宦官との辛い恋
魅婉の住む『北枝舎』から、東廠へは北端から南端へと対角線上に歩けば近い。が、実際には多くの建物があり道を遮る。
途中、側室が住む『綾明殿』『馬酔木舎』があり、皇太子妃が住む『桜徽殿』、その対面に皇太子の私室『東明殿』が渡り廊下で繋がっている。
後宮全体を回廊がめぐっているので、通路を歩いても行けるのだが、あえて庭を歩いた。
暁明の宦官という身分は、いわば奴隷だ。いかに帝近くに接して権力を持とうが、その身分は奴隷でしかない。
どれほどそれが彼の誇りを傷つけているだろうか。
その静かな佇まいから想像さえもできなかった。
俺の意識とは別の、たぶん、魅婉の心が無意識に、ひとつ、ふたつと、ため息をつく……。
俺は冬空を見上げるしかなかった。どこまでも青く、雲一つない鮮やかさ。
隣で歩く暁明の足音が聞こえる。
顔が合わせられない。
それがなぜか悲しい。
「俺だったら、その辺のものぶち壊してやりたいだろうな」
「……」
「おまえは我慢をしすぎだ」
「わたしのことですか?」
「そうだ」
「魅婉さまは変わられました」
背後からついてくる彼を振り返ると、愛おしげな目とぶつかった。この男は、やはり魅婉に深い愛情を持っている。
なあ、魅婉。
残酷だが、こいつは宦官だ。それでも、おまえはまだ彼を好きなのだろうな。胸が痛くて仕方がない。これは俺の感覚じゃないはずだ。
「行こうか」
「お供します」
『朱鳥殿』は『東明殿』の先にある。丸く赤い柱に囲まれた皇太子の執務室だ。
普段は戸板で囲われているが、良い天気だからか、前面が開け放たれていた。
近づいたとき、気怠げな声が聞こえきた。
「出かけるのか。魅婉」
この自信にあふれた声を忘れることはない。傍若無人で、人の気持ちなど忖度しない。まさに、それこそが王の器と思っているにちがいない、皇太子麗孝だ。
暁明の身体に、あるかないかの緊張が走る。
なぜ彼が声をかけたのかいぶかった。やはり、あの男も魅婉に興味があるのだろう。
側室にしたのは、彼女を救うためだけではないかもしれない。では、なぜ寝所に訪れない。そこに政治的判断があるのはまちがいない。
「聞こえないのか? 夫が声をかけているんだぞ」
「嫌味か」
麗孝が回廊に出て朱色の欄干にもたれ、気怠げにほほ笑んだ。
おそらく、この顔になびかない女はいないと自信にあふれている。
白い内衣を着崩し、その上に黒貂の上着を羽織っていた。
魅婉と暁明と、幼馴染だった三人。
彼女は、この三角関係にまったく気づきもしない、鈍感女だ。
「面白いな、暁明」
「なにがでしょうか、魅婉さま」
「向こうから、声をかけてきてるぞ。返事をすべきか?」
「放っておきましょう。聞こえなかったふりができる距離です」
暁明が自分の意見をはっきり主張するのは珍しい。彼の忠告通り、俺は無視して歩いた。
すると、ザザザっと砂利道を小走りに近づいてくる足音がした。
背後を伺うと、皇太子付きの宦官が走ってくる。
「おい、暁明」
「は」
「逃げるぞ」
俺は暁明の手を握ると全速力で走った。
いや、宦官とはいえ、男の手を握るなんてと思ったが。心が喜んでいるのだ。
魅婉よ、ほんとわかりやすい女だな。
東廠は、昨日と空気がガラリと変化していた。
多くの者が忙しそうにセカセカしているし、天佑は、どこを探してもいなかった。通りすがりの下っ端宦官の袖を引いた。
「なにかあったのか?」
「魅婉さま、ちょっと前に投書がありまして、仙月さまのことで有力な情報がありました。それで天佑さまは馬酔木舎に参られました」
馬酔木舎? 側室である蔡花楓が住む舎で、麗孝との間に娘がいるはずだ。
では、途中で行き違いになったのか。
「どういうことだ」
「すみません、下っ端のわたしには詳細はわかりかねます」
「暁明、戻るぞ」
俺は馬酔木舎まで走った。
先ほど遠目に通りすぎたときには見逃したが、物々しい雰囲気にあふれ、周囲を宦官たちが守っている。守っているというより、取り囲んでいるが正しいようだ。
「暁明、天佑はどこにいる」
「こちらでお待ちください。探して参ります」
馬酔木舎の入り口から内部を伺うと、騒然としてごった返していた。宦官たちが部屋にあるものをひっくり返すように調べている。
片隅では女官たちが固まって、文字通り震えていた。
「俺もいっしょに行こう」
「いえ、ここでお待ちください。何かあっては、後でわたしが叱られます」
暁明の声は麗孝や天佑とちがい穏やかだが説得力がある。
俺が、つい従ってしまう。
騒々しく捜査が続くなか、人びとの間を暁明が静かに歩いていく。誰もが彼を認め、海が割れるように道筋を作る。まるで、神のようだ。
彼には身に備わったカリスマ的な存在感があるようだ。静かで声を荒げることもなく、落ち着き、その視線は一箇所、常に俺だけに向かっている。
しばらくして、彼は戻ってきた。
「魅婉さま、今朝方、誰かが馬酔木舎の女官を告発したようです。明明という女官が、仙月さまの首を締めるのを見たと」
「その明明とかは、どこにいる」
「あちらに」
馬酔木舎の回廊の角、大柄な宦官ふたりに囲まれて女が跪いていた。
欄干に隠れて見えない、そんな小さな女官だ。
俺は回廊の下を歩き、明明のもとまで行くと、警護の宦官に声をかけた。
「この女と話したい」
蒼白な顔をした女は中級女官の衣装を身につけていた。中肉中背の若い女で、地味な顔つきをしている。
ブルブルと全身が激しく震わせ、こぶしを握った手は、あまりに強く膝を掴んでいるため血の気が失せていた。
(つづく)




