湖の怪(4)
フィセラは額に手をかざして遠くを眺める。
「おお!いいなぁ〜、あれ」
彼女は湖面を高速で走るエルフを見ながらそう呟いた。
――やろうと思えば出来るけど、いちいちアイテム使わなくちゃだからな〜。めんどい。この子は出来るかな?
フィセラはタラムに目を向ける。
彼女の先ほどのシーサーペントに放った魔法によるデバフ効果は見事であった。
ならば、水上歩行の支援魔法を持っているのではないか、と期待したのだ。
実際、アンフルの<水上歩行>はステージ攻略やエリア踏破に必要不可欠な、プレイヤーに必須の魔法スキルである。
魔術系統のジョブを納めれば、簡単に魔法を取得できたし、戦士系統のジョブのためにスキルもあった。
それに、使い捨てではない<水上歩行>効果のあるアイテムも存在する。
フィセラが持っているのはこれだ。
この世界にも同じものがあれば良いな、という程度の思いを込めてタラムに視線を送った。
タラムは見事にその意図を汲み取り、魔法を唱える。
「<水上歩行>!」
タラムはそれと併せて、無詠唱で発動させた様々なバフも加えておく。
そして、掲げられた杖が魔法の数と同じ5色の光を順に発した。
その光がフィセラ、タラム、シオンを照らす。
「おお!なんか来たぁー!」
――バフが体に浸透していくのが分かる。全然気持ち悪く無い、むしろちょっと気持ちいい!
初めて「生身」の体に支援魔法を付与され、その感覚に驚いてしまった。
だが、いきなりテンションを上げてしまったことに、フィセラは少し顔を赤らめて恥じる。
支援魔法を気持ちいいと思ってしまったのも、少し恥ずかしい。
すぐに気を取り直すために、パンパンと頬を軽く叩く。
「さあ!ミレたちに遅れを取らないようにしなくちゃね!」
『はい!』
2人から元気な返事をもらって、フィセラは一番先頭で湖に足をつく。
沈まない。
濡れない。
水面に足の裏がしっかりと着く。
地面よりも柔らかい感触だが、自分の足で立っている感覚はある。
少し力を込めても、沈まずに反発して戻された。
「よし、これなら動けるわね」
魔法の効果を確認するフィセラの後ろでは、彼女の真似をする2人がいた。
だが、今はそちらよりもダークエルフの2人の方が気になる。
ミレとマルナは風を切るような速度で湖の上を走っていた。
よく見ると、彼女らの足元を黒い長い影がある。
水面下のシーサーペントを追っているのか、追わせているのか。
それは分からないが、まだ本格的に戦闘を始めている雰囲気ではなかった。
2人を目で追いながらつぶやく。
「あの人たち、なに遊んでるの?様子見なんてするレベルじゃないでしょ」
そこまで言って、フィセラは口を急いで閉じた。
――そう言えば、こっちの人間はレベルを見ないんだったわね。
立ち止まったフィセラに、タラムたちが追いついた。
「セラ様。どういたしますか?」
「一瞬で終わらせてやりましょう!」
全く違う態度でフィセラに話しかける2人。
――すぐ殺したらつまらないでしょ!?今は……。
フィセラはシオンを無視してタラムに向き直る。
「タラムはとりあえず、援護をよろしくね。遠距離魔法は使える?」
タラムが申し訳なさそうに首を振る。
「うーん……。じゃ、シオンはタラムからあまり離れないで。タラムはシオンの支援。二人で頑張ってね!」
「はい!」「……はい」
タラムが歯切れの悪い返事をする。
1人でフィセラを行かせてもいいのか、それとも主の命令に従うべきか、葛藤の末の決断を下したのだろう。
2人の見送りを背中に感じながら、フィセラは水面を強く蹴った。
ノーモーションでの最高速である。
だがそれを行ったことで、大きな振動が波紋となり湖に広がってしまった。
シーサーペントがその振動を感じ取る。
新たな敵の出現に気づいたのだ。
ビクンッと体が跳ねて、進行方向をフィセラに向ける。
頭の真上を走り続ける2人の人間は無視だ。
2つの影を捉えることは出来るが、気配を感じ取ることが出来ないのだ。
そんな不気味な敵を後回しにして、振動も気配もはっきりしているフィセラを最初の獲物とする。
「うわ!こっち来た!」
ちょうど互いに向き合う形で近づく形になる。
それによって、両者の距離が瞬間的に狭まった。
好都合と考えたフィセラが足を止め、迎え撃つ姿勢をとるが、シーサーペントは直前で向きを変える。
一定の距離を保ちながら、円を描くようにフィセラの周りを回り始めた。
1周。
2周。
3周。
回れば回るだけ、シーサーペントの残す胴体が増えていく。
跳ね回る体は水上にも飛び出して、フィセラを包囲する。
さながら、湖の上の檻である。
その檻がさらに厚くなろうと言う時でも、フィセラは余裕を見せていた。
「そういうのいいから……、かかってこいよ」
言葉を理解したのではない。
シーサーペントは放たれた殺気に呼応して飛び上がった。
正確には、頭を出しただけ。だが、水面から真っ直ぐに空へ向かう姿を見ると、飛んだと表現したくなる。
頭が水上50メートルを超えたところで、静止した。
真上に打ち上げたボールのように止まり、そして落ちる。
ただ落ちるのではない。
シーサーペントの体のほとんどは未だ水中。
ならば、それを固定台として伸ばした首を引き戻せばいいだけなのだ。
自然落下の速度をはるかに超えた顎が上空から迫る。
前後左右はシーサーペントの胴体が壁を作り、逃げ場を無くしていた。
そんな敵の戦い方を見て、フィセラはただ感心していた。
「頭いいなー。体が大きいから脳みそも大きいのかな?面白いなー。…………まぁどうとでも出来るんだけど」
実際、フィセラの取れる選択肢はいくらでもあった。
周りを囲むシーサーペントの体を飛び越える。おそらく、シーサーペントが飛び上がった50メートルよりも高く飛んで避けることが出来るだろう。
周りの壁の隙間を抜ける。それも容易である。
無理に突破する。吹き飛ぶのは敵の方だろう。
それでも、フィセラは受けて立つ。
正面から迎え撃つのだ。
腰に差した剣へ手を伸ばす。
「とりあえず……、1回首を落とすか。再生ぐらいできるでしょ」
刹那、シーサーペントの頭にめがけて斬撃が飛んでいく。ことはなかった。
そればかりか、フィセラは未だ剣を抜かいていない。
もっと言うなら、剣に触れてもいない。
なぜなら、無かったから。
「あれ、私の剣どこいった?」
サワサワと腰回りを確認するが、ベルト以外に何かがある感触はない。
「なんで?私丸腰?」
――そう言えば剣をポーチから出した記憶がない。カル王国に来てから触った覚えも無い。
「……あちゃー」
間抜けな顔で、自分の間抜けさを理解した。
そんな中でも、今尚シーサーペントは高速で落ちて来ている。
フィセラがポーチを開けてアイテムを取り出すには、少し時間が足りない。
ポーチ使用の<高速化>スキルを持っていれば別だったが、それは取得していない。
頼れるのはここにあるものだけ。
――ぶん殴るか。
固き拳である。
その拳を握りながら、周りを確認してみる。
シーサーペントが作る檻は壁のようだが、完全ではない。
隙間からタラム達を見ることは出来た。
タラムとシオン、ミレとマルナ。
全員がフィセラを見守っている。
助けを求めたくて見まわした訳ではないが、手ぶらでモンスターと対峙する姿に疑問を持たないのか、と少しイラつく。
――タラム達はさておき……、なんでお前らそこにいるの!
フィセラの怒りの矛先はミレとマルナに向いていた。
――さっきまでこいつと追いかけっこしてたでしょ!?いつの間に後方待機してんの!?
そうこう考えている内にシーサーペントはすぐそこまで迫って来ている。
その時になって、フィセラはある事に気づいた。
ある物が視界に入ったのだ。
「あ、歯に剣が挟まってる」
まだ、剣が引っ掛かっていたのだ。
フィセラはその光景を見て、ニッと笑みを浮かべた。
「ちょっと借りるね」
シーサーペントが自分の胴体を巧みに使って作った壁。その中に閉じ込めたフィセラへ向かって、上空から迫る攻撃。
それに対して、彼女は構えることもなく、ただ手を伸ばした。
その瞬間だけを切り抜けば、少しだけ神秘的な映像となったことだろう。それが超高速の中で行われていなければだが。
フィセラが手を伸ばした一瞬の後。
ドーンッという爆音を上げてシーサーペントが着水した。
これほどの巨体と速度なら起こり得ることだ。
それでも、驚くほどの迫力と水飛沫の激しさである。
跳ね上がった水飛沫が降ってくると、瞬間的に皆んなの視界を奪った。
水のベールが降りてきたのだ。
タラムとシオンはその中にある影を探そうと目を凝らしている。
「セラ様……、今避けてました?」
「多分。……自分から近づいて行ったようにも見えたが」
「どっち!?」
「分かんない!よく見えなかったんだよ!」
タラムはシーサーペントのレベルを把握している。この程度のモンスターなら、フィセラを害することは無いと分かっていた。
だとしても、視界を遮られ主人の姿を見失ってしまうとつい焦りを感じてしまう。
そんな2人とは対照的に、こちらの2人は落ち着いていた。
まるでスポーツ観戦の雰囲気である。
「今のがフィセラって奴だよな?あいつはモンク、いや格闘家か?初めて見た時は剣士だと思ったんだけどな……体付きが剣士のそれだったんだが」
「違うと思いますよ。武器を持たずにモンスターと向かい合っていましたし。やはり、無手の技術を学んでいるのでは?」
「だよな………………、ん?」
水のベールが開け始め、薄い霧に変わろうする瞬間。
ミレは水の下で横から抜ける影を捉えていた。
一瞬、あの女かと思ったが、その影の大きさと長さは明らかにシーサーペントの方だった。
その影を目で追うと、さっきまでの影と形が違うことが分かった。
薄らと跡を残すように、赤い線がシーサーペントの頭から出ていたのだ。
「殴ったんじゃあれは無理だな」
出血。それも切り傷からのものである。
そして霧がほぼ無くなり、その中にいた者の姿を表した。
何でもないかのように立つフィセラ。
水飛沫が上がる前と大きな動きは無い。
ただひとつ、右手に持つ剣だけがほんの少しの違いであった。
「やっぱ剣士じゃん!」
ミレはフィセラを指差して、そう叫んだ。
「え?何?」
共闘しているはず(今のところ、そんな感じは無いが)の仲間に叫ばれて動揺するフィセラだった。