第廿二服 運籌希和
柳本賢治の策略で高国陣営は足並みを乱した。朝倉宗滴は去り、六角氏も退却を余儀なくされ、洛中の平安は戻る。その中で細川高国との和睦を図った三好元長と細川晴元の間に溝が出来つつあった。
籌を運して和を希ふ
水鳥の行くも帰るも跡たえて
されども路はわすれざりけり
道元
|享禄元年改元《西暦1528年9月3日》以後、可竹軒周聡は堺政権を確かな物にすべく、組織化を急いだ。江州幕府から離脱した奉公衆を招聘し、家中より評定衆を抜擢、摂津の国人らを奉行に任じている。その摂津衆の中から台頭してきた国人が茨木伊賀守長隆だ。
「あれは弥三郎殿ではないか。京から戻っていたのか」
「急いでいる所をみると、御屋形様に呼ばれたようですな」
見れば茨木長隆は本殿の角を曲がって奥へと消えて行った。六郎は顕本寺を接収した際、妙本寺の近くに別院を作らせ住職らを移し、奥の屋敷に住んでいる。長隆は、奥に呼ばれたようであった。
茨木長隆は、摂津国島下郡茨木城を拠点にする国人領主で、茨木氏には細川氏内衆と在地領主の二流がある。内衆として仕えたのは藤次郎金吾家で、今尚、細川武蔵入道道永に仕えていた。本家の弥三郎伊州家は在地領主で、いち早く柳本弾正忠賢治に降伏するなど、機を見るに敏である。この頃の国人は何処の家も風見鶏であり、勢いのある方に付いて家の存続を図るのが当然で、それを批難する者などは居なかった。
「筑前殿は政所か」
「……ですな」
堺幕府は足利左馬頭義維の御座所となった引接寺、細川六郎元の在所は顕本寺、三好筑前守元長は軍の本陣のある父・之長が設立した海船政所を政庁としている。
海船政所は東西三六〇町歩、南北七〇〇町歩にも及ぶ広大な敷地を有す政庁であり、永正元年に建設が始まって、大永元年に「政所」の名を冠した。ここは摂泉二国に跨る堺のほぼ中央にあり、海側の入口にあたる。一万を超える阿波の軍勢を収容するための軍事施設であった。
細川六郎澄元の執事として政元に仕えた之長は、堺に阿波勢を駐屯できる場所を欲していたことと、政元から堺奉行に任じられたことで、ここを整備し政庁とした。海船政所は元長に受け継がれており、今は三好伊賀守連盛が代官を務めている。軍の最高責任者であり政の主幹者でもある元長は多忙であり、引接寺と顕本寺、海船政所を行き来していた。
その元長の不在時に茨木長隆を呼ぶ――そのことに不穏な物を嗅ぎ取れなければ乱世では生き残れない。
「三五殿、このまま筑前殿の寄騎で居て良いものだろうか」
「弥三郎殿のことか?」
「如何様」
三五と呼ばれたのは池田筑後守久宗で、呼んだのは伊丹大和守元扶である。二人とも当年四〇歳、同じ歳で領地も近いため、同じ摂津衆の中では気心の知れた間柄だ。ただ、池田氏の方が大身である為か、元扶の方が些か丁寧な言葉遣いである。ちなみに、三五は久宗の仮名・三郎五郎の略だ。
茨木長隆は当初、久宗や元扶と同じく三好元長の寄騎とされていたのだが、京都代官に任じられて以後、丹波衆で在京している柳本賢治と親しくしている。長隆は野心の強い人物で、人を蹴落とすことを厭わぬ所があった。また、一向宗の本願寺坊官の下間備中守頼盛の姻戚であり、臨済宗や法華宗とは距離がある。堺京兆家の家宰である元長からすれば茨木長隆は格下の国人に過ぎなかった。但し、同様の思いを柳本賢治が元長に対して持っていることには気づいていない。
「どうも伊州殿が筑前殿と争うのではないかと思えましてな」
「まだ、天下静謐も儘ならぬというのにか? 弥三郎殿とて左程に莫迦ではあるまい」
池田氏や伊丹氏と比べると茨木氏は格下である。武力衝突をしても三好元長が相手では鎧袖一触と断じるのが普通だ。伊丹元扶もそうは思うのだが、ここに柳本賢治が加わると危険な匂いを醸す気がする。
「そうだといいのですが」
伊丹氏は長く京兆家に仕え、特に元扶は嫡子・兵庫助国扶が道永から一字書出を受けるほど信頼され、摂津討伐戦でも最後まで抵抗している。降伏後も、心情的には道永陣営寄りで、道永との和睦を図った元長に感謝していた。
一方、池田久宗は富貴無双と謳われた池田筑後守充正の孫である。池田充正は、荘園の代官請負や高利貸しで財を成し、国人でありながら守護大名に匹敵する富を蓄えたとも言われ、その繁栄ぶりは公家衆に「富貴栄華の家」と呼ばれた。嘉吉三年には池田城を改築して、本丸の周辺に弓場や馬場を設けている。また高台を屋敷町にし、野武士を雇い入れて城内に置き、非常に備え常備軍を組織するなど、先進的な家中体制を敷いた。このことが応仁の乱における馬上十二騎に野武士一〇〇〇人を従えて上洛できる威勢を持つに至る要因である。
また、充正は大広寺伽藍諸堂を再建して菩提寺とし、池田氏の隆盛を確たる物にした。充正の子・筑後守貞正は澄元に仕え、永正の錯乱で九郎澄之勢と戦い、両細川の乱に於いても澄元を戴いて戦った。永正五年八月、細川右馬頭尹賢に池田城を包囲され、充正の弟・遠江守克正の子・兵庫助正盛が降伏し、外堀を埋められたため、妻子や家臣を逃れさせ一族二〇人とともに自刃する。久宗は有馬郡下田中城に拠って、摂津が道永陣営に降る中、一人気を吐いていた。此度の戦では道永方の池田遠江守正盛が守る池田城を陥として、城主に返り咲いている。筋金入りの讃州派で、道永を親の仇と毛嫌いしていた。
対極のように見える二人であるが、互いに御家を遺すがためのことであると理解し合っている。
「次郎殿の心配性は変わらぬなぁ」
「はははは、お陰で髪も薄うなっておりましてな」
元扶がぺちりと、やや後退のみられる己が額を叩いてみせると、二人は顔を見合わせて大笑いし、それぞれの城へと帰っていった。
細川道永に味方したとして七月に大覚寺を柳本賢治が破却して以後、寺社からの禁制や所領の安堵状や打渡状の申請が堺政権に相次いだ。これは、京の町衆や寺社から足利義晴の江州政権が幕府としての体をなしていないと認識されたと云える。組織化を急ぐ周聡にとっては良い追い風で、六郎も管領権力を行使できる状態に満足していた。
堺で六郎の側付きとして支えるのは周聡の役目で、元長は堺京兆家の舵取りをする役割分担だった。しかし、周聡も幕府の体制作りに慌ただしく、側近にばかり目を向けていることも出来ない。それが元長と六郎との溝が深めつつあることを、周聡も元長も懸念していた。六郎の側近として三好遠江守長家、三好新左衛門尉政長が侍り、さらに柳本賢治の嫡子・虎満丸が小姓に上がっている。
そんな中、柳本賢治が大和征討を願い出る。
「御屋形様には、大和征討を御承知頂きたく」
「何故であるか」
六郎に分かりやすくなるよう、周聡が合いの手を入れる。
「弾正殿、大和を武蔵入道から取り戻したいのは分かるが、好機である理由をお聞きしたい」
「散在党と乾脇党が再び争い始めたからに御座る」
「そうなのか?」
六郎にとって大和は領国でないため事情に疎いのは仕方ないが、柳本賢治がこの情報を得ていたのは驚きであった。抜け目ない賢治に対し、六郎は剣呑な目を向けず、素直に感心してみせている。周聡は心の中で溜息を吐いた。
「尾州家が再び大和に根付いては後々面倒に御座います」
周聡も暗に勧めるしかない。
越智と筒井の争いとは、九月三日、江州寄りの大和興福寺大乗院門跡方である筒井良舜坊順興が越智弾正忠家頼を攻めたことを指す。
大和国は古くは「大倭」と書かれ、天平宝字元年頃に「大和」と書かれるようになったという。平安遷都をするまで日本の中心であった。しかし、聖武天皇による鎮護国家政策によって、興福寺などの仏教勢力――宗門が力を強め、遷都の原因となる。都が山城に移ってからも宗門はこの地に根を張ってその支配を継続した。
大和国は紀伊半島の内陸中央部に位置し、北部に奈良盆地や大和高地といったなだらかな地形が広がる一方、南部は伊勢との国境にある大台ヶ原山や紀伊山地の脊梁である八経ヶ岳を擁する大峰山脈が広がる。そこに広がるのは吉野の森林地帯で、その先の紀伊との国境には果無山脈があり、河内との国境には金剛山地、山城との国境には生駒山地、近江との国境には笠置山地、伊勢との国境には高見山地と四方を山に囲まれた要害の地でもあった。
大和の三大河川といえば大和川・吉野川・熊野川だ。北東部の貝ヶ平山を源流とする大和川は奈良盆地を西に流れ、河内を横断して摂津と和泉を隔てている。大台ケ原を源流とする吉野川は、紀伊山地を北西に流れて高見川と合流して西に向きを変えると、紀伊国に入って紀の川と呼ばれた。熊野川は大峰山脈の上ヶ岳を源流として十津川・新宮川とも呼ばれるが、岩田川・畿田川・音無川が合流する巴ヶ淵より下流を熊野川と呼び、新宮で太平洋へと注ぐ。
国内は十五郡三十九郷。
添上郡(奈良市・天理市の一部)
添下郡(大和郡山市)
平群郡(生駒郡および生駒市)
広瀬郡(広陵町・河合町)
葛下郡(香芝市・大和高田市・葛城市)
葛上郡(御所市)
忍海郡(御所市の一部・葛城市の一部)
宇智郡(五條市の一部・大淀町の一部)
吉野郡(五條市・吉野郡)
宇陀郡(宇陀市・宇陀郡)
式上郡(桜井市)
式下郡(川西町・三宅町)
十市郡(橿原市の一部・桜井市の一部)
高市郡(橿原市・大和高田市の一部)
山辺郡(天理市・山添村)
国力等級は大国で、畿内に属し、太閤検地に拠れば四四万九〇〇〇石を産する畿内随一の農業国であった。早くからほぼ全土が寺社領化している。これは全国に守護を置いた鎌倉幕府でさえ、大和には守護を置いていないことからも伺えた。興福寺が実質的な守護相当の位置付けで、室町期を通じて興福寺の支配体制が継続する。
「慥か、総州殿の寄騎に澤蔵軒の血縁が居なかったか?」
「甥御の蔵人殿が居ります」
蔵人とは赤沢蔵人堯経で、細川政元に仕えた赤沢信濃守朝経――入道して澤蔵軒宗益の庶弟・福王寺大和守英経の子である。朝経は主家・信濃小笠原家の内紛により家督を嫡子・政経に譲り、父・経隆、三弟・幸経、末弟・長経を連れて上洛した。以前から赤沢氏は細川氏に糾法指南を以て仕えており、その縁を頼っている。政元に気に入られ「的伝」を授けたことで、足利義政の弓道師範に推挙され、武者所を兼務した。英経は永正三年に討死している。
「御屋形様、弾正殿の大和出陣は新左衛門、蔵人殿、播磨公を加えては如何です?」
口を挟んだのは三好長家だ。
「その言や好し。弾正、新左衛門、赤沢蔵人と古市播磨を率いて、筒井を討て」
「御意。この賢治、粉骨砕身に励み、ひと月ほどで平らげて参りまする」
「必ずや勝利を」
少年らしい期待に満ちた眼を柳本賢治と三好政長に向けている。いつからか、六郎は大言壮語を好むようになった。それでも、柳本賢治一人に委ねず畠山義堯家中から抜擢して家中の均衡を取るなど、成長の跡は見られる。
賢治はいとも簡単に制圧出来そうな口振りであったが、大和の勢力は離散集合を繰り返しており、敵対関係も同盟関係も複雑極まりなく一筋縄では行かぬと思われた。その原因は興福寺の内情にあった。
興福寺別当を巡る両門跡の対立は鎌倉期に始まる。そして、興福寺の主導で春日若宮祭礼流鏑馬頭役勤仕から乾脇党や長谷川党といった衆徒――半僧半俗の武力集団や散在党、長川党国民、南党・|平田党《萬財・布施・高田・岡氏》という官符衆徒を指導者とする大和六党が登場した。南北朝になると、六党其々が南朝・幕府と結びついて争いが長期化、興福寺の統制力は低下する。
南北合一後もこの抗争は止まることなく、古市氏も加わり、後南朝の争いが激化した。応永二十一年、幕府は事態を重く見て、大和の衆徒・国民らを京に呼び寄せ「私戦禁止」を誓わせ、争乱状態を収拾する。
だが、正長二年に箸尾氏が片岡氏を攻撃、豊田中坊と井戸氏が衝突した。井戸氏の姻戚である筒井氏が介入すれば、豊田方に越智氏が肩入れする。越智氏に敗れた筒井方の成身院光宣は幕府に訴え、停戦が下命されたが抗争は止まず、幕府は武力介入に踏み切った。義教は畠山尾張守満家と赤松兵部少輔満祐に出陣を命じるも、畠山満家はこの出兵に否定的で傍観。一方、赤松満祐は奮戦したため、越智氏は没落した。永享六年には筒井舜勉房覚順が討死し、叔父の舜生房順弘が当主となった。
永享九年七月十一日未明、足利義教と将軍の座を争った大覚寺門跡義昭尊有が出奔した。大覚寺は南朝縁の寺院であること、またこの頃、鎌倉公方足利持氏が反幕の動きを見せていたことから、幕府は後南朝か鎌倉府と結んだと判断、畿内各地で捜索を開始する。
翌八月、義昭尊有が吉野で還俗し、三井寺にいた後村上帝の第六皇子である説成親王の子・円満院宮円胤および越智伊予入道維通とともに挙兵した――という情報が入った。
翌永享十年三月には一色左京大夫義貫率いる討伐軍が派遣され、越智維通および箸尾次郎左衛門為憲が討伐された。九月には吉野で反抗していた大覚寺の僧侶および山名氏旧臣が討たれる。結局、義昭尊有は吉野に居らず、土佐国高岡郡の国衆・佐川四郎入道昭寛が保護していた。
この間、関東では鎌倉公方・足利左兵衛督持氏が関東管領・上杉安房守憲実討伐の軍を起こし、上杉憲実を支持する幕府は持氏討伐を命じた。
義昭尊有はその後永享十二年に九州へ移り、日向国櫛間院の国衆・野辺肥後守盛仁に庇護される。直ちに足利義教は日向・薩摩守護の島津修理大夫忠国に討伐を命じた。忠国は度重なる義教からの催促と幕命違反に不満を抱く家中の圧力に屈して義昭尊有を討伐する。追い詰められた義昭尊有は、嘉吉元年三月十三日、自害した。島津忠国が義昭尊有の首を献上すると、義教は大いに喜んだという。
大和永享の乱で越智氏・箸尾氏は没落し、興福寺支配がさらに揺らぎ、将軍家の影響力が鮮明になった。しかし、嘉吉の変によって足利義教が暗殺されると、将軍家に反抗した衆徒・国民は次々と復活する。特に越智刑部少輔家栄は畠山尾張守持国の支援を受けて再興し、実質的に畠山氏の被官となった。箸尾氏は彦次郎左衛門為隆による簒奪があり、越智氏から筒井氏へと鞍替えする。以後、箸尾為隆は越智家栄と争って所領を回復したが、筒井氏に内訌が起こった。
摂津国河上五ヶ関務代官職を巡って筒井順弘と弟の成身院光宣が対立。越智家栄は順弘を援助して筒井城を奪回、惣領に就けた。しかし、嘉吉三年に順弘は殺害される。この混乱に乗じた大乗院門跡経覚、古市矯磨房胤仙、豊田下野坊頼英、小泉法橋重弘らは成身院光宣と新たに当主となった舜良坊順永を筒井城に押し込めるも、筒井氏らは反撃し、経覚派の鬼薗山城を落として五ヶ関務代官職を獲得。経覚派と筒井氏は和睦する。しかし、越智氏を中心とした反筒井の衆徒・国民や寺家との対立は続き、畠山持国は大和に介入し続け、筒井氏に攻勢を加えた。
その畠山氏に内紛が起こったため、大和は再び戦乱に巻き込まれる。伊予守義夏と結んだ越智家頼は筒井氏を没落させ、大和を席捲する。しかし、細川右京大夫勝元は畠山義夏による大和領国化を恐れて、順永・光宣・義富を支援した。義富の跡を継いだ尾張守政長は引き続き細川勝元の支援を受け、筒井氏と組んで大和へ下向、逆に越智氏と組んだ義夏が河内に進軍するも、敗れて吉野へと逃れている。これにより筒井氏は勢力を盛り返した。
応仁の乱では、筒井氏が東軍――細川勝元・畠山政長、越智・箸尾氏が西軍――山名金吾入道宗全・畠山右衛門佐義就に属して戦った。東軍が勝利したとはいえ、どの勢力も強力な支配体制とはなりえず、両畠山家の陣営に別れたまま大和の争乱は続く。
その中から筒井氏に代わって北大和の実権を握ったのは古市倫勧房澄胤で、村田珠光の弟子であり、風流大名として名を馳せている。その威勢は南山城一帯にもおよび、馬借の支配などにより、強力な財力を持ち、京都に復興資材などを持ち込み、将軍家や細川氏の覚えも目出度かった。
ここで細川右京大夫政元が明応の変を起こして、畠山上総介義豊と結んだ。将軍の廃立に伴い畠山政長が敗死したことで、細川氏による大和介入が現実となる。そこで、古市氏を除く衆徒・国民が結束して一揆体制をつくり、古市氏を排除しようとした。しかし、古市澄胤は細川氏を頼って赤沢宗益の支援を受け、大和の制圧に成功する。
だが、永正四年、政元暗殺とともに赤沢宗益も敗死してしまい、細川氏による大和経営は頓挫した。政元に代わって当主となった澄元は、宗益の弟・赤沢信濃守長経を古市澄胤とともに大和に入らせる。しかし、翌永正五年に細川安房守高国が挙兵、高国と組んだ畠山尾張守尚順により長経は討たれ、澄胤も敗死した。再び、大和は国民同士の対立状態に戻るが、高国政権の成立とともに永正十七年に筒井・越智の和議が成り、一揆体制が続いた。
その筒井氏と越智氏の抗争が再発したのである。この争乱に薬師寺が巻き込まれて西塔、金堂が焼亡するなど戦火は大和全土に広がりをみせた。
そして閏九月五日――
「播磨殿、手筈は宜しいか」
「抜かりなく。筒井の者共の慌てふためく顔が目に浮かぶようです」
「息の根を止めてやりましょうぞ」
「では各々方、参るといたしましょう」
鎧を纏った柳本賢治が、傍らに居た僧形の武者に声を掛ける。それは古市澄胤の忘れ形見、倫献房公胤であった。筒井に憎しみを滾らせているのは赤沢堯経である。独り三好政長は冷静であった。
越智家頼は籠城しており、筒井順興はこれを攻めあぐねて徒に時を重ねた。そこへ総勢二万を超える兵が山城から奈良街道を経て大和へと侵攻した。
突如現れた柳本勢に驚いた順興は碌に抵抗もせず、供廻りのみを連れて興福寺に立て籠る。そのため興福寺は閏九月七日、兵火に飲まれ全焼した。僅かに東塔と東院堂を残すのみで、順興は福住へと逃亡する。
柳本賢治と赤沢堯経は焼け残った興福寺東院堂に入り、領国化を始めた。
閏九月中旬になると、柳本賢治は河内に転戦した。これは六郎より、畠山右衛門督義堯と合力して高屋城を攻めるよう指令が下されたからである。十月には高屋城を攻囲するも攻めあぐね、十一月十一日に和睦して畠山稙長を金胎寺に退去させた。さらに廿五日には誉田城を陥落させている。向かうところ敵なしの柳本賢治であったが、その勢力は河内・大和に思うように広がらず、苛立ちを隠せなかった。
「筑前奴っ……彼奴が邪魔立てしなければ、今頃大和は我が領国になっていたやも知れぬというに」
「殿、御声が大きゅう御座る。ここには、筑前殿の寄騎衆もおりまするぞ」
諫言を呈したのは柳本源七郎治久で、柳本忠兵衛治安の弟である。二人共、賢治より柳本を与えられて一門衆となっていた。兄に比べ落ち着いており、歳を重ねるごとに烈しさを隠さなくなった賢治を冷静に戻す役割に相応しい。
「すまなんだ、源七。少し自重するとしよう」
「それがよう御座います。では、このまま山崎へ?」
賢治が肯くと、柳本治久は家老の岩崎太郎左衛門吉永へ帰城を告げに行った。
柳本賢治の河内転戦は慥かに元長の具申によるものだった。本来であれば元長が出向くつもりであったのだが、元長に功を立てさせたくない三好政長の横槍が入り、評定が空転、一触即発の様相となったものを周聡の取り成しによって柳本賢治に白羽の矢が立ったのである。しかし、大和を狙う賢治は元長に己が野心を阻まれたと感じ、恨みを募らせるばかりであった。その発端は、細川尹賢を元長が庇護したことによる。それ以来、柳本賢治ははっきりと三好元長を敵視するようになった。
■題字解説■
運籌希和
籌を運し和を希ふ
運籌帷幄之中,決勝千里之外『漢書・高帝紀』にある言葉から。柳本賢治が大和に侵攻したのは、領国化を狙ったからであり、柳本氏の本貫地が大和であったことを示しています。
■執筆後記■
調べても調べても人の事績が全然出てきませんでした。いつもの如く、複数の線から調べて柳本賢治の行動を見出したのはいいのですが、最後の最後で三好政長が参陣していたことが判明し、兵力も二万であったことが分かりました。そりゃ筒井も逃げますよね。
ここから、柳本賢治と三好元長が拗れて行くのですよね〜。




