第廿六服 布石誅神
細川尹賢は三好元長の失脚に焦り、柳本賢治を計略に掛けようとする。細川高国は東からの奪還ではなく、西からの攻略をすべく、備前を訪れ浦上村宗の協力を得た。浦上村宗の挙兵で時代の流れが加速する!
石を布いて神を誅す
小夜かぜもかすめる月の光かな
宿の梢の春ぞ色めく
浦上美作守則宗『新撰菟玖波集』発句
浦上美作守則宗『陰涼軒日録』次句
五月雨に烟る備前国の中でも、一際青々とした山並みに建つ三石城では、浦上掃部助村宗が家臣の中村助三郎秀周を引見していた。村宗の 傍らには 舎弟・近江守国秀が坐っている。普通、主君の後ろには 小姓が仕えているものだが、村宗は小姓の類が好きではなく、刀持ちのような者はいなかった。小姓を置かず全て馬廻衆としているため、 鍛錬に 勤しんでいる。
「面を上げよ」
「ははぁっ」
国秀の 声掛けに中村秀周が顔を上げた。 野良焼けをした黒い顔の男である。中村秀周は国人領主である浦上氏に仕える 豪族であり、武士とはいえ半農半士だ。
その傍らには白装束――白頭襟に白い篠懸や結袈裟を着けた 如何にも 修験者といった出で立ちの男が居た。男は 念珠、 錫杖、 笈、 桧笠などの 法具を 一纏めにして 脇に置いている。
城の中では 異質な存在であると言えるのに、存在感の薄さが不思議な人物だった。白装束の修験者と浅黒い秀周の色の対比が 眼に痛い。
「その者が件の者か」
「左様でございます」
「浄春坊奉賢と申します」
浄春坊奉賢と名乗った男は屈強そうには見えずのに、色は白い。美形というのとも違う線の細さはあるが、感情が消え失せた冷たい眼をしていた。 髪の色も日焼けなのか少し 薄い茶色のようにみえる。それでいて 何処にでもいるような平凡な人相に見えた。人の記憶に残らない、存在感の薄さがある。
値踏みをするような国秀に、村宗が苦笑いを 零す。言い掛けた国秀を手で制すると、村宗が人好きのする笑みをみせた。
「 儂が村宗じゃ。なるほどすばしこそうな者よな。そう堅苦しくせんで良い、寛げ」
「……はい」
国秀に変わって村宗が口を開く。浄春坊は言葉少なに会釈をして、胡座をかいた。修験者というより忍のようだと、村宗は心の中で警戒する。
「話は聞いておるか?」
「はい」
やはり浄春坊は言葉が少ない。秀周はいつものことなのか落ち着いているので、村宗は警戒を解いたように見せねばならぬと考えた。
「助三郎、この者はいつもこうか」
「左様にございます。多くても二言三言口にすればいい方で」
訛りを気取られぬ用心なのだろう、と村宗は考えた。面白いのは忍と相手に分からせようとしているように見えることだった。忍と分かれば警戒されるし、下手を打てば命を取られることもある。しかし、浄春坊にその懸念をしている様子はなかった。
「鉢屋衆ではなさそうだ」
「はい」
「浄春坊は大和の出身だそうですが、児島の|五流修験の者にございます」
尼子氏に仕える鉢屋衆の名が出て慌てた秀周が浄春坊の身の上を話した。
児島の五流修験とは、五流尊瀧院のことである。役小角の高弟五人――義学・義真・義玄・寿玄・芳玄――が尊瀧院、大法院、建徳院、報恩院、伝法院の五流の寺院を建造した。
五流寺院は南北朝の頃まで繁栄していたが、再び衰えこの当時は尊瀧院のみとなっていた。というのも、細川武蔵守 勝元の縁者・覚王院円海に勝手な振る舞いが多く、憎まれていたことに因がある。応仁の乱を契機として打倒の声が高まったため、円海は危険を知って備中国西地阿知へ逃れた。そして、地阿知の地に熊野権現を勧請して対抗勢力を集め、細川上総介勝久より兵を借りて、応仁三年児島の新熊野山に乱入、一山三十有余の伽藍僧坊を一夜のうちに焼き払ったのである。
それから二十余年後、大願寺住職天誉の発願で再興に着手し、明応元年以降に本殿・大日堂・三重塔・長床などが再建されたが、後鳥羽院の御廟堂と一切経蔵及び楼井塚の覚仁親王の御廟は再建できていなかった。
「そうか尊瀧院の者であったか。なるほどのぅ」
「はい」
その五流尊瀧院は京の聖護院門跡を本山とする修験寺院の宿老にあたる。そして聖護院門跡と云えば足利将軍家と諸大名との仲介役を務めており、その勢力は全国に及んだ。そして近年では先代の細川京兆家当主細川右京大夫政元が修験道に凝って聖護院を保護している。
――そういうことだろうな。
村宗は浄春坊を細川京兆家の手の者と考えた。現実的に考えてそうでなくては道永があれほど簡単に首肯くはずがない。そのことは、家中にまでその手が伸びていたという驚きとともに、用意周到さが道永の政治力の源であると教えてくれていた。村宗にとって、分家の野州家から本家の京兆家当主となった道永は目標であり、憧れでもある。
――布石を活かすか
自分がそれを利用することすら道永の掌の上であろうが、上手くすれば三カ国太守の座が転がり込んでくる。ここは利用されるのが良いと判断した。
「仔細は助三郎に任せる。浄春、頼んだぞ。褒美は思うがままじゃ」
「はい」
「ははぁっ」
中村秀周と浄春坊は下がった。一先ず、抑えの策はこれでよいとして、あとは戦の支度である。布石を打ったとて、本手の石が弱ければ話にならないのだ。十分な兵力と十分な糧秣が必要になってくる。
「三郎、戦支度は手抜かりなくな」
「兄上、兵粮はどうにかなるとしても、兵が足りぬぞ」
備前国は本来豊かな国である。播磨と備中に挟まれ、北に美作がある山陽道の中央に位置しており、古くから優れた刀工が集まり、長船派、一文字|派など様々な流派が鍛えた刀は、備前物と呼ばれて重んじられた。また、焼物も盛んで、備前立杭焼が有名である。人は多かったが、商人や職人の多い土地だ。兵となる者たちは多くない。
もともとは吉備国という大きな国であったが、七世紀中に備前・備中・備後に分割された。さらに和銅六年四月三日に北部六郡の英田郡、勝田郡、苫田郡、久米郡、真嶋郡、大庭郡を割いて美作国が設けられたが、それでもなお国力等級は上国で、距離等級は近国とされている。この当時の中心は福岡であった。
備前国内の郡は東から
和気郡 備前市・赤磐市
磐生郡 岡山市東区の一部・赤磐市の一部
邑久郡 |瀬戸内《》市・岡山市東区
赤坂郡 岡山市北区の一部
上東郡 岡山市東区
上道郡 岡山市中区
御野郡 岡山市北区の一部・南区
津高郡 岡山市北区の一部
児島郡 玉野市
の八郡五一郷を有する。国府は上道郡上道郷にあり、守護所は赤松氏の置塩城にあったが、大永二年に備前守護に村宗が補任されてからは三石城に移された。太閤検地では二〇万三〇〇〇石余で、全国三四位の石高を誇る。
浦上氏は備前の出身ではなく、播磨国揖保郡浦上庄の豪族で、梶原平三郎景時が播磨守護職から失脚した際、浦上郷の中臣城の初代城主となった紀長谷雄流の左衛門尉紀秀村を祖とする。
その後、茶の湯と関わりの深い大徳寺の開基・宗峰妙超――大燈国師は浦上掃部入道覚性と赤松円心の姉との間に生まれた。赤松円心の帰依によって洛北紫野の地に小堂「大徳庵」を建立する。その後、宗峰妙超は後花園院の帰依を受け、さらに後醍醐帝より下総葛西御厨の替地として播磨国浦上庄を寄進され、これを一族に分配することを許された。当時の当主は浦上新左衛門尉為景入道覚恵で、子・七郎兵衛尉行景は赤松氏に仕え、備前守護代となる。行景の子・帯刀左衛門尉助景は備前守護代として活躍。所司代となり美濃守を名乗って入道したが、応永十五年に伊勢国山田において誅殺された。これに代わって当主となった浦上美作入道性貞は所司代となるも永享の飢饉で面目を潰され失脚した。再び備前守護代に就いたのは子の掃部助宗安である。美作守則宗が当主となるや山城守護代・所司代となり、一族の伯耆守基景に守護代を任せている。赤松政則は守護による直接支配を目論んで国許に戻ったが、播備美を失った山名氏が奪回する動きに出た。文明十五年十一月、備後守護山名俊豊は西備前の松田左近将監元成と結んで、福岡城を攻撃した。守る浦上氏、櫛橋氏らは政則に援兵を頼み防戦。だが、政則は山名氏の本国・但馬を衝くべく、反対する年寄衆を無視して播但国境の真弓峠に出陣、山名政豊と戦い大敗してしまう。
存亡の危機に急ぎ京から則宗が戻ると国人衆の多くが則宗の許に馳せ参じ、政則は堺に出奔した。赤松氏の実権を掌握した則宗は小寺加賀守則職らと会談して政則を廃し、赤松氏一門である有馬刑部大輔則秀の子・慶寿丸に継がせる画策をしたが幕府に却下された。これは別所大蔵大輔則治による政則家督復帰を足利義政が認めたためで、これによって有馬右京亮直祐が山名に寝返り、赤松一族の在田、広岡氏が新たな赤松家当主擁立を目論むなど播磨国衆の混迷は深まってしまう。則宗は政則と和睦し、西播磨の失地回復に奔走した。
則宗の専横は政則没後から始まる。当主に兵部少輔義村を擁立すると、一族の伯耆守村国が則宗打倒の兵を挙げたが、宇喜多平左衛門尉能家の働きもあって撃退した。
「そんなことは平左に申し付ければどうにでもなる」
「兄上は何でも和泉入道殿を頼られる」
宇喜多能家はこの頃、和泉入道常玖と名を改めている。永正十五年の船坂峠の戦いで義村を敗走させ、和泉守を与えられる。大永三年、赤松次郎政村を擁立した浦上村国と小寺則職を討つべく、村宗は播磨に出兵した。この戦いで、先陣を務めた能家の嫡子・四郎義家が村国の策略にあって討死すると、能家は自ら死地を求めて敵陣に突撃奮戦し、浦上軍に勝利をもたらす。この能家の奮戦を伝え聞いた細川右京大夫高国は、名馬一頭と名のある古天明の釜を贈った。この古天明の釜は釻付が長く突き立っており、身は潰れた瓢のような形で、唐犬のように見えることから「唐犬」の銘で呼ばれる。犬馬の労を賞するという高国の心の現れであった。
義家の討死が堪えたのか、大永四年には家督を庶長子の八郎興家に譲って出家した。とはいえ、興家はまだ三〇歳に満たず常玖の後見が必要で、常玖は村宗の側近として留め置かれている。
「あれより役に立つ男を儂は知らん。戦は強い、政も出来る、その上商いも上手いでな」
「足許を掬われぬようお気をつけください」
国秀の諫言は一笑に付され受け流される。この懸念は四十年後に的中するのだが、村宗の預かり知らぬことであった。先ずは播磨の統一が先決である。口にした国秀とて本気でそう思っている訳ではなく、憎まれ口を叩いただけであり、二人の意識はそのまま東播磨出兵の支度へと移った。
翌享禄三年正月、東条の依藤太郎左衛門尉村忠への使者に立ったのは島村弾正左衛門尉貫則である。この年は大雪で、豊地城の門前が真白に埋め尽くされていた。
「弾正左衛門尉殿、ようこそ我が城へ」
「これは忝ない。当主自ら御出迎えとは畏れ多いですな」
島村貫則は備前国邑久郡郡代で、元々は則貫と名乗っていたが、村宗の下剋上以後、上下を入れ替えて貫則と改めている。これは村宗の赤松氏に対する嫌がらせで、本人は「殿の酒の席での戯れを儂が真に受けてしまったのよ」と笑っていた。ちなみに島村氏は播磨国多可郡島村郷を本貫とする島村城の城主である。島村氏は浦上氏が揖保郡浦上庄を本拠としていた頃からの家臣だ。
「三石殿は家臣を大事にするとか。これしきの事は当然では?」
「殿と同じく豊地殿もざっくばらんな方であられたか」
貫則の印象ではもっと堅物であったのだが、歳を重ねたこともあって、人が熟れたのか。いずれにせよ見誤っては足許を掬われかねないと、貫則は気を引き締めた。
依藤氏は鎌倉御家人からの一族で、文治二年東条谷の地頭に補任された宇野八郎山城権守季豊が小沢城を築城、入部して土着した。この宇野氏は村上源氏ではなく、藤原南家流で、明徳三年の相国寺供養式に参列した記録に「依藤太郎左衛門尉藤原資頼」とある。入部以後、小田城、豊地城へと進出し、東条谷三村を支配した。
その後、依藤氏は南北朝にて赤松氏に従い筆頭年寄衆となって勢力を伸ばした。嘉吉の乱でも赤松大膳大夫満祐に従い、幕府軍と最後まで戦ったため、一時没落している。そして赤松氏再興とともに旧領に復した。
赤松氏が衰退して、浦上氏の勢力拡大すると、連携して勢力を拡大した。東播磨には守護代の別所氏おり、これを牽制する意味もある。村忠は「忠誠心だけでは家は守れない」と父・豊後守秀忠から口煩いほどに聞かされており、それ故か、島村貫則に対しても丁重だ。
「それにしてもお久しぶりですな、豊地殿。置塩殿の年賀で会うたのが最後でしたから、彼是十年ほどになりますか」
浦上村宗が赤松義村を暗殺したのは永正十八年で、その年の年賀を最後に浦上村宗は年始の伺候をしていない。その頃は「豊地殿」などと言える立場ではなく、「東条様」と呼んでいた。今は依藤氏も年賀には赴かず、独立している。
「なにせ懐かしい。これからは顔を合わせる機会も増えましょうから、よしなに頼みます」
「それは重畳。頼りにさせていただきます」
依藤氏も今や浦上・小寺・別所三氏の拡大に挟まれて、浦上氏を頼らざるを得ない状況である。いずれ、浦上氏が播磨守護職を手に入れれば、依藤氏も浦上傘下となることは明白で、村忠は先見の明があると言えなくはなかった。
表ではなく、奥座敷へと案内された貫則は一瞬片眉を跳ね上げたが、連れの無表情に慌てて表情を戻した。村忠は東向きに坐り、対面に貫則が着く。連れは開けられたままの障子の外に控えた。
「それで、状況は如何なのですか」
「三木城には堺の手の者が出入りしている様子で」
三木城は播磨国美嚢郡三木に築かれた平山城で、代々別所氏が城主を務めていた。別所氏は赤松氏の分家で、赤松円心の甥・五郎敦光が「赤松の別所五郎殿」と呼ばれたのを祖とする。敦光の子・五郎敦則は赤松則祐――律師妙善の三男・右馬助持則を養子とした。本家との距離も近く、親類衆の筆頭である。そして、現在は独立して細川六郎に味方して、その勢力は東条谷の直ぐ近くまで来ていた。
「では、そろそろ?」
「まだ小競り合い程度です。己が手でなんとかしようとし足掻いているかと」
貫則は京と豊地の距離を頭で測った。軍勢を急がせれば五日ほどで到着するが、途中三木城に立ち寄るであろうことやそこから戦をすることを考えれば、十日ほど見込んだほうがよい。疲れた兵で戦は出来ぬ。戦上手の柳本弾正忠賢治が、それが分からぬとは思えなかった。
「糧秣は十分に?」
「此処には半年分ほどですが、一年でも二年でも持ち堪えられます。それに、豊地城のみを攻めても、落とすことは叶いますまい」
意味を図りかねていると、破顔した村忠は東条谷の絵図を取り出した。そこには小沢城・小田城・豊地城が描かれている。豊地城からみて東条川を挟んで北に小沢城があり、その支城としてさらに南に屋口城、北に土沢城、豊地城の西の川が南へ膨らんだ北岸に小田城があった。
「どういうことですかな」
「依藤の城は、すべて隠し通路で繋がっておりましてな」
そして絵図に碁石を置いていった。白石が置かれたのは川である。それぞれの城は川に近く、船着き場を有する城さえあった。それを鑑みると、豊地城を包囲しようにも、他の城や川に邪魔されて囲み切ることができなくなるのが分かる。それは、補給路を断つことができないことを意味した。これが、全ての城に当てはまり、東条は大軍が展開できる広さはない。つまり――
「敵が全ての城を囲み切ることが出来ぬ故、落ちることはないと?」
「そういうことです」
村忠は自信満々に答えた。なるほどと貫則も肯く。村忠の自信振りに得心がいった。
東条は摂津国有馬郡を抜けて京に向かう街道筋で、山陽道の裏道に当たる。ここから敵が進軍するとして、三木城からは城林城が近く、山を迂回して川沿いに片山城、念仏城が並んでいた。軍勢が広く展開できる場所がない、まさしく「谷」である。
「一年でも二年でも持ち堪えてご覧に入れましょう」
「その間に、柳本弾正が首級を取れば……」
貫則の評価も上がる。主君・村宗は宇喜多常玖を重んじており、代々の家老たる貫則としては面白くなかった。それ故、この策を国秀に献じて、細川道永まで抱き込んだのである。
「左様。攻めあぐねるでしょうから寝首を掻く機会はあるかと」
「では、浄春坊を預けます」
村忠と貫則は頷き合う。攻めるのは四月下旬、念仏城の出城を幾つか落とせば、田尻大和守盛実が別所大蔵大輔村治に後詰を頼むであろうし、村治は柳本賢治に援軍を求める筈だ。
「万事手筈通りに――抜かるなよ、浄春坊」
「はい」
浄春坊は豊地城に留め置かれ、貫則は満足気な顔で出ていった。村忠は面白そうに浄春坊を眺める。
「さて、戦支度をするか」
微動だにせず、無言のままの浄春坊に飽きたのか、声も掛けず部屋を出ていく。取り残された浄春坊であったが、案内の者が来るまで身動ぎ一つしなかった。
柳本賢治は陣屋の奥で苛ついていた。豊地城近くの玉蓮寺に陣を置いたのが五月十五日である。それから一月半もの間、豊地城をいくら攻めても埒が明かず、柳本賢治の酒量が増えていた。酒の相手を務めるのは馬廻衆の柳本源七郎治久である。
「殿、酒が過ぎるのではございませんか」
「分かっている……が、憂さを払わねば、やり切れん」
賢治はそう言いながら、亡き兄と共に戦った菱木の戦いを思い出していた。川があるというだけで、これほどまで城を攻めあぐねるとは思っても見なかったのである。
あの戦いでは、中洲に進んだ軍勢の後背に舟で回り込まれ、小勢に中央突破を許すという失態を犯した。今回は後方に問題はないが、川に阻まれて城の包囲が不完全である。附城を築いても、敵兵は自由に動き回っていた。
「そうはいいましても、兵の士気に関わります」
「俺の深酒の所為ではあるまいよ」
この一月半、攻めても攻めても城側の疲弊が見えないというのは、異常なことであった。中には豊地城は呪われていると言い出すものさえ居る。雑兵の繰り言と放置していたが、 素破が紛れ込んでいる可能性が高かった。
依藤村忠が念仏城を攻め、城主の田尻盛実が|四月《》|廿日《》に討死。嫡子・小次郎盛忠は逃れて三木城へと駆け込んだ。別所村治は報復の軍を起こし、念仏城を取り返したまではよかったが、依藤村忠を討たんとして、小寺氏と合力して豊地城を攻めたものの、手痛い反撃を受けている。村治は細川六郎に援軍を願い出て、柳本賢治が一万の兵を率い乗り出した。
「御屋形様に増援を求めては?」
「徒に兵を増やしてもこの地形ではな……」
東条谷は蛇行する川と狭隘な谷が続いていた。堺からの増援よりも別方面からの協力体制がほしいところだが、北も西も細川道永の陣営に組み込まれている。
さらに、賢治を苛つかせているのは、可竹軒周聡によって、足利義晴との単独講和を挫折させられたことであった。それが、|五月《》|廿五日《》のことである。賢治が出陣して半月も経たぬ間に、堺幕府の方針がガラリと変わってしまったのだ。
「今、何時か」
「八つの鐘から大分経ちましたので、そろそろ八つの終わりかと」
外に目をやれば、月も見えぬ。それもその筈、明ければ三十日――晦であった。闇が帳を降ろしている。
「そうか……源七郎は先に休め」
「はっ」
治久の立ち去る足音を聞きながら、賢治はさらに酒を煽った。瓶子を抱えて、浴びるほどに盃を重ねる。それはまるで兄への弔いであるかのようだった。
「……うん?」
賢治はいつの間にか眠っていたらしい。部屋に風が吹き込んだ気がして、目を開いた。その瞬間、首が燃えるように熱くなる。熱さのあとに痛みが走った。
「がはっ?!」
曲者っと声を挙げようとして口を開いたが、飛び出したのは血の塊だった。首筋に激痛が走っている。斬られたのだ。
「……ごぼっ……」
首を抑えるとヌルっとした温かい液体が溢れている。
――血だ。
ぐらりと、賢治の体が傾く。
物言わぬ屍となった賢治を浄春坊が見下ろした。懐紙で黒光りする匕首を拭うと黒漆の鞘に収める。闇に紛れるためであろうか、黒に染められた忍装束に身を固めた浄春坊は合掌して、その場を立ち去った。
書き上がりました。
途中、ChatGPTと依藤氏のことで挌闘しつつ、浦上氏や別所氏のことを盛り込み過ぎて、五百字もオーバーするという状態に(笑)
ツイ友のかりんさんがルビ振りを手伝ってくださったお陰で、普段は二週間も掛かるルビ振りが一週間足らずで終わりました!(嬉)
かりんさんには大感謝です!
今回、新規登場したのは依藤村忠と中村助三郎(秀周はオリジナル)、浄春坊(奉賢はオリジナル)、島村貫則(島村貴則)ですかね。
まだ配役は決めていませんが、島村貫則は津田健次郎、浄春坊には野間口徹がいいと思ってます。
では次話でお会いいたしましょう!




