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数寄の長者〜竹馬之友篇〜  作者: 月桑庵曲斎
第一章 動乱前夜
3/36

第二服 同乳連枝

利休の祖父・田中与右衛門の前に三好彦四郎之秀が赤子を連れてやってきた。

彦四郎は三好之長の末弟で、元長の叔父にあたる。之長死後の元長を支える三好一族の長老であった。

()(おな)じうして(えだ)(つら)ねる


いささめに 時待つまにぞ 日は経ぬる

武者子も吾子も ともにはぐくむ



 (ちどり)屋は堺の今市町にあり、この辺りは住吉大社の社領である。今市町の西には宿(しゅく)(いん)(とん)(ぐう)があった。


 宿院頓宮は住吉大社の()(たび)(しょ)として設けられた(やしろ)で、()(ごし)(はらえ)には住吉大社より神輿(みこし)を迎えて、(けい)(だい)西側にある飯匙(いいがい)(ぼり)(あら)(にごの)(おお)(はらえ)神事が(さい)(こう)されることで有名である。夏越の祓は現代のように新暦6月末に行うものではなく、旧暦六月の(みそ)()に夏が終わり翌日から秋になる暦の区切りで行われる物だ。これに対して大晦日に行われるのが年越の祓である。


 今市辺りには納屋衆が多く住んでおり、鵆屋や本家の斗々(とと)屋だけでなく、親しい天王寺屋も割合近く、皮屋は通りを挟んだ向かいにある。また納屋宗才の邸も皮屋と軒を並べていたし、天王寺屋の向こうには、錺屋や木屋なども軒を並べていた。


 その鵆屋に、ひっそりと訪れた客人があった。そのため、離れに近づかぬよう父に言われた()()丸は()()の許に来ている。その義母の許にも小さな可愛らしい客が迎えられていた。

 

 そして、多呂丸は昼過ぎからずっと二人の(あか)()を眺めている。赤子というのは、泣いては乳を貰い、泣いては襁褓(おしめ)を変えてもらい、キャッキャキャッキャと笑っては、()()を独り占めしていた。


 紗衣は多呂丸からすると(まま)(はは)ではあるが、これまで紗衣に子がなかったこともあり、実の母子のように仲(むつ)まじい。先日の出産の折には実の母のように死んでしまうのではないかと、子供ながらに心配して、いつでも手伝えるようにと(うぶ)屋の前から離れなかった。


 二人の赤子のうち、一人は十日ばかり前に生まれたばかりの弟・()()丸である。もう一人は客人に連れられて来た赤子だ。但し、客人の子にしては歳が離れている気がする。名前はたしか(せん)(くま)丸といった――と思い出していた。


 千熊丸は豪奢な()(くる)みを(まと)い、乳母(めのと)に抱かれて鵆屋に連れてこられた。どうやら、その()()も乳母も乳の出がよろしくないようで、やってきてからというもの、志郎丸の分も飲んでいるのではないかと多呂丸が心配するほどに、紗衣は千熊丸に乳をやっている。


「あれ、多呂や……多呂もほしいかぇ?」


 紗衣は多呂丸がじっと見ているのに気付くと、手招きしてみせた。多呂丸はカッと頬を紅く染めて大きく(かぶり)を振る。


「多呂は赤子ではありませぬ! 志郎の分が()ぅなりはせんかと……」


 ほほほと、紗衣は笑った。


 微笑(ほほえ)ましい兄弟愛に嬉しさがこみ上げる。この乱世では同腹の兄弟ですら争うことがあるというのに、異腹(はらちがい)の弟を気遣う心が多呂丸にあることが嬉しいのだ。


「かぁさまはたんと乳が出るに、志郎の分など無ぅなりゃせんがね」


 笑顔でそう紗衣がいうと、多呂丸はばつが悪そうにしょげ返ってしまった。もう一人の赤子への意地悪と思われたと心配したのだろう。


「多呂はいい(あに)さまになるねぇ。せやけど、これからは志郎だけやのぅて、千熊さまの兄さまにもならなあ」


 そう言うと紗衣はクシャクシャっと多呂丸の頭を撫でた。多呂丸ははにかんで笑顔を紗衣に向ける。幼い童の笑顔に千熊丸の乳母も紗衣の侍女も安堵した表情を浮かべていた。


 紗衣の言葉に多呂丸は気づいたことがある。千熊丸がこののちもずっと、鵆屋に滞在するらしいということだ。それならば志郎丸と千熊丸が乳兄弟になる。


 武家の子弟というのは母親だけに育てられることは基本的にない。武家の妻というのは夫の留守を守る女主人であり、家臣の妻らの面倒をみる当主の代行者であり、奉公人の差配の役目がある。それ故、特に赤子に掛り切りになることは出来ないからだ。


 とはいっても、普通は子を外に出すことはない。乳母に()()(なま)りがあったから、父の取引先であろうことは幼い多呂丸にも察しはついた。


 千熊丸の乳母は阿波の豪族の(むすめ)に違いないが、()(のみ)()を連れていなかったからだ。


 多呂丸の推察は間違っていない。乳母はここに留まらず、数日ののち国許に帰るのだ。これからは紗衣が千熊丸の乳母になるのだろう。


 紗衣を二人に取られてしまうという一抹の寂しさはあるが、それ以上にこの睦まじく眠る二人の赤子が離れ離れにならずに良かったという不思議な感情が多呂丸の心を占めていた。


 志郎丸が生まれた大永二年(西暦1522年)は穏やかな年である。昨年の帝の代替わりから続いた一連の大騒動が片付いたからだろうか。


 大騒動の発端は永正十八年(西暦1521年)三月七日(4月23日)、細川右京大夫(たか)(くに)と反目した足利(よし)(たね)が京を(しゅっ)(ぽん)したことだった。同月廿二日(5月8日)に行われた()(かしわ)(ばら)(せん)()の儀および即位の礼に武門の(とう)(りょう)たる征夷大将軍が欠席し、細川高国が警護を代行するという異例の事態となった。これにより、細川高国は事実上の天下人となったと諸大名は受け取っている。だがその実、将軍家の家臣の立場を保持しており、あくまで将軍権威の下の天下人であった。


 践祚とは、皇太子または皇太弟・皇太孫などの皇位継承者が皇位を受け継ぐことを云う。即位の礼が国の内外に知らせるのに対し、践祚の儀とは「()(おや)(がみ)に告げる」ものだ。この二つの儀礼を警護するのは武門の棟梁たる将軍の重要な務めである。それを(おこた)ったというのは、朝廷の信頼を損ねることに他ならなかった。ただでさえ不安定な幕府の屋台骨が傾きかねない。室町幕府というのは、それほど中央の権勢が強くなかった。鎌倉幕府と異なり、内乱に次ぐ内乱を武力ではなく政戦両略によって解決した大名連合政権であった上に、応仁の乱以後、細川氏の専横で将軍権威は揺らいでいる。かろうじて朝廷と有力大名らの支持によって命脈を保っているに過ぎなかった。人望のある者や政治力の高い者が将軍であれば、然程問題とはならぬことも、後継者を定めぬまま歿してしまうと内紛の火種を抱えることにもなるし、政治に関心のない者が就けば、私心ある有力大名らに政治が左右されてしまう。ましてや、室町幕府は遠方に奥州探題・羽州探題・九州探題を据え軍事指揮権を与えていた。さらに関東には鎌倉府を置いて分割統治をしている。その結果、鎌倉公方と幕府の確執は何代にも渡って常態化し、反目するまま、応仁の乱に先駆けて関東で享徳の乱が起こった。鎌倉府は戦火に飲まれ、古河公方と堀越公方が対立する。しかし、堀越公方がわずか二代で伊勢新九郎入道宗瑞(伊勢盛時)に滅ぼされ、今度は古河公方の父子の対立が永正の乱を引き起こした。これによって北条と氏を改めた伊勢宗瑞の子・左京大夫氏綱が関東を席捲する。関東と畿内の大戦が立て続けに起こりで、幕府や鎌倉府の統制力は事実上なくなり、実力のみが問われる戦国の世が幕開けた。


 その戦国の世にあって幕府を支える細川京兆家との仲違いである。元々、高国は積極的に義稙公を擁立したわけではなかった。大内義興の軍勢と戦って敗れることを回避するために、疑り深く馬の合わぬ(すみ)(もと)と袂を分かっただけのことである。先に高国を敵視したのは澄元なのだ。故にあっさりと義稙追放を決めた高国は、先の将軍・義澄(よしずみ)の遺児・亀王丸を京に招くことで敵対勢力の取り込みを図り、政権の安定を図る。赤松義村とともに播磨各地を転々としてきた亀王丸は、ようやくひと心地つくことができた。


 永正十八年(西暦一五二一年)四月六日(5月26日)、京に入った亀王丸は、細川高国に迎えられ、将軍就任の準備に入った。


 七月廿六日(9月6日)には将軍家学問始である「読書始(どくしょはじめ)」が始まる。同月廿八日(9月8日)、高国と文章(もんじょう)博士・(ひがし)(ぼう)(じょう)(かず)(なが)が選んだ(よし)(はる)の名乗りを与えられ、従五位下に叙された。


 八月九日(9月19日)には、元服前の儀式である涅歯(でっし)を終え、同月廿三日(10月3日)(しょう)(げん)。永正が大永に改められ、同月廿八日(10月8日)(だい)()代始(だいはじ)めの参賀を行う。ちなみに、称元とは天皇即位に際して元号を変えることで、在位中に改めることを改元といった。


 高国の意向を受けた朝廷は、十一月廿五日(1月2日)、将軍継嗣に与えられる()()(のかみ)に亀王丸を任じた。


 十二月廿四日(1月31日)亀王丸は元服して義晴となり、翌廿五日(2月1日)、征夷大将軍に任じられ、政務が始まった。勿論、十一歳の義晴が政務を行える筈もなく、細川高国や政所執事の()()(さだ)(ただ)(いい)(かわ)(くに)(のぶ)(おお)(だて)(ひさ)(うじ)ら義澄を支持していた()(とも)衆や、(はり)()国(現在の兵庫県南部)に所領を持つ奉公衆・(みつ)(ぶち)(はる)(かず)の姉で大舘常興養女の()()(のつぼね)らが政務の補佐を行った。


 伊勢貞忠は足利義澄・義稙に仕えた貞陸(さだみち)の子で八月に家督を継いだばかりではあったが、将軍家に代々仕える政所執事の家柄である。父・貞陸は祖父・貞宗(さだむね)が義澄の後見をしていたことからも心情的には義澄派であり、貞忠も同じと見られていた。


 飯川国信・大舘尚氏はともに奉公衆であり、幕府直属の軍事や代官などを務めている。特に大舘尚氏は父・教氏(のりうじ)同様、有職故実(ゆうそくこじつ)に詳しく北陸方面の申次(もうしつぎ)衆を兼務するほどの将軍側近であった。


 その将軍を支えていた細川氏は永正の錯乱(さくらん)と両細川の乱という二つの内訌(ないこう)によって弱体化した。そこに現れたのが阿波守護代三好筑前守(ゆき)(なが)である。


 三好之長は阿波守護細川讃州(さんしゅう)家に仕える阿波の豪族で、元々は守護代小笠原家に仕えていた久米氏の一族だった。


 久米氏というのは伊予の国造(くにつくりのみやつこ)を拝命した久米(のあたい)の後裔で、伊予久米郡を領していた。


 これの一族が阿波へ入り、三好郡に土着して勢力を伸ばしていく。主家である小笠原氏の姻戚となり、主家が没落すると、これに取って代わったのである。


 そして細川澄元(すみもと)の京兆家・家督を取り戻すため、之長は大内義興が山口に帰郷し、高国の軍勢が弱まった隙を突いて畿内へ進出した。之長も摂津に拠点を設け、家督も取り戻し、政権運営も上手く行ったのだが、之長を支持していた讃州家先々代当主の成之(しげゆき)、当代当主之持(ゆきもち)が相次いで亡くなると、澄元との仲が元々あまり良かったとは言えなかった之長は四国勢の諸豪族から反発されるようになっていった。


 そして、永正十七年(西暦一五二〇年)等持院(とうじいん)の戦いで局地的な勝利を収めたものの、之長に反発した久米氏・河村氏・東条氏などが高国に降ったため、大勢が決して三好勢は大敗した。


 高国勢の包囲を破れなかった之長は(どん)()(いん)に身を潜めたが、高国の知るところとなり、謀られて次子・孫四郎長光、三子・芥川次郎長則、越後守長尚の子・新五郎長久と共に斬首されたのである。


 千熊丸の父は三好長基という。細川澄元に仕えた之長の四男であり、嫡子の(なが)(ひで)の同母弟である。のちに古今無双の武将として名を馳せる男であるが、現在は細川高国と対立し、病死した澄元の遺児とともに阿波に(ひっ)(そく)していた。


与右衛門(よえもん)殿、孫次郎様はそなたを大いに頼みにしとると申されとった。頼んだぞ」


 親しげに与右衛門(田中忠隆)に話す人物、六十を少し過ぎたばかりの老人で、物腰も柔らかく人当りも良さそうであるが、小兵の割にはガッチリとした体躯(たいく)をしている。相好を崩して話し入る様子から、与右衛門(田中忠隆)とは旧知の仲であることが察せられた。


「いやいや、蔵人(くらんど)様こそ、ご当代の後見。私なぞ微力にもなりゃしまへん」


 蔵人とよばれた好々爺は、三好長基の叔父で彦四郎(ひこしろう)蔵人之秀(ゆきひで)という三好家の長老である。その物腰は飄々としており、一見して戦人とは思えなかった。三好家の人々というのは、文化の匂いのする者が多いのが、与右衛門(田中忠隆)の好ましきところであった。商人だからと見下げぬところがさらに良い。


「蔵人などと呼んでくれるな与右衛門(田中忠隆)殿。昔のように気安く彦四郎でよい。それにな、千熊を預かってもらえること以上に、今の大事はあるまいよ」


 高々と笑い声を挙げる三好之秀につられて与右衛門(田中忠隆)もともに笑い声を挙げた。その裏に、阿波での逼塞が困難を極めることが分かる。


 商人として何ができるかなどという気はない。ただ、出来ることをする――与右衛門(田中忠隆)にはそれしかなかった。


 そもそも与右衛門(田中忠隆)は三好之長と付き合いがある。しかし、之長が堺には進出した折、これをいち早く支援したのは他でもない(てん)(のう)()屋助五郎――津田(つだ)宗柏(そうはく)であった。天王寺屋助五郎(津田宗柏)を引き入れたのは、皮屋新五郎――武野紹晋である。


 天王寺屋助五郎(津田宗柏)皮屋新五郎(武野紹晋)の繋がりは本願寺である。天王寺屋助五郎(津田宗柏)は本願寺の御用商人であり、皮屋新五郎(武野紹晋)は熱心な浄土真宗の信徒であった。


 当時、まだ納屋衆に名を連ねていなかった与右衛門(田中忠隆)は、細川京兆家の御用商人である会合衆・備中屋新兵衛(湯川道阿)に憚らねばならなかった。だが、大店の天王寺屋が率先して動けば、与右衛門(田中忠隆)も追従できる。備中屋を出し抜いた天王寺屋助五郎(津田宗柏)与右衛門(田中忠隆)は利を独り占めすることなく、会合衆と利を共有した。


 このことで、与右衛門(田中忠隆)は納屋衆に名を連ねることができた。天王寺屋が三好本家の御用を担ったのに対し、鵆屋は分家の御用を受けていたが、三好家が阿波に逼塞してから天王寺屋は手を退いている。阿波とは付き合い浅からぬ与右衛門(田中忠隆)が、その代わりを務め、頼りにされたのは言うまでもない。


 三好之秀とはそれ以来のつきあいであり、与右衛門(田中忠隆)としては三好一族を(たの)みにしているところもあった。しかし、昨今の情勢はそうもいかない。之長が敗死し、三好(しゅ)(ぜん)(のかみ)(なが)(もと)が逼塞している現状を与右衛門(田中忠隆)とて面白くなく見ていた。


「これからな、讃岐の十河(そごう)まで足伸ばそうと思っての」


 十河氏は古代に讃岐に下向した神櫛皇子(かみくしのみこ)の流れをくむ植田(うえた)氏の一族で、山田郡中央東部に位置する十河城を治める東讃の有力豪族である。現在は七代当主()()(もん)(のじょう)(まさ)(かげ)が細川高国にも澄元にも属さず中立を保っていた。


「ほう、十河殿と申しますと、左衛門尉(十河存景)殿ですかな」


 商売のネタになりそうなことであれば、聞き逃すまいと、心の居住まいを正した。


「いや、あそこに若いのがいてな。長基さまの小姓にどうであろうかと思っての」


 十河存景には金光丸という十二歳になる男子があった。中立を保つ十河に阿波から楔を打つことで、畿内への進出を容易くしたい意図が明らかである。東讃の最西部に三好の影響が及べば、摂津との経路が一つではなくなり、孤立する危険性が減るのだ。


 四国から畿内へと手をのばすには淡路だけの経路では心許ない。最短経路の淡路以外にも補給路や退路は確保しておかねばならぬ。また、軍勢を養う拠点となる摂津にも近い東讃は抑えておきたい重要な土地である。


「なぁるほど、これはなかなかの買い物ですな」


 十河氏は植田氏の中でも庶流であり、神内(じんない)氏、三谷(みたに)氏らとともに讃岐守護代安富(やすとみ)氏の麾下につけられていた。十河氏が阿波の三好氏の後盾が得られれば、この中で一つ頭が抜きん出ることになる。存景が山田郡の惣領を狙っていることを之秀は知っていたのだ。


「ふぉっふぉっふぉっふぉ、そうであろう、そうであろう」


 大仰に頷き返す三好之秀。与右衛門(田中忠隆)にもこれで、三好宗家の長老がワザワザ当主の子を伴い堺まで出てきた理由が分かった。


 現在、阿波に(ひっ)(そく)する長基の周囲は刺客の危険性が大きくなっているということだ。刺客を送りつけているのは高国一派、やり手の右馬頭尹賢(ただかた)辺りならやりかねない。


 その一方で、長基も調略の手を讃岐に伸ばし、同族の伊予の久米氏にも阿波への移住を呼び掛けているのであろう。ここで十河氏が三好に通じれば安富氏を三好氏の下風に置けるのだ。


「そうなりますと、土産が要りますな?」


 にっこりと人好きのする笑顔で商売人の顔となった与右衛門(田中忠隆)に、一頻り之秀が大笑いをした。


「それよ、それ! 与右衛門(田中忠隆)殿はそうでなくてはならぬ」

「いつも鵆屋をご贔屓にありがとうございます」


 与右衛門(田中忠隆)が態とらしく畳に額を擦り付ける。


 さらに高笑いをする之秀に顔を上げた与右衛門(田中忠隆)(おど)けた表情を見せると、二人で見合って高笑いを挙げた。


 一頻り笑い合ったあと、与右衛門(田中忠隆)は身を正して三好之秀に相対した。畏まった姿に之秀も笑いを収めて真顔を見せる。


彦四郎(三好之秀)様、手前そろそろ身代を譲ろうかと思っておりました」

「ほう。与兵衛(田中行隆)殿にか」

「はい。そのつもりで準備も進めておりましたが、彦四郎(三好之秀)様のお話を聞さかさあさささささあかかあかかささああかあかさかかかさかかた?り、あと数年は先延ばしにしなければならないようでござりますな」


 にたり。

 与右衛門(田中忠隆)は掴んだという顔をした。

 調略には贈物が必要であり、堺と東讃の商人らには繋がっていた。そして、堺の塩は芸予諸島を通って来ており、塩飽(しわく)水軍や村上水軍との伝手もある。鵆屋とて納屋衆の端くれ、ここで大商いを捨てる手はなかった。


「そうしてくれるかの?」


 之秀は間髪を入れず答えた。


 その眼差しは真剣そのもの。それもそのはず、三好氏は細川讃州家内での発言力を落としている。先々代・三好筑前守之長か嫡子・修理大夫長秀が健在ならば、阿波衆も対立するようなことはしなかっただろうが、現在の讃州家に於いて三好への風当たりは厳しかった。味方は一族と寄騎の篠原氏らだけである。ほとんどの阿波衆は之長の強引な遣り口に反対で、それが之長敗死の原因でもあった。本来なら甥の長基を支えるべき次兄・三好越後入道宗安(三好長当)も嗣子・新五郎長久を失っては帰参することなく、高国陣営に付いたままだが、之秀とは連絡を取っている。


 だからこそ、長基を推戴する之秀は既存の遣り方に拘らなかった。商人と強く結びつこうというのも、その現れである。戦には金が要るのだから、商人を蔑むことなくともに栄えればよいのだ。そして、今は当主を取り巻く側仕えの層を厚くすることである。力ある若者を集めねば、三好家の飛躍の時に人が居らぬとなりかねない。さらには、長基を守れねば意味がなかった。


 長基とて若いが、三好は今、赤子の当主を戴く訳にはいかない。故に長秀の遺児は之秀が引き取り、養育している。ゆくゆくは長基に許しを得て一家を立てさせてやろうと思っていた。子のない之秀の跡を継がせても良いやも知れぬ。長秀が之長に従って上洛した永正六年(西暦1509年)六月には、まだ懐妊の気配すらなかった。産まれたのは翌年三月であり、男子が生まれるかどうかも分からぬのでは、待ちようもない。


「勿論でございますとも。彦四郎(三好之秀)様とご当代様(三好長基)が再起する手助け、身代が傾かぬ限りさせていただきましょう」

「恩に着る」


 今度は之秀が頭を下げた。


 之長もそうだったが、三好の者は商人を見下さず、対等に付き合ってくれる。これは与右衛門(田中忠隆)にとって嬉しいことだった。


彦四郎(三好之秀)様、頭を上げてくだされ」

「儂の頭で済むものなら、いくらでも下げようほどに、な」


 長基の頭は下げさせぬつもりなのであろう。与右衛門(田中忠隆)とてそこを求める気はなかった。過ぎたるは猶及ばざるが如しである。


「お顔をお上げくだされ。鵆屋は武家に頭を下げさせるなどと評判になっては困りまする故」

「これは失敬、そうなっては(おお)(ごと)よな」


 再び二人は笑い合い、与右衛門(田中忠隆)は下女を呼んで酒の支度を命じる。


「これは助かる。新五兄上(三好長当)は風流で茶を好むが、儂はよう好かん。(ささ)に限ろうて」


 生粋の武人でありながら、連歌や所にも通じる之秀であったが、抹茶は苦手であった。その割には甘い物に目がなく、唐物菓子である「(グイ)(ファ)(ガオ)」という(きん)(もく)(せい)を用いた琥珀糖を好んでいる。


 当然ではあるが、今も高坏に盛られて之秀の前に出されていた。与右衛門(田中忠隆)の妻の実家である斗々屋では唐人の料理人を雇っていて珍しい菓子などを作らせている。之秀が来ると分かっていれば桂花糕などを作らせるのは難しくなかった。


「では、酒が入る前に又甥の顔でも見てくるかの」

「今時分は孫と一緒に寝ているかも知れませぬが」


 寝顔だけでも、と之秀が立ち上がると、与右衛門(田中忠隆)が先導して母屋に案内し始めた。穏やかな五月の一日が過ぎ去ろうとしていた。

【本歌】

いささめに 時待つまにぞ 日は経ぬる

心ばせをば 人に見えつつ

      古今和歌集 紀乳母


ついうっかり、よい機会があろうかと、ためらっているうちに、月日は経過してしまった。私の気持ちだけは先方に知らせておきながら


 紀乳母は陽成天皇乳母。嵯峨天皇の皇子源澄、または同皇孫蔭の妻かという。子に益がいる。元慶六年(西暦882年)、従五位上。同七年、益は陽成天皇の御所で挌殺された(日本三代実録)。


【登場人物】

三好之秀【みよし ゆきひで】★

■役者■中村吉右衛門

 彦四郎、蔵人、山城守長基

 三好之長の同母弟★。


 彦四郎之秀は、系譜上一秀とされる人物ですが、史実では三好長秀の子と同名であると紛らわしいため、長兄である之長にそろえて之秀としています。また、元長は早死した長秀の同母弟説を採っています。


第一服⇒第二服に変更しました。


令和4年10月21日

加筆およびルビの変更をいたしました。


令和4年10月13日

旧暦の日付に新暦の日付をルビで振りました。


令和5年5月28日

冒頭に和歌を添えました。


令和5年9月13日

タイトルを乳兄弟⇒同乳連枝に変更。同気連枝の字替え造語です。


2025.12.6

千屋→鵆屋 に変更

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