35 ルーツ
翌昼過ぎ、バルデを引き連れ、ジギスムントと面会するフェリクス。昨日約束した「選帝侯就任時の特殊作法」に関する記述20ページ分を携え、バルデとジギスムントとの面通しとプラークへの移動の報告の為であった。
「帰還早々、重ね重ねすまぬな。よろしく頼む」
(ほお……これは真なる信頼と親愛の声色ではないか)
ジギスムントの声色から、ふたりの距離感を計り知るバルデ。バルデは様々な面で非凡なものを有してはいるが、特に彼の聴覚は卓越しており、目をつむっていても周辺の状況の多くを掴み得る程度には鋭敏であった。
挨拶を済ませ、早々に旅支度に帰るフェリクス。
その背中を見送りながら、ジギスムントはバルデに声をかけた。
「お主の噂は、かねがね聞いてはおる。時折、その歌声を聴かせてくれるのなら、フェリクスの言うよう、最大限の便宜をお前にも計ろう」
その言葉には裏表がなく、バルデは安心して、それに同意し、さっそく一般公開されている活版印刷物のある書庫ではなく、非公開書庫への入室の許可をジギスムントに求めた。
◇
寝食を忘れ、朝から晩まで、まだ活版印刷する前のフェリクスの手書きの蔵書を読み漁るバルデ。心配したジギスムントが、朝昼晩の食事の同席と夜分の読書の禁止、ニ日に一度の入浴の義務を申し付けるまでの間、バルデのやつれ具合と眼下の隈は、実にひどいものであった。
(なんてものを記憶してやがったんだ、フェリクスのやつは!)
元々、好奇心旺盛で知識欲の塊でもあるバルデにとって、フェリクスがもたらした<未来の知識>の数々は、麻薬にも似た中毒性をバルデに与えていた。
ジギスムントからの提案で渋々受けた食事の共も、フェリクス・コレクションを読む数少ない同志でもある辺境伯一家の男連中とのディスカッションの場と化し、バルデを非常に満足させている ―― アレクサンドラとヒルデガルトにとってはいい迷惑であり、ベアトリクスとジークフリートに至っては、すでに同席すらしていなかった。
「バルデよ、お前は地動説についてどう考える?」
口に野菜を突っ込みながら、問うテオドール。
「食べながら、しゃべるのはやめなさい」
同じく野菜を食べながら、テオドールを嗜めるヒルデガルト。
「うるさいな、いちいち。細かいことばかり言ってるとフェリクスに嫌われるよ、姉さん」フェリクスと姉との婚姻が既成事実であるかのようにからかうテオドール。ヒルデガルトがこれに否定をしなかったのは、貴族の結婚がそういうものであるという理解と、フェリクスが相手ならば、自分にとっても役不足ではないという考えからのものであった。
「地動説に関していえば、ヨハネス教圏ではない中東などでも、それを主張する学者の数も少なくはない。そもそも古代ギリシャですら語られていた説な上、あのフェリクスが記す<未来の記述>にあるのだとすれば、その可能性は非常に高いであろうな」辺境伯一家とのこの食事の雰囲気を楽しみながら、事も無げに応えるバルデ。
「ふ、中東ときたか。貴君は貴君でどこから仕入れてきたのかも知れぬ、博識を見せるものだな、バルデよ」一応、口の中の物を飲み込んだ後に話し出す長男のマクシミリアン。
「何なら地動説に関連する中東の四行詩でも歌ってやろうか?」
バルデからの思わぬ提案に、この食事中で初めての笑顔を見せるヒルデガルトとアレクサンドラ。ジギスムントも満足げに頷き、執事にバルデの楽器を持って来させるように指示した。
◇
バルデには、ひとつの噂があった。
それは中東における小国の王のご落胤ではないのか、というものであった。実際のところ、彼は王の落とし種ではなく、王女と侵略軍を指揮していた欧州の有力貴族との間に生まれた忌み子であった。<王の子>という噂の発生源はバルデ自身であり、話半分以下で聞かれてきたが、事実はこうである。
バルデの母は、非常に頭の切れる才女であった。
中東の文化圏では、眉をしかめられるほどの自由奔放さを兼ね備え、周囲からは「王の甘やかし」ぶりに常に苦言が呈されるほどであった。
異教徒との長き戦役の最中、彼女が妊娠し、出産間近になっても<お相手の名>を誰にも告げないことに対し、宮廷の高官たちは激怒し、王に詰め寄った。王が彼女に訊ね、返って来た答えに対し、取った措置は<離宮への隔離>であった。その為、相手が誰であろうとも<不実の子>であることが、王族や高官たちの間で確定し、晴れてバルデ母子は透明人間の扱いをされることとなった。
バルデが異教徒との子であるということが、王以外になかなかバレなかった理由としては、バルデの人種が関係する。彼は現代でいうところのペルシャ系の王族の母とゲルマン系の貴族である父との子に間に生まれた子であり、どちらの人種にも見様によっては見える顔立ちをしていた。元々、母親が非常に美しく整った顔立ちをしていた為、バルデがハーフだとしても、違和感を持たれることが少なかった。王以外には。
バルデの高等教育の修得は、離宮におけるそれと母親からの薫陶によるものであった。同時に父親である男についても、バルデは母から聞かされており、欧州の文化などについても離宮時代から勉強していた。前述どおり、特にバルデの耳は優れており、一度聴いただけの微細な音の違いをもクリアに聴き分けが出来、帝国語にしても、ヒアリングと発声はほぼ独学で獲得したものであり、すぐに誰も違和感を持ちえないレベルになれたというのだから、驚くばかりである。
しかし、フェリクスはバルデの発声の中に潜む微妙な音の違いを初体面の夜に聴き分けた。それはバルデにとって、わざと残してきた微細な部分で自分でもすでに忘れていたクセでもあったが、それを聴き分けたフェリクスに対し、感嘆と喜びを覚え、無意識に心を開くきっかけとなったことは、これを読む読者のみが知る事実である。
(少年時代のバルデと母。離宮にて)




