白銀竜降臨
同日。昼過ぎ。ラガート村南端。
そこには子供でも飛び越えられるような柵があるだけだが、一応はそれがラガート村の境界となっている。
その柵の外側、徒歩20分程度の距離にアゾク大森林がある。
その森林は、未知ではあるが恐怖の対象とはなっていないようだ。少なくとも、ラガート村の人たちに恐れは感じられない。
整備されることのない小さな乾いた木の柵がその証拠だろう。
現在は、その柵に並ぶように村人が多く集まっていた。
柵のすぐ外で行われている、魔獣レッドボアの解体の見物に来ているのだ。
村人の手でここに運ばれてから徐々に人が集まってきていて、ちょっとした騒ぎになっている。
だが、この騒動が決して悪いものではないと感じさせるように、村人たちには温かい空気が流れていた。
フィセラは、召喚獣と共に森の出口付近までレッドボアを運んでいたが、それ以上は進まなかった。召喚した<山羊座の大狼>の姿を村人に見せる訳にはいかないし、フィセラが一人で運ぶ姿もおかしいと思ってのことだ。
仕方ない、と思い村人を呼んで来ようとその場所を離れた瞬間、役目が終わったと気づいたのか、<山羊座の大狼>は姿を消した。
活動限界と役目を果たすことが、召喚魔法の切れ目らしい。
フィセラが森を出ると、そこには既に村の男たちが集まっていた。
10人以上の男たちの協力もあって、森の中から村のすぐ近くまでは簡単にレッドボアを運んで来られた。と言っても、フィセラとソフィーはほとんど手伝わずに後方で見ていただけだ。
一応、血の匂いにつられて森から獣が出てこないかの監視を行うという重要な仕事があったのだから文句を言うものはいない。
その後の作業はフィセラの専門外だった。
村の屈強な男たちが毛皮をきれいに剥ぎ取り、肉を大きなブロックにして切り出していく。
通常、この作業はすべてフランクの仕事なのだが、この魔獣の扱いは特別だ。解体を行っている場所とは別のところで、交代で保存作業を手伝うという話をしているグループもいる。
フィセラは蚊帳の外だ。
小分けの肉は、子供のいる家庭やけが人がいる家庭には配られたが、それ以外には渡されなかった。
フランクが言っていたように冬の貯蔵とするのだろう。食糧備蓄の課題が、それほど喫緊のものだったようだ。
収穫の無かった村人たちが残念そうに帰っていき、作業を手伝っていた人たちもいつの間にか人数が減っていた。
手持無沙汰となってしまったフィセラはおろおろしている。
――私もなんかやらなくちゃかな?いや待てよ、このドデカ猪取って来た時点で、村への貢献度マックスじゃね。これは、当分のんびりできるな。
フィセラに労働の概念はない。
「フィセラ様。お疲れ様です」
額に汗をかいたフランクが駆け寄ってきていた。
レッドボアの解体を主動していたからか、両手には大量の血が付いている。布切れでぬぐおうとしているが、微妙に赤みが残ったままだ。
フィセラにねぎらいの言葉をかけながら、仰々しく頭を下げる。
フランクはフィセラに対する態度を改めていた。
村を救ってくれた感謝は他の村人同様にあるが、彼らが言うような聖女だの英雄だのという言葉は今まで聞き流していた。
フランクがこの村で狩人を行っているのは、若いころに冒険者として生きていた経験があるからだった。レベルも村の中で頭1つ抜けている。
だからこそ、村に流れてきた旅人を簡単には信用しない、村の外の世界を見たからこその考え方があったが今では誰よりも彼女を敬う気持ちは強くなっていた。
「解体はほとんど終わりました。ここにはもう仕事はありませんので、先に戻って休んでください。ソフィーも、家に戻っていていいぞ」
先ほどまで魔獣が横たわっていたところを見ると、すでにその姿はなく、代わりに荷車へ積まれていく大量の肉があるのみだ。
「わかった。じゃあ、私は帰るよ。お疲れ~」
「フィセラおねえちゃんの家に行ってもいい?」
フランクが家に戻るのはもう少しかかるだろう。ソフィーを一人で家に向かわすのはかわいそうだ。
「うん。だいじょ」
「あ!そうだ!」
フィセラの返事が、フランクの無駄に大きい声に遮られる。
「忘れていました!家に戻りがてらで構いませんので村長の家に寄ってください。さっきは客が来ているからこっちに来られないって言っていましたが、もう帰ってるでしょう。魔獣の素材の扱いはフィセラ様にお任せしますので、こいつの始末の話をしておいてください」
レッドボアの牙や毛皮、骨の価値は高い。貴族が剝製として欲しがるかもしれないが、それ以上に冒険者が強く求めるだろう。
その理由は、この素材の希少性より単純な強度にある。
事実、村人たちが毛皮をはぎ取るために何本ものナイフをなまくらにするほど、毛皮には「硬度」があった。
村人からしたら、都市で売れば数年は農作業を行う必要がなくなるほどの大金が手に入る。
だが、この素材の所有はフィセラにあることは村人全員が納得していたため、すべてを任せるという結論になったのだ。
「はぁ。いいよ。話してくるね」
――私の家までの途中に村長の家ないんだけど、というか私の家目の前にあるんだけど!
フィセラが借りる家の条件の1つとして村の外れに位置するものをと付け加えていた。
つまり、すぐそこにあるのだが、フランクは彼女の家を知らない。
フランクの評価が密かに下がっているのは彼女しか知らないことだ。
空に浮かぶ2つの太陽が傾き始めるが、まだまだ一日を終わらせる時間ではなかった。
フィセラとソフィーは二人で村長のところへ向かうことにした。
村長の家が近くではないと言っても、このラガート村は大きな村ではない。少し歩けば村長宅は見える。
まだ少し距離があるが村長の家が見えた。
ちょうどその時、家の扉が開いて見知らぬ男が三人出てきた。
彼らの恰好から村民や一般の市民ではないことがわかる。
それは身に着けている物から明白だった。
鉄や革からできた装備。彼らが身に着けているのは確かに戦闘用装備だ。
それに鍛えている。村の体格がいい男たちとは全く違う。
ソフィーが言った。
「軍人だ。何しに来たの?」
彼らは軍の兵士。
それよりも、フィセラは驚いていた。
ソフィーの言葉には少なくはない怒りの感情が混じっていたからだ。
ソフィーが怒りを表に出すのを見るのは初めてであった。
だが、なぜその感情を持つのかはなんとなく理解できる。
2か月前に盗賊が村を占拠してから1か月間もの間、フィセラがラガート村に来るまで、助けはなかった。
村人も盗賊たちの話を聞くことが出来たので、街から逃げてきた盗賊団だと気づいていた。
なぜ、誰も彼らを捕まえるために村へ来ないのか。
都市の衛兵は?軍は来てくれないのか?私たちはこんなに苦しんでいるのに?なぜ誰も助けてくれない?
村人の多くがそう思い始めたときに、フィセラが救世主として現れたのだ。
そういったことがあってソフィーの認識では、兵士は村を助けてくれない人たちと捉えている。
村の大人はもう少し冷静だが似た認識を持っていることだろう。
「なんだろうね。私たちに関係ないことだよ。さあ、いこ」
だからと言って気にすることではない。
二人はそのまま村長宅に向かうと、彼らもこちらに気づく。
フィセラ達は兵士たちを気にすることなく歩いていく。
近くまでいくと、何をしているのか見えてきた。
村長が玄関に立ち、兵士たちがそれを囲んでいる。
玄関前で何やら話していたが、それも終わったみたいだ。
兵士3人が帰ろうとするところで、兵士たちはフィセラ達が立ち止まっていることに気づいた。
「なにか用かね?」
鋭い目つきの面長の兵士が聞いてくる。
フィセラが答えるよりも先に、村長が慌てて答えた。
「私が呼んだ子たちです。お気になさらず。……ほら入っていなさい」
村長が家の中に促すのに従って、彼女たちは兵士たちの横を通りすぎる。
フィセラはバレないように彼らの顔を見ていくと、ひとりの視線だけ気になった。
フィセラとソフィーを見る目にねっとりとしたものを感じ取ったのだ。
女を見る目である。
――気持ちわる。
二人が家に入ると、兵士たちも無言で去っていった。
村長がドアを閉め終わるのを待っていたかのようにソフィーがしゃべりだす。
「ねえ、一人すごいみてくる人いなかった?目が合っちゃってぞわぞわした~」
そう言ってフィセラに泣きつく。あの視線は勘違いではないようだ。
「そうだね。やな感じだったね」
フィセラの胸に顔をうずめるソフィーの頭を撫でてあげる。
それを黙ってみていた村長は何も言わず、訪問の理由を尋ねる。
「それで、どうしてここに?フィセラ様が魔獣を仕留めたという話はすでに聞いておりますよ」
「その解体が終わったのと魔獣の素材について話して来いって言われてね」
「素材?フィセラ様が単独で狩った魔獣です。素材はすべてあなたのものです」
ソフィーはフィセラから離れ、背後で村長の奥さんに菓子をもらっていた。
「そうみたいだけど、別に要らないんだよね。そっちで街に行って売ってきてよ、手間賃を貰っていいからさ」
村長は顎に手を置き少し考えている。
――私にも都市に行ってみたい気持ちはあるけど、これ以上拠点から離れたくないから村に居たいな。お金は別に要らないし、もう少しゆっくりこの世界に馴染みたい。
大きな事件でもない限り、フィセラの消極的な姿勢は治らないだろう。
村長は考えがまとまり、決心したかのように顔を上げる。
「いいえ。申し訳ありませんが、フィセラ様ご自身でお売りください」
フィセラが想定していたものと全く違う答えを聞いて反応が遅れた。
「……はい?」
そこに村長が畳みかける。
「今日にでも村を出るべきです。日没まで時間がありますから大丈夫です。一番近い街の名前はフラスク。村から街道を行くだけですからすぐに行けるでしょう。何人か連れていっても構いません。ソフィー、準備を手伝ってあげなさい」
いきなり呼ばれたソフィーはあたふたしている。状況が読み込めていないのだろう。
フィセラも同じだ。村長がこれほど強く話すのは、盗賊を討伐してくれと頼まれたあの日しか見たことがない。
あの時と同じような事件が起きているのか。
フィセラに思い当たることはない。
「ちょ、ちょっと待って!いきなり何?」
「フィセラ様はここにいてはいけません!」
フィセラの頭は余計に混乱してしまう。この1か月で自分がしたことを思い返すがほとんど借りた家でごろごろしていた(アイテムポーチに入っているアイテムの確認や非攻撃系のスキルを試していた)だけだ。
――1か月前の盗賊盗伐?それとも今日の魔獣の方に問題があった?なんでいきなり?それ以外で何か変わったことが……。
「兵士?」
ポロッとこぼれた単語に村長は反応してしまう。
フィセラはそれを見逃さずに追及する。
「さっきの兵士たちが何か言ってきたの?私のこと?」
観念した、というには言葉を使うのは軽いほど、あっさりと教えてくれた。
「先ほどの兵士たちは王都から来た軍人です。あなたを連行するために来たのではありませんよ。フィセラ様のことも知らないでしょう」
フィセラはそっと胸をなでおろすが、余計に、自分を村から引き離す理由が気になった。
村長の話の続きに耳を傾ける。
「ドラゴンです。彼らは何千という兵を連れてドラゴン退治に来たといっていました」
なるべく出会いたくないモンスターの名前が出た。一目見てみたいが、あと数年は会いたくない。
「どこにいるの?」
「ここから少し離れていますが、開けた場所があります。そこに陣を築いているようです」
「え?……ああ、兵士たちのことね。ドラゴンはどこにいるの?」
村長はフィセラの最初の質問がドラゴンについてだということに気づき、申し訳なさそうに窓の外に指を指した。
「少し前に、アゾク大森林の山に降りたようです」
村長の家の窓からちょうどアゾク大森林、その奥にある大山が見える。
彼の指先はまっすぐにその山を指さしていた。
そこで、フィセラの時が止まる。
窓から見える山はとても小さい。そのとても小さい山が、フィセラの視界を埋める。
それ以外の全てが、視界から、思考から、消えていった。
「行かなきゃ。ごめん!わたし……行かなきゃいけないの。すぐ戻るから!」
フィセラはそう言ってドアを乱暴に開け放ちながら外に飛び出していく。
ソフィーは彼女の後を追おうとするが、家を出た瞬間にはもう姿は見えなかった。
留め具が壊れて地面に倒れたドアの隣でソフィーはフィセラの名前を叫ぶが、その時既に彼女の姿は村には無かった。
「急いで!もっと早く!」
フィセラは森の中を召喚した<山羊座の大狼>に乗り疾走していた。
すでに1時間ほど走り続けている。
自分で走るより召喚獣の方が早い。それほど急いでいるのだ。
フィセラは背中に乗るだけで、動いてはいないのだが焦りからか呼吸が荒くなっていた。
「ドラゴン!ドラゴン?そんなのがいたの?こんな近くに?ありえない」
木々の間を風のように走る大狼は主人の独り言は気にせず、下された命令通り全速力で山へと向かう。
フィセラは顔を上げて山を仰ぎ見る。
森の中では木の葉の天井が空を覆っているが、その切れ間から山を覗くことが出来ていた。
先を見つめながら思っていた。
なぜこんなに焦っているのだろうか。もうあそこには何も無いのではないか。
いや、仲間と共に作ったものが1つだけあった。
――私の「家」をドラゴンなんかに荒らされてたまるか!
森を進む途中、突然、見ていた山の輪郭がかすみ始めた。
不思議に思い視線を落として前方を見ると霧が立ち込めている。
あたりを見渡してようやく気付いた、フィセラ達はすでに薄い霧の中を走っていたようだ。
「そういえば、ここに初めて来たときも霧があったような。でも、このぐらいの明るさなら見える。もう少しだから頑張って」
――たしか、山の麓にだけ霧があったはず、ここを抜けたらもうすぐだ。
霧の記憶が曖昧になっているが、気にする必要はない。
フィセラが転移して来た直後に森を走ったときも霧は発生していたが、夜だったこともあって元から視界は良くなかった。
さらに、あの時と違って今は夕方前、まだ明るい。太陽の1つは地平線に触ろうとしているが、もう片方が沈むまではもうしばらく時間が残されている。
<山羊座の大狼>に乗っているだけだとしてもずっと山を視界に捉えていた。迷うことはない。
フィセラは方向を確認するという名目の仕事がなくなり、本当に大狼の背中に乗っているだけになってしまう。
すると、フィセラは思考の渦にとらわれる。
――くそ!ドラゴンが出たからってこんなとこまで来て私に何ができるの?倒せる?アンフルのドラゴンだったら竜種は最強種。でも、この世界ではどうか分からないし、ドラゴンって名前だけ付いた他のモンスターかも、そういうのはアンフルにいたもん。……ほんとに竜種だとしてもレベルが引くければ可能性はある。倒せる手はある。……そうだ!先に拠点へ入って100レベルアイテムを使えばいい。よし、ドラゴンがいても手を出さずに拠点を目指そう。それに拠点にはあの子たちがいる。NPCと一緒に……チッ、そういえばコンソールで操作が出来ないんだった。
NPCは簡単な反応をするだけならコンソールはいらないが、戦闘などの複雑な命令はコンソールなしでは無理だ。
それが「アンフル」での仕様だ。
――この世界だとNPCは……あの子たちは……?
「この世界では……どうなるの?動かない人形のまま?」
フィセラは本物の体を手に入れて、スキルや魔法は現実のように動き、この世界では本物の人間が生きている。
それならば、本物のように作られた人形はどうなるのか。
「もしかして…………うわ!」
急な動きにフィセラの意識は現実へと戻された。
<山羊座の大狼>が急に減速したのだ。
呼吸は荒く瞳孔も開いている。普通ではない。
「ちょっと、どうしたの?」
質問と同時に<山羊座の大狼>へ意識を集中させると、召喚獣の状態が把握できた。
なぜか毒を受けて体力を大幅に減らしていたのだ。
一定の体力を減らしたことで能力値の減少が起こり、急な減速をおこしたようである。
「毒?なんで?もう攻撃された?……ドラゴン?」
いきなりの事態に困惑して周りを警戒するが、異常はない。周囲に霧が漂っているだけだ
<山羊座の大狼>は徐々に体力が減ってきているが、緊急事態ではない。速度を落としたが今も走り続けている。
フィセラは気づいていないがこの一帯は猛毒の霧に覆われたエリアである。
いたるところにある猛毒の胞子を出す茸、腐敗を進行させる魔樹、そこに寄生して毒の花を咲かせる複数の植物があった。
これらによってつくられたのがフィセラ達を覆う霧だったのだ。
ドラゴンの力で作られたものではなく自然に出来た環境だ。山の上にいる白銀竜は、そんな自然の守りがある場所に目を付けただけだ。
<山羊座の狼>はその毒霧に徐々に体力を奪われたのだ。
フィセラに影響がないのは、単純に耐性を持っているからである。
放浪者のジョブにより100レベル相当のジョブにしか変身できないが、プレイヤーレベルは間違いなく120レベルである。
毒耐性も相応の数値を誇っている。
自身の周りある毒を感知できないほど、毒はフィセラに対する攻撃性を持っていなかった。
「ほんとになんなの?」
モンスターは周りにおらず、自分にも変化はない。
フィセラは不思議に思いつつも行動を開始する。
<大回復><状態異常無効化・中>。
体力回復と毒の無効化を施した。
本来は召喚獣に対しての非攻撃魔法は効果がない。それができるのは召喚士のみ。
フィセラは<山羊座の大狼>を召喚したままジョブを召喚士にしているため、召喚獣への魔法を発動することが出来たのだ。
「毒の無効化はそんなに長く持たないから、早くここを離れよう」
体調が全快となった大狼は、霧を切り裂くように高速で走る抜ける。
そうすると、視界が徐々に明るくなっていき霧が晴れていくのが見て分かる。霧は山の麓で発生しただけで、どこかに運ばれることもなくその場に停滞していた。
そのため、霧を抜けるとちょうど、霧が登れなかった山の斜面が視界に飛び込んでくる。
「大きい……この山のどこかにドラゴンがいるの?静かにね」
狼の頭をなでて落ち着くように命ずる。
フィセラは目を細めて斜面の先を見るが目当てのものは見えない。
――砦の正確な位置は覚えてない。でも、砦から出てすぐに村が見えたんだからこっち側だよね。裏を探す必要はないはず。ドラゴンが裏側にいるならうれしい、けど砦を無事に残すなら、ドラゴンは邪魔!倒せるなら倒す!
「ゆっくり行こう」
決意とは裏腹に、フィセラはドラゴンがどこに潜んでいるのかとドキドキしながら落ち着きなくあたりを見回している。
霧を抜けてから1時間後。
フィセラはいったん大狼から降りて自分の足で歩いていた。
彼女はまだきょろきょろと周囲を見回しているが、探しているのはドラゴンではない。この時だけはドラゴンのことなど完全に忘れていた。
「なんで?なんで?無いの?砦の門がない。大きいからすぐ分かるはずなのに、こんなに探して見つからないなんておかしい」
転移直後に外から一目見ただけだが、たしかに<ゲナの決戦砦>が転移した洞窟から砦の外門が見えていた。
どれだけ探してもそれが見当たらない。木の陰に隠れられるものではない。見落としはあり得ない。
――最初からなかった?そもそも異世界転生なんてのが馬鹿な話なのにギルド拠点も一緒なんてもっとおかしな話じゃん。……あったのに……ここにあったのに。
フィセラは目じりに薄っすらと涙を浮かべる。まるで現実が受け入れられない子供のようだ。
2つの太陽が沈みかけている。オレンジ色の温かい光は空の半分を覆っているが、もう半分は冷たい黒い空が広がろうとしていた。
「もう夜になる。帰らなくちゃ」
――砦に帰る?まだ探すの?それとももう村に帰る?……なにが異世界だよ!
まるで迷子の子供のようだ。帰る家が分からず、どれだけ歩いても知らない道が続く、まるでタイムリミットのように空は少しずつ暗くなる。お母さんは迎えに来ない。お父さんが仕事帰りの車に乗せることはない。だから自分の足で歩き続ける。
誰でもいい、誰かが現れ助けてくれるのを待つ子供のよう。
その時、影が動いた。
毒霧の影響で生き物は山に登って来られない。
ならば山中で動くものは1つだけだ。
フィセラの眼球が地面を滑る影を追った。
影の主人は、そこにはいない。上だ。
それは律儀にフィセラの正面に姿を見せた。
白銀の鱗をまとう竜がフィセラの眼前に降り立つ。
暗黒の空を背にして竜の白銀の鱗が太陽の光を反射する。その姿は神々しくもあった。
体は<山羊座の狼>の4,5倍はある。
4本の脚に大きな翼、長い尾、長い首。体の線は細いがそれらのせいでより大きく見える。
竜の眼は、フィセラの背後に沈もうとしている太陽の光を写さないほど、暗く冷たい海のような藍色を持っていた。
互いに向かい合い動かない。両者、相手を観察しているのだ。
――人間?だが計り知れないオーラを感じるぞ。……こいつか!
「ようやく来たな。待っていたぞ!」
――私の砦はなくなってない。何かが起こった。それか、誰かが……隠した。
「てめぇが隠したんじゃねぇだろうなぁ!?」