落ちる星空(4)
ほんの数分前。
フィセラはコスモを空にあげたまま、シルバーの背でその様子を見ていた。
――世界記録更新、かな?縮小化スキル解除のための<形態変化>は、サイズを、たしか5倍にするんだったけ?レベル5まであるから、5かける5かける5かける。
指折り数え始めるが、すぐに手を止めた。
――指じゃ無理だな。形態変化レベル5のあとは、スキルの完全解除でさらに5倍。……ここまで来ると、十分に名乗れるよ。
「世界を覆う大粘体、コスモ」
シルバーは特別に命令されたわけではないが、コスモを放った高度を保ったままにしていた。
寒さを感じていても新たな命令がない限り、好きにはできない。
だというのに、背に乗る主人は不思議な顔でこう言ってきた。
「ねぇシルバー。早く降りなさいよ、逃げられなくなるよ」
少し苛立ちを覚えたが、口答えはしない。その代わりに疑問をぶつける。
「……何から逃げる?」
首をもたげて彼女を見る。
そのおかげで、フィセラの返事よりも先に気づけた。
「星空」が自分の頭のすぐ上まで迫ってきていたことに。
同時に急旋回。
振り落とされまいと、フィセラはしゃがみ込み鞍をつかむ。
ムーンはフィセラのコートの裾を掴んだせいで振り回されている。
「なんだ!今のは!」
「フフ。コスモに決まってるでしょ」
フィセラは馬鹿な質問に笑ってしまう。
シルバーはコスモという名前が何を示すのかは理解していた。
スライムのような姿で紹介を受けたことがあるし、現在、空にいる「何か」に変化していく様も見ていた。
だからこそ、疑問が増える。
「なぜ襲ってきた?理性を失っているのか?」
フィセラは高笑いをあげた。
「コスモは襲ってきてないし、理性も失ってないよ。ただ、まあ、制御はできてないけどね。だってこれは、なんの変哲もない落下だもん」
フィセラが話している間にもコスモは落下している。
流石のスライムだ。綺麗に落ちてくるわけは無い。
星空に凸凹ができるように不規則な落ち方だ。
「落下?ではなぜ空に上げたのだ?」
当然の疑問を投げかける。
だが、当たり前なのはフィセラも同じだった。
「だってそういう種族だし。ほんとは飛行能力を持ってるんだよ」
コスモの種族名を正確に言えば、「世界を覆う大粘体」である。
その名の通り世界を覆うのだ。
地上を這っていては、面倒だろう。
そのため元のワールドモンスター「宇宙からの来訪者・世界を覆う大粘体」は空を飛んでいた。
「これが正しい形なんだから、手伝ってあげなきゃ」
手伝う、という言葉が出てくるようにコスモに飛行能力はない。
巨大化のため排除したスキルの1つ、ということになっている。
「飛行スキル付け忘れたアアア!」というギルドメンバー・彗星の悲痛な叫びは記憶から抹消しておいた。
――そう……必要な犠牲なんだ。たぶん。
フィセラは遠くを見る目で空からの景色を眺めた。
「ま!それよりも、早くここを離れよう。コスモの下から抜け出さないと!」
飛行能力を持たないため、ただの落下によってフィセラ達を巻き込む可能性はある。
だが、取り込んでしまった彼女らを自らの酸性の粘液で溶かすかどうかは別だ。
元から持っている能力の調整は当然出来る。
そうだとしても、ここで取り込まれるのは格好がつかないだろう。
シルバーは垂直に降下することでコスモから距離を置きつつ、スピードを上げていく。
そうして得た高速を維持したまま水平に滑空するが、安定したものではない。
「夜」に「腕」があるかのように、大森林に集まった者達に向かって黒い塊が落ちて行っている。
それに掴まらないように、右へ左へ、動きっぱなしだ。
フィセラが力いっぱい背に捕まっているほどである。
黒髪がバタバタと風に引っ張られている。
フィセラがふと思い出した。
「ムーは大丈夫、か、な?」
ムーンはいまだフィセラのコートを掴んだままだ。髪同様に揺れ動くコートにだ。
まるで、空を飛ぶ鯉の作り物のようにフードを風で膨らませて飛ぶムーン。
空中に浮いてしまっているムーンを見て、フィセラはぎょっとした。
だが、ムーンの方は今にも飛ばされそうな体勢だというのになぜか落ち着いている。
――真顔……大丈夫そうなら、いいか。
前方に向き直した直後、強い光が顔を照らした。
太陽の光だった。
コスモの影を抜けたのだ。
そこまで出て来ることでようやくコスモがどのように動いているのか、全貌が見えた。
太陽の光を完全に遮る真っ黒な星空。
比較するものが無い空では、彼の動きは捉えづらい。
事実、シルバーは自分に近づくコスモの一部に気が付かなかった。
真下の地上にいるジャイアントやゴブリンなら、余計に変化を知ることが出来ないだろう。
だが横からなら良く分かる。
歪な黒い腕が、地上へと伸ばされているのだ。
大森林で2重の円を作る者たちのもとへ集まるように、数えきれないほどの腕が集まろうとしている。
――効率悪いよな~。
その光景を見ながら、冷静に分析する。
――格下相手の大軍能力ではあるけど、やっぱり飛ぶ工程はいらないよ。でも、見栄えは完璧なんだよな。アンフルで実験した時より、やばい光景だし。ここが現実だから?……面白い!
フィセラは両手を広げる。
「さあ、派手にやろう!」
その瞬間、コスモの腕が地上のちょうど両軍を別つ場所に落ちた。
ナラレはすぐに足を止めた。
黒い壁が空から降って来たのだ。
これを無視して突進するほど、冷静さは失っていない。
だが、反対側に立つギガントには最初から冷静などと言う言葉はない。
眼前で壁が完成する前に、隙間に飛び込もうと1歩をさらに大きくした。
隙間に腕を伸ばして、腕は無事に抜ける。だが、体の半身は黒い何かに触れてしまう。
硬さがあるかと思ったが、それは水(よりも少しかたい)のように柔らかい。
まるで何にも触れていないと勘違いしてしまうほど、何も感じない。
何も、感じないのだ。
黒の壁にギガントの体が触れた瞬間、触った部位が無くなった。
そして、無事だった片腕だけがナラレの足下へ投げ出される。
ナラレはブワッと冷や汗を顔に浮かべた。
「下がれぇぇ!」
ナラレを左腕と右腕に持った槍を使って、皆を強引に下がらせる。
ギリギリのところで黒い壁はナラレの鼻先をかすめただけだった。
安堵の息を吐く間もなく、周囲の景色が黒に変わる。
いつの間にか、壁はジャイアントたちを取り囲んでいた。
壁をよく見ると完全な黒ではない。
小さく光るものがある。
ただ小さいのではない。
手が届かないほどとても遠くにあり、か細い光を発しているような、星の瞬きのような、そんな光だ。
ジャイアント達は恐れた。
自分たちを覆い閉じ込める正体不明の壁に、ただ恐れた。
触れる者、壊そうとする者、誰もいなかった。
壁の外が想像できなかったからだ。
壁が閉じられた瞬間から、一切の音が無くなったのである。
彼らはそこにあるはずのない静寂を恐れたのだ。
コスモはついに地上に降りた。
その時、空全てを覆いきれなかったため残っていたかすかな光が完全に消えた。
モンスターたちには闇の中でも働く眼を持つもいるが、意味はない。
迫りくる物に形はない。
闇の濁流である。
どんな抵抗も虚しく、闇が自分に触れ、そして体は溶けていく。
ただ静かに何百、何千、何万という命が消えていく。
星空にはどんな思いも届かないように、無情にすべてが消えて無くなっていた。