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数寄の長者〜竹馬之友篇〜  作者: 月桑庵曲斎
第三章 干戈騒乱
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第廿三服 囲師必闕

享禄元年に改元され、新しい時代が開ける。細川高国を追い落とした細川晴元陣営であったが、早くも分裂の危機を迎えていた。そんな中柳本賢治は大和征討を奏上する。大和は畠山氏の領国であった。

(いくさ)(かこ)まば(かなら)()くべし


眉のごと 雲居に見ゆる 阿波の山 

()けて漕ぐ舟 泊まり知らずも

             船王(ふなのおおきみ)『万葉集』より


 十二月の内に山崎城へ戻った柳本弾正忠賢治は軍勢を解散させ、家臣も帰郷させた。慌ただしい日々も終わり、落ち着きを取り戻した城内の一室で、今は()(あぶり)に当ったている。冬の厳しい寒さが一際強い寒中の終わりのことであった。


 手焙は室町時代に使われるようになった個人用の小さい火鉢で、平安時代には火桶と呼ばれていた。炭を直接入れていたが時代が下るに連れて灰を敷いた上に熱した炭を置くように変化したのは香道の影響である。賢治は香道に詳しくはないが、手焙に焚べられた香木が(じん)(こう)なのは分かる――といっても、六国と呼ばれる産地までは分からなかった。沈香とは「沈水香木」の略で、東南アジアの熱帯地域で育つジンチョウゲ科の樹木に含まれる樹脂が固まった香木をいう。


「歳の瀬の(きわ)ですが、なんとか終われました」

「皆も、殿の御蔭で正月を我が家で迎えられると喜んで居りました」


 それは重畳――と返しながら、賢治は畏まって真剣な眼差しを向ける。


「ところで義父(ちち)上、見所のある者が居りませなんだか」


 (やす)(とみ)氏の寄騎として丹波国神尾(かんのお)(やま)に根付いた(やなぎ)(もと)氏は元々親族は多くない。その上、現当主の賢治は夫婦(めおと)養子であり、気の置けぬ者が家中には少なかった。


「才ある者を探すのがお好きなのは分かりますが、一朝一夕には行きませぬ。殿も一心地着かれませ」

「分かっている、分かってはいるのですが、どうにも気が急いて仕方ないのです」


 賢治は既に、西岡衆から()()氏出身の柳本(わか)()(のかみ)(はる)(より)、鳥羽衆から(とみ)(もり)氏出身の柳本越中(えっちゅう)(のかみ)(よし)(ひさ)摂津(せっつ)衆からは(ひがし)(なり)郡の国人(しぎ)()氏出身の柳本(しゅ)()(のすけ)()重らを一門に迎え、取り立てていた。


「殿、焦りは禁物ですぞ。西岡を預かれたのですからじっくり腰を据えて探しましょう」

義父(ちち)上は達観しておられる」


 賢治にとって愚痴れる相手は元義父の岩崎太郎左衛門(よし)(なが)しか居ない。賢治の数少ない親類であった。長行・之長・元長と三代に亘り細川讃州家の家宰を務めた三好氏と、長治が初めて年寄(おとな)衆となった柳本氏では比較にならない。戦の度に、三好家の家臣層が厚いことを見せつけられており、劣等感を刺戟されていた。


「だてに歳は取っておりませぬよ。我等は我等、名より実を取っていくしか御座いますまい」

(たし)かに……洛中に段銭(臨時税)を課すか、荘官請負を広げるか」


 段銭を課すにせよ、荘官請負を拡げるにせよ、いずれにしても反撥は免れ得ない。相手が町衆になるか公家衆になるかであった。町衆には土一揆の危険性があり、公家衆には朝廷から幕府へ訴状が廻る可能性と、雑掌や組年寄らの反抗も有り得る。山城国は国一揆で守護職を交代させた先例もあった。


「それに所司代にはなれたのです。余り焦らず、地固めをいたしましょう」

「差配は義父上にお任せいたします。私は京の治安を(まも)らねば」


 所司代となった賢治は一門から柳本忠兵衛(はる)(やす)・柳本新三郎(はる)(たけ)・柳本源七郎(はる)(つな)などを警固役に抜擢、岩崎吉永を目附として、洛中洛外までを兵を巡回させていた。それには銭が要る。洛中は山城守護職や守護代職の管轄外で、幕府直轄であった。


 山城国は、本来山背(やましろ)であり、()()(のみやこ)――平城京から見て奈良山の後という意味がある。古来から多くの(みやこ)の置かれた地域で、継体帝の(つつ)()(のみや)(つづ)()郡)・(おと)(くに)宮((おと)(くに)郡)、聖武帝の()()京((そう)(らく)郡)があった。


 山城に京が(うつ)ったのは宗門からの離脱を柏原帝(桓武天皇)が図ったからだ。延暦三年(西暦784年)に長岡京の建設を始めるや遷都する。翌延暦四年(西暦785年)には長岡京で新年の儀式が行われている。しかし、同年九月、造長岡宮使の藤原種継(ふじわらのたねつぐ)が暗殺され、皇太弟・(さわ)()親王がこの叛逆に(くみ)していたとされた。早良親王は幽閉・配流となり、配流先への途上で、恨みを抱いたまま死去する。その後、日照りによる飢饉・疫病の大流行や、皇后ら柏原帝(桓武天皇)の近親者の相次ぐ死去、伊勢神宮正殿の放火、皇太子の発病などの変事が起こり、早良親王の(たた)りとされた。延暦十一年(西暦792年)和気清麻呂(わけのきよまろ)の建議もあり、延暦十三年(西暦794年)柏原帝(桓武天皇)愛宕(おたぎ)郡・(かど)()郡に(また)がる地に新しい京を定める。唐の長安と洛陽を模して作られた平安京は、南面して左を洛陽城(左京)・右を長安城(右京)と呼んだ。


 山城国は西から北回りに

 乙訓郡(長岡市・向日市周辺)

 葛野郡(右京区周辺)

 愛宕郡(左京区周辺)

 ()()郡(伏見区周辺)

 ()()郡(山科区周辺)

 ()()郡(城陽市周辺)

 綴喜郡(八幡市周辺)

 相楽郡(木津川市周辺)

 の八郡七八郷があり、国力等級は上国である。太閤検地による石高は約二二万五〇〇〇石で、西は丹波高原から桂川、北は北山から鴨川、近江の淡海から宇治川、伊賀国から木津川が流れて、京の西南部で合流している盆地であり、その水流は摂津・河内・和泉の国境を流れる淀川となって海に注いでいた。遷都によって人口が集中し、食料自給率は低い。そのため、水運によって近江・摂津・和泉・河内から、陸運によって若狭・丹波から食料が運び込まれた。


 京の周辺は朝廷の直轄で、山城国司の管轄からも外されており、京(しき)が置かれており、鎌倉殿は(ろく)()()(たん)(だい)に、室町殿は侍所に管轄させている。


 室町初期は侍所(べっ)(とう)が山城守護を兼務し、山名陸奥守氏清と赤松(だい)(ぜん)大夫(のだいぶ)義則が交互に務めた。その後は、畠山右衛門(のかみ)基国、結城越後守満藤、京極治部少輔(のしょうゆう)(たか)(あきら)が就いている。一時期、(こうの)陸奥守(もろ)(ひで)を挟んで一色(しゅ)()大夫(よし)(つら)が務め()(しき)の家柄が定着した。だが、畠山左衛門督持国・伊予守(よし)(なり)・尾張守政長は侍所別当とは関わりなく山城守護を務めている。そして、赤松左京大夫政則を最後に伊勢氏が独占したが、大内周防(すおう)(ごん)(のすけ)義興が任じられて以後、京の支配者が任じられる様になった。


 以前より山城守護代は半国守護代で管轄は南山城の上三郡(相楽郡・久世郡・綴喜郡)と、北山城の下五郡(葛野郡・乙訓郡・愛宕郡・紀伊郡・宇治郡)に分掌されていたが、堺幕府では守護も分掌された。これは上三郡を畠山右衛門督義堯が実効支配していたことによる。下五郡の山城半国守護に細川六郎、守護代に三好(ちく)(ぜん)(のかみ)(もと)(なが)が補された。上三郡は(かつ)(こう)西(ざい)越後守元長が守護代であった故に賢治が名乗り出たが、畠山義堯が半国守護となり、遊佐中務丞英盛が守護代に補されている。


 元長は郡代として、葛野郡に市原(いわ)()(たね)(よし)、乙訓郡に三好越前守家長、愛宕郡に(しお)()若狭守(たね)(みつ)、紀伊郡に森()()(なが)(ひで)、宇治郡に(へん)()伯耆(ほうき)(まさ)(もり)ら阿波衆を配して、名を(ゆき)(ひで)から改めた叔父の三好()()()(なが)(はる)に総代を委ねた。この阿波衆を郡代に抜擢したことが元長への山城国衆の反撥を招いてしまう。対して畠山義堯は隣接地域の国人である鷹山主殿(とも)(すけ)頼慶が相良郡、安見美作守友重が綴喜郡、そして帰参したばかりの木沢左京亮長政が久世郡の郡代となった。


 賢治は堺公方(足利義維)より請け負った西岡へ本拠を移した。西岡も将軍家直轄領で、守護・守護代の管轄外である。つまり、柳本賢治の領地は三好氏の統制下にはなく、自由に動けるということだ。


 洛中を管轄する侍所では、所司・所司代不在が続いており、(かい)(こう)が実質的な統括者であったが、その開闔を勤める松田()(ぜん)(より)(やす)は足利義晴に従い近江に、飯尾氏は善左衛門尉(なが)(つら)の代に遠江に下向していた。そこで、畠山義堯が侍所の所司(別当)を求めるも、細川六郎はこれを拒否、柳本賢治を所司代として、木沢長政と典厩家執事の松井宗信を開闔に任じるに留めた。




 享禄二年(西暦1529年)正月(2月)元日(9日)、諸将は参賀のため、留守居役を置いて上堺する。


 年賀の宴は引接寺にて行われた。足利義維主催の三部の宴である。その最初が主殿で行われる式三献だ。これは、三部で構成される宴会の最も重要な儀礼で、初献に海月(くらげ)・梅干・(うち)(あわび)、二献に鯉の打身(うちみ)――刺身――、三献には腸煎り――鯉の内臓の味噌煎り煮――が出される。これらは箸をつけず、実際に食されることはない。室町将軍家を頂点とする武家社会において、主従関係を確認し合う杯を交わすために新たに生み出された儀式だった。


 主殿で式三献が行なわれた後、会所に場を移して、さらに式三献とは異なる初献から三献を行う膳部――実際に食餌をする――となり、その後、四献以下の献部――主に酒食をする――となる。この間は礼講が行われ、序列順に盃を満たし、飲むという形であり、宴会の三部が終わってはじめて無礼講が許された。


 堺公方を中心に、左には細川六郎、可竹軒周聡、細川播磨守元常、細川弥九郎、三好元長、柳本賢治と並び、三好遠江守長家、三好孫七郎政長らが続き、右には畠山義堯、遊佐兵庫助英家、遊佐中務丞英盛、赤沢大和守堯経らが続く。



 宴も(たけなわ)、七献も過ぎた頃、慌ただしく使者が入ってきた。使者は柳本賢治を見つけると駆け寄って、耳打ちする。


「なんだとっ」


 賢治は盃を落として、思わず声を挙げた。隣席の三好長家が訝しがる。


「何か変事でも?」

「いや……遠州殿、少し宜しいか?」


 頭を振った賢治であるが、思い直して目配せして三好長家を外に連れ出す。そして、柳本忠兵衛治安が伊丹左近将監親永を殺害したことを告げた。


「なんということを……」

「さても如何したことか」


 留守を預かった一人である柳本治安は(いささ)(せん)(りょ)の嫌いのある漢であった。賢治もそれを案じてなかなか抜擢出来ないでいた。しかし、実家である鳥羽の中井氏の力を恃みたい賢治は到頭、警固役に任じる。その治安が伊丹親永と言い争いとなり、四半刻も掛からず斬り合いとなって親永を討ってしまった。これを知った岩崎吉永が早馬を走らせたのだ。


「とりあえず、私は京へ戻ります」

「いや、それは止したほうが良いだろう。筑前に気取られる虞がある。若州あたりから報告を挙げさせれば角は立つまい」


 長家の言うことが尤もに思えた賢治は万事を長家に任せることにした。長家はそのまま「急用にて失礼仕る」と宴を辞して京へ奔る。賢治は長家に指示された通り、所轄郡代である塩田胤光に山崎城から使者を出させた。




「何故、あの時にその場で言わなんだかっ!」


 翌日、塩田胤光よりの報せで知った元長は、怒髪が天を衝いた。それでも冷静に弟を殺された伊丹大和(やまと)(もと)(すけ)への()()のため、見舞金を手配する。そして、賢治へは詰問状を(したた)め、三好伊賀守(つら)(もり)を使者に選び言い含めた。


「山崎城へ行き、忠兵衛(柳本治安)が首、必ず持って参れ」

「畏まりまいた」

 

 寄騎とて罪には問えぬのに、自身の家臣ではない賢治を罪には問えなかった。また、陪臣だからといって他人の家臣を罰することも出来ない。故に、元長は当事者たる柳本治安の首を所望した。だが、賢治は詰問状に返書もせず、連盛は手ぶらで追い返される。そして、五日になって(ようや)く使者を送ってきたかと思えば手土産(柳本治安の首)は無かった。


太郎左衛門(岩崎吉永)っ。()(たび)がこと、左近将監(伊丹親永)がこの元長が身内と知っての(ろう)(ぜき)よな?」


 海船政所にある奥座敷の上座に入った元長は右の眉を跳ね上げて岩崎吉永を(にら)む。挨拶もさせず、怒りの表情のまま、(えん)に坐る吉永に大音声を降らせた。


「ろ、狼藉とは異なことを。左近将監(伊丹親永)殿は警固の者等を侮蔑したと聞いております。筑前様には何卒ご理解賜りたいとの主より言伝を預かっておりまする」


 阿波の島熊と(あだ)()されるほどの巨漢たる三好元長に睨まれた吉永は震えている。殺気が物理的に圧迫することなど有りはしないが、元長から滲む殺気に殺されるかと恐れた。


「死人に口なしが通ると思ってかっ! 其方(そのほう)は即刻立ち戻り、忠兵衛(柳本治安)が首、此処に持って参れっ」


 それは(まさ)に熊の咆哮であった。吉永は身を縮こまらせながら辛うじて声を出した。


「そ、それは出来ませぬっ」

「……(なに)(ゆえ)出来ぬ」

「道理の分からぬ筑前(三好元長)様では御座いますまい……御明察くださりませ」


 低い唸り声を出して元長が()めた。吉永は縁に()(つくば)って平身低頭で弁明する。


 柳本治安は賢治の側近というよりも、山城国人を代表する一人である。実家の中井氏は(いわ)清水(しみず)(はち)(まん)(ぐう)に属して馬の流通――伯楽(ばくろう)に従事していた。


 (ばく)(ろう)とは馬の売買を仲介する商人で、伯楽の字は馬相を観て鑑定した春秋時代の(そん)(よう)に因む。孫陽は秦の穆公に仕え、馬の育成に功労があり、星宿の一つで天馬を管理する神仙「(はく)(らく)」に因んで「伯楽将軍」の雑号を与えられ(あざな)とした。孫陽は調教や獣医としての技術も持っており、後に「(めい)(はく)(らく)」といえば、馬の育成に優れた指導者をいうようになる。また、治安の父・中井将監安清は名伯楽であった。


 それ故、治安を打首に処せば、中井氏が敵に回り、さすれば(ばく)(ろう)座からの支持を失う。ひいては八幡宮の協力を仰げなくなり、京の治安維持がしにくくなるのは明白だ。しかし、此処で元長が同意しては伊丹元扶に面目が立たなくなる。


「……儂が直に手討ちへ参っても良いのだぞ?」

筑前(三好元長)様、御(かん)(じょ)くださいませっ」


 岩崎吉永は激しく床に額を打ち付け、擦り付ける。元長は唸って小さく嘆息を吐くと、再度詰問状を認め、吉永に持ち帰らせた。しかし、賢治からは梨の礫で、元長は腹を立てて何の非もない塩田胤光を叱責してしまう。だが、それこそが賢治の狙いだった。



 堺に居る三好元長の様子は三好政長から逐一報せて来ていた。政長は余程元長が嫌いなようで、賢治としてはやりやすい。吝嗇なだけの長家より、守銭奴の政長の方が扱いやすいのだ。


「いい風よな」


 山崎城の居室から堺の方を向いて一人、(ほく)()()む賢治。六郎と元長、元長と阿波衆の関係が冷えれば冷えるほど、自分の価値が上がっていくというのが賢治の勘定であった。三好氏は、細川讃州家の中でも、古参の家臣たちからは敬遠され、新参の実力者たちから支持されている。堺京兆家としては不可欠の人材だ。だがそれは万世不変の物でない、その立場を削れるだけ削り、いつの日か取って代わろうとしていた。


「もう一芝居打つとするか」


 燭台の灯りに照らされた賢治は己が敵(細川頭尹賢)と同じ笑みを浮かべていた。



 

 次に起こったのは松も明けぬ一月(2月)十一日(19日)。柳本治武が洛中の一条家領に立ち入った。()()(せん)を徴収するためである。


 地子銭とは領主が田地・畠地・山林・塩田・屋敷地などへ賦課した地代を指す。賦課した地目に応じて田地子・畠地子・塩浜地子・林地子・屋地子などと呼ばれた。元は物納であったが、貨幣経済の発達に伴い、京周辺では銭納となっていた。


 京を道永らから防衛するためには兵を駐留必要があり、その費用捻出のために、京周辺の荘園や洛中を支配下に置く実力行使であった。


「侍所所司代(柳本賢治)様の御下命である。皆々、従うように」


 馬上から触れ回る治武であったが、これに対し、町衆が難色を示した。町衆にすれば、地子銭は収める先が決まっている。何故に血縁(えん)地縁(ゆかり)もない柳本賢治に収めればならぬのかと、押し問答となった。多勢に無勢となって、治武は抜刀するしかなかった。


「えぇい、こうなっては是非も無し。者共、(ぶん)(どり)()(めん)ぞ!」

 

 兵らを(けしか)けるのに、治武は室町の民家で劫掠を許した。これに対し町衆は自衛のため一条(かく)(どう)――一条北辺にある天台宗(ぎょう)(がん)()に立て籠もる。老若男女を問わず、住民らが(こぞ)って逃げ込んだ。


――カンカンカンッ、カンカンカンッ!

「革堂の鐘だ! 狼藉者が出たぞ!」


 (かん)(しょう)を乱打して町衆に危機を知らせたのは一条家の(ざっ)(しょう)であった。町中に響き渡るその鐘に導かれて逃げ込んだ一条組の年寄は、避難した町衆を指揮して雑掌とともに防備を固める。治武は蹂躪しようとして応援の兵を集めたが、思いの外、町衆らの抵抗が強く攻めあぐねた。


 雑掌とは(りょう)()のもとで荘園に関する訴訟や年貢や公事の徴収などの任にあたった荘官のことで、()()が独立するに及んで遣わされるようになったものだ。年貢は上級領主である領家に納め、地子銭は下級領主である下司や雑掌の取分となる。それを横取りしようとしたのだ。


新三郎(柳本治武)様、如何致しましょう?」

「火でも投げ入れますか?」

「……」


 取り巻きが次々と口を開くが、治武は迷ったまま床几に坐った。町衆と柳本勢の睨み合いは半日ほど続く。この治武の迷いが賢治の計算違いであった。


 漸くに行願寺より知らせを受けた三位中将一条房通が朝廷を通じて所司代府に抗議した。これに慌てた賢治は松井宗信に相談し、宗信は兵を引くよう促す。賢治も朝廷に逆らう気はなく、兵を引かせるしかなかった。


「大事になってしまいましたな」

「誠に申し訳ござらん。されど、馮翊殿とて銭は必要でござろう?」

 

 松井宗信は柳本賢治に柳本治武の打首を求めたが、公家衆に顔の利く長政の父・左近入道()(はん)の執り成しによって謹慎で済まされた。


「それはそうですが……」

孫四郎(木沢長政)よ、銭は大事ぞ?」

 

 木沢長政も歯切れは悪い。確かに兵を駐留させるには銭が要るのは事実だ。しかし、町衆を敵に回しては治安維持などままならない。長政と宗信の話し合いで、賢治は領家との関係性に配慮し、洛中を諦め他へ領地を広げることになった。



 

 一月(3月)廿五日(5日)、柳本賢治は、麾下の兵を率いて、奈良に駐留していた元長の与党で総州畠山家の赤沢大和守堯経を攻めて自害させた。電光石火の進撃の裏には、大和に復帰した古市(りん)(けん)(ぼう)(こう)(いん)の手引きと木沢長政の支援がある。これは、赤沢堯経は総州家の家臣でありながら、半ば独立した国人と化しており、さらに三好元長の寄騎となっていたため、木沢長政と柳本賢治の利害が一致したのだ。木沢長政の


大和(赤沢堯経)殿が討たれただと?」


 知らせを受けた元長は愕然とした。伊丹親永はまだ旗本格の小身だが、赤沢堯経は守護代格の大身であった。柳本賢治は明らかに元長陣営の諸将を狙って攻撃している。つまり、伊丹親永の死は偶発的なものではなく、元長の手足を一つずつ奪うための下準備であったのだ。賢治の野心を図り間違えていたことを此処に来て悟らされた。


「つまりは、どうしても武蔵入道の首が欲しいのか」


 これを主導しているのは三好長家でも三好政長でも松井宗信でも木沢長政でもなく、柳本賢治である。元長はその執念に空恐ろしさを感じた。人はそこまで人を憎むことが出来るのだろうかと、己を振り返る。


「儂には出来ん……」


 柳本賢治と己の決定的な差であった。


 しかし、元長は諦めない。細川武蔵入道道永との講和は足利義晴に退任を迫り、足利義維を公方とする最短の道なのだ。そのためにも和泉の制圧を急がねばならない。紀州の畠山尾州家が虎視眈々と泉南を狙っていた。




 大和支配を巡って競合(ライバル)関係にあった赤沢堯経を排除した柳本賢治は、支配体制を築くため、駐留を続けた。同年四月に入ると配下の将を大和へ呼び寄せ、支配体制を確立しようとした。しかし、筒井良舜坊順興が撤兵の代わりに「礼銭」を支払うことで和睦に合意。奈良を古市公胤に任せ大和から撤収する。柳本賢治はそのまま山崎城から摂津の元長麾下の武将らに圧力を掛け始めた。


 しかし、筒井順興の和睦の申し入れは柳本勢を去らせるための擬態であった。古市公胤の支配を何事もないと思わせておいて、四月(5月)廿一日(28日)に急襲してこれを駆逐すると、取って代わって奈良を掌握する。


 山城、摂津で三好元長と争う柳本賢治が容易に再度大和へ侵攻することはないと見た順興であったが、古市公胤の敗退に柳本賢治は素早く反応した。


「筒井の奴原め、私を欺くとは」


 四月(6月)廿七日(3日)、柳本賢治は自ら軍勢を率いて大和へ侵攻し、大和国内各地を焼き討ちにして、内山永久寺では多くの寺僧を殺害。その後、柳本賢治は大和三大門跡でかつての国分尼寺であった法華寺に陣取った。筒井順興は再度、和睦を持ちかける。結局、順興から礼銭三千貫と大和一円への私段銭の()()権を得ることで話がまとまり、柳本賢治は再び撤兵した。


「弾正が槍のなんと目まぐるしいことか」

 

 元長は柳本賢治の軍勢の動きに呆れた。出兵に次ぐ出兵である。これでは兵が保たないとさえ思った。


 柳本賢治にすれば、三好元長との抗争が続く中、長期間大軍を大和に駐留させて領国化することは難しい。攻め寄せると決戦を避けて東山中に籠る筒井順興に時間と兵力をかけて徹底的に叩くことは困難だとの判断であった。

改訂版です!

上三郡は柳本賢治ではなく、遊佐英盛が守護代になりました。これは上三郡を実効支配していたのが畠山義堯であったことによる変更です。この南山城の国人や土豪らが、後に河内国や大和国に移動していることを鑑みると畠山氏による支配体制が組み上げられていたと考えられます。


郡代については後に安見宗房と鷹山弘頼が上三郡守護代に任じられていることから、この当時に郡代であった方が不自然ではないという推察です。


小説は慌てて書くものではありませんね(笑)

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