ケアニンの仕事と本音と虐待
ふるさとの事務所に電話がなった。その場にいた関口統括が電話にでた。
「私、松本と言いますが関口統括はいらっしゃいますか?」
「関口は私ですが…松本さん?」
関口統括に心当たりはなかった。
「あ、昨日取材させて頂いた近畿テレビの松本です」
関口統括はすぐに思い出した。
「ああ、さっきうちの足立が取材は応じないと言ったはずですが…特に近畿テレビさんはあまり良い印象ではないので受けかねますが…」
「違うんです。私、この件からインタビュアーを降ろされたのです。昨日、関口さんの言葉が気になってうちのミキサー室で音声データを調べてみたんです。するとおっしゃられている通りに改ざんされている思われる個所があったんです。それをディレクターに伝えると急に怒り出してリポーター首になったんです。それで何か裏があると感じて個人的に協力出来ないかと思って連絡したんです」
「ちょっと、待って。データが改ざんできると説明できるんですか?」
「音声さんに頼めばデータにできると思います」
「それに明日までにできますか。明日、監査が入ることになっていて音声が改ざんしてあるデータがあれば助かります」
「やって見ます」
「ディレクターが関わっているとなるとそれも有力な情報になりますね」
「そっちははっきりわかりませんがしっぽは掴むつもりです。私、いちレポーターで終わりたくないんです。今回失敗したら干されるんで…てか、干されかけてますけど…だから、この件にかけているんです」
「明日、うまくいけばこちらも協力させてもらいます」
関口統括と松本レポーターは戦線協定を結んだ。
愛美が園長に呼ばれたのは昼過ぎだった。園児は給食を食べてお昼寝の時間である。
「どういう事ですか。兄と私は全く関係ありません」
「愛美先生、それはよくわかってます。しかし、父兄の中には自分の子供も同じ目に遭ってないかって噂になっているのよ。ほんの1週間ほどで噂もなくなると思うからその間だけでも休んで頂きたいのよ」
保育園でも噂になっていたことは知っていた。園児たちを送って来ていたママさんたちが話をしていても愛美の姿が見えるとよそよそしくなったり、話題をすり替えたりしていた。他の先生に苦情を言っているママさんもいた。そんな中、平常心を保つのは厳しかったが今日一日耐えれば何とかなると思って過ごしてきた。
「こんなことであなたを失いたくないの。わかってくれる」
愛美は園児たちが目を覚ます前に退勤した。
「今からどっしようかな」
愛美は気持ちを切り替えてまだ、約束の時間には早すぎるがスーパーで買い物を済ませて和馬が今は1人暮らししているマンションに向かった。結婚後に2人で住むために購入したマンションで勿論、愛美も合鍵を持っている。愛美は買ってきた材料を袋から取り出してカレーとサラダを作り始めた。普段は知子任せで殆ど料理はしないがそんなことは言っていられない。不慣れな手つきではあるが何とかカレーっぽくはなってきた。カレーを煮詰めている間にサラダを作っている時に玄関のドアが開く音がした。
「ん」
まだ和馬が帰って来る時間ではない。入って来た女性を見て驚いた。
「えっ…お母さん」
入ってきたのは和馬の母親だった。その時点で愛美は嫌な予感しかしなかった。
「私、今日は和馬さんと約束があって…」
「聞いているわよ。話があるって言ってたでしょ。私も立ち会うから
「立ち会うって」
儀母は無視してキッチンに入って行った。手にはスーパーの袋を抱えている。火をかけている鍋の中を覗き込んだ。
「カレー作っているの」
お玉で一掬いして小皿に取って味見した。
「しょっぱい…大丈夫よ。今日は和馬の好きなハンバーグを作るから」
そう言ってかけていた鍋をコンロから外した。愛美はぐっと堪えた。
「それならうち、いえ、私も手伝います。お母さんの味も覚えたいし」
「んー、けっこうよ。必要ないから。和馬が帰ってくるまでテレビでも見てたら」
今日はいつもより確実に言葉の節々にトゲがある。言葉通りにゆっくりとリビングでテレビを見られることもなく、どうしようかと迷っていると洗面所の洗濯籠に洗濯物が溜まっているのを見つけた。普段は小言をたらたらと言いながら片づけていたが今日は大変ありがたく感謝した。とはいえ洗濯は洗濯機に洗濯物を放り込み洗剤を入れてボタンを押せば下手をすれば乾燥まで終わってしまう。仕方なく洗濯が終わるのを待つ振りをしてテレビをつけてリビングに座った。しかし、ツイていない時はとことんツイてなくテレビではちょうど、望の事件を取り扱っていた。愛美は慌ててテレビのスイッチを消した。が和馬の母は聞き逃さなかった。殆ど愛美の存在を無視していたがここぞとばかりに愛美に話しかけて来た。
「お兄さんがこんなことになってあなたも災難ね」
笑うしかなかった。どちらかというと今の方が愛美に取っては災難である。ハンバーグを焼き始めていい匂いが部屋に充満した頃に玄関のドアが開いて和馬が帰ってきた。今日ほど和馬が帰って来て嬉しかったことはない。
「あ、もう来てたんや」
「うん、色々あって早退してん」
「そうなんや。なんや、カレーとハンバーグの匂いがすごいな」
和馬は母親がいるキッチンに向かって行った。
「おかえり。もう少しで焼けるから先に話を済ましたら」
「わかった」
和馬はスーツを脱いでカバンをソファに置いてネクタイを緩めながらソファに座った。
「ごめん、座ってくれる」
言われるままに愛美もソファに座った。
「何なん…」
「明日、お兄さんの施設に監査が入るんや。その監査に僕も同行することになったんや」
「え?そんなんや」
そこで少し間が空いたが母親がしゃしゃり出て来た。
「この子、わかってないみたいやからはっきり言うたら。婚約解消してくれって」
「はぁ、なんでそんなんの。関係ないやん」
やや切れ気味で愛美が言うと母親が更に追い打ちをかける。
「本当に鈍い子やわ。対象が婚約者の身内とわかったらこの子の仕事に影響がでるのわからへんかな。折角、安定した仕事に就いているのにこんなことで辞めることになったらどうする気なん」
こっちに非があるとはいえあまりにも身勝手な理由に腹立つよりも呆れてしまった。
「和馬は本当にでええの」
和馬は俯いたまま何も答えなかった。
「もう、ええわ。最低」
愛美は置いていたカバンを手に取って部屋を出て行こうとした。キッチンテーブルにハンバーグが2皿置いてあるのを見て急に怒りが込みあげて来た。
「あー、腹立っ」
と愛美は叫んでテーブルをひっくり返し、マンションを出て行った。出たとたん涙が溢れて止まらない。悲しいと言うよりは悔し涙である。
愛美が帰宅したのは夜の11時が過ぎていた。足元はふらついて普段は殆ど酒を飲まない愛美は見たことのない姿で酔っていた。
「どないしたん。めっちゃ酔ってるやん」
知子が玄関で心配して声かけたが愛美は無視して望の部屋に向かって歩いて行き、思いっきりドアを何度も叩いた。
「兄貴、こら、またひきこもってるんか。出てこい」
「愛美、何してんの、やめぇ」
知子は止めるが愛美は止めない。既に寝ていた正義が騒ぎを聞いて寝室から出て来た。
「なんや、どないしたん」
「お父さん、愛美を止めて」
正義は愛美の両手首を持ってドアを叩くのを止めるといきなり泣き崩れた。
「一体、何があったんや」
知子が愛美を抱き寄せてリビングのソファに座らせて、落ち着くまでそのまま待った。十分くらいで泣き止んだ。
「ごめん、気持ち悪い…お水ちょうだい」
正義が冷蔵庫に冷やしてあった水を取り出してコップに注ぎ愛美に渡した。愛美は一気に飲み干した。
「あー、ありがと。もう大丈夫」
一瞬、間を置いて1回うなずいて愛美は今回の事件で婚約を解消されたことを両親に話した。正義は黙ってスーッと立ち上り玄関に歩いて行こうとした。
「どないしたん、お父さん」
正義はこぶしを握り締めて顔を強張らせた。
「しばいてくる」
普段、温和で怒ることはないと思われる正義のそんな姿を見たのは初めてだった。
「お父さん、止めて。大丈夫。思いっきりテーブルひっくり返してきたから…それに別に婚約を解消されたことを怒ってるんやなくて、あんなんに惚れとった自分に腹立てててん。だからもう、ええねん」
「せやけど…」
「話、したらすっきりしたわ。しんどいしもう寝るわ」
愛美は自分の部屋へ帰って行った。望の居室のドアに来た時に愛美は謝った。
「八つ当たりしてごめんな…」
納得できなくこぶしの仕舞どころがない正義に知子が言った。
「これで良かったんよ。結婚しとったら取り返しが使えへんかったわ」
知子の言葉で正義は落ち着きを知り戻した。
「どうしてだめなん?」
「逆になんで行けると思うたん?自分をミキサー室に入れるなと南原さんから言われてんねん」
愛美が酔っぱらって帰宅する数時間前、松本レポーターは局のミキサー室で揉めていた。音声データを書式かする為に協力してもらおうとしたのだがすでに南原ディレクターが釘をさしていた。
「昨日は明らかにおかしいと言ってましたよね」
ミキサー室長は困った顔で松本レポーターに言った。
「ほんま、勘弁して南原さんに逆らうことはでけへんねん。わかるやろ?」
「もう、ええです。すみませんでした」
松本レポーターがあきらめて帰ろうして局のエントランスである男が追いかけて呼び止めた。
「松本さん、ちょっ、待って」
呼び止めたのは一緒によくロケに行っている音声の宮永だった。
「ん、宮ちゃん、どうしたん?」
「これ」
宮永は松本レポーターに紙切れを渡した。
「倉田音声研究所?」
「刑事ドラマでよくあるやん。音声で場所を特定したりするやつ。それとか声紋を調べるとか、ここはそれを専門にやってるとこ。民間の会社やけどけっこう警察にも協力してるみたいやで。そこにデータを調べてもらったら。そこに春馬って大学の先輩が働いてるから尋ねてみたら」
「お。ありがと。でもこんなことばれたら宮ちゃんもやばいんちゃうん」
「ばれんかったらええんちゃう。松本さんがんばってるんのよう知ってるし、それに…」
「ん?」
「南原、下の者にぼろかすやろ。けっこう嫌いなやつ多いってこと」
松本レポーターは笑顔でお礼を言った。
「宮ちゃん、ありがと。うまくいったら何か奢るわ」
「肉。肉な」
「了解、わかった」
松本レポーターは早速、倉田音声研究所を訪ねたが夜遅い為、閉まっていた。2~3回、玄関のチャイムを押したが人が出てくる気配はない。
「やばいな…。どうしよ…」
諦めて帰ろうとした時に玄関のドアが開いた。見るから野暮ったい男が出て来た。
「誰?」
「あ、すみません。無理を承知の上で仕事をお願いしたいのですが…」
「ん?今日はもう、あかんから明日来てくれへん」
「明日の朝までにどうしても音声データの書式化したものが欲しいんです」
「ほんま、無理」
「あのぉ…、春馬さんってもう、帰られました?」
「え。俺やけど…」
「まじ、良かった。宮永さんからここを紹介してもらったんです。先輩が働いているからって」
「宮の知り合いか…んむ…っ。しゃーないな、中に入って」
オフィスには10台くらい机があったが春馬1人しかいなかった。春馬は先に自分の机に座った。
「ここに座って」
松本を横の机の椅子に座らせた。
「で?」
「あ、はい」
松本はUSBメモリーを取り出して春馬に渡した。春馬はパソコンに繫いで音声を聞いた。
「ふーん、なるほど。これでどんなことを知りたいん?」
「まずは音声は2つ場面があると思うんですがそれを証明してほしいのと特に後のほうの場面を詳しく状況を音声で知りたいんです」
「なるほどね。特に手は込んでないから難しくはないんやけど、今取り掛かっている仕事が警察の案件でこっちも急いでいるんよ。先に片づけへんと無理やな」
「どれくらい、掛かるんですか?」
「ん~、今日中に終わるかなぁ…」
「何とか、お願いします」
「なんでそこまでこだわるん?」
「私、テレビのレポーターしていて、ここの施設に取材に行ったんです。そこで局の意向と施設の意見が食い違っていたのではっきりさせたいんです」
「それだけ」
「正直、個人的な感情も入ってます」
「なるほど。何とかやってみます」
「よろしくお願いします」
次の日の朝10時に市の監査が『ふるさと』に入った。ふるさとに監査が入ることはすでにマスコミは察知しており待ち構えていた。
「本日はご足労をおかけしました。よろしくお願いします」
足立施設長、関口統括、間島、根占相談員。夏目介護主任、二宮フロアリーダーが迎える。
「今回の監査を担当します伊万里と言います。承知されていると思いますがこの施設で虐待の事実確認を行いたいと思っています」
伊万里監査長を先頭に10人の監査官が訪れた。中には津田和馬の姿もあった。
「それでは施設を案内して頂きます。全員で廻るのはたいそなんで私を入れて3人で廻ります。残りは資料の確認させて頂きたいのですがよろしいですか?」
「はい。わかりました」
足立施設長、関口統括、二宮リーダーが案内を行い間島、根占両相談員と夏目主任が資料の提供を行う。
「松本という女性が来たらすぐに連絡してくれ」
関口統括は事務員にそう言って監査員に同行した。
松本リポーターは朝の八時に倉田音声研究所を訪ねたが何度玄関のチャイムを鳴らしても誰も出てこなかった。
「え、なんで」
30分くらい経ってから職員らしき女性がやってきた。
「良かった。あのぉ昨日春馬さんに仕事をお願いしたんですけど…」
「ああ、そんなん。ちょっと待ってや」
玄関の鍵を開けて中に入ると春馬がソファで寝ていた。
「春馬君、起きや。お客さんやで」
春馬の頭をぽんぽんと叩くと春馬は目を覚ました。
「あ、所長おはようございます」
「えっ所長」
女性は所長の倉田だった。
「すみません、私、昨日急に仕事をお願いしたんです」
「あ、ええよ。うち、珍しいことやないから」
松本レポーターが所長に挨拶している所に春馬がA4サイズの封筒を持ってきた。
「出来てるで。前の仕事が3時までかかったからおかげで徹夜ですわ」
「本当に申し訳ありません。ありがとうございます」
「所見とかわかりやすく書いておいたから問題ないと思うで」
「春馬君、そのまま直帰でかまへんから一緒に行って説明したったら」
「あ。いえ、そんな」
「わかった。昨日のやつ、そこにまとめてるから後、頼みます」
「はい、お疲れさん」
松本レポーターがの車で春馬と一緒に『ふるさと』に向かった。しかし、普段なら10分くらいで到着するのだが事故渋滞があり車は停滞していた。
「あーもぉ、なんで今日に限って…」
「ごめん、寝とくから着いたら起こして」
「あ、わかりました。ほんとに助かります」
「こっちも終わったら帰れるんで助かるわ」
その頃、伊万里監査長と監査員、足立施設長と関口統括、二宮リーダーは4階のフロアにいた。フロアは宇佐美副リーダーと浅川、小向井職員が勤務していた。
「問題のあった介護員は本日、勤務されていますか?」
伊万里監査長が質問すると二宮が答えた。
「事が治まるまで自宅で待機してもらってます。マスコミもそうですが本人の今の精神状態ではといも勤務できる状態ではありません」
「なるほど。では、その利用者と話できることは可能ですか?」
「はい。六号室で過ごされていると思います。普段からリビングに出て来ることなく居室でテレビを見たりベッドで休まれています」
「大袈裟になるので私、1人で行きます。あなた方はフロアの観察をお願いします」
二宮リーダーの案内で伊万里監査長は岸本の居室を訪ねた。岸本はベッドに寝ながらテレビを見ていた。
「岸本さん、休んでいるとこ悪いけど、少し話させてもらってもええかな?」
二宮が声掛けすると岸本はむくっと体を起こした。
「こんにちは。私は市の福祉課の伊万里と言います。少し話を聞かせてもらってもいいですか?」
岸本は険しい顔をして言った。
「あんた、役所の人間か。うちは役所の人間は嫌いや。話すことはない」
「岸本さん…あのな」
二宮リーダーが中に入ろうとするところを伊万里が止めて話始めた。
「どうして役所の人間が嫌いなんですか?」
「当たり前やろ。うちのバカ息子と一緒になって家から警察、病院に送られ挙句の果てにこんなとこに閉じ込めてやな…早よ家に帰してくれ」
「なるほど。それは大変でしたね。でもここのほうが同じ年齢の方もいるし、食事の準備はしなくていいから楽ではないですか?」
「何言うてんねん。ここはボケ老人が来るとこや。家でミーコが腹を空かして待ってんねん。あんた、送ってくれへんか」
「ミーコ?」
「うちの娘や、あんた、どこに行ったか知らんか?」
二宮リーダーが耳打ちをする。
「飼っていた猫の名前と聞いています」
「すみません、どこに行ったかわかりませんがまた探してもらうように係りの者に頼んでおきますね」
「頼むわ…」
「ところで、ここの職員はどうですか?」
「あかん、何もしてくれへん。それも言うといてくれ」
「そうですね…わかりました。ありがとうございました」
伊万里監査長と二宮リーダーは退室した。
「なかなか…大変な方ですね」
二宮リーダーは苦笑いをした。2人は足立施設長らと合流してフロア内を観察した。
「私は施設長と話がありますので2人は先に戻ってもらえますか」
伊万里監査長は足立施設長と2人でフロアに残った。正直、足立施設長は伊万里監査長と2人になるのは気が引けた。初対面ではあるが噂は耳に入っている。生真面目で融通が利かない。潰された施設も数知れずと言われている。2人きりになるだけで「何かある感」は半端なかった。そんな中、伊万里監査長が話始めた。
「これは個人的な話です。ここに監査に入るとは思ってなかったです。私は生前の有村福雲さんをよく知ってます」
「え?そうなんですか…」
その言葉を聞いた時に足立施設長は少しほっとした。伊万里監査役は話を続けた。
「ここを立ち上げるときに担当したのが私でした。それはまだ、認知症ではなく痴呆と言われていた時代の話です。福雲さんは認知症の方とそのご家族をよくお寺に集めて冗談を交えてお話をされていました。仏様のお話は勿論、来られた方の悩み、時には簡単なコンサートを開いたり、寄席などもされていました。事の始まりは檀家さんの一家族がご主人の認知症に悩んでいたらしいです。夕方になるといなくなったり、ご家族様を泥棒扱いされたり、暴力も日常茶飯事にあったのを医者は病気だからどうしようもないと匙を投げた。しかし、福雲さんと接する時は変わりない、いや多少の認知は見られていたが特に問題行動を見せることはなかった。福雲さんは特別なことはしていない。ご主人を特別な目で見ることなく普通の人として接しただけでした。そう、今では極、普通のことです。それから自然にお寺には人が集まって来ました。私は市民の人に指摘されました。事務的で市民の事を考えてないと言われました。真心寺に行って参考にしたらどないやと言われ見学して衝撃でした。市役所に来る人は皆、暗い顔をして手続きをしていましたがここでは皆、明るく笑っている。私は暇な時に真心寺を訪れて福雲さんの話をよく聞きました。そして渋っていた福雲さんを説得してここを立ち上げることになりました」
「そうだったんですか」
「だから、ここの施設は個人的に思い入れがあるし、福雲さんの想いが続いているといや続いて欲しかったです。非常に残念です」
足立施設長は言葉がなかった。
「今のは私の個人的な意見なので忘れて下さい」
会議室で書類を確認していた津田和馬は人一倍、躍起になっていた。自分から別れを切り出したとはいえ、本意ではない。未練があった。虐待のニュースがテレビで流れ、その当事者が自分の婚約者の身内だった。すぐに婚約解消を口にしたのは母親だった。和馬の母親は本当はこの結婚には反対だったが和馬の押しが強く渋々承諾をした。望の事は婚約を破棄させる格好の理由としては十分だった。仕事の影響のことも考えて和馬は母親の意見を聞くしかなかった。別れる原因を作った望にも腹立たしい想いだった。趣旨は違っているがここで功績を残すことで自分の気持ちが救われると考えた。
「今回の案件に関する資料はこれで全部ですか?」
和馬が間島相談員に聞いた。
「はい。当時の夜勤の状況のケース、問題が発覚した時と職員会議の議事録、事故報告書をプリントアウトしてます。全体としてはパソコンに入っています」
「わかりました。これを人数分、コピーして頂いていいですか?」
根占相談員がコピー取り終わって帰ってきた時に伊万里監査役と足立施設長も会議室に戻ってきた。
「資料確認は出来ましたか?」
「はい、今コピーしてもらったところです」
「そうですか。それでは足立さん、これから我々は審議に入ります。暫く退室して頂いてもいいですか?結果がでたらまた呼びに来行きます」
施設関係者は会議室を出て事務所に戻った。伊万里監査長は資料に目を通しながら問いかけた。
「私の見立てを言う前に皆にこの案件について聞きたいんやけど、まず初めに私と一緒に施設を見廻ってどう思いました」
伊万里と一緒にフロアを見廻った監査の一人が応えた。
「特に問題はなかったと思います。施設を廻っているとその場の雰囲気で虐待があったかどうかは判ります。虐待がある施設は利用者も職員も何かどんよりとした感じがありますがここではそんな感じは受けなかった」
「なるほど。書類の面からはどうですか?」
伊万里の問いかけに和馬が挙手して答えた。
「事故発覚時の議事録ですが、ここでは当事者は虐待の事実を認めています。このことからやはり虐待はあったと考えてもいいのではないでしょうか」
別の監査役が和馬のあとに話を続けた。
「確かにそうですが、暴力事態は否定しています。言い分が正しいなら身体的虐待はなくネグレストと精神的虐待だけになりますが…」
伊万里監査長が2人の発言をまとめた。
「この案件の問題はそこですね。被害を受けたと思われる利用者にも話を聞いたのですが、正直、職員の暴言に精神的ダメージを受けている様子はなかったと思います。ネグレストにしても後から水分は提供している場面も見られます。暴力行為がなかったとしたら厳重注意で問題ないでしょう。恐らくご家族も裁判所に訴えることはできないでしょう。重要なポイントは音声は残っているが当事者の発言を裏付ける確たる証拠が何もないということですね。そのことをもう一度尋ねて処分を下したいとおもいますがそれでよろしいですか?」
全員頷いて苑関係者が再び会議室に呼ばれた。
「足立さん、処分を決定する前に聞きたいことがあるのですがよろしいですか?」
足立施設長は伊万里監査長がいう質問はおおよその検討はついていた。そして返答次第では施設の運営に大きく関わって来る。しかし、結局対策は見つからずにありのままを答えるしかすべはなかった。
「この案件に対する議事録等の書類はすべて提出しています。音声を聞いた限りでは何らかの暴力行為が行われたのは否定できません」
「それを認めるのですね」
「現時点では…」
その時に関口統括の携帯が鳴った。携帯の画面には松本と表示された。
「すみません、ちょっとお待ち下さい」
関口ケアマネが携帯に出ると携帯の向こうで、明らかに焦っている声で松本が話始めた。
「すみません。渋滞に巻き込まれてまだ、間に合いますか?」
「今、どこ?」
「施設の駐車場に車を止めたところです」
「迎えをよこすのですぐに会議室のほうに来て下さい」
関口統括は根占相談員に迎えに行くように指示した。そして足立施設長に耳打ちをする。
「今、音声データを分析した資料が届きました。有力な証拠になると思います」
「まじか。わかった」
足立施設長はすぐに伊万里監査長に伝える。
「すみません。今、新たな資料が届いたので少しお待ちになってもらっていいですか?」
施設を取り込んでいた記者たちが玄関に入っていく松本を見つけてざわついた。
「おい、あいつ、近畿のレポーターとちゃうんか」
「また、近畿が先越したんか」
しかし、一番驚いていたのは近畿テレビのスタッフだった。レポーターは松本の先輩にあたる女性レポーターである。
「あの子、何やってるん」
根占相談員が松本と春馬を見つけた。資料をコピーして会議室に案内した。根占相談員が監査員に資料を配布する。そしてレポーターを生業としている松本が流暢に話始めた。
「突然、申し訳ありません。私はこの施設の部外者の人間ではありますが、訳あって音声データの分析を依頼されました。今、お配りしたのは音声を書式化したものです。詳しくはその資料を作成された倉田音声研究所の春馬さんに説明してもらいます。お願いします」
「ども。始めに言っておきますがこの資料は法的証拠として十分に立証できる効力はあります。つまり信憑性は高いと言うことです。で、結果ですがこの音声データが改ざんされているとしたら素人です。完全に2つの場面をくっつけています。それを裏付ける理由はいくつかあげられますが1つは場面が切り替えられるときにブチッと言う事が確認できます。これは一度録音を止めて改めて次の場面を録音した音です。次に状況ですが最初は周りが静かで多分夜、しかも夜中ではないかと思われます。後の場面は周りの雑音が聞こえます。よく聞かないとわかりませんが人の声やテレビの音が入っています。恐らく昼間でしょう。それまではよく聞いていると分かると思う。一番肝心なことは後の場面で痛みを訴え騒いでいる人は暴力とかではなく、例えば、しんどいとか苦しいとかを発する時に出す声で暴力を受けているとは言い難い…」
「では暴力はなかったということですか?」
「そう言ってますが…詳しくは資料を読んでもらったらわかります」
伊万里は春馬の説明を受けながら資料に目を通していた。
「ありがとうございます。確かにこの資料は証拠として十分なものだと思います。最後に足立さんにお聞きしたい」
「何でしょうか?」
「この職員はどのように対処されるおつもりですか?」
「はい。介護職員として未熟な部分は多いですが、普段の勤務には問題なく教育を重点において今後このようなことがないようにと思っています」
「そうですか。わかりました。技術面だけでなくアンガーマネージメントなどの精神的な面を鍛えるものもあります。介護員の職離れは重要な問題でもあります。人材確保は大切です。宜しくお願いします。処分ですが暴力行為がなければ特に問題はないと思われます。しかし、施設が家族に対する不備の対応もありました。家族とは納得いくような話し合いが必要です。今回は注意勧告としますが今後、このようなことがあれば厳しい処分が科せられると思っておいて下さい。また、物的証拠はありますがどうしてこのような痛みを訴えたかは引き続き調査して報告して下さい。家族との話し合いの結果もお願いします」
施設関係者は深々と頭を下げた。監査役は早々に引き上げて行った。玄関を出るとマスコミが取り囲んだか無視して施設を後にした。
「んんーっ」
春馬は大きく背伸びした。急に眠気が襲ってきた。それに気づいた松本が言った。
「すみません、すぐに送ります」
足立施設長が2人に近づいて深々と頭を下げた。
「2人には何とお礼を言ったらいいか、ほんまに助かりました。あの資料がなかったら今頃どうなっていたか」
そこに関口統括が足立施設長に小さな声で言った。
「昼から会見を開くことを表にいるマスコミに発表していいですか?」
「ああ、頼みます」
「昼から会見を開くのですか?」
松本が聞いてきた。
「監査も終わったし、早めにこの状態を収拾しないと…」
「私、少しでも受けがいい会見の仕方教えましょうか?」
「えっ?」
「レポーター経験から感じが良いか悪いか大体わかります。今は世間を少しでも味方にした方がいいでしょう。あっ」
松本は春馬の事を思い出した。
「すみません。私、春馬さん送って戻ってきます。春馬さん、資料をまとめるのに寝てなくて」
「そうなんや。申し訳ないな。それならうちが送って行くわ。いや、送らせて下さい」
春馬は間島相談員に送られて帰って行った。
望はカーテンを閉め切った薄暗いというよりはほぼ真っ暗の部屋に籠っていた。ベッドに横たわり目は見開いていた。それまではゲームをしたりネットサーフィンをしたり余裕があった。反省はしていたし、炎上していた書き込みも始めは嫌だったが今は他人事。しかし、昨日愛美に責められたことで再び、事の重大さに気づかされた。自分が起こしたミスで施設だけでなく家族まで迷惑をかけている。どうしようもない悲壮感が襲って来て居た堪れなくなり何もできなくなっていた。そんな時に携帯の着信音がなった。二宮リーダーからである。
「もしもし、調子はどうや?」
「あ…お疲れさまです。いいことないです」
「そやな、ええことないわな。でもなもうすぐや。今日監査があってな一応ではあるが暴力行為はなかったと証明され注意勧告だけで済んだんや」
「そうですか。何か証拠が見つかったんですか?」
「統括がある人に頼んで音声データを専門の会社に分析してもらったんや。そしたら岸本さんが痛がっているのは暴力ではなくて体が痛くて声を出していると証明されたんや。まだ、はっきりと調べなあかんけど、監査は比較的軽い処分で終わったし、近々自分も仕事に復帰できるやろ。今日昼から記者会見を開くみたいやからそしたらマスコミに追われることもなくなるやろ」
「そうですか…」
電話越しでも望に覇気が感じとれないかった。二宮リーダーはもう少し喜んでくれるかと思ったが肩透かしだった。
「ほんまに元気ないな。大丈夫か?」
「………。」
望からの返事はなかった。
「何か気になることでもあるんか?」
一呼吸の後、望は口を開いた。
「僕のせいで妹の縁談が壊れた。僕の軽はずみな行動で施設や家族まで迷惑をかけてしまった。この仕事向いてないと思う。戻ったところでまた皆に迷惑をかけてしまう」
「美空、それはちゃう。妹さんのことは気の毒やと思うけど今回の事だけが原因やないと思うで。もう少し話を聞いてみたらどうや。施設かて今後、このようなことのないように対策を立てるし俺や他のスタッフも助けるさかいに安心して戻って来いや」
「…。」
「まあ、まだ時間あるしゆっくり考えたらええ。俺や施設長、皆も待っているさかいな」
そう言って二宮リーダーは携帯を切った。
午後の2時過ぎに足立施設長の会見は始まった。足立施設長は松本から教えてもらったことを忠実に守り会見に臨んだ。
(挨拶ですが深々と長く頭を下げているのをよく見ますがあれ、辞めた方がいいです。パフォーマンスが強すぎます。別に悪いことはしていないので普通でいいと思います。あと出来れば一人で会見に臨んだ方がいいと思います。そちらのほうが潔い感じがでます)
足立施設長は言われた通りに1人で記者の前に出て普通に挨拶して話を始めた。
「始めに施設をご利用されている皆様そのご家族にご心配、ご迷惑をおかけしたことをお詫びします。我々の対応の不備があり当事者とそのご家族には申し訳ないと思っています。すぐに事実確認で行って少しでも早くご連絡したかったのですが事実確認が思うようにできずに監査の結果を待つ形になりました。現時点での状況を1つ1つ説明させて頂きます。始めに利用者様に対しての暴言はありました。他のご利用者様との介助が重なりイラついて出てしまったと当職員から聞いています。そして水分を欲しがっている利用者を無視した所謂、ネグレストですが確かにその時は提供するのを怠りましたがその後、提供しています。勿論、だから許される行為ではありません。この件についても認めています。この2つの件については本人も深く反省しております。当施設も遺憾に思いこれから十分な対応を行って行きます。次に暴力行為ですが音声データを解析した結果、前の2つの事案とは別の時間帯にあったと判明されました。前の二つに関係していた職員との関連性は薄く暴力行為事態も暴力ではなく体の痛みを訴えている状態だと言う事が証明されました。これらは声紋などを分析している研究所に依頼しており信憑性も高いです。以上のことを踏まえて問題行為は確かにあり認めますが利用者様への危険度は非常に低いという監査の結果、注意勧告となりました。施設としては結果に関係なくこの事態を招いたことを重く受け止め今後はこのようなことがないように運営して行く所存です」
一定の説明が終わった後、記者から一斉に質問が飛んできて質疑応答が始まった。この時も松本からアドバイスを受けている。
(質問は可能な限り誠心誠意を持って応えて下さい。応えにくい質問でもうやむやにしないで下さい。ごまかしは自分の首を絞めることにことになります。マスコミは弱みがあればそこを容赦なく突いてきます。何が正しいことかゆっくりと考えて応えれば大丈夫です)
「すみません、今の説明では暴力行為なく暴言や介護放棄はそれほど重要性がなかったので虐待性は低いと思い責任逃れをしていると考えてよろしいですか?」
「それは違います。虐待は事実として受け止めています。そのことについては苑をあげて対処して行くつもりです」
「今回、虐待された職員の処分についてお聞かせください」
「特に罰することは考えていません。アンガーマネージメントなどを取り入れて今後、このようなことのないように教育して行く所存です」
「それで被害に遭われた家族や他のご利用されている家族は納得されると思いますか?」
「納得して頂く為に誠意を持って話し合い説得させて頂きます」
「被害者の家族は裁判も考えているとおっしゃってますが説得できるのでしょうか?」
「裁判はお互いに何のメリットもありません。でもどうしてもご理解いただけなければ致し方ないと思ってます」
「金銭的解決はお考えですか?」
「それは絶対ありません。ここでそれをすれば前例を作ることになります。それを目当てに行動する人が増えるとも限りません。それは絶対にしてはならないと考えています」
足立施設長の切実な受け応えに始めは攻撃的だった記者たちが段々と言葉を失って行った。質問する記者もいなくなり会見は終わった。事務室に帰ってきた足立施設長を松本は拍手をして迎えた。
「お見事です。完璧でした」
「いやー、緊張しました。松本さんのおかげです。本当に何から何までありがとうございました」
「お役に立ててよかったです。これで私もいい記事がかけそうです」
関口統括が松本に言った。
「記者として成功をお祈りしています」
「ありがとうございます。それでは私はこれで」
足立施設長と関口統括が見送った。玄関を出るとまだマスコミが機材などの片づけを行っていた。近畿テレビのスタッフを片づけをしていたその横を松本が通るとサブディレクターが呼び止めた。
「自分、何を勝手なことしてんねん」
「会社には辞表を提出しています。これからはフリーのライターに転向しましたのでよろしくお願いします。改めて挨拶に伺いますので南原さんにもよろしく伝えて下さい。おみやげを持って」
機材を片づけていた宮永と目が合ったが春馬の事がばれるとまずいとおもって軽く会釈だけした。宮永も軽く頭を下げた。
「何や、あいつ」
サブディレクターは去っていく松本の後姿を見送った。
浩市はリアルタイムで会見を自宅のリビングで見ていた。いきなり置いていたガラスの灰皿をテレビの画面に投げつけ液晶画面は大きな音を立てて大破した。
「どないしたん?」
そばにいた夏美は驚くことなく涼しい顔でスマホをいじりながら言った。浩市が怒ることはさほど珍しいことではない。寧ろ、日常茶飯事だった。
「金、取損ねた」
「テレビ、見られへんやん。どないするん。すぐ買って来てや」
夏美は浩市の仕事には何の興味もなかった。と言うより浩市が何をやっていようがどうでも良かった。
「このままでは終わらへんで」
浩市はテーブルに置いていたスマホを手に取って南原に電話した。
「南原はんか、すまんけど、例のブイ(VTR)番組で流してくれへんか?」
「田中はん、もうやばいって。今日の会見見ました?世間はあっちに傾いてます。この辺で手を引いた方がよろしいって」
「これで最後や。このままで引き下がれへん。頼むわ」
南原は少し考えて返事した。
「ほんまにこれで最後ですよ」
「すまんな、恩にいきるわ」
浩市は電話を切るとすぐにまた、ふるさと苑に電話した。
「施設長、岸本さんのご家族様からです」
足立施設長は携帯をICレコーダーモードにして電話に出た。電話の向こうの浩市は怖いくらいに低姿勢だった。
「記者会見、見させて頂きました。わしもここまで大事になるとは思ってなくて放ってたんやけど…実はあれはうちの守男がネットに流したんですわ。おたくらが謝罪に来てくれてわしは納得したんやけど、あいつは許せへんかったみたいで…まあ、あいつの気持ちもわからんでもないから好きなようにやらせてたんやけどご迷惑をおかけしました。注意はしてたんやけど、あいつの気持ちも分かってやってくれへんやろか」
「そうやったんですか。いや、こちらの方こそ理解して頂いていると勝手に判断して逆にご迷惑をおかけしました。また、こちらの方から連絡を差し上げなければと思っていたんですが、中途半端な対応をしてはいけないと思いまして事実確認を行っているうちに遅くなりました」
「会見で暴力行為がなかったことを聞いて安心しましたわ。色々とご迷惑をおかけしまして申し訳こざいません。これからも宜しくお願いします」
「それでは今回の件は承諾して頂いたと言うことでよろしいですか?」
「そりぁ、勿論ですわ。母の面倒を見てもらっているのに…ただ、暴力を受けているかが心配やったみたいでそれさえなければ守男も納得しています」
「そうですか…それを聞いて安心しました」
浩市は電話を切った。足立施設長は浩市が言ったことを何1つ信頼していない。恐らく浩市が指示してやったこと、今回も納得している訳がない。また、何かを仕掛けてくるうちに早く原因を探さねばと思った。松本のアドバイスが良かったかどうかはわからないが会見のうけは良く殆どのマスコミはこの件に関して終止符が打たれたと思われてた。しかし、近畿テレビの「昼過ぎステーション」だけは違っていた。番組が始まる打ち合わせが行われていた。
「南ちやん、この件はもう、ええんとちゃうかな。これ以上やつたらこっちが悪もんやで」
「今日で最後や。いいとか悪いとかやなくてけじめはつけなあかんと思う。最初にこのことを取り上げたのはうちや。他のとこと同じ幕切れはでけへんやろ。2度とこんなことがないように最後にこの介護職員に釘をさしておこうと思うんや」
「しゃーないな…」
上木は渋々、南原ディレクターの要件を飲んだ。会見から翌日のワイドショー。MCの上木はいつも通りにコメンテーターとその日のニュース、芸能、スポーツなど様々な話題を取り上げていた。
「じゃあ、次の話題やけど連日取り上げている老人ホーム施設の虐待の件ですが新たな情報を入手しました」
芸人の亀田が突っ込みをいれた。
「それって昨日の会見で一応、終わったんじゃあないんですか?」
「その辺を色々説明してもらいましょうか」
上木がそう言うとホワイトボートと一緒に局アナが入って来て説明を始めた。
「昨日の会見で施設の対応は別にこの中心にいる職員に疑問を感じたのでその辺を紐解いてみたいと思ってます」
ホワイトボードで改めて事件の内容を説明した。
「ここでこの仮にA職員としておきますがA職員自身に問題があつたのではないかと思われる証言を入手しました。A職員は高校時代にいじめを受けて引き籠っていたと言うことです」
ママタレの月ヶ瀬が口を挟む。
「それは逆に引き籠りから脱出して仕事してたってことはええこととちゃいます?」
「それがですね、いじめを受けていた腹いせに虐待したのではないかと…友人の証言がありますからそれを見て下さい」
VTRが流れる。音声は変えられて本人にはモザイクをかけられていたがそれは明らかに望がこの世で一番憎んでいるいじめを実行していたあいつだった。
「高校は一応卒業できたみたいやけど、高3の2学期頃だったかな。学校に来なくなっていじめられていると噂が広がったんかな。卒業してから偶然、コンビニでバイトしているのを見かけて、うちが飲食店のチェーンをやっているから昔のよしみでうちの店で働かないかと誘ったんやけど、店の店員と割合が悪く結局、問題起こして辞めていった。陰険なやつでしたよ。別にええんやけど恩を仇で返されたっ感じやなあ。あと俺の元カノにもちょっかいかけてきて結局ふられたんとちゃうかな。色々なことを根深く持っていたんとちゃうかな。やつが虐待したと聞いた時は何か納得しましたよ」
「これだけでなく元同僚からも話を聞いてます。引き続きお願いします」
「仕事は危なかったですね。こういうことが起こってもおかしくない状態でした。普段から利用者に横柄な態度をとってましたよ。介護してやってんだみたいな感じ。仕事のミスを押し付けられて…こいつとは一緒に仕事でけへんなって。すぐに他の施設に移りましたよ。正解やったね。巻き込まれるとこやったわ」
口からでまかせを言っているのは逃げ出した介護職員の岡村だった。
VTRが終わって上木が局アナに言った。
「A職員…何か心に闇深きものを感じましたが…施設はA職員を引き続き雇用する考えだということを会見で言っていましたがもう1度考え直したほうがええように思いましたが…」
「何やこれ、やっぱこの上木、腹立つわ」
知子がリビングでテレビに向かって文句を言った。相変わらず部屋に籠っていた望はたまたまトイレに行ったときに松野のインタビューが流れていて陰で見ていた。人の気配を感じ知子が振り返るとそこにはもう誰もいなかった。
「良かった。望がこれを見てたらえらいことになってたわ」
浩市はお金が取れない腹いせに攻撃目標を施設から望に変えて来た。しかし、望の想いはそこではなかった。
「南原さん、A職員と名乗る人物から電話がかかってますが…」
「ほんまか、ひやかしちゃうか」
「美空望やと言うてます」
半信半疑で南原は電話に出た。今日のインタービューが顔と声を隠していたのにも関わらず松野と岡村だと実名を挙げたことで望本人と納得した。
「今日のインタビューは間違ってます。身の潔白を証明したいのですが明日、『昼過ぎ』に出させて頂けませんか?実名で顔出しでも構いません。ただ、スタジオは嫌なのでどこか場所を取って頂いて中継でお願いしたいのですが…」
南原はしばし考えた。浩市には背くことになるけど番組としては最高の演出になる。ディレクターの血が騒いだ。
「わかりました。それでは独占インタビューとして明日の放送に出演して頂きます。改めてVTRを取らせて頂きます」
「出来ればライブでお願いしたいのですが…そのほうがリアル感があると思うのです」
「生ですか。いいですね。わかりました。詳しいことはまた、後で連絡させて頂きます」
「お願いします」
次の日の朝。正義はリビングで新聞を読んでいた。マンションの周りにも記者がいなくなりそろそろ出勤しなければと考えながら目を通しながらテレビ欄を見ているとワイドショーの題名を見て驚いた。
「おい、これはどういうことや」
朝食の準備をしていた知子を呼んで新聞を見せた。
『施設の職員が生出演。思いを告白』
「これ望のことやんな。あいつ、いつの間に…」
知子がはっとした。
「もしかしたら昨日のテレビ…」
知子は昨日、『昼過ぎステーション』でのVTRで松野や岡本がインタビューを受けている内容を話した。
「なんやと、ひどい話やな。それを望が見てたんか」
「わからんけど…多分」
望は10時過ぎにリビングに出て来た。望が家族の前に姿を現したのは報道されてその説明をしてから以来のことだった。
「おかん、お好み焼き作ってくれへんか」
「え、今からや」
「っぽいやつでもええわ。おかんの作ったんが食べたい」
普段はリクエストには応えないが状況が状況だけに何も言わずに冷蔵庫をあさりお好み焼きの具になりそうな食材を探し始めた。望は正義が座っていた横のソファに腰かけた。正義は望に新聞を見せた。
「お前、これ本当か?」
「ああ、食べたら用意して行くわ」
「なんでや。これ以上つらい思いせんでもええやんか」
「は?何言うとんねん。テレビで報道されてからずっと言いたい来い言われっぱなしや。あの松野や岡村にさえ好きなように言われて黙ってられへん。俺、そんなにバッシング受けるほど悪いことしたんか。どうせ言われるんやったら我慢してるのアホみたいや。俺もテレビで言いたいこと言うたるわ。もう、仕事も辞めたる」
開き直った望に正義は返す言葉がなかった。それを聞いていた知子は望に賛同した。昨日のVTRは知子もかなり頭にきていた。
「その意気や。売られたケンカは買ったらええ。もう少し待っててや。気合の入ったお好み焼き食べさせたるさかい」
今まではつらいことがあったら逃げてばかりいた息子の成長を頼もしく思えた。望は知子が作ったお好み焼きをゆっくり味わって食べた。
「ごちそうさまでした」
普段は絶対しないが望は食べ終わった後、手を合わせた。そして洗面台で伸っぱなしだった髭を剃ってワイシャツにネクタイしてジャケットを羽織った。
「大丈夫、きちんと話をすれば世間はわかってくれる」
正義と知子が玄関まで送った。
「もう、言いたいことを言えればそれでいいわ」
望の後姿をみえなくなるまで見送った。知子は涙を流しながら正義に呟いた。
「今日で本当に決着がついたらいいね」
「ああ…」
正義は不安でしかなかった。
望は指定されたホテルの一室のチャイムを鳴らした。ヨレヨレのカジュアルシャツとジーンズ姿の男がドアを開けた。
「美空望です」
「お持ちしてました。どうぞ、お入りください」
中に入るとカメラマンや照明など5~6人のスタッフが中継の準備をしていた。望は正面にカメラが据えてあるソファに座らされた。
「何か飲む?」
ドアを開けた男が聞いてきた。
「あ、お茶で…」
望はテレビに映るというプレッシャーが急に出てきて緊張してきた。男はペットボトルのお茶と名刺を差し出した。
「ディレクター 目黒慎二」
「放送まではまだ、時間があるさかいに色々と説明させて頂きます」
一方、近畿テレビでは打ち合わせが行われていた。
「南ちゃ~ん、もしかしてこれ狙っとったん。やるやん」
上木は南原が望をおびき寄せる為に昨日のVTRを流したと勘違いしていた。南原には思わぬ展開だったが、浩市のことを考えると素直に喜べない。打ち合わせが終わると同時くらいに浩市から電話があった。
「南原はん、なんや、今日、例の職員が出るらしいな」
「昨日、電話がかかってきて、どうしても話がしたいと言うさかいな…」
「さようか。別に好きにしたらええけど、そやったらわしはこの件から手を引かせてもらうさかいな。かまへんやろ」
「あ、わかりました。後はこちらで処分させて頂きます。その代わりどんな結果になっても文句はなしですよ」
「わかった。もう一切口出しせえへんし連絡せえへんわ」
南原には願ったり叶ったりだったが実は浩市にしてもかなりの好都合だった。この件について腹いせに行ったがどこで手を打つか着地点がみつからなかったが全部、テレビ局に押し付けた。お互い利が叶って南原は心置きなく収録に望んだ。『昼過ぎステーション』が始まって1時間くらいで望との中継が繋がった。
「連日、お伝えしている施設での虐待報道ですが、昨日新たな動きがありました。この事件の意中にいる介護職員がテレビで一連のことについて話をしたいと局の方に連絡がありまして本日、独占インタビューを受けてくれることになりました。早速、呼んで見ましょう」
上木がそう言うとテレビ画面に望が映し出された。
「こんにちは。名前を聞いてもよろしいですか?」
「美空望です」
「美空さん、本日はご出演ありがとうございます。今からいくつか質問しますがよろしいですか?」
「あ…、はい。いや、その前に上木さんにお伺いしたいことがあります」
「ん?何でしょうか?」
望は上木のペースに飲み込まれる前に先手を打った。作戦である。
「上木さんのご両親はご健在でしょうか?」
「父親は他界しましたけど母親はまだ生きてますけど…」
「クリアですか?」
「ん?どういう意味?」
「認知症ではないかと言うことです」
「特になく普通に暮らしてますけど…それが何か?」
「では介護経験はありませんね」
上木は望の質問の意図がわかってきた。
「確かにありませんが、今日はスタジオに専門家に来てもらってます。関西包括センター部長の遠藤さんです」
局の方もこんなことがあるかも知れないと思い専門家を用意しておいた。遠藤は望に話しかけた。
「こんにちは。地域包括センターの遠藤です」
望は遠藤の挨拶を無視して遠藤にも質問した。
「じゃあ、遠藤さんは実際に現場で介護されたことがありました」
市町村職員や包括センターの職員は実際に介護を経験していない人も多い。
「直接はないけど現場の声は聞いとるよ」
「それでは二人とも特養の夜勤の状態を実際にご覧になったことはないんですね」
遠藤は立場上、首を縦に振れなかった。
「夜間帯の勤務がしんどいのはよう知っとるよ」
「認知症の人が歩行もままならないのに家に帰りたい一心で居室から出て来る。いつ転倒するかわからへん。出口を探して他の利用者のドアを開けまくる。騒ぎ立てる。言葉なんて通じない。下手に諭そうとすると悪化する。それが1人や2人じゃあない。そんな状態が18時間続く…」
上木が望の話を遮った。
「介護の仕事が大変なのはわかります。でもおたくらはプロでしょ」
「プロだったら何でも完璧にこなさなければならない。でもね、プロ野球選手とか10打席のうち3回塁に出れば一流スラッガーですやん。七回もミスしてるのに。プロなら10回中10回結果を出せってことですよね。プロサッカー選手は絶対シュートは外さないってことですよね」
「それとこれとは…」
「違いますよね。屁理屈です。すみません。別に上木さんや遠藤さんに因縁をつけてるわけではないです。ただ、介護に携わっている人だったら少しは僕の気持ちを理解してくれるかなと思っただけです」
完全に望のペースでインタビューは進んだ。望も自分で驚くほど流暢に話をしている。
「これからが本題です。僕が罪を犯していると言うのならば僕は罰を受けます。許すとか許さないとかのレベルではなくこれはケジメです。最後ですがこの後、1時間後に真実を語った動画をネットで流します。では皆さんさようなら」
「ちょっと待って、そないに自分を責めんでも我々はこれから虐待のないように少しでも…あっ。ちょっと、おい…」
少し前の時間。宇佐美サブリーダーは入浴介助後にユニットに戻っていた。すると岸本の居室から例の声が聞こえて来た。
「んん…」
「助けて、痛い。何してんの」
居室を開けると岸本はトイレに座っていた。そしてそこには本日日勤している山口職員の姿があった。
「何や、そう言うことやったんか」
宇佐美サブリーダーはあじさいユニットに勤務していた二宮リーダーの元に行った。
「にのっち、わかったで。岸本さんの痛がっていた理由」
二宮リーダーはテレビの前で呆然と立ちすくんでいた。
「なんや、どないしたん」
二宮リーダーは望がテレビ出演をすると聞いたので気になって見ていた。心配で連絡したが望は携帯の電源を切っていて連絡が取れなかった。テレビには望の姿はなくCMが流れていた。
「おい」
宇佐美サブリーダーが二宮リーダーの肩を揺らすとやっと口を開いた。
「美空が…」
「美空がどうかしたんか?」
「おい、何やってんねん。早くCMに行け。早く」
静まり返っていた局のスタジオが南原の一言で急に慌ただしく動き出した。
「この後どないすんねん」
「完全に事故だよ。放送事故」
「これやから素人は…」
「…それでは皆さんさようなら…」
そう言った後に望はジャケットのポケットからカッターナイフを取り出して、両手で首に押し当て一気に掻っ切った。大量の血が溢れだした。それは本当に一瞬の出来事で10~15秒の間完全にその様子は全国に流れていた。
「何やってんねん、早くカメラ止めろ」
「救急車や、救急車」
「タオル、タオルを持って来い。止血するんや」
数分後に望は病院に搬送された。暫くCMが流れていたが局アナウンサーが出てきてニュースが流れた。
「番組の途中ですが緊急事態があり終了させて頂きます。番組中に不適切な場面があったことをお詫びします」
1時間後。望が配信した動画がネットで流れた。動画は望が書いた手紙が画面に映りそれを読むだけのものだった。
「僕は今、もうこの世にはいないか、生死を彷徨っている頃だと思います。僕の訴えは命を懸けないと相手にはされないと思い今回の行動に出ました。僕をここまで決意させたのは昨日のワイドショーでのVTRが原因です。僕にはどうしても許せない人間が3人います。それは今回の利用者やその家族、マスコミ、好きな事ばかりヤジっているネット住人いずれも言いたいことがあり、むかつきますがそれ以上に許せない奴らです」
「まず1人目は昨日インタビューを受けていた松野健人。この町の権力者・松野グループ会長松野勇次郎のバカ息子。さあ、皆さん、ググりましょう。僕をいじめて引き籠りにしたのはこいつです。確かに高校を出ていない僕は就職口がなくていじめていたお詫びということで系列の居酒屋で働かせてもらったが、それは自分の言うことを聞かない板長を辞めさせるための策略で僕はまんまと嵌められました。ここで爆弾を1つ。松野グループが使っている食品は地元産や国産だとアピールしていますが、全て外国産です。多分このことは町の権力者にもみ消されると思いますが…今の僕にはどうでもいいです。2人目は元同僚の岡本幹夫。さあ、ググって下さい。こいつはクズなのでどうでもいいですが…昨日のインタビューは自分のことです。こいつは利用者を危うく殺しかけてリーダーに怒られたら次の日から仕事に来なくなった無責任なやつです。今も介護の仕事を続けているなら、気をつけて下さい。恐らく施設に取ってマイナスの事態が起きるでしょう。最後に市の福祉課に勤めている津田和馬。自分の立場だけで妹を裏切った母親のいいなりのマザコンです。僕はひきこもってたから妹にはよく思われてなかった。それは仕方ないことですが、それでも妹のことは嫌いではなかった。だから自分の都合だけで妹を裏切った津田和馬は許せない。その引き金となったのは今回の事件…妹には…」
望は感極まって涙を流した。手紙はここで終わった。望が画面に出てきて頭を下げた。
「おかん、お好み焼き美味しかった。最後の晩餐はおかんのお好み焼きと決めててん。親父、仕事休ませてごめん。愛美、お前なら大丈夫やすぐにあんなマザコンよりええ人ができる。施設長、二宮リーダー…ご迷惑をかけました。4階職員の人達、後はお願いします。色々とありがとうございました」
望の頭の中で浅川亜美の顔が浮かんだ。彼女ともし付き合っていたならば自殺しようとは思わなかったかも…いや、迷惑をかける人が1人増えるだけか…
「皆さん、本当にご迷惑をかけました」
1年後。
望が流した動画は再生回数も影響力も半端なく、社会現象とまでなった。「デジタル遺言」と名づけられ、恨みつらみを動画に残して命を絶つものが増えて行った。望が言っていた通り松野グループの食品偽造の問題は松野勇次郎が手をまわしてもみ消された。松野健人は勇次郎の信頼を失い、跡継ぎには成れず弟が後を継ぐことになった。岡村幹夫はグループホームで働いていたが相変わらず上に媚びをうっていたので同僚からはあまりよくは思われてなかった。望の動画が追い打ちになり一挙に反感を駆った。結局、グループホームも逃げ出してしまった。津田和馬はまだ役所に勤めていたがマザコンと言うレッテルを貼られ部署も出世コースから外れた書類整理にまわされた。地下の窓もないコンクリート打ちっぱなしの部屋で黙々と書類を整理している。
松本結衣は車で海沿いの道路を走っていた。今回の一連の事件をスクープしてフリーのルポライターとして活動している。特に南原と田中浩市の関係を暴いた記事は反響を呼んだ。結局、『昼過ぎステーション』は望の事件の次の日に打ち切りとなった。
「あ、目黒さんとちゃいます。私、覚えてませんか?リポーターで昔、お世話になった。松本結衣です」
「おお、覚えてんで。久しぶりやな何してんの」
「友達と飯行こうとしたらドタキャンされて、1人でどこか行こうか帰ろうか考えてたとこで目黒さんを見かけて。目黒さんは?」
「家に帰るとこやけど。飯行くん?付き合ってもええで」
「そんな、折角帰るとこやし奥さんに悪いですよ」
「かまへん。普段もテレビ局に釘づけされて家にいるかいないかわからへん、存在やし」
「ほならなおさら帰ったほうがええんとちゃいますか?」
「かまへんて。行こや」
松本結衣は偶然を装い目黒慎二を待ち伏せしていた。望が首を切った時にすぐそばにいた人物で色々と聞きだしたかった。根っからすけべの目黒は絶対、誘いに乗ってくると思っていた。案の錠である。目黒は松本結衣がライターに転職したのは知らない。そして予想以上の収穫が得られた。2人はワインバルに入って行った。
「まさか、あそこでカッター出すとは思わんかった。急いで救急車を呼んだんやけど、出血はひどかったな。急なことでカメラには映っとるし始末書どころやあらへん。もう、人生終わったと思ったわ。こっちは血の気が引いたっちゅーねん。でも南原さんが全責任取らされてあの人、今、営業に回された。ワンマンやったからな。喜んでいる人も多いんとちゃう」
それほどネタにする話もなく店を出てもう少し掘り下げたいと二人はbarに入った。目黒慎二の目的は違っていた。
「何で南原さん、あの虐待事件に固執してたか知ってるか?」
「さあ、それは私も気になってた。何か知ってるの?」
「やっぱ、あかん。これは絶対に言われへん」
勿体ぶってはいるが誰かに話したくてうずうずしているように見えた。松本結衣は聞きだすために最終手段を取った。2人はbarを出てビジネスホテルへ入って行った。目黒慎二は酔っていたせいもあるが思いがけないチャンスに上機嫌になっていた。ここまで来たら逃げられることはないと高をくくっていた。少し松本結衣はじらした。
「不倫て、やっぱ、奥さんに悪いわ。」
「ここまで来て何言うてんねん。ガキやないんやから。それに嫁は俺がどこで何をしようがかまってへん。実はな俺、前から自分の事ええなあと思っててん。だからええやろ」
目黒慎二が肩を抱き寄せキスをしようとしてきた。
「ちょ、ちょっと待って。わかったから。私、もう少し飲みたいからビール1杯だけええやろ。そない焦らんでも」
松本結衣は冷蔵庫から缶ビールを2本取り出して1本を目黒慎二に渡した。そして乾杯して飲み始めた。
「さっきの話めっちゃ気になるわ」
「何やったっけ」
「南原さんが虐待事件になんで固執したか。私もあの事件でレポーターを辞めさせられたから気になんねん」
「それか。実は南原さんと利用者の家族は繋がっててん」
「え?どう言うこと?」
「前に南原さんと飯した時、ノリで相席居酒屋に行って上手いこと女性とカップルになったが相手の子はさくらやってん。しかもJK。その仕掛けたんが利用者の息子の田中浩市やってん。俺は写真撮られて5万取られたんやけど南原さんはテレビ局の人間やとばれて利用されててん」
「そうなんや。ええこと聞いたわ。ほな帰るわ。今日はごちそうさま。おおきに」
「ちょい待ち。ここまで来て帰すわけないやろ。意地でもやらせてもらうで」
松本結衣は携帯を取り出し会話を録音していた。それを目黒慎二に聞かせた。
「それ以上近づいたらこれ奥さんに聞かせるわよ。あっ」
目黒慎二は携帯を取り上げた。
「こんなもん、壊したらしまいや」
目黒慎二は携帯を床に叩きつけようとした。松本結衣は冷静に言った。
「私、今、フリーのルポライターやってんねん。だから、何があっもええように携帯のデータは家のパソコンに転送するようにしてんねん。そやから叩きつけてもええけど会話はなくならへんで。あと、弁償してや」
目黒慎二はベッドにへたり込んで大声で笑った。そして携帯を松本結衣に投げ返した。
「ったく。ほんまに女は怖いわ。最初から仕組んでたんか」
「ごめんね。私も生きて行くために必死なんよ」
「もう、早よう帰り」
松本結衣は部屋を出て行ったる
「どないすんねん。このもやもや感。デリヘルでも呼ぶか。えらい出費やな」
南原と浩市の関係が公になり2人は正義から訴訟を起こされた。南原はテレビ局を解雇された。記者に囲まれているのを遠目で見ている。松本に気づいて近寄った。
「やってくれたな。何でここまで…」
「お土産を持って合いに行くって聞かなかった?自分でも執念深い女やと思うわ」
「彼氏は苦労するやろな」
「おばちゃん、飯やで」
お盆の上にはちゃわんにご飯と味噌汁をいれて小皿にきゅうりの浅漬けとお茶が置いてあり、玄関に置かれた。それを岸本くに子はがっついて食べ始めた。認知症もかなり進んで自分が誰かもわからない状態だった。岸本くに子は田中浩市の敷地内に置いてあるプレハブで週に3回ホームヘルパーが来る時以外は軟禁されていた。面倒は田中守男が見ている。望の事件後すぐに退所した。田中浩市はさすがに「ふるさと」には預けづらくなり市役所を当てにして退所させたが受け入れ先が見つからず自宅で面倒を見ていた。妻の夏美はとっくに逃げ出していた。田中浩市は今までの悪事が明るみになり刑務所に居た。結局、守男が面倒を見るはめになった。逃げ出すことは出来たがさすがに見殺しには出来なかった。実のところ田中守男は岸本くに子を2、3回しか面識がなかった。元々守男は浩市の父親の従弟。岸本くに子とは関係なかった。排泄、入浴はすべてヘルパーに任せている。ヘルパーが来ない日は鍵を閉めたままでプレハブにはいつも悪臭が漂っていた。
有村青雲は「ふるさと」を知り合いの大手社団法人グループに委ねて住職に専念している。有村青雲も自身の罪を悔やんでいた。望を誘わなければこんなことにはならなかった。それは仕方ないことではあるが青雲は自身の事を許せずにいたのだ。毎日、望の事を思い朝早くからお経を唱えていた。足立施設長も責任を取って苑を去った。今は元妻・妙子の実家を手伝って農業をやっている。記者会見の直後に妙子からメールが入っていた。それからメールのやりとりをしているうちに寄りを戻すことになり、苑を辞めて行くあてのなかった足立に言葉をかけた。
「わがままなんはわかっているけど、もう1度一緒にやり直したい」
新しい施設長は関口統括が就任した。望の事件があった時に宇佐美副リーダーが見たものは山口職員が岸本くに子に腹圧をかけて介助を行っているところだった。特に女性はお腹を圧迫すると尿漏れが起こることがある。それを逆手に取った技法で尿や便の出が悪い人は腹圧をかけて排出させる。岸本くに子も便秘気味で何日も出ない時には腹圧をかけることがあった。圧かけると痛みがあり叫ぶ時がある。それがICレコーダーに残っていたのだ。田中浩市はそのことは知らなかったと思う。施設は大手グループから数人、職員が派遣されたこと以外は特に変化はなかった。岸本くに子以外にも利用者が亡くなったり、他の施設に移られたりして入れ替わりはあったが1人難儀な人がいなくなっても違う難儀な人が入所してくる。決して業務が楽になることはなかった。
「美空さんは?」
「今日はいい天気なので散歩にでかけてます」
松本結衣が訪れたのは町はずれの海辺沿いにある診療所だった。松本結衣が浜辺に行くと女性と車椅子に乗った人影があり海を見つめていた。松本結衣は近づいて声をかける。
「こんにちは。風が気持ちいいですね」
「松本さん…いつもすみません」
女性は白髪交じりでぼさぼさの長い髪をかき上げた。女性は歳のわりには若くみえた(みせてた?)知子だった。顔もやつれて昔の面影はなかった。
「訴訟なんとか勝てそうですよ」
「そうですか…でももとには戻らない」
車椅子に乗って海を眺めていたのは髪は短いが明らかに若い女性だった。
「愛美ちゃん、気持ちいいね」
返事はない。望が首を切った時に正義、知子、愛美はリビングのテレビで見ていた。望の居場所がわからないので搬送先の病院から電話がかかってくるまでどうしょうもなかった。すぐに搬送先の病院にむかった。望は出血多量で瀕死の状態で手術室に入っていた。待っている間、愛美は望の言葉を思い出して携帯で動画を見ていた。
「あー、あー」
急に携帯を落として愛美は暴れ出した。手術室のドアを叩いた。
「お兄ちゃん、ごめんなさい。ごめんなさい」
病院の関係者が愛美を止める。
「手術中なのでお静かにお願いします」
愛美は和馬から婚約破棄を言われた日に望を責めたことを思い出し首を切ったのは自分のせいだと思い込んだ。そして神経が切れて言葉が出なくなり意識が飛んでしまった。
愛美の療養のため美空夫婦はマンションを引き払ってこの町のアパートに引っ越した。看病のため知子はアパートには殆ど戻っていない。正義は転職して長期距離ドライバーとして全国を回っている。アパートには2~3週間に1回帰る程度ある。正義は仕事を終えてアパートに帰ってきた。手に持っていた袋からコンビニで買ってきたお好み焼きを取り出して1室にある仏壇に供え、線香を立てて手を合わせた。遺影には望が映っていた。
虐待にかかわった人はすべて不幸になって行く…