プロローグ(英雄の卵たち)
カル王国西部。シェヘメネス王国との国境付近。
そこは平坦な草原が広がり、国境の基準となる小川が静かに流れていた。
小川の上には小さな砦がある。
だが軍事拠点と呼ぶにはあまりにも小さい、形だけの国境監視施設に過ぎなかった。
砦は小川の真上に建てられ、背の低い塀の中でも川は流れを変えずに通り過ぎる。
それが不味かった。
国境のどちらにも触れる形で建てられた施設の権利を、カル王国とシェヘメネス王国は互いに主張し始めたのだ。
そうして始まったのが、とても小規模な紛争である。
国の上の人間に命じられ任務へ就く軍人たち。
現地に来てみれば、そこにあるのは奪い合うこともバカバカしくなる小さな砦だ。
両国の軍人や兵士、戦士は休戦を選んだ。
だが、そんな曖昧な状況が長く続けば必ず事件が起きる。
事件は現場で解決された。かのように思えた。
そして互いに違う答えを出したまま、<公平>のためにと両国が報復を始める。
その後、長い時間が経った今日、血の絶えぬ紛争地域となったこの場所で何度目かの砦奪還を数日後に控える兵士たちがいた。
「次に来る交代の兵士の種族を当てようぜ」
「…………ドワーフに、朝食のベーコン2枚」
2人の兵士は砦を眺められる高台でそんな会話をしていた。
もともと草原に建つのは砦だけだったが、今では両国それぞれの側に臨時作戦基地が作られている。
現在、砦を占拠しているのはシェヘメネス王国。
カル王国は砦を追い出され、この作戦基地から砦を奪還するために日夜監視を続ける毎日だった。
太陽はついさっき地平線から姿を現した。
日光が体に体温を戻すが、気温はまだ冬の夜のそれだった。
兵士の名はユーゴ、そしてケネス。
若い2人の兵士の吐息が白く変わる中、彼らはこれから食す朝食の行方をじっと見守っていた。
「来たぞ。あれは、ドワーフだ!俺の勝ちだな」
「おいおいユーゴ。目が悪くなったか?あれはドワーフじゃない……あれは背の小っちゃいおっさんだ」
「……そんな訳ないだろ」
「ああ?実際は分からないだろ!聞きにいくか?無理だろ?」
「ケネス、おまえ。もういいから、ベーコンよこせ!」
そうして、朝食の取り合いが始まる瞬間。
聞き覚えのある声が彼らを呼んだ。
「ユーゴさ~ん。ケネスさ~ん。隊長がみんなを集めてますよ!戻ってきてくださ~い!」
高台の下で女兵士が声を張っていたのだ。
女兵士の隣には見張りを交代する兵もいる。
呼び出しに応じない理由は何もなかった。
「シャモネ!今行く!」
ユーゴがそう答える頃には、ケネスは分厚い防寒布をきつく縛った荷物を持って梯子を下りている最中だった。
少しは待てよ、と愚痴りながらユーゴも自分の荷物をすぐにまとめる。
高台から降りる梯子を掴んで、ケネスが降りきるのを待つ間。彼の視線は砦の門に注がれていた。
「やっぱりドワーフだろ」
ユーゴとケネス。彼らの前を歩くシャモネ。
3人は特に会話をすることなく作戦基地の本部の前へ来ていた。
青空本部とでも言えばいいのか。
基地の中にまばらにある天幕はここには無い。
本部のような広い空間を覆える天幕が無い訳ではないが、砦を奪還するまでの臨時基地にはあまり数が揃っていなかったのだ。
今は、武器や資材、食糧、作戦文書の保管箱が置かれた場所を円形にくり抜いたような開けた場所へ本部が置かれていた。
これもまた木箱を積み重ねて机替わりにした大きな作戦机を中心にしてである。
だが3人が本部に着いた時、その本部は解体されている途中だった。
すでにその光景を見ていたシャモネは、驚くユーゴとケネスに気づかず、本部の中心で何かの紙をじっと見つめる男に声をかけた。
「シャモネ・パーシェン。ただ今もどりました!」
「んん、ああ……」
男はそう声をかけられても空返事をするだけで、紙に書かれた文章を読み続けた。
3人は姿勢を正して、男がそれを読み終えるのをただ待つのみだ。
その間、見覚えのない、兵士の衣装でも無い男の視線を受けながらである。
ユーゴはその男の正体が分からない以上視線を返すことはせず、見られていることに気づかない風を装った。
そうしている内に、彼らを待たせていた方の男が手紙を読み終えた。
「お前たちが夜間監視に出ているのを忘れて、さっき全員に指示を出しちっまったんだ。悪いな」
少しにやけながらそう口にした男は、無精ひげを生やして、短い髪の毛は不自然に頂点だけが寝ぐせによって平になっている。
適当さを感じるこの男は3人が所属する部隊の隊長であり、この基地のまとめ役でもあった。
「いいえ問題ありません、ダンケン隊長。それで指示とは?」
ユーゴは彼にそう聞き返した。
西方精鋭隊第14部隊隊長ダンケンにだ。
「王都から指令書だ」
ダンケンはずっと見ていた手紙、王都からの指令書をユーゴに寄こした。
ユーゴは手を伸ばしてそれを取り内容を確認しようとしたが、ダンケンがユーゴの確認を待たずに指令を言ってしまった。
それも、かなり詳細を省いた状態のまま。
「訓練大会だ。俺らが向かうのは、ひとまず王都だな」
「は?訓練……、このタイミングで?なぜ…………」
ユーゴはそこまで口にしてから気づいた。
王都の軍本部が、国境で行われるいち作戦の考慮などする訳が無いのだ。
今までに何度も行われてきた辺境の砦奪還作戦よりも、王国全域で開催される大会の方が重要なのだろう。
ユーゴは悔しさを顔に浮かべた。
自分たちに任せられた1つの仕事を途中で投げ出すような真似は、彼のプライドが許さなかった。
だが、従う他無い。
それも理解しているのだ。
ダンケンはそんな若い男のまっすぐな感情を見抜いていた。
「ユーゴ。お前らも覚えておけ」
ダンケンの前に並ぶ3人は精鋭隊第14部隊でも若い3人だ。
ダンケンはそんな彼らに知恵を与えるように説いた。
「訓練大会ってのは、王国が軍を動かしたいときに使う手段だ。軍を大規模に動かしても怪しまれないための、国民や外国をだます表の理由だ。裏の、本当の理由は……、それは王都に着いてからのお楽しみだ。これから忙しくなるぞ!」
ダンケンが明るくそう言った。
砦奪還よりも大きく意味のある作戦が始まるということを伝えて、3人を励ましたかったのだろう。
だが、まだ若い3人がそれで喜ぶ訳が無かった。
新たな不安と緊張が生まれただけだった。
ユーゴはその作戦のことが少しでも指令書に書かれていないかと思って、すぐに中身を読み始めた。
ケネスとシャモネも同じことを考えたのだろう。
ケネスはユーゴの隣から姿勢を変えずに視線だけを指令書に向けた。
シャモネはユーゴに頭を近づけて指令書を覗き込んだ。
ユーゴの視界には彼女の肩口まで伸びた髪の毛がすこし邪魔だったし、すでに話を聞いていたのではないのかとも思ったが、何も言わなかった。
書かれている内容は、ダンケンが言ったとおりのものだった。
訓練大会の開催についてのことのみだが。
本当の作戦と言うものも、やはりダンケンの言う通り後で知らされるのだろう。
とりあえず、ユーゴ達は指令を理解した。
その意図ではなく、兵士として自分たちが何をすればいいのかをだ。
それでも、わずかに残る疑問はあった。
「砦奪還作戦はどうなるのですか?この指令書の内容では、作戦を予定通り行うのは危険すぎます」
「分かってる。この基地の精鋭隊第2、第4、それと俺たち第14部隊が抜ければ、まともに戦える奴もいなくなるだろうな。だが、王都の奴らもそこまで馬鹿じゃない。抜かりなく代わりのチームを送ってきた」
チーム、王国軍にそう言った名前で区別される隊は無い。
そういった呼び方はどちらかと言うと、軍とは別のとある組織で使われるものだ。
ダンケンが言い終えると、彼はある男に顔を向けた。
先ほどから彼らをじっと舐めるように見てくるあの男だ。
「冒険者組合から来た……<サタナキアの旗下>だ」
ダンケンが短く紹介すると、3人は息を呑んだ。
この言葉と共に。
「黒星…………」
男は会釈のみで挨拶を済まして、3人に名乗り始めた。
「サタナキアの旗下、リーダーのカルカロ・ドーキです。王国からの秘密依頼で、今回は精鋭隊3隊の代わりを務めます。どうぞよろしく」
この時、ユーゴはまた別の視線を感じた。
背後から向けられる7つの視線。
振り返った先にいるのは、やはり兵士の恰好ではない者たちが7人。
つまり、精鋭隊3隊総勢95人の代わりに、たった8人の冒険者が送られてきたのだ。
ユーゴがそのことに怒りや恥を覚えることは無かった。
目の前の男が名乗った瞬間から放たれる圧倒的な自信と覇気は、彼の<父>が持つそれと同じだったからだ。
カルカロがユーゴに手を差し出してきた。
握手を求めたのだろう。だが、黒い分厚い手袋をつけたままである。
かと言って、礼儀などを口に出せる訳が無い。
一兵士と黒星冒険者チームのリーダーには、それほどの差があるのだ。
だがユーゴには理解出来なかった。
カルカロという男の目には、自分しか映っていないように感じたのだ。
ユーゴは握手に応えながら、こう聞いた。
「……なぜ自分に?」
カルカロは不思議そうに、だが笑みを浮かべて言い放った。
「冒険者は、意味のある事しかしないのだよ」
ユーゴをこれを聞いて乱暴に手を引き戻した。
「……隊長、出立は?」
まだ目の前にいるカルカロなど見えていないかのように、ユーゴはダンケンと話し始めた。
「あ、ああ。一つ目の太陽がてっぺんに来るまでに全隊出る予定だ」
「分かりました!では、支度します!」
そう言って、機敏な動きでクルッと後ろに回り、早足で去っていった。
続けて、シャモネやケネスもユーゴの行動に少し驚きながらも彼に続いていった。
「し、失礼します!」「します!」
2人はすぐユーゴに追いついたが、気まずそうに背中を追うだけだった。
だが、ケネスがその背中にぼそりと呟いた。
「七光りは繊細だな」
「うるさい!……あの人の息子ってだけで俺たちにあんな言い方、許せるか!?」
ユーゴの怒りをケネスは鼻で笑い、シャモネは困った様子だった。
「で、でも違いますよ。たぶん、あの黒星の人はユーゴさんの素質を見抜いたんですよ。将来の史上最強の<三極>に挨拶しただけですって」
異様に近い距離でそう言うシャモネから、一歩引きつつユーゴは呟いた。
「あれ程の英雄級の強者からすれば、今の俺はただの虫けらだ。気にする訳ない」
「あはは、はは。そうすると私は……石ころになっちゃいますよ。ね?」
シャモネに同意を求められたケネスはただ肩をすくめて何も言わなかった。
いつの間にか基地の端に来ていたユーゴは後ろで自分に話かける2人を無視して、一人地平線を見ていた。
ユーゴ。
本名はユーゴ・デルヴァンクール。
母には王国軍の魔法部隊のエリートを持ち、父には最強の戦士を持つ、カル王国の未来を担う若き英雄の卵だ。
そして、三極最強の男、ニコラ・デルヴァンクールの一人息子である。