第八服 光宿朽館
武田元光は若狭を発した。自身直卒の兵ではなく、粟屋党の兵であったことに元光の高国離れか見え隠れする。そして、その兵は近江に入り、朽木へと向かった。
光朽館に宿す
足引の山に生ひたるしらかしの
知らじな人を朽木なりとも
若狭武田氏の軍勢は、九里半越の中ほどにある国境の若狭側の峠――熊川峠を過ぎ、近江に入って一つ目の集落・保坂を南に折れて、朽木街道を、既に半刻ほど歩いていた。両側に迫り上がる山の向こうに朽木谷を擁する小椋栖山が見えている。大永四年九月廿八日朝に熊川宿を出て、既に昼時を迎えていた。
朽木――ここは近江国の北西部にある高島郡の最南部にして、山城国に接する。それ故、若狭と京を結ぶ街道筋に古くから開けた宿場町として発展した。若狭小浜と京を結ぶ街道の内、最も人が行交っている。
また、朽木は古来から京への木材の供給地で、この時代の最高級食材である椎茸を産し、現代でも原木の生産で知られる。松茸や山菜なども豊富で、新鮮な食材を京都に提供してきた。京から半日の距離にある朽木は、若狭街道と安曇川が交差しており、陸運と水運の接続点・中継基地として重宝がられていた。
朽木のある近江は日本最大の淡水湖である琵琶湖――この当時は淡海湖――淡海を擁する、山城国に隣接する国の中で最も大きな国でもある。ちなみに琵琶湖という呼称は、江戸時代に定着したもので、測量技術が発達して湖全域の地図が作られるようになり、湖の形が辨財天の持つ琵琶に似ていことが分かったからだ。この時代はまだ琵琶湖と呼ばれていない。その日本最大の淡水湖である淡海では湖上水運が発達し、湖南から淡海のほぼ全域を抑える堅田党と湖北の一部を扼する菅浦党が湖賊として常に争っていた。
別名江州とも呼ばれ、東山道に属する近江であるが、関西――墨俣の関よりも西にあるため、現代では畿内と合わせて近畿地方と呼ぶ。これは物理的に京との距離が近い土地柄と、河川交通によって摂津や和泉までを交易圏にしていることも相俟っているからだが、それ故にこの当時の幕府や朝廷の影響を受けやすかった。望むと望まざるとに関わらず、中央の権力争いに巻き込まている。
近江は湖を中心に南側を江南・江東、北側を江北・江西と呼び分けている。江西は高島郡全域、江北は伊香郡・浅井郡・坂田郡、江東は犬上郡・愛智郡・神崎郡、江南は滋賀郡・栗太郡・蒲生郡・甲賀郡・野洲郡であった。郡は十二を数えるも、国土の六分の一を湖に占められている。近江盆地がやや南から東よりに拓け、穀倉地帯となっており、南近江はかなり豊かだ。東の国境は伊吹山地が美濃との境であり、米原から天野川を遡って国境を越えれば関ケ原に抜ける辺りが渓谷となっている。その南の鈴鹿山地が伊勢とを隔てる。山中にある伊賀には甲賀郡から街道が通り、伊勢に通じていた。近江最大の街道といえば越前に抜ける北|国街道で、湖の西岸と東岸をぐるりと囲んで京と北陸を結び、それぞれ西近江路・東近江路と呼ばれる。
国力等級は大国、距離等級は近国で、後の太閤検地では七十七万五千石と全国二位を誇る米の生産量がある。さらに、近江商人と呼ばれる水運と陸運に跨がる商活動に熱心な者たちの本拠地であり、経済的価値も高かった。
軍勢の中央よりやや前方に馬を進める武田伊豆守元光と轡を並べた粟屋孫四郎勝春が近習らしく主を気遣って話しかける。
「朽木様も、御屋形様との再会を心待ちになさっておいででしょう」
「だといいのだが、な。弥五郎殿の立場も厳しいものがあろうて」
勝春のいう朽木様とは、佐々木民部少輔稙綱のことである。弥五郎は朽木氏歴代当主の仮名で、対等な者や親しい者だけの呼称だ。元光は自分が一つ違いの年上であることと、お互い当主である気安さもあって弥五郎殿と呼んでいる。稙綱も元光を彦次郎殿と呼んでいた。元光が上洛する度に朽木を通るため、稙綱と元光は幾度となく酒を酌み交わした気心の知れた相手となっている。
元光としても朽木稙綱が若狭と京を結ぶ交易中継地の領主であることもあり、とりわけ友好的に接していた。
朽木氏は外様衆とはいえ将軍偏諱を受ける家柄故、多少の遠慮がないでもなかった。それでも、ともに幕府方である限りは同陣営の仲間である。
朽木氏は高島郡に根を張る高島七頭の一つで、高島七頭とは、
清水山城の高島氏 越中守
平井城の平井氏 能登守
永田城の永田氏 伊豆守
朽木城の朽木氏 出羽守
横山城の横山氏 佐渡守
田中城の田中氏 伯耆守
五番領城の山崎氏 下総守
のことである。山崎氏を除いてすべて同流の西佐々木氏だが、山崎氏も佐々木氏ではある。高島氏が惣領であったが、若狭街道を擁した朽木氏が勢力を大きく伸ばし、高島氏を凌ぎはじめていた。高島氏・永田氏・朽木氏は兄弟分で、平井氏は高島氏の分流、横山氏と田中氏は朽木氏の庶流にあたる。
朽木氏は先々代当主貞綱の子・貞親が義材より偏諱を受け材秀を、その嫡子も復位して改名した義稙より偏諱を受けて稙広を名乗った。材秀は永正十三年に急逝したため、幼少で家督した稙広を大叔父の貞清が支えたが、先年亡くなっている。その後、稙広は第二子に恵まれ、元光も祝いの品を贈っていた。民部少輔を任官し、名を稙綱に改めたのは大叔父歿後のことである。
「色々と難しい時代よな……」
元光には祖父・国信のように将軍家を支えていればいい時代ではなくなっている感覚があった。それは凡そ間違いではあるまい。国信がそうしたように、父・元信も在京が多く、度重なる出兵に民の不満が溜まり、さらには国主不在で在地支配の箍が緩み、一揆を引き起こしそうになったこともあった。細川高国が大内義興と結び、義稙を推戴した辺りから、義澄派であった元信は京を辞した。
父も将軍家を支えようとしていたし、元光もそれで畿内が平穏になるならば我が身の労苦など惜しみもしない。しかし、時代は最早足利家を推戴して立て直せるような状況ではなかった。幕府の求心力はほぼ無くなり、有力大名である細川京兆家に推戴されねば維持できない上に、その細川京兆家が分裂して争っている。それ故、積極的に幕府に関わろうという気は元光には無くなっていた。それよりも、独立独歩できる体制を整えることに奔走している。
そして、大名という立場から見れば、半独立の国人衆など目障りなだけである――という考えを元光も持っていた。武田氏とて、国人衆の仕置に苦労している。ましてや、同格の分家が多い近江はまとめ上げるのに気苦労の多いことだろうと六角定頼に同情もする。元光とて、信親派であった逸見氏の反撥に手を焼いているのだ。一門衆といっても、当主が制禦できないのでは統治に邪魔な存在でしかないのである。その上、代々の宿敵である丹後一色氏に加え、朝倉氏も西進の構えを見せていた。朝倉氏が若狭進出にそこまで積極的ではないのは、加賀の一向一揆を警戒してのことである。このため、武田新五郎信久を通じて、本願寺と連携し、朝倉家の後方撹乱を依頼していた。
「あと一刻もすれば朽木城も見えて参りましょう。あれが父の申していた小椋栖山ですかな?」
押し黙った元光に勝春が饒舌に父との思い出を話す。それでも猶黙ったままの元光を訝しげに見ると、元光が難しい顔をしていた。
「御屋形様、如何なさいましたか?」
「いやな……いつまでこんな世が続くのかと思ってな」
応仁の乱――文明九年から始まった戦乱の世も既に五十年以上が経っている。元光が生まれた明応三年は既に戦乱のさなかにあり、これからもまだまだ続くのだろう。それでも――
「戦のない世など、どうしたら訪れるのか――などと考えても埒もないのだが」
そういいながらも行く手に見える朽木の渓谷を眺めながら、再び考えてしまう。
元光は若狭武田の当主であり、直臣や一門、その家族、家人を背負っている。宿老たちを上手く抑えながら家臣らの謀反の芽を摘み取り、より強く在らねばならなかった。
父が文化的な連歌や茶の湯に惹かれたのも分かる気がした。ささ
統治は一筋縄では行かぬが故に芸事によって人脈を広げ、家臣とも主従以外の繋がりを持たねばならぬのだ。武辺者だった伯父・信親や、逸見氏はそれを懦弱と忌み嫌っていたが、結果としてその文化的な繋がりが細川家との紐帯を強くしている。また、そのお陰で元光は連歌に深入りしてはいないまでも、三条西家の逍遥院殿とは交流があり、公家筋の話の速さに助けられていた。
「それであれば、御屋形様が細川様とともに上様をお守りすればよいのでは?」
「玉華院様の頃ならば、あるいはな。だが……」
玉華院とは武田国信の院号で、小浜にある菩提寺である。この当時の武家や公家は故人を諱ではなく、菩提寺名や追尊で呼ぶことが多く、諱が「忌み名」であるからだ。将軍を「公方」や「大樹」と呼ぶのも同じである。
さて、将軍が自らの力で京を保持できなくなって久しい。細川政元以来、幕政は細川京兆家の独擅場であった。その細川氏が将軍家を二つに割り、自らも二つに割れて争い続けていたのでは、天下の静謐を取り戻すなど夢のまた夢である。
近江では六角氏や浅井氏の山城方面への勢力伸長を押し留めているのが高島七頭であり、その中で最も将軍家から頼りにされているのが朽木氏だった。ただ、その七頭も徐々に六角氏や浅井氏に取り込まれつつある。
朽木氏は、近江源氏――すなわち宇多源氏の一族で、宇多天皇の玄孫・源成頼の孫・源二郎経方を鼻祖とする。成頼が近江国佐々木庄に下向、経方が土着した。一族は近江国一円に拡がり、経方の孫・三郎秀義は源太郎義朝に従って平治の乱に加わるも敗れ、奥州に下向するところを渋谷六郎重国に留められ、その女婿となった。秀義の子ら四人・太郎定綱、次郎経高、三郎盛綱、四郎高綱は頼朝の挙兵に馳せ参じ、それぞれ幕府創設の功臣として遇され御家人となった。しかし、承久の乱で、定綱の嫡子・小太郎広綱をはじめ多くの一門が上皇方に付いてしまう。そんな中、北条義時の女婿であった定綱の四子・四郎信綱は幕府方に付いたことで、中興の祖となった。
信綱の次子・次郎高信が西佐々木氏の祖で、西近江の高島郡朽木庄の地頭を得て高島郡に入り、清水山城に拠った。清水山城は安曇川の河口付近にある山城である。
高信の次子・又次郎頼綱の長子・三郎頼信は横山氏の祖となり、次子・四郎氏頼は田中氏の祖、三子・弥五郎泰綱が朽木氏の祖となった。以来、綱を通字としている。
高島七頭は佐々木越中守家を惣領ではあるが、七家全てが独立した御家人であり、其々が外様衆であった。高島七頭の内、六氏は佐々木高信の庶流だが、山崎氏だけは経方の子・四郎家行が愛智氏を称し、その五男・山崎六郎憲家を祖とする。
江南では佐々木氏の嫡流六角氏による分家や国人らの家臣化が行われており、高島七頭の庶流らも六角氏に仕えて本領を安堵されるものが出ていた。永正十七年に家督した六角定頼は戦国大名として家臣団を再編している。高島七頭も六角氏に押されて徐々にその傘下に入りつつあった。しかし、高島七頭には外様衆とは雖も将軍直臣であるという誇りがあり、特に朽木氏は将軍家の盾であるという意識が強い。とはいえ、現実的には副管領の権威と江南・江東を抑えた六角氏の武威に耐えかね、下風に立たざるを得ないというのが実情であった。
若狭武田氏も内訌を経ている。但し、他家と異なるのは伯父・信親と父・元信の代で収まったことだ。身内で争うなど、国力を削ぐだけの行為であり、大名家としては没落を招くだけで、画餅に帰すだけであった。
元光とて、父・元信とは考え方が違っていたが、家督するまでと忍耐の日々を送っていた。
いざ当主になってみると将軍家との繋がりを絶つことはできないと分かる。故に、幕府から要請されれば軍旅を催さざるを得なかった。軍を起こせば費えが失われると解っていても、細川氏と将軍家に睨まれれば、丹後国守護職を手にすることが叶わなくなる。
対立する一色氏とて若狭国守護職を取り戻そうと細川高国と縁組みをしていた。
丹後加佐郡の由良川以東を領した武田氏は、下志万の海賊衆を従えて若狭湾をほぼ統一した。与謝郡への侵攻は府中の延永春信によって阻まれているものの、由良浜や宮津には海賊衆は居らず、畿内への出兵がなければ丹後攻略を進めたい所である。しかし、一色氏側は丹後半島の向こう側にある久美浜の伊賀氏配下の海賊衆に度々若狭湾へ入寇させていた。後瀬山城の築城と加佐郡の保持は若狭湾の安全を確保するためでもあった。
永正九年に一色左京大夫義有が歿し、近年一色氏と高国の仲は疎遠となっていた。さらに、武田氏が幕府方に帰参した今、付け入る隙もありそうである。
「そろそろにございますな」
「そうか」
勝春の視線の向こうには隅立ち四つ目結――朽木氏の家紋が描かれた幟の立ち並ぶ城館が見えた。
城というと、現代の感覚では天守閣があり、石垣の上に曲輪が張り巡らされている物を思い起こすが、この当時の城は土手が巡らされ、その奥に平屋建ての館があり、それを曲輪が囲んでいるような簡素な造りが一般的で、朽木城は平城であることもあり、現代の感覚でいうと館である。川を濠として使うか、川から水を引いて濠を満たすこともあった。朽木城は南に安曇川、西に北川があるため、南側の正門前に川の水を引いた濠が東西に走る。ここは平時の政庁と領主一族の生活拠点であり、戦になると山城に籠もらなければならなかった。朽木城も多分に漏れず詰城が朽木城の南南西十二町離れた西山にあった。西山城は主曲輪に細く鈎のように曲った北曲輪と、広場のようになった南曲輪を持つ山城で、北に堀切が二重に設けられ、南に堀切が一つ。城戸口は西に向いており、東からは出入りできないようになっている。
どちらの城も余所から来た二〇〇〇もの兵卒らを全員収容出来る筈もなく、上柏の指月谷にある朽木氏の菩提寺である興聖寺に案内された。兵らは寺の外に野営である。初めは元光も兵卒らと共に興聖寺に宿泊する予定であったが、稙綱に館の離れを勧められ、今日だけは世話になることとした。
「彦次郎殿も、大変にござりますなぁ」
のんびりした声を出したのは朽木稙綱である。稙綱は存外細やかな気遣いができるのに、風貌は粗忽者にみえ、中身は風流であるのに容姿は野暮ったさが抜けきれなかった。元光などはそこに和らぎと親しみを感じるのだが、本人はどう思っているのだろうか。
「いやいや、弥五郎殿ほどでは御座らぬよ。近頃は観音寺殿に伺候されているとか」
「ご存知であられたか」
知らぬ筈もない。永正十四年の丹後出兵の後詰に朽木の軍勢を送るとの約定を六角氏綱は武田元信と交わして置きながら、稙綱に断られ続け、それが原因で氏綱を怒らせ、あわや戦端を開きかけた。これは、稙綱から事前に武田氏へ打診があり、元信了承の下の振りである。それが原因で大永二年に蒲生藤兵衛尉秀紀が叛旗を翻した際には八ヶ月にも及ぶ長在陣を強いられた。
「観音寺殿も近江統一を急いでおられるのであろう?」
「上平寺殿も不甲斐ないようで」
京極治部少輔材宗およびその父・京極大膳大夫政経と京極中務少輔秀綱の家督争いが三十五年続きようやく終結した。
この京極騒乱は文明二年に嫡子・京極中務少輔勝秀と当主・京極大膳大夫持清が立て続けに病歿したことに端を発する。持清が勝秀の嫡子・孫童子丸よりも庶長子・乙童子丸を溺愛していた。
孫童子丸には持清の三男・政経と一族の近江守護代・多賀豊後守高忠が、乙童子丸には持清の次男・政光と飛騨守護代・多賀出雲守清直が付き対立。政光と清直は西軍に転じて、六角高頼と和睦、孫童子丸派への攻勢を強めるも、翌三年に孫童子丸が夭折。文明四年九月末に六角高頼・持是院妙椿と連合して東軍派を破り、政経・高忠らは越前へ敗走する。政光が病死し、多賀清直・兵衛四郎宗直父子が乙童子丸を補佐した。
文明七年九月に、政経は出雲の国人衆を率いて上洛、近江奪還を下命された。東軍の支援を受け、観音寺城下で西軍派と戦い大勝する。敗れた六角高頼は観音寺城へ籠城し、京極秀綱は江北へ撤退した。翌十月、土岐美濃守成頼と斯波治部大輔義廉の援軍が近江へ到着し、秀綱は六角・斯波・土岐の連合軍と共に政経らを破り、多賀高忠を京都に逐う。
文明十三年、多賀宗直は政経・高忠と和睦し、秀綱が当主となった。文明十八年八月、政経が再び上洛、宗直が秀綱に叛いたため、秀綱は甲賀郡へと逃れる。十月、反撃した秀綱は宗直を美濃に逐った。翌長享元年五月に宗直が美濃から江北へ戻るも秀綱に討たれる。
六角征伐中の長享二年八月に政経・治部少輔経秀・多賀豊後守経家らが挙兵。秀綱は近江松尾で戦い、政経と多賀経家を伊勢梅津へ敗走させるも、翌延徳元年に近江国人衆の支持を得た政経に敗れ、延徳二年に岳父で美濃守護代の斎藤右馬丞利国を頼り、越前敦賀、次いで近江坂本へ逃れる。だが、京極政経は配下の所領横領を阻止出来ず失脚、明応元年十二月、再び秀綱が当主となった。
明応二年四月、明応の政変で足利義高が将軍に就き、秀綱は偏諱を受け、高秀と改める。同年九月に高秀は斎藤妙純に支援され北近江へ復帰した。
明応五年十二月、斎藤妙純が討死すると高秀も没落、美濃海津に寄留した。明応八年八月、国人衆をまとめた上坂治部大輔家信により高秀は江北へと帰還。家信は文亀元年6月、永正二年の京極材宗の二度に渡る襲撃も退け、同年冬に材宗と箕浦日光寺で和睦し、京極騒乱は終結。高秀は家信を執政に任じた。
大永元年に家信が歿すと、嗣子・治部丞信光が跡を継ぐ。しかし、京極騒動を鎮めた家信の執政を受け容れた国人らも、信光の専横は受け入れ難く、反発が強まった。
翌年、高清の後継者問題が持ち上がる。高清は次子・小六郎高吉を推していたが、これに反発した浅井備前守亮政・三田村左衛門大夫忠政・堀次郎左衛門元積・今井備中守秀信ら江北の国人衆は浅井郡草野郷にある大声寺塔頭の梅本坊で談合して尾上城主・浅見対馬守貞則を盟主とした反信光の国一揆を結び、同三年三月九日尾上城に籠もった。長子・六郎高峰を擁立する取り決めを交わした。
この動きに信光は今浜城に軍勢を集め、尾上城にほど近い安養寺に陣を張った。しかし、浅見・浅井の軍勢に打ち破られ、今浜城に逃げるも一揆勢に追撃され陥落する。今浜城を落ちた信光は、翌四年、刈安尾城にも攻め寄せられ、さらに脱出した。高清と高吉も信光とともに尾張へと落ち延びた。
一揆勢は刈安尾城に留まった高峰を奉じて神照寺に入り、尾上城に迎えて高峰が当主となり、名を高延と改めた。執政には浅見貞則が就く。しかし、浅見貞則も専横が多く、国人らはこれに反撥、浅井亮政は小谷城を築城してこれに対抗し始めた。小谷城は永正十三年に築かれた浅井氏の本城である。
「老獪な備前殿相手では、上平寺殿など赤子の手を捻るようなもの……」
「如何様。暫くは観音寺殿の目は江北に向くかと。其某如きに関煩って居る暇などないかと」
確かに六角定頼の意識は江北の京極領へ向いている。
「彦次郎殿とて、武州殿からの軍催促に御座ろう?」
「いや、此度は京の警固に御座る」
稙綱は意外そうな顔をした。
「警固故、粟屋孫四郎に任せ、某は一人、母の菩提を弔おうと思ってな」
「四郎左殿のご子息か」
元光が肯く。此度の軍勢は粟屋党のみで、元泰を将にしても良かったのだが、勝春を抜擢した。
「で、武州殿は何処に兵を出されなさる?」
「嵐山殿と神尾山殿が南に出立するそうな」
稙綱が首を傾げた。今、南に戦火はない。となれば、援軍ではない香西四郎左衛門尉元盛と柳本五郎左衛門尉賢治の向かう先は――
「和泉か!」
「で、あろうな。和泉上守護家の刑部殿は讃州家に属いて阿波と行き来されておる故」
安堵の表情を見せる稙綱に、元光は少しだけ救われた思いがした。
大変長らくお待たせいたしました。
三ヶ月振りの投稿になります。
前話に引き続き、武田元光のお話です。
ようやく近江に入り、若狭街道を南下します。
2023.2.28
誤字訂正のついでに一部改稿。
2023.5.28
冒頭に和歌を添えました。
令和5年11月20日
細川高国の官途が誤っていたので修正。
令和7年1月28日
分割版のリライトに伴う加筆訂正を反映しました。