双星(5)
この日、カル王国は一日中豪雨に見舞われた。
カル王国有数の大貴族、メロー公爵の邸宅でもバケツをひっくり返したような大雨が降っていた。
女性のような長髪のメローは雨の日を嫌っている。
自慢、という程ではないが、手入れを欠かさない自分の髪が湿気でうねり気になってしまうからだ。
そのため、部屋の窓は全て閉じ窓を覆うように厚い布をかけていた。
布は窓が割れた時のためだが、今日の雨には風はあまりなかった。
それは防音のためだ。
雨粒がガラス窓に当たる時折、くぐもった音が部屋に響いていた。
それ以外は静かなものだった。
異常なほどの静寂だ。
それもそうだ。
今、この邸宅にはメローしかいなかった。
公爵の邸宅にはこの程度の雨は問題なかったが、領地民には多少の被害を出していた。
そうして彼らのため、メローは町の備蓄食糧庫を避難場所として開放した。
この大雨で家がつぶれるかもしれぬ者、もとより家の無き者を受け入れるように指示を出したのだ。
その指示に従うのは普段邸宅に勤める使用人や護衛の領地兵だった。
さらには自らの妻にさえ、彼らを手伝うように指示したのだ。
彼女は快く引き受けていたが、出発する最後まで邸宅に残るメローの身を案じていた。
もしくは、気づいていたのかもしれない。メローが逃がすように彼女らを邸宅から離す行為の理由に。
ラキオン・クエル・メローは執務室の机に熱心に向かっていた。
一般人が使用するものとは違う高級な繊維製紙に何かを書いている。
それも、すでに書き終えたのであろう封のされた紙の束がその横に積み上げられている。
それでも、まだ足りないと言うかのようにカリカリと鉄の筆を動かしていた。
その隣には、湯気を立ち昇らせるカップが置かれている。
芳醇な紅茶の匂いだ。
晴れの日に風に吹かれながら嗜む爽やかなものとは違う。
雨の湿気よりも重く濃い紅茶の香りだ。
メローは手紙の端に署名して、書いた内容を確認すると同時にカップに手を伸ばした。
その時、何かに視線を奪われた。
それは、部屋の一番奥にある窓。それを覆う布の端だった。
布が揺れていたのだ。
すべてを固定している訳ではない、揺れることは絶対にないとは言えない。
だが、おかしなことだ。
今この部屋に風は吹いていない。
窓は完全に密閉されている。
なにより、確実にその布はついさっきまで揺れていなかったはずである。
メローは他の窓を順に見ていく。変化はない。
その間に揺れていた布も力なく垂れるのみとなった。
だが、メローは続けて部屋の扉を注視した。
開けられた様子は無い。ドアノブも回されていない。
もうこの時、机からみた景色はさっきと変わらないものとなっていた。
だが、メローは再び手紙に目を落とすことはなかった。
紅茶の匂いにかすかに他の匂いが混じっているからだ。
雨、土、草。泥に匂いだ。
メローは誰もいない部屋の奥を見つめながら、口を開いた。
「待ってい。今日は来ないかと思っていたところだ」
静寂。
だが、そこにある音が響いた。
ポタッと水が垂れる音だ。
それがすぐ背後から聞こえてきた。
「悪いな、お前は最後にやろうと思ってたから。遅れた」
聞き覚えのある声。
そして、予想のしていた声だ。
「かまないさ。だが、唄に歌われるような英雄がこんな風に人の家に押し入るとは感心できないな」
「無駄な話はするな。……家に誰もいない。俺がここに何をしに来たのかは知ってるんだろ」
ポタッ、ポタッと水の滴る音が止まない。
背後を振り返らなくても、そこに立つ者が雨に濡れていることが分かった。
「…………うむ。情報というのは、君の足よりも速いということだな」
「そうか」
「聞かせてほしい。……なぜ、依頼人を殺してまわる?首を持っていく?昨日はすでに亡くなった者の墓さえも暴いたな?なぜだ?なぜ、君だけが戻ってきた?」
「フッ、墓だと?無記名の墓石の下に埋められた体の持ち主を知っているのは、お前が埋めたからか?てめえのせいでどれだけ時間を失ったか分かるか?」
「ああそう、彼らのことだな。……すべては王国のためだ」
「大きく出たな。ならただ妹のためってのは、お前にはくだらないことなんだろうな」
メローの視界がかすむ。
だがまだだ。
まだ平静を装う必要がある。
「……森の巨人にそこまでの力が?何があそこにいた?」
「質問ばかりだな。時間稼ぎのつもりか?その紅茶の揮発性の毒は俺には効かないぞ」
「……残念だ」
「解毒が効かないほどの毒だな?アイテムを使っても消せないだろうに。心中するつもりだったか。俺はそこまで嫌わていたか?」
「……言ったはずだ、すべては……王国のため」
「…………楽にしてやる」
それ以上、メローは喋らなかった。
背後の人物も同じだった。
静かな部屋には、鞘から剣を引き抜くような鉄の滑る音が鳴った。
そして風切り音とともに、重い何かがゴトリと机に落ちた。
鼻を突く紅茶の匂いと、血の匂いが混じる。
机に落ちたそれへ手を伸ばすのは、褐色の肌のダークエルフ。
濡れた髪は頬や額に張り付き、服は体のラインを浮かび上がらせるように肌にピタリと付く。
そんな彼女ミレ・ダイヤメッキが、メローの頭部を持ち上げた。
ミレは持ち上げた時に付着したメローの血に違和感を覚えた。
「この毒草の紅茶を飲んだのか?血も毒にやられてる……、首が落とされるのを承知で、刺し違えるつもりだったか」
おそらくは体内に入れたことで毒の効果も強くなっていた。
それが直接肌に触れることで、ミレにも影響があった。
少し、ほんの少しだけ、肌がピリついた。
「カル王国、戦士の国か…………。1000年が経っても、これほどの男がいるとは。メロー……、貴族と馬鹿にして悪かったな」
ミレはこれほどの覚悟を持った貴族に会うのは2度目だった。
そうであるならば、出来ることならば、と願わずにはいられなかった。
「あのフィセラに一矢報いてくれよ。カル王国。んん…………、やっぱ無理だな」
フィセラと約束を交わしたあの日から4日が経とうする時。
23人の権力者がカル王国から消えた。
正確には、その頭部だけがどこかへ消えた。
そして、その行方を知る元英雄も雨の夜へ消えていく。
妹マルナのもとへ、魔王フィセラのもとへ戻るために、彼女は風よりも速く駆けていった。
3章本編はここで終わりとなります。
次話から、エピローグが3話ほど続きます。