ、なんてことだ!もうお終いだ!伯爵様に取り急ぎ現状を報告し、ご裁可を得ねば!)
密命を受けて同行した家令セバスティアンの<決意>の針が振れた瞬間でもあった。




