01.大好きなお兄さん
私はとっても、おバカだったなぁ……と思う。
貴族令嬢は七歳ともなれば、それなりの礼儀作法を学んでいる。
来るべきデビュタントに向けて、幼少の頃から教育を受けるのが貴族令嬢の嗜みだから。
それがブランシェット公爵令嬢ともなれば、ある程度の教養が備わっている……はずなのよ、普通は。
でも私は……そう、なんと言うか、侍女に言わせれば〝ちょっと変〟らしくて。
けど愛情込めて『フィオーナお嬢様は、大変に変かわいよくてございます』と嬉しそうに言ってくれるものだから、私はそれがいいことだと思って育ってきたの。
だから、お父様とお母様がちょっと苦い顔をすることがあっても、全然気にしたりしなかった。
運命の人が現れたのは、そんな七歳のある日。
私はお母様に『大切なお客様が来られるから、部屋から出ないようにね』って言いつけられていたにも関わらず、小川で魚釣りをしようと抜け出していたわ。
そう、腐葉土からワームをほじくり返していたの。
「なにしてるんだい?」
馬車の音がしたな思ったら、後ろから声をかけられて、私は振り返った。
その人は深い銀色の髪を後ろで束ね、琥珀色の瞳を文字通りキラキラさせていた。
「魚を釣るのに、ワームを探していたのよ」
「ワーム? ここにいるのか?」
「そうよ、知らないの? こういう湿ってふかふかしたところに、ワームはたくさんいるんだから!」
うちに仕える厩舎番のおじいちゃんが、暇な時によくこうして魚を取りながら色んな話をしてくれた。
だから私は、公爵令嬢でありながら庶民の暮らしぶりもよくわかってるつもり。
「ほら、いたわ! お兄さんも魚釣りしましょうよ!」
その時の私は、そのお兄さんがやたらと豪奢な服を纏っていたのに、まったく気づかなかった。
「魚釣り? したことないなぁ。僕にできるかな」
「できるわ! 簡単よ! はい、これを針につけるの」
私はあろうことか泥だらけの手でお兄さんの袖を掴み、その手のひらにワームを載せる。
「わお」
「かわいいでしょ、ワーム!」
「初めて触ったよ。あはは、本当だ。うねうねしてて面白いな」
「その子をね、この針でぶっ刺すの」
「女の子がぶっ刺すなんて言葉、使っちゃいけないよ」
どうやって刺していいのかわからないお兄さんに、私は代わりに針を刺してあげる。
針に刺さらなかった部分がピロピロと動いているのを見て、彼はまた「わお」と声を上げた。
「あとは川に投げ入れれば、そのうち釣れるわ」
「こうかな」
ぽちゃんと小川に糸を垂らして、竿を握りしめてわくわくしているお兄さん。
その時私はようやく気づいた。なんかきれいな服を着ている、と。
「お兄さん、糸がつんつんしてるわ!」
「本当? 全然わからないな」
「ここの魚、小さいからわかりづらいの。いいわ、上げて!」
「よっ」
パシャっと音がすると同時に、水面が太陽に反射する。
小さな魚を獲ったお兄さんは、キラキラと輝くように笑っていて──子どもながらに、とてもきれいだなと感じた。
「ありがとう、楽しかったよ。僕の名前はエリオス。君の名前を聞いても構わないかな、かわいらしいお嬢さん」
お兄さんの持った糸の先には、ピチピチ跳ねる小さな魚。そんな状態で言われたにも関わらず、どこか高貴さを感じるスマートな物言いだった。
「私の名前はフィオーナよ。フィオーナ・ブランシェット」
「ブランシェット……じゃあ、君はあの公爵家の」
「そうよ、こーしゃくれいじょーなんだって。興味ないけど」
私はいつまでもピチピチしている魚の針を取り外しながら答えた。
「それで、釣りをしてたのかい?」
「今日は大事なお客様が来るから、部屋から出るなって言うんだもの。外で遊んだ方がよっぽど楽しいわ! お兄さんにも会えたし!」
そう言うと、お兄さんは「僕もいい体験をさせてもらえたよ」と楽しそうに笑って。
取れた魚を渡そうとすると、「君が食べて大丈夫だよ」と豪華な馬車に戻っていった。
その時も私は、彼がこの国の第二王子エリオス様だったとは、まったく気づかなかった。というより、知らなかったのよね。お母様たちが王族のことを話していても、まったく興味がなかったから。
けど、私はそのお兄さんが気になった。
だって、よくよく考えれば、あんなにきれいな服を着ているのに、土汚れを気にしなかった人なんて初めてだったもの。
「お兄さん、また会える? 会いたい!」
幼心に、私は必死に叫んでた。
もう惹かれてたの。あの太陽のような、琥珀色の瞳に。
「ああ、会えるよ。きっと」
春の小川の風が、優しく私たちの間を吹き抜けていって。
エリオス様の銀色の長い髪が、絹のように流れて美しかった。
そして家に帰ると、エリオス様がいた。どうやら私の家に用があったらしい。
すぐに会えたと大喜びする私に、もしや袖の土汚れはフィオーナかと、両親にこっぴどく叱られた。
「洗えば済む話です。フィオーナに貴重な体験をさせてもらって、感謝しているくらいですよ」
あまりにキラキラしながらそう言うものだから、思わず「王子様みたーい!」と声に出すと、「王子様だ!」とお父様に頭をゲンコツで殴られた。
エリオス様は「わお」と驚いたあと、「大丈夫かい?」と頭を撫でてくれたけれど。
もうもう、この時にはすでに、大好きな大好きなお兄ちゃんになっていて。
「結婚しましょ! 王子様!!」
「わお」
唐突の私のプロポーズに、当時十四歳のエリオス様は、嫌な顔ひとつ見せなかった。
今思えば、さすが王子様だと言ったところだけど、当時は受け入れてくれたって勘違いしてて。
土下座する両親に、エリオス様は気にしないでと笑って、私には──
「じゃあ、たくさん遊んでたくさん勉強をして、人生を楽しめる女性になってほしいな」
そうして頭をよしよしと撫でてくれた。私は「わかったわ!」と元気よく返事をしたっけ。
あの日から、私とエリオス様の交流は始まったの。
と言っても、エリオス様は王子で忙しい人。
一ヶ月に一度会えればいい方で、半年くらい間が空くなんてこともあった。
それでも忙しい合間にやってきてくれたエリオス様に、私は精一杯おもてなししたわ。
そう、騎士ごっことか。
ブランコやシーソーもさせたし。
おままごとにも付き合わせて、「はい、あーん」とか言いながら泥団子を食べさせようとしたり。
石蹴り遊びやかくれんぼ、砂遊びも嫌がらず……ううん、むしろ嬉しそうに付き合ってくれた。
厩舎番のおじいちゃんから教えてもらった、庶民の遊び。だーれも付き合ってくれなかったけど、エリオス様だけは嫌がらず一緒に遊んでくれた。
となると当然、毎日でも会いたくなっちゃったのよね。
「エリオス様と、毎日会いたいの!!」
そんな私のわがままを聞いても、エリオス様はやっぱり太陽のように微笑んで。
「わかった。じゃあ毎日会える方法がないか、考えてみるよ」
そう言ってくれたのが、私が十歳、エリオス様が十七歳の時のこと。
すると一週間もしないうちに私は王宮へと呼ばれて、なんと行儀見習いとして王宮に仕えることになったってわけ。
「今までのように遊んでばかりは無理だけど、フィオーナが十五歳のデビュタントに向けて頑張ってくれたなら、絶対に毎日会いに来るから」
そんなほんわかした嬉しそうな笑顔で言われたらもう、頑張るしかないじゃないの!
エリオス様に毎日会えるように、私は頑張った。
社交の場で必要な、舞踏会での振る舞いや礼儀作法。
王宮の公式行事や儀式の準備も積極的に手伝ったし。
対人関係もしっかり頭に叩き込んで、家庭教師が来る日は真面目に勉強も頑張った。
休みの日には、エリオス様を巻き込んで外に飛び出したけど。
あれは確か、私十一歳、エリオス様十八歳の時のこと。
「エリオス様、この町には湖畔とボートがあるんですって! 私、漕いでみたいわ!」
「フィオーナはなんにでも意欲的だなぁ。僕も乗っていいのかい?」
「もちろんよ、一緒に乗らなきゃ面白くないもの!」
そう言って一緒に乗ったけれど、私が漕ぐとなぜかボートはくるくると回るだけで進まなくて。
「貸してごらん、フィオ」
優しく名前を呼ばれて、危うく櫂を落としてしまいそうになった。
「フィオーナは、右手の力が強いから進まないんだよ。両方同じ強さで漕げば……ほら、進む」
目を細められると、胸がむず痒くてたまらなくて。
「もう一回、私が漕ぐわ!」
「わお。今立っちゃ危ないよ。ほら、こっち座って。一緒に漕ごう」
グラグラ揺れるボートの上で、私は言われるがまま、エリオス様と同じ方向を向いて座った。
すぐ後ろの私の頭の上で、エリオス様の息遣いが聞こえて。櫂を握る私の手の上に、エリオス様の手が乗せられる。
「ほら、こうして水をしっかり捉えて、左手も意識しながらグッと引くんだ」
こんなにも男の人と密着したのは、初めてで。
私は、心臓がおかしくなるんじゃないかって思った。
けど、エリオス様はなんにも感じてないんだろうなと思うと、心臓がぎゅうっと押し潰されたように感じて。
「どうかした? フィオ」
「ううん! エリオス様、一緒に漕いでくれてありがとう!」
一生懸命なんでもないふりをして笑うと、エリオス様はふわっと柔らかい眼差しを向けてくれていた。
それからも、私たちは王宮で毎日会い続けた。
二年が過ぎ、三年が過ぎ、お互いに忙しくなっても、一日の終わりには必ず顔を見るって約束を守って。
「今日もよく頑張ったね、フィオ。父上も兄上も、フィオーナのことを褒めてくださっていたよ」
まるで自分のことのように喜んでくれることが嬉しくて、私はえへへと顔を熱くさせた。
「偉い偉い。よしよし」
頭をふわふわと撫でられて、私の口角は自然に上がっていく。
「かわいいなぁ、フィオは」
何度も何度も言ってくれる言葉。
目と目が合えば、必ずお互いふにゃっと笑って。
幸せしか、感じなくて。
「王宮仕えは大変だろう? やることもどんどん増えてきてるし」
「私は大丈夫よ。エリオス様が会いに来てくれるなら、いくらでも頑張れるもの!」
「わお。さすがだね、僕のフィオ」
そう言ってもらえると、胸がきゅうきゅう音を立てそうなほど締め付けられていく。
頭をよしよしと撫でてくれる手が、この上なく心地いい。
「けど、無理はしなくていいからね。帰りたくなったら、いつでも公爵家に帰る手続きはしてあげるから」
「大丈夫よ。私、ずっとエリオス様のそばにいたいの!」
「そっか」
私の言葉に嬉しそうに目を細めてくれたけど。
〝僕もだよ〟とは、言ってくれなかった。