人物紹介(三)
■序服■
日承【にちじょう】
生歿年■文亀元年〜天正七年
配役■猪野学
室町後期の法華宗の僧。式部卿伏見宮邦高親王の子。天文十四年、帰洛して本能寺を再建した。それ以前は尼崎の本興寺で門前町の振興に取り組み三好氏との折衝役を務めた。本興寺は細川満元が城主であった大物城の近くにあり、細川京兆家の庇護を受けていたが、京兆家が衰えると三好氏に通じる。三好元長とは顕本寺を通じて親交があり、摂津における元長の相談役であった。
朝倉教景【あさくら のりかげ】
生歿年■文明九年〜天文廿四年九月八日
配役■高橋英樹
朝倉孝景の八男。朝倉氏景の弟。甥の朝倉貞景、大甥の朝倉孝景(宗淳)、朝倉義景の三代の朝倉氏当主を一族の宿老としてよく補佐し、各地を転戦して武名を轟かせた。宗滴は法名。通称小太郎、のち太郎左衛門尉。文亀三年、従弟景豊の謀反に加わりながら結局惣領貞景方に寝返り、景豊に代わって敦賀郡司となったが、これは本来嫡子だった教景が、父が亡くなった際に幼少だったため庶流の兄氏景が家督したことを恨んでのことで、氏景の支配体制が盤石であったことから、景豊を見限り、貞景に密告したものである。以後越前、加賀などの一向一揆を討つのに功績があり、貞景、孝景、義景の当主3代に重鎮として仕え、長く宗家を支えた。宗滴の談話を側近萩原某が筆録した『朝倉宗滴話記』には、18歳から79歳まで12度合戦に出て、うち3度は自分の刀で敵を討ったというような体験談や、「武者は犬と言われようと畜生と言われようと勝つのが一番」といった戦国武将の心得などが語られている。隣国若狭羽賀寺には「自国他国共に名を後世に揚げらるべしと万人褒美せられおわんぬ」との記録がみえ(『羽賀寺年中行事』)、禅宗の高僧月舟寿桂 は宗滴の武勇とともに「仁愛の博きこと、忠信の敦きこと」を称賛している。また文芸にも長じ、連歌師宗長との親交もみられ、漢作唐物の大名物『九十九髪茄子』を所有していたことでも知られる。本作では朝倉宗滴の所持していた茄子茶入を『如意宝珠』とした。
朝倉景紀【あさくら かげのり】
生歿年■永正二年~元亀三年五月一日
配役■松岡昌宏
朝倉貞景の四男で、大叔父・宗適の養子となった。養父に劣らず武勇に長け、大永七年の京都出陣、享禄四年の加賀国出陣に従軍し活躍した。享禄四年頃に敦賀郡司職に就く。郡司職は永禄元年頃に嫡男・景垙へ譲るが、その後も敦賀郡司家を代表して軍事行動を行い、永禄四年五月、若狭武田氏の要請で朝倉軍総大将として出陣し逸見氏の叛乱を鎮圧している。また、永禄六年から永禄十一年にかけて若狭国三方郡の粟屋勝久を攻撃、刈田狼藉を繰り返している。しかし、永禄七年九月二日、加賀出陣の際、景垙が朝倉景鏡と大将の座を巡り争いを起こし、敗れて陣中で自害すると、憤慨して景垙の子・七郎を連れて自領へ隠居した。以後、両者は激しく対立し、足利義昭が一乗谷に入った際も、席次を巡って争いを起こし、一方が義昭の元へ伺候すると一方は不参するという有様だった。その後、織田信長の金ヶ崎城攻略により子・景恒が没落し、敦賀郡司職も廃止され、失意のうちに死去した。永禄3年(1560年)に一乗谷で行われた連歌会の興行担当や、永禄5年(1562年)の曲水宴の歌会にも参加するなど、義父・宗滴と同じく和歌・連歌などにも造詣が深い文武両道の人物であったとされる。
伊佐宋雲【いさ そううん】
生歿年不詳
配役■なし
近江佐々木氏の庶流で長門伊佐氏。五代にわたる将軍家近習。源三直綱――五郎左衛門尉氏綱─六郎左衛門尉範綱─七郎左衛門尉茂綱─七郎左衛門尉康綱の内、宋雲に合致するのは範綱か茂綱。本作では七郎左衛門尉茂綱とした。山名政豊との関係は不明だが、義政公より遣わされて政豊の危急を救う功を立てるなどをして、茶入を譲られたか。本作においては、茶入を質種にしていたとした。名前だけの人物だが、九十九髪茄子の来歴に名があるので取り上げた。
■第廿一服■
武野仲久【たけの なかひさ】
生歿年■長禄元年〜天文八年
配役■大森南朋
皮屋新五郎。初名・信久。入道して乗信であるが、紹晋とした★。父は武田仲清、母は伊藤祐広の女、曾祖父は逸見仲継。妻は奈良の中坊氏(中坊秀祐の祖父・秀定か?)の女。長兄・信直、次兄・信益。十一歳で父と二人の兄を失い、郎党も潰滅したため、流浪する。堺で三好元長の父・之長に采地百余町を与えられ、糧秣商となった。南朝方武田氏の裔で、代々新五郎を名乗る。
安宅秀益【あたぎ ひでます】
生歿年■〜大永八年
配役■阿南健治
湊里城城主。二郎三郎。監物★。安宅秀興の三子。父が歿し、兄が家督したものの、兄の養子に三好元長の子が決まるとこれを不服として謀叛した。しかし、これを察知していた蟇浦常利によって城を攻められ敗死する。
十河金光丸【そごう こんこうまる】
生歿年■〜享禄三年
配役■大西利空
十河存春の嫡子。第二服で三好之秀と田中与兵衛の間で話に出ていた十河の御曹司。三好元長の小姓を勤めたが、病を得て享禄三年阿波で歿した。
■第廿二服■
赤沢堯経【あかざわ たかつね】
配役■勝村政信
生歿年■永正二年★〜享禄二年二月廿六日
赤沢朝経の一族であることは分かっているが、詳細は不明。但し、古文書に「堯須」とあり、「須」が「経」の誤翻と考えられるため、本作では堯経とした。福王寺は河内国であり、畠山義堯に仕えたと考えられる。父は赤沢朝経の三弟を英経とし、永正三年に赤沢朝経が大和侵攻した際に討死した福王寺大和守に比定している。堯経はその嫡子と考えられる。官途名は蔵人→大和守。河内国河内郡福王寺を領した。大和における赤沢領の復活を目論んで大和に駐留する。本作では畠山義堯から三好元長に預けられた将の一人。柳本賢治に攻め滅ぼされる。
伊丹元扶【いたみ もとすけ】
配役■高橋克実
生歿年■長享元年★〜享禄二年十一月廿一日
摂津の国人。兵庫頭、大和守。父は伊丹雅頼。はじめ細川政元に仕える。このときに彼から偏諱を受け、初名の雅興から元扶に改名した。永正四年六月に政元が暗殺され、永正の錯乱が起こると細川澄元に従った。永正五年四月、離反した高国が京に侵攻すると、三好之長との反目から丹波国守護代内藤貞正らと共にこれに呼応して京に向かい、澄元・之長らを近江国に駆逐した。永正十六年十一月、澄元・之長らに伊丹城を攻撃され落とされるも、永正十七年五月、澄元が高国に等持院の戦いで敗北すると奪還した。大永七年一月、謀叛して晴元方となった柳本賢治・波多野秀忠が摂津の諸城を相次いで攻撃した際は、伊丹城に拠ってこれに耐え、桂川原の戦いで高国が三好勢に敗れた後も篭城を続けたが十月に降伏し、以後は三好元長に属した。享禄二年八月、柳本賢治との対立により元長が阿波国へ撤退すると畿内で孤立し、十一月廿一日に柳本賢治に伊丹城を攻められて討死した。
池田久宗【いけだ ひさむね】
配役■石井正則
生歿年■長享元年★〜天文十七年《西暦1548年》五月六日
三郎五郎、官位は筑後守。のち信正。池田貞正の子。弟に久正。室は三好政長娘。子に長正。摂津国池田城主。両細川の乱で細川澄元に与した父貞正が永正五年、細川高国に池田城を攻められ自殺したため、久宗は逃亡。永正十六年の澄元の挙兵に呼応、摂津下田中城を奪って功を挙げ、恩賞に豊島郡を与えられた。享禄四年に高国と連合した浦上村宗に池田城を攻め落とされた。天文二年の享禄天文の乱で一向一揆に敗れて淡路国に逃れた細川晴元が池田城に入城している。天文十年、木沢長政が晴元に反旗を翻した時は晴元の部将三好長慶に従軍している(太平寺の戦い)。天文十五年、細川氏綱と遊佐長教が挙兵すると氏綱に帰参したが、翌年に三好長慶に攻められ降伏。しかし、晴元に許されず天文十七年五月六日に切腹した。
古市公胤【ふるいち こういん】
配役■相島一之
生歿年■
澄胤の子。永正四年に澄胤が歿すると、古市氏の当主となった。畠山義英に与して越智方にとなった公胤は、永正八年、吐山・多田氏ら山内衆とはかって六寸に築城、古市の回復に動いた。しかし、澄元が京都で敗れたため逼塞する。永正十七年、澄元方が勝利すると南都は越智・古市が支配下においた。しかし、ほどなく澄元方は高国方に敗れ、筒井党が復活、公胤は鉢伏峠に築いた山の城に退いた。勢いにのる筒井勢は山の城も攻略、ついに公胤は東山内の大平尾に退去したが、ほどなく挽回して鉢伏城を再建するとそこに拠った。やがて、畠山氏が和睦したことで、筒井・越智・古市の和睦がなり、公胤は鉢伏城を本拠として勢力を維持した。大永元年(1521)、義英に通じた公胤は万歳・岡・箸尾・片岡氏らとともに筒井順興と対立、古市をはじめ鹿野園・藤原・鉢伏を焼かれ、翌年には大平尾・邑地までも蹂躙された。。大永七年、澄元のあとを継いだ晴元が高国を敗ると、翌年、澄元の部将柳本賢治が大和に乱入、公胤は越智氏とともに賢治と結んで勢力の回復をはかった。他国衆の大和乱入はつづき、天文五年(1536)になると河内から木沢長政が乱入、筒井順昭は長政と結んで十市遠忠と対立した。十一年、長政が戦死すると大和では順昭と遠忠が並び立つ情勢となり、翌十二年、筒井氏に敗れた古市氏は古市本城を自焼して退去した。以後、柳生氏と結んで奈良に出没したが、東山内に逼塞状態におかれ、古市本城の回復はならなかった。享禄元年、柳本賢治・三好政長の大和侵攻に従軍し、古市城を回復したが、細川氏の後援を受けられなくなり衰退する。子は松永久秀に属して旧領を回復するも、松永久秀の没落に伴い一族も滅亡した。孫の胤重が加賀藩に仕えている。
柳本治久【やなぎもと はるひさ】
配役■鈴木浩介
生歿年■〜享禄三年二月廿六日★
中井忠兵衛治安の一族で中井源七郎。本作では諱を治久とし、治安の弟とした。忠兵衛が一門衆に格上げされた際に改姓した。賢治の側近で、馬廻衆。柳本賢治の謀殺後に軍を率いて全滅した★。
■第廿三服■
柳本治武【やなぎもと はるたけ】★
配役■毎熊克哉
生歿年■不詳
新三郎。柳本賢治によって創出された新一門衆。血縁関係は不明。享禄二年一月十一日に一条家領にて地子銭を徴収しようとして室町の民家を劫掠した。町衆は一条革堂の鐘を乱打し、行願寺に立て籠もって一条家雑掌とともに防御した(『言継卿記』)。治武は本作によりオリジナルの名前。
木沢長政【きざわ ながまさ】
配役■今井朋彦
生歿年■明応二年~天文十一年三月十七日
河内、山城南部の守護代。左京亮。畠山総州家に使えた木沢氏の在京家で、左近大夫家。当初、木沢長政は畠山の被官人であったが、遊佐氏を生害したことにより出奔し、細川高国の被官となった。そして、河内国で戦功を立てたが、大永七年には畠山総州家に帰参していたとみられる。享禄3年(1530年)頃に、堺公方・足利義維を擁して細川氏の管領職争いを優位に進めつつあった細川晴元へ接近し、畠山総州家と晴元の両属の状態になっていた。
木沢浮泛【きざわ ふはん】
配役■國村隼
生歿年■不詳〜天文十一年(1542年)以後?
畠山総州家の被官。天文期に河内守護代を務める長政の父。左近大夫。畠山義英に仕え、当時家中で最も有力であった遊佐就盛と行動を共にして家中での影響力を強めた。また、天文元年に三条西実隆へ酒肴を贈るなど、冷泉政為らの公家衆との関係を築き上げていた。このことはのちに子・長政が京都支配に積極的に関与できた土台となる。
■第廿四服■
光勝院周適【こうしょういん しゅうてき】
配役■赤星昇一郎
生歿年■不詳
光勝院は細川頼春の菩提寺でその住持は細川一族が務めた。そのため周適も細川讃州家出身と思われ、細川成之・之持の二代に意見者として仕え、出家した一族のブレーンという可竹軒周聡への地位を築いた。周適は三好氏とも親しく之長、元長の肖像画に賛を付している。
■第廿五服■
浦上村宗【うらがみ むらむね】
配役■中村獅童
生歿年■明応四年★~享禄四年六月四日歿
戦国時代の武将、備前・美作守護代。則景の猶子。大永元年年七月、室町幕府管領細川高国から、播磨守護赤松義村の許にあった故足利義澄の子義晴の擁立を諮られ、義村を欺いて義晴を奉じ、高国の所へ上洛した。次いで同年八月、義村を播磨国室津に幽閉して、自殺させた。翌二年九月、浦上村国が義村の子政村を奉じて播磨に入国したためこれと合戦。しかし同年十一月、この内紛に乗じて但馬守護山名誠豊が播磨に入国すると、村国と和を講じて誠豊を破った。享禄三年六月、高国に反して畿内各所で合戦を続けていた柳本賢治を播磨国東条に殺害。七月には、別所村治の属城・小寺、三木、在田の諸城を攻めてこれを破った。八月、細川晴元の部将高畠甚九郎長直が伊丹城に、池田信正が池田城に、薬師寺国盛が富松城に拠ると、高国の求めに応じて摂津国神呪寺に陣取った。九月には高国と共に富松城を落とし、国盛は摂津大物城に移った。翌四年、摂津国中島に陣した高国・村宗勢は晴元・三好元長勢と合戦、敗れて天王寺に退く。天王寺から尼崎に敗走したが、高国は捕らえられて自害、村宗は戦死した。
浦上国秀【うらがみ くにひで】
配役■横田栄司
生歿年■明応八年〜
浦上氏の庶流。富田松山城主。宗助の子で、村宗の舎弟。ただし血縁はなく、宗助死後、村宗が惣領を家督したことで江州家を継承した右衛門大夫国宗の子と考えられる。享禄四年、兄・浦上村宗が大物崩れで戦死すると、その嫡子・虎満丸がその跡を継ぐが、虎満丸はまだ幼少の身であり当主の役割を果たすことは不可能であったため、国秀が後見人を務めた。同年の十月廿八日には前年の依藤城の戦いで柳本賢治暗殺に功のあった中村助三郎に対して村宗に替わって佐々村に兵粮料所を宛がうなど、村宗死後の数ヶ月で当主に相当する権力を得たことが窺える。村宗の死から十年ほどの間の浦上氏の発給文書は国秀署名の物が殆どで、言わば虎満丸が成長するまでの当主代行的な地位にあったとされている。その後、政宗が成長すると三奉行の一員として島村盛貫、角田佐家と共にこれを補佐した。政宗が成長した天文十九年以降も重臣として権勢をふるい、様々な文書に島村盛貫らと共に連署している。その後の政宗と弟の宗景が対立した際には政宗に従って出陣し宗景と争った。内訌後は摂津国有馬郡へ移された。
尼子経久【あまご つねひさ】
配役■緒形直人
生歿年■天文十年十一月十三日
室町後期の戦国大名。出雲守護代尼子清定の嫡子。文明十年ごろ父にかわって守護代に補任されると、寺社領の押領、段銭徴収の緩怠、美保関公用銭の未進など、公然と守護の支配に抗して戦国大名への道を指向したので、文明十六年守護京極政経によって守護代職を罷免され、月山富田城を追われた。しかし、二年後富田城を奪回、守護を放逐し、近隣の国人を制圧して戦国大名として独立したと言われているが、経久は京極氏を放逐していない。大内義興が足利義稙を奉じて上京すると、その間隙を縫って中国地方に進出して版図を広げ、大永年間(1521~1528)尼子氏の最盛期を築いた。天文十年十一月十三日、八四歳で富田城内に歿した。
■第廿六服■
中村秀周【なかむら ひでちか】
配役■大鶴義丹
生歿年■
助三郎。依藤城の戦いで柳本賢治暗殺に功のあった人物。細川高国より感状を与えられ、佐々村(播磨国揖東郡佐々村)に兵粮料所の宛がわれている。秀周は本作のオリジナル。国秀の偏諱ということにした。
浄春坊奉賢【じょうしゅんぼう ほうけん】
配役■野間口徹
生歿年■不明
柳本賢治を暗殺した山伏。細川高国より感状を与えられた。奉賢は本作のオリジナル。吉祥草寺で修行をして、五流尊瀧院へと移った。細川尹賢の配下で、潜入していた味方に導かれ柳本賢治を刺殺。悠々と現場を脱した。その正体は――
島村貫則【しまむら つらのり】
配役■津田健次郎
生歿年■不詳~享禄四年
浦上氏の家臣。一般には貴則。別名・高則、貴範、貴久、高智。弾正左衛門尉、越中守。父は島村景貫、子に島村弥三郎盛貫。浦上家の重臣として活躍し、特に浦上村宗を助けて活躍したが、大物崩れで敗死した。その壮絶な死に様は島村蟹(嶋村蟹)の伝承を生んだ人物として知られる。播磨島村氏の当主で、備前国邑久郡郡代。島村城城主であり、備前高取山城城主でもある。応仁の乱により播磨・備前を失った山名氏が取り戻そうと侵略するのに対処して度々戦い、領国を守る。浦上国秀に献策して柳本賢治を暗殺、難攻不落と見られていた瀧山城・鷹尾城を謀略を以て陥落させ、村宗の指示を受けて天王寺川を背に背水の陣を引かせるなど、村宗の宿老として活躍したが、大物崩れで息子二人を失い敵を道連れに入水し、島村蟹の伝説が生まれた。本作では貴を貫の誤翻としている。同じ播磨に島村城という別の城があり、粟生右馬頭高範が治めていたため、混同されたと考えられる。
依藤村忠【よりふじ むらただ】
配役■井浦新
生歿年■不詳(~享禄四年★)
村忠は本作オリジナル。依藤秀忠の子太郎左衛門尉。東播磨の東条谷を治める依藤氏の当主。本作では藤原南家の宇野氏とした。播磨国加東郡郡代。依藤氏は元々赤松家の筆頭宿老であったが、父・秀忠の頃に依藤氏は浦上氏を盟主として独立する。柳本賢治が討たれると、一気呵成に柳本軍を攻め、これを打ち破ったが、大物崩れで討死したと考えられる。
■第廿七服■
依藤村長【よりふじ むらなが】
配役■松村北斗
生歿年■不詳(文亀三年★~享禄四年★)
村長は本作オリジナル。赤松政村からの偏諱とする。弥三郎。系図にはないオリジナルの人物。依藤太郎左衛門尉の系統は弥三郎が嫡子であるため、猪五郎とある太郎左衛門尉の兄で、討死した人物がいたと想定した。弟・猪五郎は源五郎の誤翻と考える。源五郎は村忠・村長が大物崩れで討死したあと、家督を継承してのち太郎左衛門尉(宗忠★)となった。
柳本治頼【やなぎもと はるより】
配役■藤本隆宏
生歿年■~享禄四年
若狭守。治頼は本来は山城国西岡今里の能勢氏の出身であり、柳本賢治の家臣として活動していた。治頼が柳本姓を名乗ったのは、賢治が治頼の家格を上昇させるためであった。ただし、能勢氏嫡流の三郎左衛門尉家は細川高国の被官として活動していることから、治頼は庶流出身であったと考えられている。享禄二年の大和出兵で先鋒を務めた。治頼は出家していたのにもかかわらず鑓の使い手として名を馳せたことから、鑓蔵主と呼ばれており、人としての評価はあまり高くない。本作では、父は三郎左衛門尉賢頼、次兄・市正光頼の子・与次郎左衛門尉堯頼の叔父にあたる。鑓は中世以降の日本の槍術の在り方で、茎式で扱う槍のこと。西洋の槍や長槍などのように打ち払う動作もできるが、基本的には扱いて突くような繰り出し・繰り込みをするように柄が滑りやすくなっている。治久が討死した後、柳本道秋と柳本吉久を逃がして依藤勢と戦い、追撃を諦めさせたが、帰途で落馬して亡くなった。
柳本道秋【やなぎもと みちあき】
配役■迫田孝也
生歿年■不詳
出羽守。道秋の出自は不明だが、柳本賢治や柳本甚次郎が没しても当主となることがなかったことから、賢治に柳本姓を与えられていたとかんがえられる。道秋が柳本姓を名乗ったのは、賢治に道秋の家格を上昇させる目的があったためである。道秋は賢治の使者を複数回務めており、柳本春重との連署状も確認できることから、立場としては春重や柳本治頼・柳本治安・柳本吉久らと近かったと考えられる。賢治の死後も柳本孫七郎とともに本願寺攻めに加わっているなど、少なくとも天文14年(1545年)までは活動が確認できる。
柳本吉久【やなぎもと よしひさ】
配役■西村雅彦
生歿年■不詳
越中守。吉久は山城国淀北東の桂川沿いの富森を拠点とした富森氏の出身であり、柳本賢治の家臣として活動していた。吉久が柳本姓を名乗ったのは、賢治に吉久の家格を上昇させる目的があったためである。大永7年(1527年)の桂川合戦直後から賢治の奏者を務めており、享禄2年(1529年)には木島正家や柳本治頼らとともに大和国に侵攻している。
島村氏貫【しまむら うじつら】
配役■中川大志
生歿年■〜享禄四年
弥三郎。島村貫則の嫡子。父の勲功で細川道永より「氏」の字を賜る★。島村勢の先鋒を務め、大物崩れで討死した。同母弟に弥五郎★(後の弥三郎盛貫)が居る。
島村宗貫【しまむら むねつら】
配役■西島隆弘
生歿年■〜享禄四年
弥四郎★。島村貫則の次子。父の勲功で浦上村宗より偏諱を賜る。異母兄・氏貫とともに島村勢の先鋒を務め、大物崩れで討死した。
■第廿八服■
薬師寺国盛【やくしじ くにもり】
配役■和田正人
生歿年■《西暦1497年》★〜享禄四年六月四日
薬師寺国長(迫田孝也)の弟。幼名は岩千代、仮名は与次郎、官途名は三郎左衛門尉。兄とともに叔父・長忠を討ち、元服。年少ながら摂津下郡守護代を任された。高国が近江に落ち延びると元長に降伏し、細川晴元の武将として依藤攻めに参加するも、柳本賢治の死によって撤兵して、瀧山城に籠城するも、島村貫則の奇策によって城を落とされ、逃げ延びた。しかし、大物崩れで討死した。
寺町盛隆【てらまち もりたか】★
配役■伊藤淳史
生歿年■不詳《西暦1500年》★~享禄三年七月廿一日★
薬師寺元一の弟・寺町又三郎の子。寺町氏は元幕府奉行衆で、寺町石見守通隆に子がなく、薬師寺又三郎元房★が養子となって細川京兆家の内衆に転じた。元房★は家督とともに長隆★と名を改め、薬師寺元一の乱で戦死している。盛隆★は薬師寺国盛に仕えたが、瀧山城で討死した。寺町通隆は長隆死後に伊丹氏より養子・三郎左衛門尉通能を迎え、盛隆は薬師寺氏に引き取られて国長・国盛とともに育つ。永禄年間に活躍する寺町通昭は通能の孫。
有馬村則【ありま むらのり】
配役■
生歿年■不詳(永正七年~享禄四年十月まで生存を確認。天文七年頃死亡か)
有馬澄則の嫡子。慶寿丸、又次郎。赤松義村より偏諱。永正五年《1508年》に父・澄則が高国方の瓦林政頼・伊丹国扶・塩川種満らに攻められて討死したため家督。高国方となる。永正七年に慶寿丸の名で上津畑代官職に補任された。永正十五年六月ごろまでに又次郎を名乗り、永正十六年十月に細川澄元が反攻するとこれに合力し、瓦林政頼と戦った。翌年、澄元が敗れて阿波に逼塞すると高国に恭順し、有馬郡を安堵された。大永六年十月に湯山阿弥陀堂の諸公事を免除しており、守護権の行使が認められる。この後、桂川原の戦い前後に、堺陣営に通じている。また、享禄四年三月には上津畑の公用銭を進納し、十月には上津畑代官職の請文を提出した。天王寺の戦い前に細川高国に帰参し、戦いに参じて怪我を負ったものの生還している。後継の又次郎村秀が天文九年に霜台田寄進状を出していることから、この頃家督を継承したと考えられる。生歿年を文亀三年~天文七年とすれば、文書が全て又次郎であることに不自然はない。
■第廿九服■
内藤貞繁【ないとう さだしげ】
配役■松尾諭
生歿年■不詳〜
彦七郎。細川高国の内衆。享禄三年十一月四日、勝軍地蔵山城を修復してこれに拠って高国の上洛が西側からだけでないことを示して、京都の人々を驚かせた。貞繁の諱と内藤土佐守貞信入道則繁の子という設定は本作オリジナルで、史実では彦七として登場する。享禄四年五月廿三日に歿したのは父の貞信(則繁)と考えられ、この後も登場する内藤彦七は貞繁と考えられる。国貞が彦五郎であり、彦七は国貞の弟で、二代続けての養子の可能性もある。
柳本忠治【やなぎもと ただはる】
配役■志尊淳
生歿年■永正十一年〜享禄五年
甚次郎。本作では柳本元治の遺児。享禄三年六月、賢治は浦上村宗との戦いの最中刺客に暗殺されたが、賢治の子・虎満丸は幼少であったため、その名代を務めた。同年十二月には、高国派の重鎮であった細川元治(玄蕃頭家)を討とうと企てたが、失敗した。享禄四年六月、高国が大物崩れで討たれると、三好元長と木沢長政ら晴元の家臣達が対立。そして享禄五年一月、晴元の寵臣で木沢長政を支持していた甚次郎にその矛先が向き、元長は甚次郎の居城である京都三条城を攻撃した。三条城は落城し、甚次郎は討死。三条には城はなく、候補として考えられるのは義晴が一時仮寓した三条坊門第ぐらいしか考えられないため、当作では三条坊門第が柳本忠治に下賜され、三条城と呼ばれたとする。
■第三十服■
内藤則繁【ないとう そくはん】
配役■升毅
生歿年■不詳~享禄四年五月廿三日
彦七郎★、土佐守貞信。土佐入道則繁★。父は元貞。叔父・孫四郎貞徳の養子となった★。応仁の乱で、養父・貞徳を失ったがその際に多紀郡に引いて陣営を立て直すこともできず、次第に追いつめられて、村雲村筱見付近で全滅に近い打撃をうけた。のち、内衆として内藤勢を率いて在京するも、貞繁が家督すると入道して丹波で隠居したが、細川高国の命で兵を率いて池田城を落城させた。大物崩れの直前、丹波保津を守っていたが、丹波から入京する細川晴元の兵を防ぎ、五月廿三日、柳本甚次郎から命を受けた内海隼人正久長、木島右近亮正家らに攻められ討死した。




