紅い猪(2)
「ぁぁ……」
フランクとソフィーは、小屋ほどある魔獣が自身の上空を飛ぶ姿を驚愕のあまり大口を開けながら眺めていた。
魔獣は彼女たちから20メートルほど離れたところまで飛んでいった。
ドーンと地面を揺らしながら巨体が地面に激突する。
魔獣はすぐさま立ち上がり脱兎のごとく逃げていった。
攻撃を加えたわけではないため、ダメージはほとんどないはず。
それでも、本能と現実に起こったことからも、フィセラ達が餌ではないことには気づいたようだ。
二人は魔獣がものすごいスピードで離れていく様子をぽかんとしながら見ている。
パン、パン。
手を二度たたく音が二人の意識を戻した。
フィセラが手をたたいたのだ。
決して二人を意識したものではなく、ただ動物を触った手についた少しの汚れを払い落とす、ただそれだけの意味だったのだが、二人はフィセラの何でもないという態度が信じられない顔だ。
何でもないことではないだろう、という文句でもあるようだ。
それでも、フィセラは先ほどまでの事態が嘘かのように手を腰に当てて二人に声をかける。
「大丈夫?」
その心配の言葉と目線は、ほぼソフィーに向けられていた。
フランクを無視したわけではないが、フィセラの中での安全の優先度は当然ソフィーの方が上なのだから仕方ない。
声をかけられたソフィーは、返事が出来なかった。
先ほどの一瞬(緊張状態により体感では長く感じただろうが、実際には魔獣が現れてから10秒あったかどうか言うほどの短い時間だった)の出来事の理解が追い付いていないようだ。
フィセラはソフィーの前にしゃがみ、そっと頬を撫でる。
「大丈夫そうだね」
とても落ち着いた声にソフィーはつい頭を縦に振る。
フィセラは続いてフランクの方を見ると、ちょうどフランクと目が合う。
こちらはもう少し早く冷静さを取り戻していた。
視線を落とすと、散乱したコップとこぼれてしまったスープがある。
先ほどの衝突の衝撃で飛ばされてしまったのだろう。
こぼれたスープからは、思いのほか良いにおいがした。
フィセラが残念そうな顔で言う。
「あーあ、もったいない」
つい、口からこぼれた言葉だ。
何の意味も含んでいないのだが、それを聞いたフランクはこぼれたスープを見たまま固まる。
何かを考えているようだ。
「もっ……ない。そう……逃がし……だめ……あれなら」
何かをつぶやいているが、さすがのフィセラでも聞きとれない。
フィセラとソフィーが目を合わせて、肩をすくめる。
ソフィーがどうしたのかと聞く前に、フランクは勢いよく顔を上げた。
「あの魔獣の肉なら、村人の半分が冬を越せる」
フィセラの目をまっすぐ見ながらそう言った。
ソフィーはすぐに自分の父が何を言っているのかを理解した。
その考えに失望と怒りの感情が顔に浮かぶ。
フィセラは、そうなんだ、と困惑した顔だ。その真意を分かっていない。
フランクは後ろを指さして魔獣の逃げた先を見つめる。
「今なら、やつの跡を追えます。あの巨体なら必ず足跡を残しますし、隠れることもできないでしょう。あそこの木の枝が折れているのは奴がぶつかった跡です。アレを追っていくといい。そうすれば」
……追いついて倒せる。
違う。彼の続きの言葉はそうじゃない。
代わりに倒してくれ。
そう、フランクにはただ頼むことしかできない。
だが、これは必要なことなのだ。
フランクはもう一度フィセラの顔を見ようとするが、それをほんの一瞬ためらった。
こんなことを頼んでしまっていいのか、危険のことをやらせようとしているのではないか。
そんなことで躊躇しているのではなかった。
ただ単純な恐怖だ。
今、そこにいるのは魔獣を投げ飛ばすような強大な怪物なのでは?ただ強い人というだけの存在ではないんじゃないか?
振り返ったときに怪物の冷たい視線が自分を突き刺すのではないかという不安が頭をよぎったのだ。
おそるおそるフィセラの顔を見ると、彼女はこちらを見ていなかった。
フランクが指差した先を、目を細めて見ていただけだった。そこに怒りなどは感じない。
フランクは意を決して頭を下げる。
「フィセラ様、無礼を、危険を承知でお願いします。あの魔獣を狩ってくださいませんか。あれほどの巨体なら、その肉で村の冬の貯蓄をかなり作ることが出来ます。私たちのためにどうかお願いします」
フランクが地面に頭をつけているが、フィセラはそれを見ずに、まだ森の向こうに目を向けていた。
――なんか前も同じようなことがあったような。あー村長か。村長と言い、こいつと言い、なんでも人に頼んでさー。街から離れた村は閉鎖的でよそ者には不愛想とかじゃないの?まあ、1か月何にもしてなかったからそのぐらいは。
フィセラは村での1か月を振り返る。借りた家の中で、持っているアイテムの確認やスキルや魔法を細々と試しているだけの生活だが、誰とも顔を合わせない訳ではない。
人の少ない村だ。1か月もいれば顔を覚えた村人が何人もいる。
――1か月……よそ者か。
フィセラはフランクに笑顔で声をかけた。
「そんな他人行儀やめてよ。私はもう1か月もここにいるんだよ。……そんぐらいやってあげるよ!」
フィセラは顔を上げたフランクに、親指を立てる。
「ありがとうございます!」
フランクはまた頭を下げる。
「だから~頭下げる必要ないって」
フランクはバツが悪そうに頭を上げた。
明らかに年下の女性(フィセラ自身エルフの年が分からないので、自分の年はごまかしている)に気を使われれば、そうなるだろう。
「わかりました。……それじゃ魔獣をお願いします。私たちは村の男たちを呼んできます」
「え?」
村では最もレベルの高いフランク、それより下の村人の手助けはいらないと思うが。
「フィセラ様なら、あんな魔獣すぐに倒してしまうでしょう?村まで運ぶために人を集めておきましょう」
運搬要員。それなら確かに必要だ。
だが、魔獣が1匹出た以上は村人を森に入れることはできない。
危険すぎる。
「あ~。いや、いいよ。森の外まで私が持ってくるから、ソフィーと二人で森から出て待っててよ」
「では、どうやって」
フランクにはフィセラが一人であの魔獣の巨体を担ぐ姿が想像できなかった。
「いいから、いいから。急いで森から出ていてね」
「おねえちゃん」
ソフィーがフィセラを呼び止める。
ソフィーが不安な顔で心配してくれる、という光景をフィセラが想像したが、ソフィーの顔を見ると。
「頑張ってね」
胸の前でこぶしを握り、笑顔でフィセラを鼓舞していた。
ソフィーにはフィセラが苦戦する姿は想像できなかったのだ。
魔獣を投げ飛ばす彼女が、その魔獣より劣る訳がない。当たり前のことである。
想像とは180度違う、ニコニコの表情にフィセラは何とも言えない気持ちになる。
「うん……いってくるよ」
フランクとソフィーは走って森の出口に向かっていった。
フィセラの魔法探知で、これ以上の浅層に魔獣の気配がないため、二人だけで森を引き返すのを見送った。
一人残されたフィセラは森の中を、地面を見ながらのろのろと歩いている。
確かにフランクの言っていた通りに魔獣の足跡はくっきりと残っており、後を追うことは可能だ。
だが、魔法に頼らない自力での追跡になるので、フィセラのレベル関係なしに歩みは遅い。
「はあー、めんどくさ!あんまり速く走ると足跡も分からなくなっちゃうし、一度見失った敵を探すスキルや魔法なんて持ってない。こりゃあ追いつけないかもな。……どうしよう」
頭をかかえて悩みだす。正直、かなり焦っている。
その時。
枝の折れる音を耳にする。
フィセラはすでに、レンジャーへと職業を戻している。
素早く正確に音の発生源へと目を向けた。
そこにいたのはただの狼だった。それも子供の狼。
地面に落ちた葉を口でひっくり返している。下に木の実でもあるのだろう。
その様子をフィセラはじっと見つめていた。
――そっか。私じゃなくてもいいんだ。誰かに代わりに追跡させればいい。例えば。
「カスミオオ……じゃダメか。あの子たちじゃ追いついたらやられちゃう。まあ、追跡目的だからそれでもいいんだけど、かわいそうだし、他の子はー……」
少しの間考える素振りをした後、また転職する。
レンジャーのままでは、支援程度の役割しか持たないカスミオオカミ以上の召喚獣は召喚できない。
そのため、召喚に特化した能力を持つ職へと転職を行う。
それは、召喚士。
自身の戦闘能力こそ低いが、その代わりに強力な召喚獣を従えることが出来る職業だ。
アンフル時代のフィセラは、単独での探索にはこの召喚士を多用していた。
彼女には、得意な戦法があったのだ。
召喚士へとなったフィセラには、他の職業と比べて何十倍ものモンスターの召喚の選択肢があるが、彼女はカスミオオカミから連想したとある魔獣の呼び出しを決めていた。
<召喚・山羊座の大狼>
名前を呼ぶとフィセラの目の前に、大きな狼が現れる。
灰色の毛並みを持つ立派な狼の外見に特徴的なものはないが、その大きさだけが普通ではないことを物語っていた。
馬ほどの体長からは、人が乗っても問題ないだろうといことが予想できる。
早速、召喚獣への命令を下す。
「この足跡を追って魔獣を追ってほしいんだけど、できる?でっかい猪みたいなやつ」
まだ言い終わらないうちに、召喚された狼は足を折ってしゃがみ込む。
傍から見れば話を聞かずに座り込んだようにも見えるが、召喚獣との繋がりもを持つフィセラには伝わっていた。
――背中に乗れ。
もしくは乗ってくださいか。
どちらかというと命令口調の思念をフィセラは受け取ったのだが、存在に時間制限のある召喚獣の礼儀など気にはしていない。
しゃがんでいても、それなりに高さがあるが、フィセラは軽い跳躍で難なく背中にまたがる。
狼はのそりと立ち上がり、スンスンと魔獣の足跡を嗅ぎ、ある方向へと顔を向けた。
ほんの少し匂いを嗅いだだけで、これから向かう方向を定めたようだ。
フィセラはそれを感じ取り、出発の合図を出す。
「超特急でお願いね。えっとヤギ座……タイロウ君?」
呼びやすい名前が思いつかず適当な呼び名を言い終わるや否や、<山羊座の大狼>は風よりも早く駆け出した。
背中では主人が落ちそうになり悲鳴を発していたが、そんなものは気にせず速度をどんどんと上げていく。
この辺りは木が密集しており直線で走れず蛇行しなければいけないのだが、<山羊座の大狼>は目前に木が迫ろうと速度を落とさない。だが、急な回避などはせずに不思議ではあるが緩やかな動きで木々の間を縫っていく。
フィセラは少し楽しかった。
この世界に来てから、盗賊と戦い、いくつかのスキルや魔法を使ってきた。
現実では味わえない体験をしてきたが、今が一番、心が躍っていた。
アンフルにも騎獣はいたが、こんな疾走感はない。
それどころか、この<山羊座の大狼>は背中に乗れるような召喚獣ではなかったはずだ。
それが今は、自由を得ている。
体を起こし両手を広げて風を感じたいが、吹き飛ばされたくはないため、それはまたの機会とする。
落下した主をこの召喚獣は迎えに来てくれるのかを疑問に思い、念のためもう少し強く背中に捕まっておく。
アトラクション気分でいると、召喚獣からある報告を感じ取った。その報告と同時にフィセラも標的を目視で確認した。
「見つけた!」
まっすぐ前方、まだまだ距離はあるが巨大な猪が歩いている。
フィセラの感情の高ぶりに従うように、高速で走っていた<山羊座の大狼>はさらに速度を上げた。
猪姿の魔獣・レッドボアは先ほど自身を投げた小さな怪物から、かなりの距離を離れて追ってこないことを確信すると、安堵していた。体に痛みはないが、思い通りに体が動かない感覚がある。それは恐怖から来る錯覚かもしれないが、念のため体を休めるようにゆっくり歩いていた。
レッドボアはふと背後に視線を送る。
それはただの偶然であったのだが、おかげで敵の接近をいち早く察知できた。
目の悪いレッドボアは高速で近づいてくる何かが、フィセラだと断定することは難しい。
こちらに迫ってくる敵は、あの小さな怪物の影ではなかったが、それでも奴だと本能が告げていた。
そうして、また走り出す。
フィセラ達の反対方向、さらなる森の奥地へと。