29 アリストテレス
古代ギリシャの詩人ホメロス(紀元前8世紀? - 不詳)が紡いだ叙事詩『オデュッセイア』。十年に及ぶトロイア戦争の終盤、51日間を描いた『イリアス』の続編。『イリアス』よりもさらに神話性に富んだ英雄叙事詩にして、吟遊詩人(楽士)ホメロスの代表作 ―― フェリクスがいた「前世の世界」における作品である。
フェリクスの脳内書庫にも<映像データ>としては、収蔵されている物語ではあったが、フェリクス自身は、それらをまだ読んではいなかった。
バルデの公演とまさに並行して、カメラアイによる<映像データを読む>という不慣れな作業に挑みながら、バルデが演じる物語と「原典」との照合を行うフェリクス。
いま眼前で、バルデによって繰り広げられている『オデュッセイア』の第一歌のパート。それと<前世世界>におけるホメロスの英雄叙事詩のそれとを比較。すると多少の差異はあるものの、やはり同一のものであるということで「ほぼ間違いない」という結論へと至る。
―― これはいったいどういうことだ?
ここは<並行世界>などではないということか? いや、バルデもまた私と<同じ座標>の世界からの転生者だとでもいうのか? だがそれにしては……。
フェリクスは、この世界に生まれ直して初めての、かつて経験のないほどの混乱に陥っていた。
―― いったいバルデは何者なんだ?
いやそういえば、あいつ、冒頭で「我が友人の放浪楽士が創った」とか言っていたか? だとすれば、そいつこそが転生者か?
◇
英雄オデュッセウスの放浪叙事詩。
その第一幕の終わりに相応しい、割れんばかりの歓声が、会場を包む。「どうだ!」と言わんばかりに胸を張り、特設席に座るフェリクスたちを見遣るバルデ。
(はははっ、どう考えたって不謹慎過ぎるだろ、これは!)
フェリクスとは、また別の意味で衝撃を受けていたテオドール。
( 架空の話とはいえ、古代の異教の神々の物語をこうも魅力的に表現するなよ。もし教会の連中にでも見られたら、アイツらも黙ってはおるまい。本当に困ったやつだな、この男は)
「これは少々……」
テオドールと同じ感想なのか、子爵アルブレヒトも思案気に目をつむり、自らの眉間部分に中指を立て、もみほぐす。主催者としては、この大成功の名演を手放しで喜びたいところではあったが、やはり、こちらも教会の目が気になるといったところか。
そして、肝心のフェリクスはというと、これまでに一度も見せたことのないような表情で、意識を中空に彷徨わせたまま、静止している。その姿を見て、また「困ったものだ」と鼻から息が漏れるテオドールであった。
◇
「おっ、その顔は……どうだった。もしかして<お前さんの秘密>とも少しは関係のありそうな物語だったか、俺様の『オデュッセイア』は?」
「……バルデよ、お前に『オデュッセイア』の冒頭を教えたという放浪楽士の名を、何と申す?」ずっとこの人生で一度も見せたことのない表情をし続けているフェリクス。
(――いったい 何なんだ。あの『オデュッセイア』って叙事詩はいったい? フェリクスのこの表情はいったいどういった感情なんだ?)フェリクスの近くに座り、興味半分も、困惑するテオドール。
「やつの名はプブリウス。いや、やつ自身は酔っぱらった時に<本当の名はアリストテレスという>とかなんとか、言っていたか」軽口を叩くように、あごヒゲを撫でながら、笑顔で答えるバルデ。
「なっ、アリストテレスだとっ!!あのアリストテレスなのか!?」思いっきり机を叩き、立ち上がるフェリクス。
それに子爵アルブレヒトも含め、驚愕する一同。
「し、知っているのか……アリストテレス、というやつの、名を?」
「……俺の知るアリストテレスとは限らぬ……が、まさかあの万学の祖・アリストテレスなのか……ホメロス、でもなく?」
先刻からずっとフェリクスの全身には鳥肌が立ち続けていた。どこか自分は「この世界の住人」ではなく、「物語の中でフェリクスという役割を演じているだけの役者」といった感覚を、これまでずっと心の奥に持ち続けてきたフェリクス。そんな彼にとって、アリストテレスという「同胞のような存在」が、この世界の、この同時代に、もし本当に存在しているのだとすれば、それはフェリクスにとって、ひょっとすると「生身の感覚」を取り戻すことが出来るかもしれない、途轍もない希望のようにも思えていたためであった。
「ホメロス?どこかで聞いた名だな……ああ、たしか やつが『オデュッセイア』の本当の作者とかなんとか言っていた者の名か」
「……ところでその放浪楽士は、いまどこに……いるんだ? 是非とも居場所を教えてくれ!」その目に炎を灯し、バルデに問うフェリクス。
「ああ、残念だが やつならもう死んでいるぞ。教会の連中に火あぶりにされてな」
(まさかの火あぶりテレスさん……)
後書きという名の言い訳)
マジの取って出し状態に突入しているので「未編集版」のまま、生のデータをそのまま投稿です。「編集」はまた折を見て……本当にするのか?(苦笑)
ちょっと小休止。
エッセイへの反響でエネルギーを食われたのと、ちょっと手直しを入れる必要も感じ始めているので、次話まで少々お待ちください。