森が騒ぐ時、彼の声が聴こえる
「ホダカ、行くよ!」
あねさまの声がして、ホダカははっと我に返った。今の今まで見ていた小屋から目を逸らし、ざるを手にとって駈け出す。
「あねさま、ごめん」
「ちゃんとどんぐりを拾わなくっちゃ。そろそろ涼しくなるよ」
あねさまは咎めるような目でホダカを見、ホダカはちょっと顔を伏せる。前の春が来ていれたばかりの、目尻と口のまわりのいれずみが、ふっとゆがんだ。
あねさまはそれに気付いたのだろう、頭のてっぺんでまとめたホダカの髪に絡んだかづらへ、軽く触れた。
「ホダカは、昨日、芋を沢山見付けたもんね。ごめんね」
「ううん……」
ホダカは頭を振る。たしかに昨日、あねさま達と一緒に行った森で、たまたま、芋を沢山見付けた。二・三日は、汁にしたほくほくの芋で、集落のみんなが腹を充たせる。
だがホダカは、それが自分の手柄だとは思っていない。どんぐりを拾うついでになにかくわせてやろうと、集落で飼っている猪も一緒につれていって、ホダカはその子にひっぱられて行った先で芋を見付けたからだ。
あねさまもそのことは知っているが、ホダカひとりの手柄にしてくれた。今も優しく、ぽんぽんとホダカの肩を叩く。あねさまは最近、額に綺麗な黒のいれずみをいれていた。目尻の赤が少しくすんでいるが、それはホダカよりも幾らか年長だからだ。
「ホダカ、あんたも立派な女になったんだよ」
「……うん」
「猪が芋のところまでつれていってくれたんなら、それもあんたの力のうち。ね」
ホダカは唸るだけだ。たしかに、去年の冬が来る前に、ホダカは歯を一本ぬいた。痛かったけれど、それを見せないように我慢した。大人達はホダカをねぎらって上等な酒をくれたし、その酒を世話していたホダカの妹や妹分達も、ホダカを尊敬の目で見ていた。
あねさまが笑顔を見せた。歯は二本ない。ホダカも次の春にもう一本ぬくことになっている。その時期が来たら、山向こうの集落とのまつりがあるから、ホダカと、ホダカと同い年のハネは、そちらの誰かと結婚することになっていた。かわりに山向こうの集落から、女がふたりと男がひとり、こちらへやってくる。キリサのととさま達がそう決めた。
でもホダカは、そのことにまだ、得心はいっていない。自分が母のように子どもを産んで、その子を育てるというのが、どうにも想像できない。
どんぐりは森に沢山落ちていた。ホダカ達よりも先に来ていた女達が、せっせと拾ってはざるへうつしている。
ホダカは三度前の秋から、時期になると毎日、こうやってどんぐりを拾っている。その前は今の妹分達のように、年寄り達が仕込んだ酒の世話をしたり、猪や犬に餌をやったり、焚きつけにする枝や飾りの為の石や羽を拾ったり、集落からあまりはなれないですむ仕事をしていた。
「遅いよ」
「ごめん」
あねさまが謝り、ホダカもそうした。そこに居る女達の大概はあねさまで、ホダカは全員の名前をきちんと覚えていない。今度、川沿いの集落へ嫁いでいくあねさまと、山の中腹の集落へ嫁いでいくあねさまは、名前を知っている。あとは、誰かと添っているあねさまか、誰かのかかさまだ。その半分くらいは、別の集落から来た。
ホダカにいろいろと教えてくれるあねさまは、二度前の雨の時期に、川沿いの集落へ嫁ぐ話があった。でも相手の男が猪に突き殺されてしまって、あねさまと添う約束をしたからだということになった。だからあねさまは、これからも誰にも嫁ぐことはない。
どんぐりは、しっかりと身が詰まっていて、虫に食われていないものを選ばないといけない。
ぱっと見て、大きくて身がぎっしり詰まっていそうでも、よく見ると笠と実の間にほんの小さな穴があいているものがある。そういうのには、虫がはいっているのだ。小さい穴からはいって、なかでたっぷりおいしいものを食べて大きくなった虫だ。
そういうものは勿論、身がないから食べられないし、倉へいれてしまうとそこから虫が出てきて、別のどんぐりをくってしまう。だから、餞別は大事なのだった。
ホダカはけれど、それの区別はまだしっかりつけられなかった。あねさま達は、掴んだだけでわかるようで、つまみ上げてもざるにいれずにぽいと放り捨てるものが幾らかにひとつある。ホダカもだけれど、ホダカ同様最近どんぐり拾いを沢山やるようになった娘達は、皆、苦戦している。
「あねさま」
「うん?」
「どうやったら、虫喰いかそうじゃないか、簡単にわかるの」
あねさまは謎めかして微笑んだ。「そりゃね、ホダカ、自分でなんとかするものだよ。男のこととおんなじで、ひとに訊いたってどうにもならない」
ホダカはちょっと赤くなって、黙りこんだ。傍に居たあねさま達がほほほっと笑い声をたてる。
まつりがあれば、男と女が手をとりあってどこかへ行くことはある。ホダカもその意味は知っていたし、あねさま達も経験がある。そのあとにどちらかの集落へ行って、一緒に暮らし、子どもをつくることも、沢山あった。
ただホダカは、まつりで男とそういうことになったことはない。だからキリサのととさま達が、まつりへ行っても男と親しくしないホダカとハネに、山向こうの集落との話をまとめてくれたのだ。
あねさま達のからかいは、ホダカにはとてもはずかしいことに思えた。
なんとかざるいっぱいにどんぐりを集め、ホダカは集落へ戻っていた。ウムイのばあさまにざるを渡す。「ホダカ、随分集めたねえ」
「うん。あねさまが一緒だったから」
「そうか。三日後からは、お前達だけで行くんだよ」
「うん」
ホダカは頷く。三日後からは、あねさま達は山へ這入ってあけびとまつたけとりだ。今の時期、まつたけは食べ飽きる程だが、くいものだからあって悪いことはない。芋と一緒に煮込んで、海の傍の集落からもらった塩を加えたら、食べられないこともなかった。
あにさま達も一緒に行くが、彼らは魚を捕るのが目的である。運がよければ、誰かが雉でも見付けてくれるだろうし、もしかしたらおおきな天のめぐみがあって、しいたけを食べられる幸運があるかもしれない。かりにしいたけが見付かったとしても。ホダカのような年若い娘が口にすることはありえないが。
山に這入るには、そちらの集落のゆるしがいるし、一度行ったらしばらくは戻ってこない。その間、この集落がけものに襲われないように、男達は今から、残していく犬へ厳重にいいつけている。
ホダカはそれを横目に見ながら、集落の、川へ近いほうへ歩いていく。「かかさま、来たよ」
まるく、石で囲まれた空間へ膝をついて、ホダカは微笑んだ。
「かかさま、ホダカ、次の春に山向こうへ行くんだ。かかさまの耳飾りを持ってくからね」
ホダカの母は、そこへ埋葬されている。ほかにも沢山のひとが、死ぬとそこへ埋められる。
ホダカは土を軽く撫で、立ち上がった。かかさまの形見のひとつ、綺麗な緑の石でできた耳飾りを、ホダカは冬になったらもらうことになっている。
そろそろ火をたいて、なにかを食べる時間だ。ホダカは集落の中心へ戻ろうとして、目の端に幼馴染みをみとめた。子どもの頃に海の傍の集落から越してきた子だ。
ホダカはちょっと迷って、幼馴染みを追いかける。幼馴染みは、森へ向かっているらしかった。
ホダカはその子を、前から気にしていた。今日も、彼が仕事にいそしんでいる小屋を見て、煙が上がっているので安堵した。
海の傍から来たので、彼はこの集落の人間とはいれずみや飾りが少し違う。腕や脚に、魚の鱗の模様を彫っていた。今は目尻に赤をいれて、集落の人間らしくなっているが。
悪い子ではないのだが、少々のろまで、言葉がぎこちない。年寄りのように目がよく見えないので、男達は彼を扱いかね、器をつくる為の土を集める仕事を任せていた。間違っても、狩りにはつれていけない。
今では、日がな一日器をつくっている。本当ならホダカと同じに歯をぬいている筈なのだが、していない。嫁をとる気がないらしいと、もっぱら噂である。
「イソ」
呼びかけると、夕暮れのなかで彼は振り向いた。秋になると、日が短い。目がよく見えないイソがこの時間、森へ向かうのは、ホダカには危険に思える。
イソは目がよく見えないのだが、背格好や身につけているもの、いれずみで区別をつけているのだろう。ホダカか、と云う。どうも、ホダカが手首に施している、青いいれずみを見たらしい。
「何してるの?」
おおかた、器をつくる為の土をとるか、器を焼く為の枝をとりに行くのだろう、と思っていたのだが、イソは意外なことを口に出す。
「どんぐりをひろう」
「え? どうして? ホダカ達が拾ったよ」
イソは首を左右に曲げ、答えない。ホダカを置いて、森へと這入る。
ホダカはちょっと、むっとして、それを追った。
「ねえ、今日の分はもう戴いたの。食べたいなら、ホダカがなにかつくってあげる。ウムイのばあさま達か、ヒメさまに、食べられるのを幾らかわけてもらうから」
「食べようと思ってるのじゃないよ」
イソは女のような澄んだ声で云い、しゃがみこんだ。森のなかはもう、うすぐらく、あちこちからけものの気配がする。猪達も、どんぐりは好物だから、ここへ食べに来ているかもしれない。
猪の鼻息が聴こえた気がして、ホダカはとびあがった。実際はそれは単なる風だったのだが、ホダカは目に涙をうかべてイソの服をひっぱる。「イソ、帰ろう」
「ようがあるから」
「よう?」
イソはどんぐりを本当に少しだけひろい、左手のなかへ隠すように持って、ホダカを見た。「ホダカ、口を閉じていられる?」
ホダカは戸惑い、けれど頷く。
イソはくらい森を、平気で歩いていった。目の悪いイソがひょいひょいと足を運んで、なんだって見える自分がつまずき、何度も転んでいることに、ホダカは納得がいかなかった。イソはいつもこんなふうにしか見えないから、くらくなったら好きに動けるのだろうか、と思う。
イソが立ち停まった。ホダカもそうする。「イソ?」
せせらぎが聴こえてきた。随分、川に近付いている。
そこはホダカが今まで来たことのない場所だった。それだけははっきりしている。木が減っているから、火を焚く為に木を切ったのだろう。
イソはとびはねるように歩いていって、ホダカを手招いたらしい。ホダカは星明かりでそれを見ている。
そちらへ行くと、イソはしゃがみこんだ。「どうしたの」
「これを、うめるんだよ」
うめる、とホダカは、口のなかで云う。
イソは体の大きさの割に、大きく、ごつごつとした手で土を掘り返す。イソの手は白っぽく、土は黒いので、その対比でやっていることはホダカにも少しは見えた。
イソは、どんぐりをひとつかみ分、そこへいれ、土をかぶせる。ホダカは彼の顔を見た。
「わるくなってしまうんじゃないの」
「ううん。これから何度も秋が来て、大人がみんなが死ぬくらいになったら、これはまたおおきな木になって実をつける」
イソは急に、しっかりとした声で云う。ホダカはちょっとどぎまぎして、彼と、彼の手許とを見た。
「ちゃんとした木になるの?」
「そう」
「どうやって?」
「まだ実がならない、若い木がある。あれみたいになるんだ。それがどんどん大きくなる」
ホダカはじっと、考えた。たしかに、ひょろっとした枝みたいな木は、たまにある。でも、あんな小さな実が、どうやって、子どもが何人ものぼれるような、おおきな木になるというのだろう。
理屈として、知ってはいる。そうでなければ、森はとうの昔になくなっているだろう。けれど、どのどんぐりが木になるかは、わかるものなのだろうか。あねさま達が、虫喰いをわかるように、イソには木になるどんぐりがわかるんだろうか。
考えてもなにも理解できないけれど、ホダカはイソの言葉を信じてみる気になった。それが真実ならいいと思った。
「イソ、ホダカにもなにかできる?」
イソはそれを予測していなかったのだろう。くらがりに、驚いたような彼の目が見えて、ホダカはちょっとだけ満足した。
翌日から、どんぐり拾いの時、ホダカは懐にひとつかみのどんぐりを隠すようになった。集落へ戻ると、イソと一緒にこっそり森へ向かい、木が生えていない場所にどんぐりを埋める。帰りがけになにか食べられるものや、土などを持って帰っていたので、ふたりは働き者だと思われるだけだった。
涼しい冬がすぎて、ホダカは山向こうへ行くことになった。
イソのことは気にかかっていたし、イソがなにか云ってくれないかとホダカは思っていたが、彼はなにも云ってくれない。
ホダカは自分でつくった飾りを髪に挿し、かかさまの形見の耳飾りを妹につけてもらって、ハネと一緒に山向こうへと出発した。
ホダカはのんびりした男と添うた。のんびりしているが、真面目で気がいい。ホダカは夫に不満はなかった。
子どもは十人できたが、七人死んだ。山向こうでは、死んだ人間は集落から少しはなれたところへ埋める。夫とそれをしていると、ホダカはたまに、どんぐりを埋めて満足そうにしていたイソを思い出すのだった。イソには添う相手ができたろうか。それとも誰とも添わず、今もどんぐりを埋めているのだろうか。ホダカが小さい頃死んでしまったじいさまのように、足がきかなくなって、子ども達の面倒を見ているかもしれない。
ハネが子どもをうむのに失敗して、死に、ホダカはハネを埋葬する手伝いをした。ホダカはいれずみを増やし、娘に飾りを幾つもあげていた。今ではホダカと呼ばれることもない。オオヤツのかかさまだ。
もうそろそろ、人生も仕舞だ。夫は狩りの途中、鹿に驚いて川へ落ち、死んでしまった。
ホダカはもう、ろくに見ないでも、持っただけでどんぐりの善し悪しがわかった。娘がひとり、海の近くの集落へと嫁いでいって、ホダカは思い立ち、自分が生まれた集落へ向かった。緑の石の耳飾りは、下の娘へやった。
集落には知らない顔が沢山あった。ひとが増え、家も増えたみたいだ。赤く染めた服を着た娘達が、酒甕を運んでいた。子ども達が走りまわっている。狩りでもあるのか、男達の姿は少なかった。
鹿の毛皮の肩掛けを脱いだホダカは、年齢様々な女達に、丁重に迎えられた。「オオヤツのかかさま、よう来てくれた」
「あねさま」
あねさまはまだ生きていた。ホダカはそれが嬉しくて、目が潤む。集落のことを話して笑い合っていたハネが死んで以来、ホダカは集落のことを誰にも喋らなかった。喋れなかった。
あねさまは髪がほとんど白になっていたが、目は幼い娘のように澄んでいて、血色もいい。ホダカが持ってきた山向こうの弓ふたつを喜んでくれた。若い男達は狩りに行ったのではなく、海の傍の集落とものを交換しに行ったらしい。
ホダカはあねさまから、いろんな話を聴いた。彼女は今では、集落の娘達に仕事を教えているという。誰かと添うことはなかったけれど、みんなが子どものようなものだと笑っていた。
驚いたのは、イソがこっそりやっていたどんぐりを埋めるあれが、今では集落の子ども達の遊びのようになっていることだった。
余裕のある時だけだが、子ども達はどんぐりを握りしめて森へ向かい、木が生えていないところへそれを埋めている。イソがそれをしていたから、この集落は焚きつけに困らず、どんぐりもこのところは沢山とれる秋ばかりだそうだ。それに、しいたけが見付かることも増えた。川沿いの集落もそのまねをしているという。ホダカも娘に教えてはいたが、山向こうでは大々的にやってはいない。
あねさまが優しい表情をした。
「オオヤツのかかさま、イソに会いに来たんだろう」
「どうして?」
あねさまは頭を振る。
ホダカはあねさまに別れを告げ、川のほうへ向けて歩いていく。
イソは死ぬ時も、どんぐりを持っていたらしい。ホダカのかかさまも眠っている、そしてホダカのととさまも眠っているそこには、頼りない若木があった。
ホダカはそこへ座る。地面は少しだけつめたい。
「イソ、やりたいことはやった?」
返事はないけれど、ホダカはイソが、やりたくないことはやらない、と云ってくれたような気がして、微笑んだ。
まだ大人になってすぐの頃、イソと一緒にどんぐりを埋めた森を見る。若葉が生い茂っている。あれは、イソが丹精していたものだろうか。
ホダカは白が目立つようになった髪へ触れる。「ホダカは、イソと添いたかったよ」
誰に聴かれることもない言葉だ。死んだ夫も、ゆるしてくれるだろう。ホダカは夫の子どもを沢山うんだ。妻として、精一杯頑張った。
ホダカは目を瞑る。
風が拭いて、さやさやと木の葉を揺らした。これも、イソの埋めたどんぐりだろうか。
「イソ」
ホダカは目を開けて、地面をじっと見た。土を撫でる。イソにこうすることはなかったし、イソがこうしてくれることもなかったけれど、自分達は一緒に森を育てた。
「イソが埋めたどんぐりは、あの森は、集落のみんながずっとまもっていく。心を静かにして」
息を整えて、ホダカは頷いた。あの森は、イソがみんなに心を伝えるものだったんだ、と思った。
集落をまもっていく為に、食糧を与え、燃料になる森をつくった。それだけではなく、木を切ったらそこへあたらしい木を植えることを教えてくれた。そうすることで、森が目減りしないと教えてくれた。それが集落の存続に、どれだけ役に立つだろう。
イソは集落に、そして次の世代に、気持ちをこめた手紙を残したのだ。毎日世話をし、丹精した、森という形で。