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Chart1-1.「をちすひよもはにきどさつらえなにてち」

 ――ヤバい、ヤバい、ヤバい、ヤバい。


 折り重なるように倒れた鉄柱の陰に身を潜め、比良坂九十九ひらさかつくもは胸のロザリオを痛いほど握り締めた。ほんの数時間前までこの国きっての工業地帯として栄えていたフォトジェニックな街並みは、今はもう見る影もない。煌びやかなネオンライトは悉く消え去り、視界を照らすのは僅かな月明かりのみ。にもかかわらず、視界が開けて見えるのは覆い被さるように聳え立っていた高層ビル群が一掃されたからだろう。


 倒壊した建物や横転した車、壊れた家電、折れた木材、割れたプラスチックが雑然と積み上がった光景はまさに世紀末そのものだ。およそ2000万トンのゴミの山。そんな街の残骸が累々と積み上げられた瓦礫の中を、ジャリ、ジャリと足を踏み鳴らして近づいてくる気配がひとつ。


 地面越しに伝わってくるこの重圧感と全身の体毛が逆立つような緊張感。


 ――間違いない。あの悪魔が僕を探しているんだ。


 神様が創造したとされるこの世界には、人間のほかに悪魔が存在する。正確には悪魔に肉体を乗っ取られた元人間――悪魔憑きだ。


 瓦礫の陰からちらりと様子をうかがい、僕は改めて暗然と天を仰いだ。最悪だ。


 本来、悪魔は自らの肉体を持たない為、世界に干渉することは出来ない。アストラル(精神体)――つまるところ幽霊みたいな存在なのだ。


 では、どうやって悪さをするのかって? そんなの今更説明するまでもないだろう。悪魔は人間を唆し、身体を乗っ取ることでこの世界に受肉する。それこそあの化け物のように……。


 ――とはいえ、とはいえだ。


 まさかあんな化け物が受肉するなんて、一体誰が予想しただろうか。


 今回の悪魔討伐の為に編成された二十名近い部隊は、小一時間と経たずに全滅。それも赤子の手をひねるようにあっさりと――。


 仲間たちの凄惨な死に様を思い出して、僕は伸び上がるように身震いした。耳の奥にこびり付いた断末魔、雨のように降り注いだ血飛沫、大根さながらに輪切りにされた首や手足。目を瞑たると、脳裏に焼き付いた阿鼻叫喚の地獄絵図が鮮明に蘇ってきて恐怖心をまたぞろ駆り立てるのだ。


 ――他人事ではない。見つかれば次は僕がああなる番だ。


 物陰に身を潜め、身体を小さくして息を殺す。幸い、瓦礫の山と化した街並みには死角が多い。ここでじっとしていれば、そう簡単には見つからないだろう。


 月明かりが落とした影に紛れ、耳を澄まして気配を探る。廃墟の街にほかに動く者はない。それだけに静けさが悪魔の動向をくっきりと浮かび上がらせてくれている。


 右を向き、左を向き、翼を小さくはばたかせると、異常なまでに筋肉の発達した脚で地面を蹴る。一歩、また一歩と迫り来る足音は死のカウントダウンそのものようだ。


 ――頼む。お願いだから気づかないでくれ。そのまま通り過ぎてくれ。


 張り詰めた空気が緊張感を煽るのだろう。一分一秒が恐ろしく長く感じられる一方で、鼓動は早鐘を打つように脈を速めていく。額からじっとりと滲み出した脂汗。身体が火照っているせいか、夜気を孕んだ風はやけに冷たく感じられた。それでいて微かにガソリンのような臭いを孕んでいるのは、近くに関連の工場があるからだろう。


 ――二十数名もの審問官が束になって敵わなかった相手だ。落ちこぼれの僕なんかが勝てるわけがない。


 全世界の神事を司る最高機関――法王庁。その頂点に位置する枢機卿が各国の首相や大統領と肩を並べるほど権力を有していることからもわかるように、この世界では神様の存在は絶対であり、神様に敵対する悪魔は最も忌避される存在である。そしてそんな悪魔たちに対抗すべく組織された正義の代行者が比良坂九十九たち審問官というわけなのだが――蓋を開けて見ればこのざまだ。


 ――くそ、オペレーターがちゃんと仕事をしてくれていたら、こんなことにはならなかったのに……。


 通常、悪魔が受肉すると『コラン・ド・プランシー』と呼ばれる悪魔探知解析システムが作動し、解析した情報を管区会堂のオペレーター部隊が現場の審問官たちに連携する手筈になっている。が、しかし、今回に限ってはそれらの報告が一切入らなかったのだ。


 ――これほど強大な敵だとわかっていたら、撤退するという選択肢もあっただろう。少なくとも全滅するなんてことにはならなかったはずだ。


 ジャリ、ジャリ、ジャリ。


 夜風に乗って聞こえてくる足音は、間もなく二十メートルを切ろうとしている。僕の隠れている物陰からは目と鼻の先ほどの距離だ。


 ――何を言っても今更か。嘆いたところで死んだ者たちは生き返るわけではない。それよりも今はこのピンチをどう切り抜けるかだ。大丈夫。落ち着け。この暗さなら絶対に気づかれることはない。何より悪運が強い事だけが僕の取り柄じゃないか。十年前の事故の時だって僕一人だけは助かったんだ。今回だってきっと何とかなるはずさ。


 胸の前で小さく十字を切って天に祈る。


「神様、どうか僕をお救いください」


 そうだ。何も心配することはない。僕には神様がついているじゃないか。その為に今日まで毎日祈りを捧げてきたんだ。大丈夫。今度こそは絶対に神様が救ってくれるはずだ。何たって僕は神様に仕える審問官なんだから。


 そう自分自身に言い聞かせるも一抹の不安を拭えないのは、あの日のことがトラウマになっているからだろう。


 僕から両親を奪った十年前の飛行機事故。そういえばあの時も、墜落する飛行機の中でこうして神様に祈ったっけ。


 いや、僕だけじゃない。父さんも、母さんも、同じ飛行機に乗り合わせた乗客全員が声を張り上げ、心の底から神様に祈った。祈り続けた。けれども祈りが天に届くことはなく、飛行機は墜落して乗客は返らぬ人となった。僕、ただ一人を除いては。


 ――もしかしたら今回も神様は助けてくれないかもしれない。


 神様に仕える審問官が主に疑いを抱くなど絶対にあってはならないことだ。そう頭ではわかっていても疑わずにいられないのは、僕自身がこれまで一度として神様に救われた人間を見たことがないからだろう。その証拠に神様の奇跡はいつだって後付けだ。


 それでまた、僕は良からぬことを考えてしまう。


 もしかしたら神様なんてものは、端からこの世界には存在しないんじゃないか。だっておかしいじゃないか。神様はいるならば仲間たちがあれほど凄惨な死に方をすることはなかったはずだ。あの日の飛行機事故だって……。


 駄目だとわかっていても、胸の内で膨らむ猜疑心を止められない。考えれば考えるほど神様の存在が胡散臭く思えてくる。だってそうだろう。この世界でせっせと人間の願いを叶えているのは神様ではなく、悪魔のほうだから。


 だから悪魔に唆される人間が後を絶たないのだろう。あの日の飛行機事故で僕の隣に座っていた幼馴染が、そうであったように――。


 十年前の飛行機事故の生き残りは、僕一人だけ。記録上はそうなっているが、実際には遺体が見つからなかった者たちがたくさんいた。死亡が確認されたわけではなく、状況から死亡と判断されただけ。


 無論それも仕方ないことだと思う。あれだけの大事故だ。遺体が原型を留めているほうが稀だろう。死亡を確認できただけでも奇跡的。だから彼女の遺体が見つからなくても誰一人として疑問を抱くことはなかった。


 けれども――僕は知っている。飛行機が墜落する間際に、彼女が悪魔と契約したことを――。


 今頃、彼女はどうしているのだろうか? それらしい悪魔憑き事件の報告は入っていないが、普通の人間が悪魔と契約して十年近くも正気を保っていられるとは思えないので、きっと今頃は彼女もこいつみたいに身体を乗っ取られて化け物になっているのではないだろうか。


 自業自得と言ってしまえばそれまでかもしれない。悪魔と契約して自分だけが助かったのだから。


 とはいえ、あの時の状況を考えると同情の余地がないわけではない。少なくとも同じ状況を経験した僕には彼女の気持ちが痛いほどわかる。単にあの時悪魔が現れたのが僕ではなく彼女の前だっただけのこと。仮に立場が違っていたら、僕だって同じことをしたかもしれない。だからその点で彼女を恨むつもりはないのだが、ただ一つだけ引っ掛かっているとすれば、それは彼女が願いを叶える為に何を対価として悪魔に差し出したかということである。


 悪魔に肉体を乗っ取られるというのは、あくまで願いを叶えて貰った人間の末路であって取引の条件ではない。


 願いを叶えてやる代わりに肉体をよこせ、と言われて、はいそうですか、と契約する人間はいないだろう。だから悪魔は願いを叶える対価として、その人間が一番大切にしているものを要求するのだ。正確にはそれを差し出すことで契約者が負い目を感じ、罪悪感に苛まれ、後に悪魔が肉体を乗っ取る際に心を揺さぶることができるトラウマとなるもの。


 ――あの時、彼女が悪魔に要求されたものは乗客の命だったのではないか?


 無論、乗客の命が彼女の所有物でないことは百も承知の上。考えようによっては痛くもかゆくもない取引だろう。が、それでも『自分一人が助かる為に乗客全員を身代わりにした』という事実は、彼女にとっては何よりも重い十字架となるはずだ。なぜならあの飛行機には彼女の両親も乗っていたのだから。


 すべて僕の憶測だ。けれども結果として飛行機は墜落し、彼女は真相と共に藪の中へと消えた。


 ――だから僕は審問官になったんだ。あの日の事故の真相を確かめる為に……。


 もしもあの時、彼女が自分の願いの為に乗客全員を身代わりにしたのだとしたら――僕は絶対に彼女を許さないだろう。そしてそれを要求した悪魔も同罪だ。どんな手を使ってでも罪を償わせてやる。その為にも何としてでもこの場を乗り切らなければ――。


 鼻から静かに息を吐き出すと、僕は今一度鉄骨の陰から顔を覗かせた。月明かりが瓦礫に落とした巨大なシルエット。その長く伸びた影の先を視線で辿っていくと、身の丈三メートルを超える化け物の姿が見える。


 背中に鷹の翼を生やし、尻に蠍の尾を携え、顔は子供の頃に図鑑で見たライオンそのものだ。改めてその異形の姿に圧倒される。人間だった時の面影なんてこれっぽっちも残っていない。それに加えてあの風を操る異能の力だ。


 メネラウス地区に立ち並んだ高層ビル群を豆腐のように切り刻んだ熱風のダストデビル。あれほど強大な力を持った悪魔は今だ嘗て見たことも聞いたこともない。少なくともこれまで相手にしてきた低級悪魔グリゴリにはできない芸当だろう。となると、必然的に神話の魔神クラスということになるが――。


「まさか……位階持ちの悪魔が受肉するなんて、そんなことが……」


 生唾を飲んで、またぞろ首を振る。


 あり得ない話だ。神話の魔神が受肉したとなれば、それこそ世界滅亡の危機だぞ。人間の力でどうこうできるレベルの問題ではない。


 マジマジと観察していると、不意に悪魔と目が合った気がして僕は慌てて顔を引っ込めた。


 動揺する心臓を手で擦り、大きく溜息を吐き出す。


 ――危ない、危なく見つかるところだった。油断するな。こいつは命を賭けたかくれんぼ。見つかったら、即ゲームオーバーだ。


 と、思った矢先、悪魔の鉤爪が地面を蹴り、僕の表情は凍りついた。


 背中に感じる威圧感が増した。こちらに向かって近づいてくる。ジャリ、ジャリと瓦礫を踏み砕く足音は、鉄柱のすぐ後ろまで迫ってきていた。今にも息遣いが聞こえてきそうな距離だ。


 ――嘘だろ。どうしてこっちに来るんだよ。……まさか、見つかったのか? いや、そんなはずはない。あの一瞬でも、しかもこの暗闇で気づくはずがない。大丈夫だ。落ち着け。


 恐怖に耐え切れず目を瞑る。地響きのような足音が、一歩、また一歩と大きくなるにつれて、それまで漠然としていた死が急速に形を成していくようだった。


 生命の終わり。自我の消失。二度と目覚めることのない眠り。


 ――人間は死んだらどうなるんだ? 死後の世界は本当に存在しているのか? 父さんや母さんに会えるのだろうか?


 神様の教えが本当ならば、人間は死んだ後に天国へ招かれる。天国とはすべての苦しみから解き放たれた極楽浄土。何なら人々は死後そこへ招かれる為に神様を信仰していると言っても過言ではないだろう。それなのに――なぜ人々はこれほどまでに死を恐れるのだろうか?


 死が苦悩からの解放ならば、何も恐れることはないはずだ。むしろこれまでの信仰が報われる時が来たのだから、喜んで受け入れるべきことではないか。それなのにあれほど信仰心の厚かった審問官たちでさえ、皆一様に死を恐れ、逃げ惑い、断末魔を上げながら死んでいった。


 そんな光景を目の当たりにしてしまったからだろう。一度は形を潜めた猜疑心がまたぞろ顔を覗かせ、囁き掛ける。


 ――やっぱり全部嘘なんじゃないか。神様も、天国も、死の恐怖から逃れる為に人間が創作した作り話で、実際には存在しないのかもしれない。


 信じたくない。信じたくないが、そう考えるとすべての辻褄が合う。誰も救われない世界。死を恐れる人々。みんな本当はわかっているのではないか。神様なんて全部嘘っぱちだって。けれどもそれを認めてしまったら正気ではいられなくなる。死の恐怖でおかしくなってしまう。だから信じたふりをしているだけなのではないか――と考えて僕は筆舌に尽くしがたい恐怖に襲われた。杞憂が現実になったとでも言えばいいだろうか。自分の中で大切な何かが音を立てて崩れていくような感覚。


 ――駄目だ。考えるな。それを認めてしまったら悪魔と同じだ。審問官としてやっていけなくなる。神様は絶対だ。信じろ。疑うな。あの日の真実を確かめるんだろう。その為に審問官になったんだろう。


「神様、一生のお願いです。一度だけ、一度だけでいいから僕を救ってください。その一度で僕はあなたのことを信じることができる……」


 藁にも縋る思いで夜空に呼びかける。と、そんな僕の祈りに応えるように、化け物の足音が一歩、また一歩と遠ざかっていく。


 良かった。助かったんだ。これで死なずに済む。


 そう胸を撫で下ろした矢先のこと、暗がりの向こうから甲高い声が響いた。


「何をぼさっとしているのですか? 早くそいつを撃ちなさい」


 女性の声だ。同時に悪魔の足音がピタリと歩みを止める。声したほうを振り返り、それから何かに気づいたようにこちらを振り返る。瓦礫越しに突き刺さるような視線を感じて、僕はビクッと身体を強張らせた。


 ――僕に以外にも生きていた者がいたんだ。


 嬉しさよりも怒りが勝る。この期に及んで余計なことを…。


 あのまま大人しくしていれば悪魔は僕の存在に気づかず、この場を後にしていたことだろう。死なずに済んだはずだ。それなのに…。


 嫌な汗を背中に感じながらギリギリと奥歯を噛み締めている。今ので間違いなく、悪魔は生き残りの存在に気づいたに違いない。もう逃げられない。両手で顔を覆い、暗然と絶望に暮れていると、またしても暗がりから女性の声が響く。


「あなたも審問官なら戦いなさい。例え死んでも戦って神の威光を示すのです」


 聞き覚えのある声だった。妄信的なまでの信仰心、加えてこの居丈高な物言いは――、間違いない。同じ審問官部隊の副官を務める伊勢之宮阿呼いせのみやあこだ。


 ノーブルショートボブの小柄な女性審問官の顔を思い出して、僕は思わず叫びたくなる。よりにもよって僕以外の生き残りが、あのくそ真面目で融通が利かない、良家のお嬢様とは――。


 ――くそ、あいつはいつだってそうだ。僕を目の敵にして、余計なことばかりする。現に今だって、黙っていれば死なずに済んだものをわざわざ敵に見つかるような真似をしやがって。


 ――そんなに死にたければ、自分ひとりで死ねばいいじゃないか。


 恨む事が今にも口から溢れ出しそうになる。出来ることならば、今すぐ彼女に駆け寄り、怒りの丈をぶちまけてやりたいくらいだ。けれども、今の僕にそんなことをしている余裕はない。


 ザクッ、ザクッと瓦礫を踏み分けて近づいてくる足音。


 涙で滲んだ瞳で一瞬天を仰ぎ、覚悟を決めるように大きく息を吐いてから腰に巻いたホルスターの拳銃にて手を掛ける。歯向かったところで無駄だということはわかっている。それでも死に抗わずにいられないのは、生物としての本能なのだろう。


 もし本当にこの世に神様が存在するならば、そいつはきっと手の施しようがないほどに性格がねじ曲がっているに違いない。


 ――そしてどうやら僕はその神様って奴にとことん嫌われているらしかった。


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