取り返すなら
この国は雨期である。主人はしとしと静かな雨で濡れた路地を、革靴で逃げている。追手の数は五人である。主人であるリーネは俺の力を存分に使っている。
魔法という大変便利なものがあるのに、両者とも走っている。リーネが走っているのには事情がある。体を浮かせられる魔法が使えないのと、手持ちの道具に飛行用の箒が無いからだ。逃げだした直後にそんなことを聞かせられた俺の気持ちはリーネにわかるはずがない。
リーネはこれ以上ないくらい必死で逃げている。呼吸音も掠れた音が大きく聞こえるようになった。これで足がもつれたりすれば、もうしばらくは起き上がったりはできないだろう。
気味の悪い追手は、こちらとの距離を一定に保ったままでいる。何が目的なのかわからない。あちらの体力があとどの程度かわからないのが特に不気味だ。
もどかしい。ずっと逃げ回っているくらいなら、早々と戦闘に持ち込んで、勝ってしまえばいい。しかし、話しかけたとて取り合わないだろう。リーネは目に見えて疲れ果てている。足が動き続けているはもはや意地としか思えない。それに、前の主人ほどこの主人が強いわけがない。頑固さという点ではもしかしたら優っているかもしれないが、そんなところが強くても仕方が無い。
主人の千鳥足が悪化してきた。張った意地も萎えてきたらしい。追手はまだ健在だ。それに距離が縮まっている気がする。とうとう仕留めに掛かったのかもしれない。主人はどうだろう。ひどい吐息しか聞こえない。言葉を忘れてしまったようだ。
主人の行く先に大きな木がある。その根は道の半分くらいまで張り出している。主人にはこれが見えているのだろうか。見えていないだろう。
張り出した根っこの周りの石畳は、不揃いに盛り上がっていた。まずそこで足をもつれさせた。もうここで転んでしまうのだろうと思っていたら、少し持ち直して一歩を踏み出した。しかし踏み出した先には根があった。表面はつるつると丸くなっていて、革靴の底とは相性最悪この上なかった。
べちゃ、と顔を水たまりに沈めた。起き上がろうにも、やはり力尽きている。それでも主人は、もがいて、あがいた。逃げてきた方から聞こえる足音が増えて、大きくなってきた。
主人は手負いの鹿だ。後ろ足に矢が刺さっているような、恐怖心で逃げ惑う様はまさにそれだ。焦りのあまり、石畳を撫でてしまっているのは愛らしさすら感じる。
「どっち」
「女の子!」
追手のさらに奥からまだ人が来るらしい。老人と少女は追手と争っている。この隙に主人には逃げてほしいが、まだ人間に戻れていないから無理そうだ。
悲鳴と金属音が止んで、主人の革靴と同じような音を鳴らしながら、二つ分の影が迫ってくる。主人はもう動かない。諦めているのではなく気絶している。
「寝てるね。この子、どうするの」
「宿に連れて行こう」
「宿?」
「そうさ」
「泊まるだけのお金、あったっけ」
「んん。このお嬢さん、見たところは良い身分そうだから」
「この人に払ってもらうの?」
「踏み倒すよ、追われているから人助けだと思って、とか言って」
「うわ」
「それから、お嬢さんの家に送り返そう。謝礼くらいはもらえるさ、きっと」
「うわ」
「宿はタダ。金はたんまり。うん、最高だ」
「悪い奴だ。憲兵を呼ぼう」
「そんなことしたら、君も一緒にお縄だよ」
「処刑台?」
「さあ、私はそうなるかもね」
「私は?」
「さあ」
何者だろうか。初老の男と少女は主人を囲んでいる。男は傘をさしている。その内に主人を入れるために身をかがめ、ついでに主人の顔を覗き込んだ。
「風邪をひいてしまうね。早く連れて行こう。このお嬢さん、ただ者じゃない気がする」
「この人たちはどうするの」
「風邪を引いてもらうよ」
男は背が高い。主人なら取り出すのに一苦労する棚も、彼なら余裕だ。いざという時に、主人の良い梯子になってくれそうだ。少女の方は、主人と同じくらいかそれより少し低い程度だろう。男と違った働きをしてきたのなら、行く先で目にするから今はこのくらいの観察で済ませた。
「この街のいい宿ってどこなの」
「カリオストロ、キャンドル、パメラかな。どこもそれなりに値は張るよ」
「仕事するときはどこを使うの」
二人は歩き始めた。
主人は男が抱き上げて、露払いは少女が務めている。二人に雨は降りかからない。その頭上にはいくつかの傘が浮いている。狭くて静かな路地に、少しだけ残された空を埋め尽くしている。少女より先を見てみれば、打ち付けられて粉々になった雨で地面に白い靄が出ている。少女が振り上げた足に、未練がましくまとわりつく雨が居た。男にそれは無く、先ほどの足音が嘘のように静かに歩いている。
「カリオストロだね」
「どうして?」
「カッコイイじゃないか。最高の魔法使いと同じ名前だ」
「カッコイイの?」
「ああ。カッコイイとも。私の憧れだ」
「じゃあ、カリオストロはもっとカッコいいね」
少女が振り返って男を指さした。男は不敵に笑って返事した。
「もちろんだとも。私は、憧れを超える世界一カッコイイ男、カリオストロさ」
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