47 ヒンメルスリヒト
まだ底冷えの残る夜。
大地から、ゆっくりと夜宙へと浮かび上がっていく光の群れ。その光景に、皆が呼吸をするのも忘れ、声を失う。天灯、後にヒンメルスリヒトと呼ばれる「夜の火遊び」の始まりの歴史的瞬間である。
紙の製造工程から生まれた「超軽量の薄紙」と、柳の枝や若木を加工し作られた軽い骨組みの箱。それに土台を付け、油灯を載せる。つまり「熱気球」と同様の原理を使った<空飛ぶランタン>であるわけだが、<原理を知らぬ者>たちには、その光景が神、或いは悪魔の御業のようにも映った。
ザールブリュッケン大司教クレメンス、ドレステン大司教のエルンストが駆け寄り、フェリクスたちにその「原理」を訊ねる。息を飲み、周囲で聞き耳を立てる他の選帝侯とその重臣たち。選帝侯の全員がシュヴァルツブルクに揃った日の夜に行われた、記念式典での一幕である。
この「空の光」のアイデアを思い付いたのは、フェリクスではなく、テオドールであった。彼はフェリクスが書き起こした<科学の書>の初級編から、自力で化学と現実を結び付け、<新たな現実>を生み出したのである。「炎ごと物体を中空に浮かび上がらせるには、その入れ物をどのくらいの軽さに抑える必要がある?」というテオドールからの問いに、フェリクスは思わず震えた。
皆が驚愕と好奇、或いは信仰の誕生直前のような眼差しでフェリクスたちを見つめる中、ひとり彼らを<悪魔の使徒>と信じ、睨み続けている男がいた。バーゼル大司教ステファノである。
(おのれ、人心を惑わせる悪魔の使徒どもめ……炎が中空を舞うわけがあるまい。悪魔の術を弄しよって……!)
「―― なるほどのぉ、そういった原理か。納得がいった。たしかに蒸気には羽根のような軽いものを<浮かび上がらせる力>があるが、その力を利用し、このような物まで作り出すとは、まさに<神童>!」
クレメンスの<理解の言葉>と横で頷くエルンストの姿に、ふたたび呼吸を忘れるステファノ。
バルデが即興の詩を歌い始める。
各々が、炎のひとつひとつになった気分で、川べりに光が落ちてくるまでの短く、優雅なひとときを楽しんだ。
◇
「あれを思いついたのがフェリクスではなく、ジギスムントの子・テオドールであるという話、誠と思うか?」
「はい、さすがにフェリクス殿には劣りますが、彼もまた不世出の俊英であると学院の教師たちから聞き及んでおります」
「ヒンメルスリヒト……あれは軍事にも転用できそうな素晴らしい発明でしたな、陛下」
「お前は本当に何にでも軍事を結び付けるな……」
「しかし、軍事利用目的ともなるとフェリクス殿も、なかなか譲ってはくれぬでしょうな、実に惜しい」
「川付近に落ちた残骸でしたら、闇夜を走らせ、部下たちに取りに行かせていますよ、ヴルク卿?」
「「それは誠か、ノヴァーク!でかした!」」
◇
「―― どう見る、○○○よ」
「あれはまさしく、噂に聞いた<天灯>でしたね、ロドヴィーゴ様。東方の商人たちが申していた、祭りで使われるという中空に浮かぶ灯籠。初めてみましたが」
「うむ、余も初めて見たが、実に素晴らしかった。素晴らしかったが、しかし……」
「ジギスムントの子息が自力で発明したという驚きですね。もし事実であるなら、子爵フェリクスだけでなく、厄介な……」
補足)
スカイランタンの原型。「天灯」の発明は、その名前から察せるとおり、中国である。有名なところでは、諸葛孔明による軍事利用でのエピソードがあるが、これは後代に羅漢中によって書かれた『三国志演義』によるフィクションである。
だとすれば、いつ生まれたのか?
時代はさらに遡り、戦国時代(紀元前5世紀~紀元前221年)以前とも言われ、前漢時代(紀元前206年~紀元8年)には、元宵節(灯籠祭り)の中で、天灯が使われていたという記録がある。
火薬、羅盤、印刷技術、紙の発明なども圧倒的に中国が早く、一神教世界ではない中国の歴史の底力を感じさせるエピソードである。
◇
スカイランタンが自然に水辺に集まり、落ちていく原理としては、水が持つ比熱容量が関係する。夜間、冷えた地面に比べ、実は水辺の方が温度が高く、この温度差によって空気の流れが生じる。この気流がランタンを水辺に引き寄せる原理となる。
ランタンは内部の空気を温め、浮力を生み出し、中空に浮かぶ。水辺の空気は温度が安定しているため、ランタンの浮力が長続きしやすい。これが、ランタンが自然に水辺に集まりやすい原因である。
さらに、水面近くの空気は温度差により、風を生じやすくする。この風は、川や湖に沿って流れる。そのため、ランタンはその流れに乗り、自然と水辺へと向かう。
ただし、強風が吹く夜では、風向きが急激に変わり、ランタンが予期せぬ方向へと流されるため、その運用には細心の注意が必要となる。