第廿一服 滴帰益叛
摂津で抵抗を続ける伊丹元扶を警戒して上洛を躊躇う細川晴元。その不安を除くべく伊丹攻めに掛かる三好元長。折しも丹波の反晴元は討伐に柳本賢治が京を不在にしていた。これを好機と六角・朝倉の援軍を得た細川高国は足利義晴公を戴いて京へ進軍したが、それは柳本賢治の描いた罠だった。
滴は帰り益は叛す
飛ぶ鳥の明日香の里を置きて去なば
君があたりは 見えずかもあらむ
『万葉集』元明帝謹製
年が明けて、大永八年正月元日、三好筑前守元長ら諸将が年始の挨拶に堺の足利義維御座所である引接寺に集っていた。最前列に坐るのは細川六郎元である。諸将を従えての拝謁の儀は上機嫌のまま終わった。
「して、これからどうするのだ?」
自らの御座所に移って、諸将に無礼講を言い渡した六郎は、別室に三好元長を呼んで此度の戦の展望を尋ねた。傍らには可竹軒周聡、柳本弾正忠賢治、三好遠江守長家などの姿もある。
「先ずは、武蔵入道と金吾入道を仲違いさせるのが良いかと」
「ほぅ?」
口火を切ったのは柳本賢治である。先日、元長が和気典薬入道宗成邸にて手に入れた茶道具を用いて離間計を図ろうということであったが、どのようにするのかという話は出ずに、そのままとなっていた。
「それに『如意宝珠』を使うと?」
「如何様。金吾入道は近頃、茶の湯に入れ込んでおります故、鹿苑院様遺愛の『如意宝珠』は喉から手が出るほど欲しい筈」
「となると商家の伝手が要りますな。それも、連雀ではない大店の」
「遠州殿の仰る通り。そこは筑前殿恃みですが」
「それは容易きこと。皮屋に申し伝えれば、若狭屋に話を通せましょう。そこから先もなんとかなるでしょう」
「商人はそこかしこと繋がりよる」
顰めっ面をして商人を蔑んだのは吝嗇で知られた三好長家だ。
皮屋も若狭屋も堺の豪商で、特に皮屋は三好家の御用糧秣商である。若狭屋は若狭武田氏の政商で鈴木惣兵衛と呼ばれていた。元長は若狭屋と付き合いはないが、皮屋から伝手は辿れる。敦賀には高嶋屋伝右衛門という豪商が居り、敦賀郡司御用達の商家で、これにつなぎを取りたかった。
「まず、商人を通じて、誰からか分からぬように金吾入道殿に『如意宝珠』が渡るように計らいます」
「それから、どう離間させるのだ?」
「噂を流します」
周聡の質問に間髪を入れず答えながら、こういう策は尹賢が得意であったと賢治は思い出していた。まず、朝倉金吾入道宗滴には二〇〇貫文で売りつける。『如意宝珠』が宗適の手許に届いた頃合いを見計らって、細川道永の耳に入るように三好元長から贈られたという偽情報を流すのだ。間違いなく疑心暗鬼になった道永は宗適を疑う。宗適は商人から購入しているのだから、疑われることに不快感を示す筈だ。
「離間が上手くいけば、武蔵入道を孤立させることができるかと」
「よし、やってみせよ。万事、筑前に任せる」
「はっ」
策を考えた柳本賢治はやや面白くない顔をした。しかし、異を唱えたところで、家宰である三好元長から主事は奪えぬ。勝てない戦はしないのが賢治の信条であった。
(待てよ……これは都合がよかったかも知れんぞ)
三好元長が六角定頼に接近し、和睦の道を探っていることを賢治は察知していた。しかも、それは細川道永との和睦である。これは柳本賢治には承認できない話で、兄・元盛の墓前に道永の首を供えたかった。故に、和睦されては困る。だが、京兆家の家督を六郎に譲ることを条件にしている元長と道永の和睦は難しかった。元長は劣勢にすれば、道永が和睦に応じると考えているようであるが、賢治はないと解る。道永は野州家を本家へ伸し上げたいのだ。よって、この離間策は元長の和睦策の裏を掻く策にも成る。
(ならば、ここは大人しく従っておくまでよ)
賢治は頭を垂れて六郎と元長の退出を見届けた。見えぬ表情に満面の笑みを浮かべて。
在所の顕本寺に戻った元長は、皮屋を呼んだ。皮屋の当主は武野紹晋で、新五郎仲材――武野紹鷗の父である。武野紹晋は永正三年に得度しており、俗名を新五郎仲久という。飛ぶように現れた武野紹晋に、事の次第を搔い摘んで事情を説明すると、意外なことを言い出した。
「話は承りました。手前どもから若狭屋さんに話を通すことはできます。ただそれでは、そこからが時が掛かり過ぎるかと」
武野紹晋は一旦、言葉を切った。元長の表情がみるみる曇っていく。
「そうか……困ったな」
「ですが、京に居ります愚息が近江の種屋と取引をしておりますので、敦賀郡司様には伝手が御座います」
その言葉に元長の顔がパッと明るくなった。
「誠か?」
「京の種屋の主はかの有名な藤田宗理殿で御座います」
茶の湯に疎い元長でも在京の折に幾度か名前を耳にした名前である。和気邸より押収した品を売り捌いたときに挨拶に来た者が種屋と言っていたのを思い出した。あれが藤田宗理か――口にしたつもりは無かったが、漏れて居たのだろう、武野紹晋が相槌を打つ。
「左様にございます」
「よし、そちの息子に取り次がせよ」
「畏まりました。愚息は下京の四条で大黒屋を営んで居りますれば、是非とも御贔屓に」
文を後程お届けしますと言った皮屋を下がらせて、元長は独り考えた。今、柳本賢治の策に慥かな手応えを感じている。これならば、往時の細川氏の権勢を取り戻せるのではないかと期待したくなった。それでも、裏は無いか調べて、慎重を期す必要がある。これ以上、細川氏同士で戦えば単に兵力を消耗するだけだ。個人的には道永に父の恨みがあるとはいえ、天下泰平はそれよりも大事である。
「弾正殿は理解してくれまいな」
兄の誅殺を赦せず細川道永に叛した柳本賢治である。細川道永を生かして陣営に取り込むことに反対なのは当然であった。
元長は義維の将軍就任を最優先と考え、戦況膠着を機に細川道永との和睦の道を探っている。これには柳本賢治だけでなく、三好遠江守長家・孫七郎政長も反対し、逆に足利義晴との和睦を主張した。だが、それについては周聡の強い反対で却下されている。周聡としては、元長寄りの考えであったが、六郎が道永との和睦に難色を示していた。
元長は夜分になってから周聡を独り尋ねた。周聡は六郎が在所としている旧和泉国守護所に一室を与えられており、顕本寺から四半刻で、馬ならばすぐそこの距離である。六郎に直接言上しなかったのは、六郎を説得する自信が元長にない故だ。
二人は夜を明かして、今後の方針や条件の出し方、譲って良い事柄から、現地での対応、人事、庶務、裁定の基準など、細部に渉って話し合った。
「ほかに懸念することは?」
「そうですね……武蔵入道との和睦、京兆家当主の座を差し出すならば命は取らぬ、となれば降伏と変わりませぬ」
「御屋形様をご納得させるにはそこは譲れまい」
「ならば年寄衆に戻すと言うことでは如何か」
「野州家の安堵か。なんとかしよう」
二人は頷き合う。義維による将軍家と六郎による細川京兆家の統一は二人の共通する志であった。長いとは言えぬまでも、辛き雌伏の時を過ごしたからこそ、無言で通じる物がある。周聡は六郎の説得、元長は在京での交渉に取り掛かった。
京に戻った元長は早速、京の大黒屋新五郎を召して種屋藤兵衛との引き合わせを依頼。翌日、大黒屋が種屋を伴って西院本陣に参じた。
「新五郎、ご苦労であった。そなたは下がってよい」
「では、これにて。師匠、私はお先に失礼いたします」
藤田宗理が首肯くと、武野紹泡は下がった。
「種屋藤兵衛にございます」
「そちが藤田宗理だな」
「左様にございます。商人としては種屋、茶湯者としては藤田宗理で通させていただいております」
些か鼻白んだ顔を見せて、元長は藤田宗理を観た。穏やかな風貌に眼光の鋭さがあり、一角の人物と思える。
「用件は聞いておるな?」
「なんでも鹿苑院様所持の茶入を敦賀郡司様にお売りになられたい、と」
「そうだ。これなる茶入がそうよ」
脇に控えた小姓の十河金光丸に合図すると、金光丸が手箱を押し戴いて藤田宗理の前に出した。
「拝見いたします」
箱は身の左右に釻があり、先に房のある丸い組紐を括って、蓋上で結ぶようになっている。宗理は紐を解いて被蓋を開けた。中には印度更紗に包まれた裂地の仕覆が入っている。その周りには箱の遊びを埋めるための蒲団――蒲の穂形の真綿を絹布で包んだものが入っていた。
仕覆の緒は蜻蛉結びで、長緒である。それを解き、開けると黒塗の挽家が現れた。また、手箱の底には波斯更紗に包まれた五寸四方の板がある。その板には堆朱に花模様のあしらわれた花卉四方盆が、裂地とともに入っていた。
藤田宗理は盆を畳に置きつけると、挽家から仕覆を取り出し、そのまま緊張した面持ちで長緒を解いていく。
「ほぅ……」
小さく藤田宗理が感嘆の息を漏らした。
「慥かに独盧軒様所持の『九十九髪』と同手――いや、あちらが同手というのが正しいか。こちらは山名礼部様から伊佐金吾様に渡って……」
独盧軒とは村田珠光の号で、『九十九髪』茄子茶入は、珠光が古道具屋の店先でこれを見出し、九十九貫文で購入したと伝わる漢作唐物である。『伊勢物語』の和歌「百年に一年足らぬ九十九髪我を恋ふらし面影に見ゆ」の歌から『九十九髪』の銘を引いた。
藤田宗理が止め処なく呟く独白を、聞き流しながら、茶人というのは変わり者なのではないかと元長は奇しんだ。
「どうだ? やれるか?」
「承りますが、値段につきましては、二〇〇貫文は安すぎます。……せめて六〇〇いや、八〇〇貫文では如何でしょう?」
元長は言葉に詰まった。価値が分からぬ故、たかが二寸足らずの陶器に八〇〇貫文とは信じられない。何より、朝倉宗滴がそれほどの散財をするとは思えなかった。
「……高過ぎはせぬか?」
「安ければ贋物を疑われましょう。まぁ、敦賀様がお出しになるのは五〇〇貫文と見ております」
安すぎれば人は贋物と疑うのは間違いない。刀好きな元長とて、業物と言われても一貫文と言われては出処を慥かめもした。なるほど、と独語して藤田宗理に委ねるとを決める。
「こちらには二〇〇でよい。納めよ」
「いえいえ、半値――いえ、三五〇はお納めいたします。今後ともお引立てください」
種屋を通じて六角定頼と書簡を往復することにした元長は、一月廿一日に妙顕寺で会談を行った。実際に会ったのは蒲生下野守定秀である。両者停戦に合意したが、あくまで六角定頼との間での話し合いであり、此後、江州陣営内で御前評定で決まることになっていた。恐らく歩み寄りはかなり難しい。六角定頼から再三に渉って元長に条件の緩和が求められた。
事態に変化が起こるまで一ヶ月の月日を要し、ようやく一つの噂が細川道永の耳に入った。
「何? 敦賀入道殿が三筑奴に買収されておると?」
「そのような噂が拡がって居ります」
道永に注進したのは細川右馬頭尹賢である。朝倉宗滴が『如意宝珠』を入手したという噂は尾鰭が付いて京中に広まっていた。豪商らは競って宗滴に茶会の招待を申し込むため日参しており、朝倉本陣は門前市を成す如しの賑わいとなっている。
「なんでも七〇〇貫文もの価値があるとか」
槍一本で一貫文、馬一頭で三貫文が相場である。五〇〇貫文とは相当な金額だ。敦賀郡司ともなれば、それぐらいの実入りがあるとはいえ、これが三好元長から贈られたとなると話が変わってくる。味方であった朝倉勢が敵となった可能性が出てくるからだ。
この日を境に、細川道永は朝倉宗滴を警戒、六角定頼と内密に和睦の相談を進めた。そして三月七日、御前評定を開く。六角定頼は流石に御前会議を報せぬ訳にもいかず、朝倉宗滴には出席せぬよう伝えるも、朝倉宗滴は引き下がらず、強引に御前へと怒鳴り込んだ。
「武蔵入道殿、某を除け者にするとは如何なる了見かっ」
「金吾入道殿、大樹の御前でございますぞ」
「黙れ腐れ典厩! その方が口出しすることではないわっ!」
「なっ……!」
叱責された細川尹賢が顔色を変えて宗滴を睨みつけた。とはいえ、宗滴は怯みもせず、御前に割り入る。朝倉九郎左衛門尉景紀もこれに続き、宗滴の後ろに控えた。
「公方様におかれましてはご機嫌麗しゅう」
「うむ」
「霜台殿、此度の報せ忝のうござる。然れど、この扱い、某、到底納得いかぬ」
「金吾入道殿……」
立ったまま、道永を睨めて宗滴は言い放った。周囲を震わす程の大音声であった。跋の悪い顔をする道永と怒りを顕わにする尹賢を余所に、六角定頼が宗滴を宥めようとする。それでも宗滴は首を竪には振らなかった。
「この宗滴、敵となったならば戦もせずに長居するような真似はせぬ。寡兵であっても必ずや敵を討つ。……故に、この上は勝手にさせていただく。各々方、それで宜しいなっ」
朝倉宗滴は言い放つや身を翻して御前を辞し、翌日には軍を纏めて帰国してしまった。これにより精鋭を失った幕府軍は、攻勢の機会を見失ってしまう。更に、三好元長から京兆家家督の移譲を突き付けられた細川道永は進退窮まった。
宗滴帰国の同日、大黒屋新五郎が、逍遥院尭空に謁して、入門を許された。連歌師を目指して上洛した紹泡にとって、これが出発点である。
その熱心さは十日と空けずに三条西別邸を訪れることからも分かる。その熱意に絆されたのか、連歌だけでなく、茶の湯も教授してもらえるようになっていった。
逍遥院は「茶の湯は手前一分」と、紹泡をありとあらゆる教養に触れさせた。特に逍遥院は将棋の駒に筆を走らせる程に将棋を好み、また囲碁も好んだため、稽古終わりには一局づつ付き合うことになる。こうして、紹泡は充実した青年時代を送った。
連歌とは、平安末期頃から流行し始めたもので、和歌の上の句と下の句を別の者が詠み、下の句に別の者が更に上の句を付け、別の者が更に下の句を付け――というように続ける付合文芸であった。室町当時は百句を一作品とする「百韻」が流行しており、細川氏によって千句会などが開かれている。
「新五郎殿、上手い連歌とはなんであるか分かりますかな?」
「全体の流れ……でしょうか」
「無論、そこも大事ですが、周りをよく見なされ」
「周り……」
逍遥院は微笑みながら、紹泡が自ら答えに辿り着くよう思考を促していた。これは勿体振っているのではなく、答えを教えてしまっては本人の身にならないからである。安易に答えを求める者は直ぐに忘れ、考えを巡らせることをしないからだ。逍遥院は紹泡に自ずから悟得させたかったのである。
三月十八日、六角定頼が細川道永が和睦に応じない旨を伝えた。和睦が成らなかった元長は直卒の兵を率いて泉州三好領確保のため堺に戻る。だが、六角定頼は別の道を探っていた。
四月二日、細川尹賢が道永を見限り、離叛。道永は洛中から撤退せざるを得なくなり、相国寺に陣替えした。それに伴い六角定頼も相国寺慈照院に陣所を置く。これにより洛中は堺陣営の手に戻った。降将・細川尹賢は三好元長に預けられ、六郎の直臣として召し抱えられる。
洛中に残って和睦の道を探っていた足利義晴も四月廿一日に相国寺万松軒に陣所を移した。集結した江州陣営は全面対決の姿勢を打ち出すかと思いきや沈黙を守る。これは、無理な動員が祟り、兵糧も資金も底を尽きかけていたからだ。道永は使者を各地に走らせ支援を募るも、既に摂津は平定されている。京の丹波口も抑えられているため、丹波との連絡は道なき道を往くか若狭経由で、日数を要した。さらに、若狭武田氏も陣営の立て直しで手一杯、伊勢の北畠氏も身動きがとれない状況である。
五月十四日、細川道永が木津川上流の山上に陣を移したが、義晴は義維との和睦を図り、六角定頼と共に相国寺に残留した。しかし、和は成らず、五月廿八日、六角定頼に護られながら近江国坂本に撤退し、石山寺へ遷る。こうして、川勝寺口の戦いは、細川道永に得るところなく終熄した。
洛中を再占領した柳本賢治は細川道永に味方したとして、七月十七日、大覚寺を破却した。大覚寺は後宇多法皇が院政を行ったこともある寺で、応仁の乱で殆どの堂宇は焼けていたが、波々伯部氏などの丹波勢と繋がり、中継基地となっていたのである。これにより、細川道永は京を経由する丹波との連絡線を完全に断たれた。
同じ日、堺の顕本寺に戻っていた元長に、炬口城の安宅監物秀益が三好氏に叛して、兵を挙げたものの浪人していた元蟇浦城城主の蟇浦藤次郎常利と浦壁城城主の島田遠江守時儀が鎮圧した――という報せが届いた。側にいた三好連盛も怪訝な顔をしている。
「二郎三郎がのぅ……」
「監物殿は、殿のご信頼も厚かったかと存じますが……」
事の起こりは七月九日に炬口城に隠居していた安宅監物入道吉峰が歿したことだった。監物入道こと安宅秀興の嫡子・又次郎治興は既に洲本城を築いて本拠を移しており、元長に仕え駿河守を称している。秀益は秀興の三子で、湊里城を与えられ監物を名乗っていたが、炬口城城主の座が空いたため、その城主となった。二人とも淡路水軍の大将として、淡路制圧戦で活躍している。さらに畿内進出において恙無く兵站を確保し続け、六郎より賞されていた。元長も秀益を買っており、追放した蟇浦の家臣らを寄騎に付けている。
同十五日、初七日は歿した炬口城ではなく、洲本城にて行われた。初七日を終えて、炬口城に戻った安宅秀益は、由良城の本家・安宅河内守宗春を招いて愚痴を零している。
「兄上が家督するのは構わん。だが、何故、三筑の子なぞを養子に迎えねばならぬのだ?」
「そう怒り散らすな、監物殿」
秀益は治興が三好氏の養子を取ると決めたことで、これを不服に思っていた。また、表には出さないが、元長には不承不承従っている。
宥めているのは安宅宗春である。由良城の安宅氏は太郎家、炬口城の安宅氏は次郎家で、共に独立しているものの、紀伊国牟婁郡安宅荘の大炊頭家を惣領家としていた。
「我らは藤原の裔ぞ。源氏の養子を貰ってどうする。第一、三好は今でこそ小笠原を名乗っているが、久米の裔ではないか」
「異姓の養子を受け容れるのも戦国の世なれば仕方あるまい」
秀益は治興に子がなければ洲本安宅氏を嗣ぐ立場にあった。だが、主家となった三好氏から養子が入れば、家督の機会は巡って来なくなる。それが忌々しいのだ。
「……いっそのこと――」
「滅多なことを口にされるな」
剣呑なことを口走りそうな秀益を宗春が止めた。しかし、これは蟇浦城城代を務めていた島田甚太夫利安の知るところとなった。
「殿、炬口殿に何やら不穏な企みがあるようです」
「何だと? 彼奴は筑前様から目を掛けられておったではないかっ」
先年、蟇浦常利は元長から謀叛の疑いを掛けられて知行差し止めとなり、浪人していたが元家老の島田利安が匿っていた。
「よし! 汚名返上の機会ぞ! 監物を討つ!」
「しかし、殿、我等のみにては兵が足りませぬ。元の郎党に声を掛けても、監物に密告の虞もありまする。せめて、浦壁の遠州様に助力を求めては……」
「その通りぞ。浦壁には儂が赴く、甚太夫は挙兵の準備をせよ」
島田時儀と常利は数十年来の親友である。善は急げとその夜の内に浦壁城を尋ね、兵を挙げた。早暁の襲撃に不意を突かれた秀益は炬口城に籠城する間もなく大手門を突破され、蟇浦常利に討たれる。
報せを受けた元長は蟇浦常利に元の知行を安堵する書状を送り、淡路衆の重鎮として遇すことを約し、自身も淡路仕置のため、軍を率いて渡淡した。
七月廿五日、三好元長がこれまでの功績を認められ、下山城守護代に任ぜられる。元長は再び上洛した。
八月廿日改元が公布され、大永が享禄となって後奈良帝の時代が始まる。
■副題解説■
滴は帰り益は叛す
滴は朝倉宗滴、益は安宅秀益。
■和歌解説■
飛ぶ鳥の明日香の里を置きて去なば
君があたりは 見えずかもあらむ
『万葉集』元明帝謹製
〈現代語訳〉
明日香の里を置いて、(奈良の都に)行ってしまえば、あなたが住んでいるところはもう見えないのでしょうね。
〈解説〉
京を去らねばならない足利義晴公・細川高国の心情を汲んでみました。飛ぶ鳥を落とす勢いの三好元長と手の内を知り過ぎている柳本賢治に翻弄される細川高国に見立てて見ました。
この歌は、和銅三年《西暦710年》二月に、藤原宮から寧楽宮に遷った時に、御輿を長屋原にとどめて、藤原宮を見たという歌です。作者名は記されていませんが、元明天皇とされます。「長屋原」は、現在の天理市にあり、ちょうど中つ道の中ほどにあります。中つ道とは、香具山からまっすぐ北に伸びた道で、大和国内には、上つ道、中つ道、下つ道という南北を平行して走る大和三道がありました。
なお、現在、「飛鳥」と書いて「あすか」と読まれているのは、「飛ぶ鳥の明日香」という枕詞があまりに有名になったために、「飛鳥」と書いても「あすか」と読まれるようになったものです。その明日香には、自分たちの祖先のお墓も、自分たちの祖先が営んできた都もあります。しかし、都を発展させるためには、どうしても奈良盆地の北方に遷都する必要がありました。
遷都にあたって元明天皇は、もう一度、飛鳥の風景を目に焼きつけておきたかったと考えられます。飛鳥と藤原の地は、長らく都の置かれた地です。かの地で生を受け、暮らした人間の感慨が、ここにあらわれています。「君があたり」は、元明天皇の亡き夫、草壁皇子のお墓または草壁皇子の宮殿であった島宮といわれています。
■人物紹介■
武野仲久【たけの なかひさ】
生歿年■長禄元年〜天文八年
配役■大森南朋
皮屋新五郎。初名・信久。入道して乗信であるが、紹晋とした★。父は武田仲清、母は伊藤祐広の女、曾祖父は逸見仲継。妻は奈良の中坊氏(中坊秀祐の祖父・秀定か?)の女。長兄・信直、次兄・信益。十一歳で父と二人の兄を失い、郎党も潰滅したため、流浪する。堺で三好元長の父・之長に采地百余町を与えられ、糧秣商となった。南朝方武田氏の裔で、代々新五郎を名乗る。
安宅秀益【あたぎ ひでます】
生歿年■〜大永八年
配役■阿南健治
湊里城城主。二郎三郎。監物★。安宅秀興の三子。父が歿し、兄が家督したものの、兄の養子に三好元長の子が決まるとこれを不服として謀叛した。しかし、これを察知していた蟇浦常利によって城を攻められ敗死する。
十河金光丸【そごう こんこうまる】
生歿年■〜享禄三年
配役■大西利空
十河存春の嫡子。第二服で三好之秀と田中与兵衛の間で話に出ていた十河の御曹司。三好元長の小姓を勤めたが、病を得て享禄三年阿波で歿した。




