表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
数寄の長者〜竹馬之友篇〜  作者: 月桑庵曲斎
第三章 干戈騒乱
37/39

第三十服 横難横死

(前話のあらすじ)

柳本家の跡取を甚次郎にすべく動き出す柳本家中。その隙に高国の臣・内藤彦七が洛中に攻めかかり、堺に元長が復帰する。

(よこ)さまに難して(よこ)さまに死す


絵にうつし 石をつくりし 海山を

後の世までも 目かれずや見む

           三友院松岳常恒(細川武蔵守高国) 辞世


 内藤彦七郎(さだ)(しげ)(かん)(のう)()を占拠、砦化して以後、(やなぎ)(もと)(じん)次郎(ただ)(はる)()(ざわ)()(きょう)(のすけ)(なが)(まさ)に協力を仰ぎ、洛中三条城に駐屯する兵力を拡充していた。これは内藤()(ぜん)(のかみ)(くに)(さだ)が京の北西にある(しん)()()に陣を張り圧力を掛けていたことと、内藤貞繁の軍勢による三条城付近への威力偵察が増えていたからで、特に三条城の北側にある(だい)()――(つち)()(かど)東洞(ひがしのとう)(いん)殿(どの)より東は貞繁の支配が及んでいる。


 これは細川武蔵(むさし)入道(じょう)(かん)の敷いた堺包囲網の一環である。内藤貞繁の父・()()入道(そく)(はん)(たん)()()()城に入り、波多野氏の動向へ対応することになっていた。だが、この頃、()()()孫右衛門(もと)(きよ)・孫四郎(ひで)(ただ)父子は堺陣営ではあるものの、積極的な行動は取っていない。これは、(ひとえ)に柳本(だん)(じょう)(のじょう)(かた)(はる)の死が原因であった。


 賢治存命の内は柳本勢が内藤国貞を圧倒しており、波多野氏は順調に奥丹波に勢力を伸ばしていた。だが、賢治が暗殺された際に軍勢の多くを失った柳本勢のため、波多野元清が病を押して(せん)(しょう)()城に入り、秀忠をして本拠たる丹波()(かみ)城を(けん)しゅさせている。


 軍を建て直している柳本勢が京に駐留していることもあり、国貞は八木城を離れることが出来た。とは言うものの(くち)(たん)()は香西氏が(やく)しており、大きく(きた)(やま)(しろ)に迂回しての進出である。


 享禄四年(西暦1531年)三月(3月)五日(23日)、三好(ちく)(ぜん)(もと)(なが)の復帰に、己が立場の悪化を恐れた木沢長政は、手勢五〇〇〇を連れて感応寺を再び攻めたのである。それは内藤貞繁が感応寺に軍勢を集結させようとしている情報を(つか)んだからだ。


 ようやく重い腰を上げた(ろっ)(書く)弾正少弼(のしょうひつ)(さだ)(より)の支援を受けて兵力を増やした貞繁が、国貞と連携して洛中制圧に乗り出そうとしていた。国貞と貞繁が目指したのは川勝寺城である。貞繁の()()の兵は既に一〇、〇〇〇を超えており、砦の守備に三〇〇〇を残して、七〇〇〇余りの兵で出陣しようとしていた。


 その最後尾に木沢長政の軍勢が追いつかんと駆けてきた。その勢いを見て騎首を返した貞繁は、木沢勢に向けて(さい)を振り下ろす。


「これは幸先が良い。敵が自ら死にに来よったぞ! 者共、()かれ! 懸かれい!」


 言うや否や貞繁は嬉々として馬を進め、乱戦の渦中に本陣の兵を割り入れた。北に抜けることを想定していた貞繁は陣の最後尾におり、そのことが(かえ)ってこの戦を短時間で終わらせることになる。


 貞繁は先頭に立つことで、木沢勢を散々に打ち破った。(あっ)なく敗れた木沢長政は畠山(きん)()邸に逃げ込み、守備を固めて籠城の構えを示す。


「見よ、あの逃げっぷりを。左京亮(木沢長政)は亀の如き始末ではないか」


 満足気に肯いた貞繁は、軍を分けて畠山金吾邸と三条城の包囲に向かった。神護寺に陣を張った内藤国貞の軍勢は川勝寺城を落とさん勢いで、洛中を(うかが)っている。これには、柳本勢も木沢勢も身動きの取りようがなかった。


 そして、三月(3月)七日(25日)。池田城陥落の報が洛中に知れ渡る。畠山金吾邸に籠もっていた木沢長政は、直ぐ様行方を(くら)ませた。捕らえ損ねた貞繁は()()(やま)八郎(ひょう)()(のぶ)(かず)に逃亡先を探らせる。


左京亮(木沢長政)(おとこ)(やま)城に(のが)れた(よし)如何(いかが)いたしますか」

「また面倒な場所に逃げやがって」


 木沢長政の逃走先である男山城というのは、畠山総州家の勢力圏となった(みなみ)山城(かみ)(さん)(ぐん)――久世郡・(つづ)()郡・(そう)(らく)郡――の内、洛中と河内を結ぶ久世郡にある石清水八幡宮のことである。


 南朝方の興廃を賭けた(ぶん)()の合戦で、南朝の後村上天皇が男山に陣取って足利(よし)(あきら)の軍勢を破っている。しかし、義詮の反撃を受け落城、大和国賀名生(あのう)に逃れた。石清水八幡宮は三大八幡宮のひとつとして皇室の庇護を受け続け、細川氏・畠山氏の(ない)こうに関与せずに孤高を保っていた。対岸の(よど)城は細川(けい)(ちょう)家の管轄であり、現在は讃州方の(てん)(きゅう)家当主・細川弥九郎(かたし)の居城となっている。


 畠山右衛門(のかみ)(よし)(たか)は畠山尾張(おわり)(たね)(なが)とこの上三郡を争って、此処に釘付けにされている。()(しゅう)家と組む稙長は大和の筒井氏を引き入れ()()城に入り、(くさ)()城まで兵を進めていた。


 そういう立地であるから、貞繁としては、稙長との連携は難しく、攻め込み難い。堺陣営にあって争いに積極的に介入してこない畠山義堯を()(げき)して下手に戦線を拡大するのは得策ではなかった。


「上三郡には讃州(細川六郎)の力も及んで居らん。放っておいて良かろう。となれば、残るは柳本の孺子(こぞう)のみ。――よし、下がってよいぞ、ゆるりと休め」


 使(つかい)(ばん)(いたわ)って下がらせると、(しょう)()から立ち上がり三条城を(にら)み飛ばす。何度となく貞繁の前に立ちはだかってその策戦を邪魔されてきたのだ。出来ればその()()を挙げて、後顧の憂いを断っておきたい。


「が、そうもいかないだろう、な」


 その呟きが聞こえたのか、柳本忠治は貞繁率いる一〇、〇〇〇の兵に囲まれる直前に三条城を放棄する。木沢長政の逃亡で支えを失った三条城では守り切れぬと悟ったのであろう、大山崎城へ撤退していった。


 内藤貞繁は忠治の撤退を追撃せず、洛中奪還を優先した。既に川勝寺城陥落と波多野元清討死の報は届いており、三条城制圧の報もあちらに送っていた。程なく国貞の軍勢が三条城に到着するだろう。


「よし、兵を割いて、(けい)()に回せっ! (きょう)(すずめ)共に()を与えるんじゃないぞっ」


 兵に家中から監視を付け、町人らに手を出させぬよう配慮せねば、噂好きの京商人(きょうすずめ)どもが騒ぎ出すのは必至だ。折角、民意は常恒ら細川野州勢を歓迎しているのだから、こちらから敵に回すことはない。


「あとは近江(おうみ)の戦がどうなるかだが……」


 摂津との連絡線を確保した幕府方は、六角氏の参戦を待ち、全面攻勢に出るということになっている。六角定頼は(ごう)(ほく)へ出陣が決まっており、洛中の差配は一先ず内藤国貞に任された。




 伊丹城を落とした(うら)(かべ)掃部(かもん)(のすけ)(むら)(むね)は兵を二日ほど休めると、池田城を取り囲んだ。しかし、城兵の強固な抵抗に()い、強引な力攻めを避けて持久戦を採ることにした。これは、戦後のことを睨み、兵力を温存したいからである。しかし、近江の状況を知った常恒は内藤則繁を八木城から南下させ、浦上村宗の増援として速戦即決を迫った。


 則繁は三月(3月)四日(22日)の夕刻に着陣すると、翌日には火計の支度を始め、六日(24日)未明から攻めかかる。(からめ)()より火を放つと、強風に(あお)られた城はあっという間に炎に包まれた。進退(きわ)まった池田(ちく)()(のぶ)(まさ)は落ち延びて堺へと向かったという。


土佐入道(内藤則繁)殿は隠居なさったと聞いておったが、流石は管領(細川常恒)様に一軍を任されし強者。到着するなり城を落としてしまうとは、の」

「いやいや、掃部助(浦上村宗)殿が城を取り囲んでくださって居らねば出来ぬことにて」


 池田城を島村弾正左衛門尉(つら)(のり)に任せて、(だい)(もつ)城に戻った浦上村宗が、常恒の面前で則繁を()めると、則繁は満更でもない顔で謙遜した。家臣を褒められた常恒も喜びを顕わにしている。浦上村宗としては有馬郡は有馬氏に(あん)()されるとしても、これ程協力しているのだから(たき)(やま)城ぐらいは……と欲が出ていた。それ故の太鼓持ちである。


 実のところ、則繁が来援せずとも池田城の陥落は可能であった。しかし、常恒が強引に則繁を池田城攻めに参加させ、浦上勢に功を挙げさせまいとしたのである。既に常恒の頭には、戦後の力関係と目の前に現れるであろう三好元長の姿がちらついていた。


 村宗とて、戦後の赤松氏との関係を考えれば兵の損失は避けたい所であり、否はない。だが、近江の状況を知るにつけ、六角の参戦まで時間の余裕はあると村宗は考えていた。常恒は戦上手の三好元長との二面対決を恐れたが、浦上村宗は三好元長を知らぬ。その違いが考えに出た。


彦七(内藤則繁)には褒美を取らせねばなるまいな」


 (ふる)()(みょう)で呼ばれた則繁は心持ち若返った気がした。(かつ)て彦七郎(さだ)(のぶ)と名乗っていた頃に、時が戻ったかのように感じる。実際には既に隠居し、家督を貞繁に譲ってはいるのだが、老け込む歳にはなっていなかった。


「有難き幸せ。なれど、御屋形(細川常恒)様の()()に従ったまでのこと」


 則繁の(ごん)(じょう)に村宗が(はな)(じろ)む。(もら)えるときに貰っておかぬのは()()であると言わんばかりの呆れ顔だ。村宗が有り難く頂戴すれば良いと勧めても、則繁は重ねて辞退した。隠居した自分ではなく、洛中で柳本勢を相手に奮闘している息子に功を譲りたいのである。常恒にはそれが良く伝わっていた。


 村宗は父子の情の機微に(うと)い。それは長い間冷遇され、無気力に過ごす父を見て育ったからだ。晩年に活路が開いたものの、大成できず直ぐ歿(ぼっ)している。それ故、幼い頃に生じた領地は己が手で掴み取るものという気概が、老境に差し掛かった今も抜けていない。貪欲に権力を追い求め、浦上家を大きくしてきた因とも言えた。


 常恒は、則繁に貞繁を褒める事も忘れず、細川讃州家打倒の(あかつき)には貞繁に官位と()ほうを約束した。




 一両日軍を休めた細川常恒は三月(3月)十日(28日)に本陣を摂南の極楽寺に移し、浦上村宗は先鋒を住吉の(こつ)に置いて、堺に臨む。ここまでくれば堺は目と鼻の先だ。


 そこに、三好元長が五〇〇の精鋭のみを率いて、痛恨の一撃を浴びせた。先鋒の兵八〇程を討ち取り、浦上勢を押し戻したのである。三好勢の痛撃に浦上勢は天王寺まで兵を退いた。


 細川・浦上連合軍はすぐさま陣変を決し、細川常恒は中嶋の(うら)()――現在の()()(のお)(のみこと)神社境内の八幡社が残る地――に城を築き始める。浦上軍は野田・福島に軍を分け、城を築くべく動き出した。この両城は、近隣にある()(まつ)城のような二カ所一城で、のちに天下の堅城として名を知られるようになる。


 村宗も元長の兵の強さを知ったことで、常恒の長期戦の構えに従った。唯一、島村貫則だけは短期の総力戦を具申したが、戦後を視野に入れ、三好元長を知る常恒は鰾膠(にべ)も無い。


三筑(三好元長)に兵を調(ととの)える(ひま)を呉れてやったようなものよ」


 貫則は吐き捨てるように堺の方に向かって()えた。三好元長が寡兵で先陣を襲ったのはその手に動かせる兵が居ないからでしかない。となれば、全軍で攻め立てれば元長の首級まで刃が届くのだ。野戦で元長を打ち破れば、堺方に残るのは烏合の衆である。


「何故、管領(細川常恒)様は分かってくださらぬのか」


 貫則は一人天を仰ぐ。だが、常恒が別の情報を掴んでいたことを貫則は知らなかった。それは阿波からの援軍八〇〇〇が間もなく着くという報せである。()()に寄港してた安宅(あたぎ)水軍が(あわ)()を抜けて堺へ向かっているというのだ。報せて来たのは、(せん)(なん)に下った(ゆう)()の細川次郎(かた)(きよ)――のちの(うじ)(つな)である。


 賢清は細川()()(のかみ)(ただ)(かた)の子・(きゅう)寿(じゅ)丸で、元服して仮の名である一字名の(きよし)を名乗っていたが、(てん)(きゅう)家次期当主となることが決まり、当主の仮名である次郎、清と典厩家の(かよい)()である賢を合わせて賢清を名乗った。父が常恒を裏切り、堺方へ寝返ったことで肩身が狭くなり、現在は和泉(いずみ)下守護家を()いだ細川(ぎょう)()大輔(のだいゆう)(はる)(のぶ)の子・五郎(はる)(きよ)を支えるため、(せん)(なん)の佐野に拠っている。此処は()(ごろ)(でら)の勢力圏で、晴宣の兄・畠山稙長の支配が及んでいた。




 同じ頃、常恒たちの動きを掴んだ元長は、己の策戦が的を射たと知って手を叩いて喜んだ。


「思惑通りぞ、和入(篠原宗半)殿」

殿(三好元長)の戦見込みは本に見事よ」


 篠原大()()(そう)(はん)呵々(かか)大笑して、元長を呆れさせた。周りには三好蔵人(くらんど)(ゆき)(ひで)を筆頭に三好の首脳が(そろ)っている。そこには細川尹賢の姿もあった。居ないのは(かい)()下野(しもつけ)(ゆき)(ちか)・安宅駿河(するが)(はる)(おき)で、両人は水軍を率いて撫養城へ赴いている。


「して、次は如何しますかな?」


 上機嫌な元長は絵図の上に黙って碁石を並べ始める。近江坂本に十、浦江に十、野田に五、福島に五と黒石を置いた。さらに堺に八、淡路に二、岸和田に三、阿波の撫養に八、南山城に三と白石を置く。そして再び黒石を、泉南の佐野と南山城の木津に一つずつ、追加した。


下屋形(細川氏之)様に撫養の八〇〇〇を送っていただく」

「その後は」


 元長は撫養に置いた白石を堺に動かす。そして堺に在った七つの石を沢ノ口に寄せた。


「ここに砦を築く」

「一つだけでは足りますまい」


 今度は之秀が口を挟む。ニタリと元長が(わら)った。


「先回りせんでくれ、叔父(三好之秀)御。播磨(細川元常)様に頼んで典厩(細川弥九郎)様に動いていただくのよ」


 堺に残った一つと岸和田の二つを木津川口に動かした。弥九郎(かたし)を将として、細川播磨(はりま)(もと)(つね)()()から松浦党を付けて別働隊とする。阿波から来る兵を堺の守備に回せば、細川六郎(もとひ)も堺公方・足利()()(よし)(つな)も安心だ。


 近江の情勢が不明瞭ではあったが、(あざ)()備前守(すけ)(まさ)ならば多勢に無勢であっても尋常な負け方はすまい、と元長は踏んでいる。つまり――


「近江から援兵が来ることは……」

霜台(六角定頼)の参戦はない」


 元長はそう断言して近江に置いてあった黒石を取り除いた。


 元長の要請をうけて三月(4月)廿五日(12日)、阿波守護・細川讃岐守(うじ)(ゆき)の援軍が堺に到着した。元長はその兵をそのまま堺に留めると、自身は直卒七〇〇〇を率いて天王寺砦に陣した。


 四月(4月)六日(22日)、近江()(だに)の南――(みの)(うら)で浅井軍と六角軍が激突。六角軍は後藤但馬(たじま)(かた)(とよ)(しん)(どう)山城守(さだ)(はる)を中心にした一万七〇〇〇。対する浅井勢は国人連合で、(みの)(うら)城に浅井亮政、(さん)西(ぜい)八幡社に(あさ)()対馬(つしま)(さだ)(のり)醒井(さめがい)()(とう)(やま)城に磯野丹波守(かず)(むね)の各五〇〇〇で計一万五〇〇〇。だが、軍をひと纏めにした六角氏は浅井亮政の箕浦を全軍で攻め、先鋒の蒲生(がもう)藤十郎(さだ)(ひで)が首級廿九(29)を挙げて敗走させた。しかし、両翼の再三再四に渡る反撃で逆撃を被ってしまう。最終的に浅井勢を敗走させたものの首級三十を挙げられた。これを口実に六角定頼は観音寺城へと兵を戻して、上洛を見送った。上洛中止の報に慌てた常恒らは六角定頼の(ほん)()を促しながら、築城に励み、浦江城・野田城・福島城を完成させ防備を固める。


 五月(5月)十三日(29日)、元長は沢ノ口砦から遠里小野周辺に(うま)(まわり)衆を率いて進出、細川弥九郎(かたし)率いる別動隊を築島へ、三好之秀率いる三〇〇〇を()()()(かり)()()()へ向かわせ、それぞれに砦を築かせた。


 五月(5月)十五日(23日)、丹波へ戻る内藤則繁に細川野州家当主・八郎(はる)(くに)を託して、晴国を丹波攻めの総大将に任じた。これは箔付けである。貞信は晴国を八木城に入れると、柳本・香西勢の反撃に備えて自身は前線の保津城へと移る。ここから柳本氏の本拠である神尾山城を攻める算段であった。


 だが、五月(5月)廿三日(31日)、大山崎城の柳本忠治から命を受けた内海(うつみ)隼人(はやと)(のかみ)(ひさ)(なが)()(しま)右近亮(まさ)(いえ)ら率いる二〇〇〇の兵に急襲され、内藤則繁は討たれてしまう。晴国が八木城から救援を出すのも間に合わず、柳本勢は悠々と引き上げていった。




 (うるう)五月に入り、戦に()んだ常恒が正月に開いた歌会の整理をしていた所に浦上村宗が訪れた。(こう)(ちゃく)した戦の相談であり、ここ連日、()(ごと)に行われている。戦いが全くない訳ではなく、小競り合いに終始していた。


置塩(赤松政村)殿はいつになったら参るのか」

「促してはおるのですが、やれ風邪を召した、やれ頭が痛いなどと、のらりくらりと出立を引き延ばしております。霜台(六角定頼)様が動かぬ今、(あお)(びょう)(たん)であってもお出ましいただくしかありますまい」


 兵が足りない――それが細川常恒と浦上村宗の共通認識であった。占拠した城にも兵は籠めねばならず、少なからぬ数が減っている。そしてそこに、煩わしい三好元長の威力偵察であった。常恒は村宗に連れ出させたいが、村宗はその手に乗るかと切り返す。


「それにしても、寡兵であの様に振る舞えるとは三好筑前、本当に(つよ)い」

「如何様。(かつら)(がわ)(はら)豆州(武田元光)殿の居られた川勝寺城を、紙でも破るかの如く打ち負かした程よ」


 浦上村宗が忌々(いまいま)しそうに三好元長を評すと、常恒も苦々しく首肯(うなず)いた。彼我の戦力差に元長の強さを見込んでいた(はず)であるにも関わらず、小競り合いはほぼ一方的に被害を受ける始末。


「此処は大樹(足利義晴)より置塩(赤松政村)殿に催促状を出していただくよりあるまい」


 本来であれば既に摂津入りしているはずの赤松次郎(まさ)(むら)が、まだ(おき)(しお)城を出ていない。常恒は細川源五郎(くに)(よし)に書状を託し近江坂本へ赴かせ、上野(げん)()入道(いち)(うん)を監軍に任じて置塩へ向かわせた。


 流石に義晴の()(きょう)(じょ)を無視できなかった赤松政村は閏五月(7月)廿四日(8日)になって軍勢八〇〇〇を率いて置塩城を出発。


 六月(7月)二日(15日)、赤松政村が二日の遅れを出しながら、ようやく後詰の軍として西宮の(ろく)(たん)()に着陣した。連合軍は陣変えを行い浦江・野田・福島城を放棄、政村には(かん)(のう)()城へと陣を移させる。同日晩、常恒と村宗から直々に着陣の挨拶をうけた。


武蔵入道(細川常恒)様にはご機嫌麗しゅう存じます」

「随分と遅い御出立に御座いましたな」

掃部助(浦上村宗)殿、そこまでに。早速、協議をしたい」


 三者による会談が行われたあと、夕刻に諸将が集められ、軍議となった。 


 六月(7月)四日(17日)、島村貫則は村宗の指示を受けて()()川に背水の陣を敷く。これは誘いの陣で、貫則が攻められると同時に左翼の村宗が敵の後背へ回り、右翼の常恒率いる五〇〇〇が渡河し、中央の松田()(こん)(しょう)(げん)(もと)(みち)が島村貫則と入れ替わって押し返し、最後に赤松政村が空いた左翼を埋めて包囲(せん)(めつ)する策戦だ。


 いよいよ決戦の幕が上がろうかと思われた、その時、陣の後方が(にわか)に騒がしくなった。


「敵だぁあっ」

「赤松様が裏切ったぞぉおっ」


 大物崩れと呼ばれる、細川常恒の敗戦の始まりだった。


 赤松政村の裏切りは二ヶ月も前に、堺方の細川尹賢が置塩城を訪れたことに始まる。常恒に説得され協力を約したものの、政村は父を殺された恨みを忘れられず、また、村宗の専横を憎んでいた。そこで尹賢に嫡子・道祖(さい)(まつ)丸を託し、義維に人質として送ったのである。


 政村は病の(かげ)もなく大音声を張り上げた。


「憎き掃部助(浦上村宗)の首級を挙げよっ」


 血走った眼で采配を(ふる)った。まず左翼の浦上村宗の軍が崩壊する。その潰走をみて浮足立った島村貫則の陣に三好元長が突入した。島村弥三郎(うじ)(つら)・弥四郎(むね)(つら)が討死。貫則は辛うじて武庫川を渡ったものの、赤松兵に囲まれた。


「大義の分からぬ、置塩の孺子(こぞう)()がっ」


 矢も尽き、槍も折れ、(まん)(しん)(そう)()となった貫則は寄ってきた雑兵二人を抱えたまま、川へと身投げした。


「子々孫々まで呪い殺してくれるわっ」


 浦上村宗、島村貫則、上野一雲、松田元陸、伊丹大和守(くに)(すけ)、薬師寺三郎左衛門尉国盛、波々伯部(ほほかべ)兵庫助(まさ)(もり)(かわら)(ばやし)日向(ひゅうが)(より)(しげ)らが次々と討死していった。敵味方が入り乱れる混乱の中、細川常恒は戦場を離脱。近くの大物城への退避を行おうとしたが、既に赤松方の手が回っていたため城下町内に逃げ込んだ。


「捕まってなるものか、必ずや六郎を追い落として呉れる」


 京屋という藍染屋に逃げ込むと、大甕を(うつぶ)せにして身を隠した。一晩も隠れていれば追手が行き過ぎ、行方を眩ませられる筈である。


 大物城下で常恒を捜索した之秀であるが、どうにも姿を見つけることが出来なかった。この好々爺はなにやら思いつくと、部下に命じてまくわ瓜をたくさん用意させた。そして、高札を立てさせたのである。


「童ども、よいかの。細川武蔵入道常恒さまという偉い坊主頭の武者さんが、この町の何処ぞに隠れていなさる、見つけられた者には、この瓜を全てやろう」


 子供らは言うや言わぬやの内に蜘蛛の子を散らしたように町中を探し回った。子供らは大人と違って普段から隠れ鬼などをしているのだから、別の土地から来た大人より、隠れやすい所を知っている。程なく常恒は見つけ出され三好之秀に捕縛された。


 翌々日、細川浦上軍の敗北の報が届くと、内藤貞繁は勝軍地蔵山城を自焼、撤退。同月八日(7月21日)、六郎の命によって常恒は(こう)(とく)()で自害させられた。


 浦上村宗を失った将士らは生瀬口から播磨に逃げ帰ろうとしていたところを赤松軍の伏兵に遭い、全滅した。赤松政村は伏兵を兵庫口にも配置し、一人も生きて帰さなかった。


 此処に、永正の錯乱から始まった細川家の養子三兄弟の争い――両細川の乱は終熄した。その後尼崎では、水揚げされるのが人面が刻まれた甲羅の蟹ばかりになり、島村貫則の怨念が蟹に取り付いたと「島村蟹」と呼ばれるようになる。


 その蟹が集う川底に、細川常恒から贈られた染付蟹蓋置が静かに眠っていた。

■副題解説■

「横難横死」とは災難に遭って非業の死を遂げることを言います。細川高国は赤松政村の浦上村宗への憎しみの深さを図れなかった……というより、政治的判断より感情が優先する政村を最後まで理解出来なかったと思います。


■あとがき■

実は最初、木沢長政の脱出先を間違えていまして、久世郡なのに上久世荘に逃れたことにしていて、上久世の話を掘り下げてました(爆)

校閲で地名チェックをしていて、あれ?久世郡に上久世城がないぞ???となって慌てて書き直しました(苦笑)

紛らわしいにも程がありますよ!!!


これは作者が関東の人間で京都周辺をあまり知らないからなんですけど、気付けてよかったです。


二箇所に現れる内藤彦七についてはこれ以外の解決は出来ませんでした。正直、この日程では同一人物が洛中と池田城に居て、保津城で死ぬのは無理です。洛中から池田城までは一日四時間として四日半掛かります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ