和歌解説(三)
■急服■
討つ者も討たるる者も土器よ
くだけて後はもとの塊
三浦義同 辞世
〈現代語訳〉
討つ者も討たれる者も死んでしまえば土器のようにもとの土の塊に帰るだけである
〈解説〉
三浦義同は伊勢新九郎盛時に討たれた鎌倉御家人三浦氏の末裔で、相模国新井城を拠点に東相模を支配していました。上杉高救と大森氏頼(寄栖庵)の娘の子で三浦時高の養子となりましたが、その後実子・高教が生まれ、時高歿後に家督争いとなり、高教を倒して三浦氏の家督を奪いました。相模守護となり、北条早雲の東相模侵攻を阻むため、岡崎城を整備して此処に移り、永正九年八月、猛攻を防いだものの敗れ、住吉城に退きました。翌永正十年正月に反撃し鎌倉合戦を起こすも敗北し、新井城に撤退します。北条早雲・氏綱父子に攻められるも、三年も籠城しましたが、永正十三年七月十一日に決戦を挑んで討死しました。子の義意は、八十五人力の偉丈夫で、父の死後五百余人の死者の山を築き、敵が居なくなると自刃しました。義同は、歌人・東常縁の指導を受けたともいわれています。辞世は三浦浄心『北条五代記』に載っており、三浦浄心は三浦氏の傍流の出身であるとされています。
■第廿一服■
飛ぶ鳥の明日香の里を置きて去なば
君があたりは 見えずかもあらむ
『万葉集』元明帝謹製
〈現代語訳〉
明日香の里を置いて、(奈良の都に)行ってしまえば、あなたが住んでいるところはもう見えないのでしょうね。
〈解説〉
京を去らねばならない足利義晴・細川高国の心情を汲んでみました。飛ぶ鳥を落とす勢いの三好元長と手の内を知り過ぎている柳本賢治に翻弄される細川高国に見立てています。
この歌は、和銅三年《西暦710年》二月に、藤原宮から寧楽宮に遷った時に、御輿を長屋原にとどめて、藤原宮を見たという歌です。作者名は記されていませんが、元明天皇とされます。「長屋原」は、現在の天理市にあり、ちょうど中つ道の中ほどにあります。中つ道とは、香具山からまっすぐ北に伸びた道で、大和国内には、上つ道、中つ道、下つ道という南北を平行して走る大和三道がありました。
なお、現在、「飛鳥」と書いて「あすか」と読まれているのは、「飛ぶ鳥の明日香」という枕詞があまりに有名になったために、「飛鳥」と書いても「あすか」と読まれるようになったものです。その明日香には、自分たちの祖先のお墓も、自分たちの祖先が営んできた都もあります。しかし、都を発展させるためには、どうしても奈良盆地の北方に遷都する必要がありました。
遷都にあたって元明天皇は、もう一度、飛鳥の風景を目に焼きつけておきたかったと考えられます。飛鳥と藤原の地は、長らく都の置かれた地です。かの地で生を受け、暮らした人間の感慨が、ここにあらわれています。「君があたり」は、元明天皇の亡き夫、草壁皇子のお墓または草壁皇子の宮殿であった島宮といわれています。
■第廿二服■
水鳥の行くも帰るも跡たえて
されども路はわすれざりけり
道元(出典『建撕記』)
〈現代語訳〉
水鳥は秋は南に渡って行き、春は北へ帰って、行路には何の跡をも残さないが、水鳥たちはその行路を忘れる事が無い。
〈解説〉
道元は鎌倉時代初期の禅僧で日本における曹洞宗の開祖。晩年には、希玄という異称も用いた。宗門では高祖承陽大師と尊称される。諡号は仏性伝東国師(孝明天皇)、承陽大師(明治天皇)。諱は希玄。主著は『正法眼蔵』。源通親の子。
三歳で父を、八歳で母を失い、異母兄・堀川通具の養子となりました。四歳にして漢詩『百詠』七歳で『春秋左氏伝』、九歳にて『阿毘達磨倶舎論』を読んだ神童であったといわれます。十四歳で天台の僧となるが、その教義に満足せず、栄西を尋ね禅宗に入りました。貞応二年宋に渡り天童山に参禅して安貞元年帰国。興聖寺を経て越前の永平寺に移ります。権勢を避け名利を求めず、専ら体験を尊び、座禅本位の仏教を正伝として釈尊の昔に帰れと説きました。西洞院高辻にて歿。
この歌は副題に「応無所住而生其心」とあり、応に住する所無くして、而も其の心を生ずべし」と読み下します。所住とはこころが一つの所にとどまること。こころが惹かれる・執着する・とらわれたりすることを指す。それが無となれば、拘りを捨て去り、自由に何処へでも行くことができる――という心を詠んだ歌なのでしょうか。
大和征討を目論む柳本賢治が家督した柳本家は他国の国人に当たる大和の国民です。賢治は大和に拘泥していなかったとは思いますが、勢力を伸ばせる地がここであったのでしょう。歌の心情とは些か異なりますが、大和から出た柳本氏が大和の支配者となる為に戻ろうとしている姿がこの歌に重なりました。
■第廿三服■
眉のごと 雲居に見ゆる 阿波の山
懸けて漕ぐ舟 泊まり知らずも
船王(『万葉集』より)
〈現代語訳〉
眉のように遠くはるかに横たわる阿波の山、その阿波の山を目指して漕いでいく船は、さて今夜何処に泊まるのだろうか
〈解説〉
船王(淳仁天皇の兄)が難波に行かれた時に詠まれた歌です。海上の風景を大観したものですが、大海の中の一艘の舟の今夜泊まる所を心配する中で、自分のおかれた運命を重ねているといわれます。万葉集の中でたった一首、阿波を詠んだ歌です。
第廿三服では
■第廿四服■
山は裂け海は浅せなむ世なりとも
君にふた心わがあらめやも
源実朝(新勅撰和歌集・金塊和歌集)
〈現代語訳〉
山が裂け、海が浅くなり干上がってしまうような世の中になって しまっても、君(治天の君)に対して二心など私にあるはずもありません。
〈解説〉
鎌倉幕府三代将軍源実朝が最後に詠んだ歌です。治天の君である後鳥羽上皇への忠誠を誓った歌とされています。天変地異による変化で大地と海を歌い壮大なスケールを持たせ、後半ではその対比として君と我という対比に、その心が天地を貫く柱のように揺らがないことを詠んでいるといえるでしょう。
源実朝は後鳥羽上皇が命名し、蹴鞠や和歌を通じて交流しており、心情としては坂東武者よりも京都に心を寄せていました。尊皇体制による武家政権の維持という北条義時の方針とは真向から対立する考え方で運営をしようとしていたとも言われます。結果として、この歌を最後に実朝は暗殺され、承久の乱へとつながって行きます。
この歌を選んだ理由は、柳本賢治の暗殺と実朝の暗殺を対比させようとの意図からです。
■第廿五服■
剣太刀諸刃の利きに足踏みて
死なば死なむよ君によりては
『万葉集』巻十一-二四九八 詠人不知
〈現代語訳〉
剣の太刀の鋭い諸刃に 足を踏み貫いて 死ぬなら死にもいたしましょう。あなたさまのためならば。
〈解説〉
恋の歌ともいわれる歌で、太刀の諸刃を踏み抜いても絶えない愛情を歌った和歌です。この歌を選んだ理由は、愛憎の絡まる細川高国と柳本賢治の関係を思ってのことです。二人は衆道の仲であったと言われますが、香西元盛の誅殺を機に敵味方となり、愛深かったが故に憎しみをぶつけ合うことになります。そして、その二人がいよいよ直接対決をする舞台に上がっていくのです。
■第廿六服■
小夜かぜもかすめる月の光かな
宿の梢の春ぞ色めく
浦上掃部助則宗『新撰菟玖波集』発句
浦上掃部助則宗『陰涼軒日録』次句
〈現代語訳〉
夜の風がかすめるような弱々しい月の光だろうか。まるでその光に誘われて宿の梢に春が来たように色めいて見えるのです。
〈解説〉
浦上則宗は浦上村宗の父で、京都所司代を務めたこともあり、細川家の連歌会に招かれるほど風流な人物でした。この歌は、浦上則宗が詠んだ連歌の発句と次句を繋いだもので、連歌だけあって繋げやすく、また、同じ人間が詠んだこともあって調子が整って一つの歌に見えるのが不思議です。ここで、則宗の歌を持ってきたのは、この依藤城の戦いから大物崩れまでの間こそが、浦上村宗の我が世の春であったからです。
■第廿七服■
夢の世に 幻の身の生れ来て
露に宿かる宵の雷
三村勝法師丸 辞世 井山宝福寺石碑
〈現代語訳〉
私は夢のようなこの世に幻のような肉体を得て生まれ、宿となる露に身を潜めて生きている宵の雷なのだ。
〈解説〉
井山宝福寺で発見された石碑に書かれたこの辞世の歌が勝法師丸の辞世であろうと言われています。父・三村元親の元に、天下統一を目指す織田信長から「毛利軍の上洛を阻止すれば、備中、備前の国二カ国を与える」という書簡が届きました。足利義昭の信長包囲網に加担した毛利氏と宇喜多氏は和睦します。長年毛利についてきた三村氏でしたが、積年の恨みを持つ備前宇喜多氏と和睦することは有りないことです。三村氏にとってこの信長からの書簡はまさに渡りに船となりました。「宇喜多氏を討つ」とばかりに三村元親は毛利を裏切ります。しかし、衆寡敵せず。三村元親は松連寺で自刃しました。勝法師丸は三村元親の子で、捕らえられたときに八歳でしたが、雪舟の涙のネズミの話で有名な井山宝福寺へ送られ、利発さを恐れた小早川隆景の命で殺害されました。この歌には、宇喜多氏への憎しみを理解しない毛利氏に対する恨みが雷という言葉に込められています。
■第廿八服■
さき懸けて かつ色みせよ 山桜
長崎九郎左衛門師宗
嵐や花の かたきなるらん
工藤二郎右衛門祐貞
「太平記」千剣破城軍より連歌
〈現代語訳〉
発句は、「春になれば他の花に先がけていち早く咲く山桜よ、早く咲いておくれ。「かつ」は、いち早くの意と「勝つ」を掛ける。戦闘に先だち戦勝の予兆を見せよとの願いを含ませて詠んだもの」
脇句は「せっかく咲いても、山桜にとって嵐がにくい仇となることだろう。この句は発句の戦勝を祈る予祝の意をぶちこわすことになっている」
〈解説〉
皆さんご存知、「太平記」冒頭のシーンです。楠木正成の籠もる千早城は難攻不落で、巧みなゲリラ戦法のせいもあり、寄せ手の幕府軍はほとほと手を焼いていた。何をやっても痛手を蒙るばかりなので、兵糧攻めに転換。だが、そうするとやることもなく暇になってしまった。そこで、花の下連歌師を呼んで、一万句の連歌を始めることにした。発句は長崎九郎左衛門師宗。発句を受けて、工藤二郎右衛門尉が、脇の句を付けた。技巧も文句なく素晴らしく、優美な句だとはじめは絶賛されたが、後から考えてみると、味方を花に、敵を嵐に例えるとは縁起が大変悪い、不吉の象徴のようだ、と思わぬ者はなかった――というシーンで登場する連歌です。
ぶち壊しというのは物語的にこの先に幕府軍の敗戦があるための演出であり、史実としてどうだったか?は分からない気がします。正直言い掛かりですよね。武士は仇討ちするものですから、花が散ったら俺が仇討ちをしてやろう的な意気込みもあったのかも?
この話的には、浦上村宗による播磨統一と最後の大物崩れへの予感が示唆できる歌として引かせていただきました。
■第廿九服■
葦辺行く雁の翼を見るごとに
君が帯ばしし投矢し思ほゆ
万葉集 第十三巻 防人之妻
〈現代語訳〉
葦辺を飛ぶ雁の翅を見るたびに、亡き君のつけておられた投げ矢が思われるよ
〈解説〉
防人として赴任した夫君が任期を終えて帰って来るはずの時に死を知らされた妻が詠んだとされる長歌に添えられた短歌です。
第廿九服「声東撃西」は柳本賢治が死んだ後の柳本家と、東から細川高国の家臣・内藤彦七が近江から京を窺っている状況の中で、防人を幾人も亡くなった兵士に見立てて、その悲哀からこの歌を引きました。
■第三十服■
絵にうつし 石をつくりし 海山を
後の世までも 目かれずや見む
三友院松岳常恒 辞世
〈現代語訳〉
絵のように写し取って、石を組んで庭に作り上げたこの海や山の景色を、後の世までも絶えることなく人々が見てくれるだろうか
〈解説〉
北畠氏館跡庭園の入り口にこの歌が掲げてあります。都で血で血を洗う権力争いに明け暮れ、果ては捕らえられ自害を余儀なくされた細川高国は桂川原の戦いの翌年都落ちをして以後、高国の娘が嫁いだ伊勢国司北畠晴具を頼った。そして高国の手によって作庭さらています。その代表的なものが「米字」と形容される入り組んだ形の池の東側に作られた枯山水で、高さ2メートルほどの立石を中心に十数個の石がらせん状に配されている人々が話に聴き入っているようにも見えることから、中央のこの石は「孔子岩」とも呼ばれました。また「琴橋」を渡ると庭は一巡りしており、場所によって季節ごとに景色の違う様を見せる光景は人によって豪放とか妖艶と評価は正反対に分かれるといいます。




