40 洗礼
(こ、これはいったい……)
ひとつの絵画の前で立ち尽くす男。
シュヴァルツブルク城内。
大広間から上階へと上がる階段の踊り場に設置された一枚の絵。
それは辺境伯一家を描いた「等身大の家族肖像画」であった。
(そもそもこれは本当に「絵」なのか?)
男は目の前にあるそれが「絵以上の何か」であるようにしか思えず、全身に鳥肌を立て、動けずにいた。
「フェリクス様がお描きになられた辺境伯様御一家の肖像画にございます」
城内の案内をしてきた辺境伯家の家令セバスティアンが、男に向かって、そう告げた。
「こ、これもノイシュタット子爵の所ぎょ……いや、御業だと申すのか?」
男は更なる衝撃を受けた。
これから自らが<婚約の儀>を取り仕切る対象の片割れ。
この<神の絵画>が、教会内でも評価を二分する噂の存在、ノイシュタット子爵フェリクスの手によるものであるという宣告は、男をさらに大きく揺さぶるものであった。
男の名は、マルティン。
ザールブリュッケン大司教クレメンスの弟の子という設定ではあるが、実子であり、次期ザールブリュッケン大司教位の世襲が目されている人物である。
原則的として教会は、聖職者が子を持つことは認めず、また職位の世襲を認めてはいない。だが、広大な司教区を実際に支配する貴族家一門が大司教位に就くことが通例でもあり、叙任権自体は教皇にあるものの、政変などがない限りは、世襲が慣例化されてもいた。
(マルティン、地元教会における一幕)
辺境伯一家とフェリクスが待つという上階の一室にまで向かう道のり。距離にすれば、わずかなものではあったが、歓喜と恐怖の感情の波がマルティンの心身をふらつかせ、何度も壁に手をついては、呼吸を整えるハメになった。
◇
「よくぞ来た、司祭マルティン」
ジギスムントの感情の読めぬ、半ば無関心とも感じられるマルティンに向けての言葉。
他の家族も同様に着座したまま、こちらを無感情に眺めているように感じ、マルティンを一瞬凍らせたが、ひとりの少年がゆっくりと立ち上がり、歩み寄り、マルティンの手を握る。
「この度は遠路はるばる、私とヒルデガルトとの婚約の儀のためにお越しいただき、誠に感謝いたします、司祭マルティン」
ニコリと笑みを浮かべ、軽く頭を下げるフェリクス。
(ま、まさか、この少年が彼の噂のフェリクス本人だというのか?本当に少年ではないか?この少年がほんとうに先ほどの<神の絵画>の描き手だというのか?)
またもや全身に鳥肌が立ち、震えが抑えられないマルティン。
「……だいじょうぶですか、マルティン殿?到着早々でお疲れでしたら、時を改めましょうか?」
「い、いえ……大丈夫にございます。世に聞こえしフェリクス殿とこうして実際にお逢い出来、興奮から少し心拍が……にございます。たいへん申し訳がございません」
辺境伯一家が一堂に会するこの場で、ジギスムントを差し置いて、時の変更を提案したフェリクスの言葉に、いかにフェリクスが辺境伯家内でも発言権を持っているかが伺え、気を引き締めるマルティン。
本来であれば、大司教位を継ぐ予定である自分と一子爵になったばかりに過ぎぬフェリクスとでは、格の違いもあるはずであったが、父であるクレメンスからも事前に言い含められており、自然に遜るマルティン。その姿をそれぞれ興味深そうに眺める辺境伯一家(※1=後書き参照)。
「まずは、お座り下さい。お茶をお持ち致しましょう」
フェリクスの差配で使用人たちが動き出し、椅子が引かれ、着座するマルティン。
マルティンは、これまでの人生では経験がないほど、全神経をフル回転させ、この空間における全てを見逃すまいと心に誓った。
◇
少しの休憩の後、簡易の儀式が執り行われ、マルティンの聖句ののち、婚約を誓うフェリクスとヒルデガルト。その瞬間だけは、皆が顔をほころばせ、拍手を送ったが、落ち着くとすぐにジギスムントとアレクサンドラ、そして長男のマクシミリアンが室内を去った。
だが、フェリクスとヒルデガルトだけではなく、テオドールも残り、今しばらくマルティンとの談笑を続ける流れとなった。
「―― それにしてもあのご家族の肖像画、誠にフェリクス殿がお描きになられたのですか?あれは絵画以上の何か、時そのものを切り取り、閉じ込めたような神の御業のような領域のものにも見えましたが」
シュヴァルツブルク市に入り、街の様子等にも驚きっぱなしではあったが、マルティンにとっての最大の衝撃はやはり、先ほどの絵画の恐ろしいまでの精度であった。
「私が描いたのは下絵部分と大まかな彩色までで、新技法を使った仕上げの彩色は半島より呼び寄せた工房の手によるものにございます」
ここでいう新技法とは、かのレオナルド・ダ・ヴィンチの編み出した彩色技法=スフマート(※2)のことであるが、この世界においてレオナルドは存在せず、フェリクスが考案した技法であることとなっている。
「半島でも<芸術復興>の名の下、写実的な絵画が流行の兆しを見せており、私も何枚か半島で一流と呼ばれる画家たちのそれを見たことがありますが、あの肖像画はそれらものとは隔絶された領域のもの。是非とも我が教会にも一枚、フェリクス殿の描いた絵画……そう、聖人ヨハネスを題材としたそれをお描き頂きたいものにございます」
厚顔を装いながらも、これはマルティンにとって、儚い生命すらをも賭けた、ひとつの重大な問いでもあった。一方では<悪魔>とも囁かれるフェリクスが、自分たちが信奉する聖者ヨハネスの肖像を描くことを是とするか、否か。
万が一、彼が悪魔である場合、先ほどの見た絵画からも相当上位の悪魔であることが予想される。信心の薄い自分では、まったく太刀打ちの出来る相手ではないと考えながらも、生命を賭けて問う価値のあるものでもあったため、マルティンは腹を括った。もしも彼が悪魔であった場合は、寝返ることも視野に入れながら。
「聖者ヨハネスの絵画、ですか……」
「は、はい……」
息を飲むマルティン。
「私は、目にしたものを完全に記憶し、後からいつでも完璧に思い出すことが出来るという少々変わった記憶力を有しているに過ぎません。ゆえに実際に目にしたことがない聖者ヨハネスのお姿を完全に再現することは出来ませんが……聖書の記述に見合うお姿を私なりに描いてもいいということでしたら、一枚御請け致しましょう」
「っ!…………」
フェリクスの言葉に絶句するマルティン。
完全に記憶とは、一体どういうことか?
それこそ神の御業ではないか?
しかし、聖者ヨハネスの姿は見たことがないと言い、我々の神かどうかは怪しい。だが、ヨハネスを題材とした絵を描くことは快く受けてくれ……。
「あ、ありがたき幸せに存じます!」
マルティンの中でフェリクスが、ヨハネス教にも友好的な<新たな神の子>という認識となった瞬間であった。
(※1)ジギスムント、アレクサンドラ、マクシミリアン、テオドール、ヒルデガルトを指す。ここに妾ベアトリクスと庶子ジークフリートは、もちろん含まれてはいない。
(※2)スフマートとは、レオナルドが『モナ・リザ』などで使用した塗り重ねの技術。執拗なまでの塗り重ねにより、全体をぼやかし、見る角度によって絵そのものの印象を変える超絶技法のひとつ。ダ・ヴィンチが、なかなか作品を完成させ切らず、中途で投げる原因ともなった「超絶に時間を食う技法」でもあるため、その部分は指導のみで、工房で分担させ、放棄したフェリクス。だが、下絵自体も写真そのものであったため、マルティンが打ち震えたのも仕方のない話。
―― 相変わらずの取って出し(思いつくまま書き)。
読み直しすらしていないから、誤字脱字の指摘は大歓迎です。
本来、婚約は届け出だけで儀式は必要とはしない。だが(一番近いバーゼルを無視し)ザールブリュッケンに届け出を送った際、「是非ともうちで儀式もさせて欲しい」と、ザールブリュッケン側からの申し出があり、今回は婚約の儀も執り行う事となった。婚約の届け出は、他家によるフェリクスへの接触を牽制することを目的としたものであったが、入れ食い状態でザールブリュッケンが飛びついてきたので、今回は予期せぬ邂逅となった(後でこのエピソードは本文でもやるかもしれないので、その場合はこの後書きは後から消す)。
この家族の肖像画のエピソードは、もう少し先で別の人物に仕掛ける予定のものだったが、先にマルティンが城にやって来たのだから、仕方のない話でもある。




