27 秘密
初演の夜、バルデはけっきょく町娘には会いに行かず、そのまま領館の離れに泊ることとなった。もちろん彼の目的は、領館の<特別室>に極秘収蔵されている未流通のインキュナブラ版『ヴェニスの商人』を日が昇るのと同時に読み始めるためである。そのため彼は「さっさと寝る」と宣言し、足早に離れへと去って行った。
フェリクスは『ヴェニスの商人』の揺籃印刷本を特別室のテーブルの上に置き、バルデが起きたらこの本を読ませるようにとだけ、領館の家人に告げ、この日を終えた。
◇
翌夕刻、この日も公演で出番があるはずのバルデが、いつまで経っても中央広場に現れず、皆がやきもきとしていると、領館からの使いが現れ「放浪楽士が特別室からなかなか出てきてくれません!」と子爵に報告。
「ちっ、いったい何をしておるのだ、あの者は。好き勝手しおって。引きずってでも構わぬから、さっさと連れて来い!」公演の主催者でもある子爵アルブレヒトは、露骨に不快な表情を浮かべ、吐き捨てるように使いに命令した。
「彼の出番までには まだ少しの時間がございます。私が直接呼びに行って参りましょう」領館の使いに手の平を向け、制止し、自ら名乗りを上げたのフェリクスであった。
◇
「おい、バルデよ。いつまで読んでいるつもりだ。たかが一冊を―― 」特別室に入る前の廊下から、大きな声で部屋にいるであろうバルデに呼び掛けるフェリクス。
「おい、フェリクス、これはいったいどういうことだ!」
「なんだ、どうした。『ヴェニスの商人』が、君が創作した『水上の貿易商』よりもよく出来た作品で驚いたのか?」ニヤニヤしながら室内を覗いたフェリクスは、思わずギョっとする光景を目の当たりにした。
机の上に乱雑に積み上げられた書物の数々。この特別室には『ヴェニスの商人』以外にも、未流通の様々なインキュナブラが数多く収蔵されていたが、机の上にあるタイトルをよく見ると、物語よりも学術書が中心に積み上がっていた。
「なぜ、こんなものが未開の帝国の一領主の領館にこんなにも存在する? いったいどういうことなのか、説明しろ、フェリクス!」机の上に積み上げられた本の表紙を部分を手のひらで叩きながら、フェリクスを睨みつけるバルデ。
「……君も君で、私に何か隠し事があるのではないのか、バルデよ?」
「……俺が東の小国の王族の血を引くという与太話のことか?」
「単なる与太話……というわけでもあるまい」
「……なぜそう思う?」
「君の言葉にはわずかにだが、抜けきらない中東のイントネーションが含まれている。巧く隠せてはいるがな」
思わず絶句するバルデ。
「……どうして、お前に、それが分かる?」
「それは私の秘密にも関わる話となる」顎に手をやりながら思案気な表情をしながら、バルデを見つめるフェリクス。
「秘密ってのはこの特別室にある……存在自体がありえない、これらの本にも関わることか?」
「あぁ~……ともかく話は公演の後だ。子爵も大変お怒りになられている。まずは早く広場へと向かおうではないか」
◇
その日のバルデの公演は、お世辞にも褒められたものではなかった。
前日の初演とは打って変わり、ずっと意識が別の中空を彷徨っていることが、鈍感な観客にすら見て取れるレベルであった。歌詞は飛ばすし、セリフも所々で止まる。
初演を見ていなかった者たちは「前座のふたりをもう一度呼べ!」と不満の声を客席から浴びせかけた。あまりにもお粗末な出来に「もう、あの者は明日呼ばなくともかまわぬ。今夜中にこの町から出て行くようにと言っておけ」と子爵アルブレヒトは、吐き捨てるように手配の従者に告げた。
「お待ちください。彼の者とはまだ話しておくべき事が多数残っております。申し訳ありませんが、領館離れでの彼の逗留の許可を今しばらくお許しください」フェリクスは、丁寧にそうアルブレヒトに返す。これは懇願などではなく、決定事項のことであるかのように、落ち着いた口調で。
「ああ、それならば構わぬが……あの者の何にそれほど惹かれるものがあるというのだ?」冷静さを取り戻した子爵は、今度はフェリクスの心算に気を向ける。
「たしかにアイツには見るべきところがあるようだが、どう使うつもりだ、フェリクス?」テオドールもいっしょになって、フェリクスに質問した。「あいつにも何か、お前と同じような秘密でもあるというのか?」




