魔王の斧(4)
「それじゃ、ってちょっと待っ」
フィセラがアゾクから目を離した短い間で、アゾクが距離を詰めていたのだ。
それも、手を伸ばせば触れられ間合いにまで近づいていて来ていた。
「ちょっと!何?」
アゾクは武器を持っていない。ただ両手を振り回すだけで、攻撃を狙っているという雰囲気ではなかった。
この時フィセラは気づいていなかったが<波紋・上昇>の効果が発動した時点で、あの槍は彼の足と共に2つに折れていた。
だからこそ、槍を捨てて素手で立ち向かっているのだ。
「……ほんとにどうしたのこいつ?」
ブンブンと振るわれる手を冷静に避けながら、フィセラは1歩2歩と下がっていく。
生えたばかりの右腕は真っ赤だった。
血が形つくったものだからこそ、まだ血が消えていなかったのだ。
アゾクが腕を振るうことでその血の水滴が飛び散っていた。
「決闘の品ってもんがあるでしょ!?ちょ、おい!言葉まで失ったか」
攻撃を避けるのは簡単だが、しぶきのような血まで避けるのは困難だ。
そんな時、一滴の血がアゾクの腕から離れて空中に舞う。
それは風に飛ばされることなく正確な弧を描いて、フィセラの視界のそとから降って来た。
フィセラの頬を何かがかすった。
それが何かを確認する必要はない。
ただの獣となったアゾクの猛攻に下がるだけだったフィセラが、1っ歩大きく前に出る。
アゾクの足の間を踏み抜くような前進、体もそこへ近づいていくが、それよりも速くアゾクへ迫るものがあった。
炎色の軌跡を作りながら、燃え盛る左手がアゾクの顔面を鷲づかみにする。
そしてその腕は勢いを少しも落とすこと無く、いや、さらに速度を上げていき、アゾクを地面へと叩きつけた。
「汚ねぇんだよ!ゴミが!!」
アゾクの体が地面にめり込むほどの勢い、それと高速で振るわれたことでさらに熱くなった左腕の炎。
攻撃、と言うよりは怒りに任せた暴力である。
そんなものでアゾクは倒れない。
すぐに彼は起き上がった。
ダメージは少ないのかもしれない。
だが、まだ火が残っていた。
顔を掴ませた時に燃え移ったのだろう。
アゾクは顔を手でこするが、火は消えない。
地面に顔を付けるがまだ消えない。
顔を何度も打ち付け、削げることも気にせず地面へこすらせるが、火が消えることは無い。
雄たけびを上げながら顔を搔きむしる。
どんどんと力は強くなり顔の骨が見えるまで肉をえぐっても、一切火が揺らぐことも無かった。
エレメンタルガントレット•オリジンファイア。
100レベルアイテムだ。
特筆すべき効果はたった1つ。不滅の炎である。
――不滅と言っても、レベルが高ければ抵抗は出来るんだけど、こいつは無理だな。
何度目か分からない、アゾクの地面にうずくまる姿をフィセラは見下ろしていた。
「まだ消えない。さすが不滅ね」
――でも長いな。これで終わらすのも面白くないしとどめをさっさと…………おかしい、まだ消えない。不滅なんて関係ない。燃やし尽くせないことがあり得ない。
フィセラよりほんの少しだけ小さい程度のアゾクが燃え尽きないのは確かに、普通ではない。
――顔が焼けたそばから、すぐに再生していく。でも、なんだか様子が…………。
炎がアゾクの顔を隠す中、フィセラの目には時折、火の中の顔が別のものに見えた。
「中にいるの?」
まるで体にできた傷から這い出ようとする無数の「「何か」がいるようだった。
「…………念のため」
フィセラは<アイテムポーチ>を開いて、あるアイテムに手をかけた。
その時、裂けたアゾクの顔に火が飲み込まれた。
裂け目の中は鮮血の渦。
引き込まれそうな渦。
それに飲まれた「奴ら」が手を伸ばす。
裂け目に手をかけて、外へ出て来る。
アゾクの顔の穴から見知らぬゴブリンが出て来たのだ。
それも、1体じゃない。2体、3体と増えていく。
出て来るのは全身ではない。体の一部はまだアゾクと繋がっている。
それでも、もうすでに制御は効いていなかった。
吸収した千を超えるモンスターたちが溢れ出ようとしていた。
腕は2つに割れて、2体のゴブリンとなる。背中からはギガントが生え、肩からはウルフが顔を出す。
アゾクの体はたちまち無数のゴブリンやモンスターに覆われた。
その覆いはさら暑くなり、どんどんと巨大化していく。
「うぇ。マジで?」
数秒でフィセラの背を超え、2倍3倍4倍、フィセラはさらに大きくなるアゾクを見上げた。
「でっかいな~」
十の骨が繋がり、百の肉が重なり、千の血が流れる。
アゾクはすでにゴブリンの名を捨てていた。
数えきれない大小の足、5本の巨大な腕、いくつもの顔。
中でも、中心には大きなアゾクの顔があった。
「行こうぞ!同胞タチよ!我にツヅケ!」
そう叫びながら、巨大な腕が地面を叩く。
それだけで大きな揺れがジャイアント族の場所まで届いていた。
唾を吐きながら叫ぶアゾクの姿を、フィセラはその足下でぼぉぅと見ていた。
「マズは貴様だ!フィセラ!」
アゾクが拳を振り上げ、フィセラめがけてそれを落とした。
指一本でさえ彼女よりはるかに大きな拳だ。
それが2本目、3本目、4本目、5本目、そしてまた1本目。
さらにスピードは上がり、アゾクが作る地鳴りは止まることは無かった。
そうしている内に、アゾクにまた変化が現れる。
ひと際大きなアゾクの顔の下にくっ付いている小さな顔の1つが少しずつ巨大化していき、形を変えていく。
見覚えのある形だ。
まるで狼のような、ドラゴンのような。
だが、今は顔のみである。
誰もがドラゴンの頭だと認識するだろう地底竜の顔がアゾクの顔の横に並んだ。
「潰れろ!ヤケロ!死ねェェェ!」
地面を殴りつけていた5本の腕が、舞い上がった土埃の中にある影を掴む。
左右前後上、すべてを囲んだ。
すると、地底竜の頭が動いた。口を大きく開けて、真っ赤な何かを吐き出す。
血ではない。溶岩である。
燃える溶岩の咆哮をフィセラへ、自分の腕も気にせずぶつける。
止まることなく浴びせられる溶岩。
いつの間にか出て来た2つ目の地底竜の頭。またそこから放たれる火の咆哮。
「コレが我の力だ!これこそが真の王のチカラだ!」
ついにはアゾクの口からも赤い光がのぞく。
3本目の赤い咆哮がフィセラめがけて降り注いだ。
「ワレこそガ魔王!我コソがアゾク!……我、ワレ…………<ワレラ>コソガマオウアゾクナノダァァ!」
知性を徐々に失っていたアゾクの言葉は、既に聞き取ることの難しいものとなっていた。
そんな中で乾いた声が耳に届いた。
何十とある耳だ。どれだけ小さな音も聞き逃すことは無い。
「ああ、悪いけど、もう1回言ってくれない?」
少し離れたところ、アゾクが殴りつけ溶岩の咆哮を浴びせていた場所とは全く違うところにフィセラが立っていた。
殴られた痕はない、少しも汚れた箇所はない。
平然とそこにいた。
アゾクの咆哮は徐々に勢いは弱まり、完全に収まった。
腕は焼け、手の先は無い。それでも、既に再生が始まっている。ほんの少し待てば元通りになるだろう。
それよりも、フィセラがいたはずの場所には何もない。
空を殴っていたのか。
空を捕まえていたのか。
空を焼いていたのか。
そんなはずは無い。感触は確かにあった。
だが、今はそんなものどうでもいい。
今は、目の前にいるんだから。
「フィセラァァ!!」
元に戻ったアゾクの腕、それどころか1本増えている6本の腕を使ってフィセラに向かって行く。
フィセラは笑顔だった。
「いや~きもいな~。良かった良かった離れておいて」
彼女はそう言いながら、右手に持っていた杖から手を離す。
斧ではない。杖である。
アゾクが変異する前に、ポーチから取り出した魔法杖だ。
使った魔法は1つだけ。
幻覚魔法である。
――瀕死のモンスターは怖くない。ほっといても勝手に死ぬし、動きも鈍くなってる。でもそれはアンフルでの話。プレイヤーのように、意思を持ち心を持つモンスターたち。瀕死の最後だからこそ警戒するべきなのよ。
手を離れた杖は光の粒子となりポーチへと戻って行く。
幻覚魔法のために魔術師となっていたが、それも戻しておく。
<転職・重戦士>
突進してくるアゾクを見えて、フィセラの口角はさらに上がる。
「ハハハッハハ。それにしても良いねぇ!それ!ハハハ!」
遂にはお腹を抱えて笑い出す。
「それ第2形態って奴でしょ!?頑張って見せてくれたんだよね!?だからさあ!私も見せてあげる、魔王の本気を……」
左手に握っていた漆黒の斧が燃えあがる。
――そう言えば、名乗ったこと無かったかもな。偶然、私も魔王だってこと。
「……ま、いっか」
フィセラは燃える斧を持ち上げる。
アゾクはすぐそこだ。
終わりはすぐそこだ。
大斧が大地を割り、大地を目覚めさせる。
大火が大地を焼き、大地を怒らせる。
大地を目を開け、火の神がすべてを焦土に沈める。
「目覚めろ!<ボルカヌス>!」
大火を纏った大斧が、大地に落とされた。
地面に亀裂が入る。
一直線の亀裂はフィセラからアゾクを超えて、森できた空き地の向こうまで届いた。
アゾクはその亀裂の上を一心不乱に進んでくる。
「もういいよ。もう終わったから」
亀裂が開く。
上空から見えていた者達には、閉じられたまぶたが開かれたように見えただろう。
そして、瞳が見えたことだろう。
闇に浮かぶ赤い瞳。
それが近づいてくる。闇から昇ってくる。
円形に開いた大地のそこへ落ち始めたアゾクも、それを目にした。
地底から迫る瞳、赤い大火を。
ドォォォンと言う轟音と共に、巨大な火柱が上がった。
大森林のさらに下にある「闇」から現れた巨大な炎の塔。
大噴火である。
アゾクの巨体は圧倒的な火力に焼かれ削れ、徐々に小さくなっていた。
火柱のすれすれにフィセラは立っている。
吹きあがる空気にコートも髪も持ち上がり、バサバサと暴れていた。
アゾクを見ながら、フィセラは口を開いた。
「お前が魔王?フッ……悪意にひれ伏し、邪悪を恐れ、品位を讃える者たちの呼ぶ名こそが、魔王だ」
立ち昇る火の勢いは徐々に弱まり、開かれた大地は閉じていく。
その中に彼はいた。
闇に落ちていく燃えカスとなった小さく弱いゴブリンを、魔王が見下ろす。
「魔王を舐めんじゃねぇぞ…………小物が!」