第一服 三午生休
大永二年五月、和泉国堺の豪商・千屋の奥で子供が生まれようとしていた。田中与兵衛と、その父・田中与右衛門は今か今かと待ちわびていた。
午を三して休を生む
さかひこゑ ちぬなぎぬれる 馬の子は
千世のむつきを かさねうるかな
雲一つない晴れた日であった。
鳥が小さく実のなった梅の枝に留まって啼いている。障子に映し出された影が、少し揺れた。シュンシュンと、切合の風炉に置かれた釜から松風の音が聞こえている。
風炉は火鉢に風通しの窓を空けて炭の火が消えぬよう工夫した道具である。この風炉はその左右に鬼の顔をした耳があり、丸い金属の環――釻を咥えていた。銅に錫や鉛などを混ぜた古銅とも言われる唐銅で出来た鬼面釻付で、唐銅鬼面風炉という。切合とは、まるで一つであったものを切って合わせたようなことをいい、風炉と釜が対になっていた。風炉の天面には立ち上がりがあってそこに釜が掛けられるようになっている。専門的には釜は懸けるもので、掛かるものではなかったが。現代では平丸釜が添えられているのが定番だが、これはあくまで写である。
釜は流行りの芦屋の真形釜で、風炉は京の金工に作らせた写物だろう。元々あった釜に合う風炉を拵えなければこのようにぴたりと隙間なく合うものではなかった。真形釜は半球のような形で、腰の辺りに羽と呼ばれる出っ張りがぐるりと一周付いていて、切立にピタリと嵌る。元は飯炊き用の釜であったともいうが、あまり信憑性のある話ではなかった。
男は茶の湯に興じている割に、落ち着きがない。何処か心此処に在らず、といった雰囲気だ。男の名は千屋与兵衛――本名は田中行隆。堺の納屋衆に名を連ねる千屋の若当主である。
「落ち着つかんとな……」
与兵衛は点前座に坐ることで、自分が落ち着いていないことを自覚した。
堺は元々摂津国(大阪府北中部から兵庫県南東部)と河内国(大阪府南東部)、和泉国(大阪府南西部)の境にある方違神社付近から西に発展した街で、交通の要衝であり、鎌倉・室町を通して貿易の津として発展した。荘園とも結びついており、堺北庄が摂津に、堺南庄が和泉にあり、街自体は両国に跨っている。
文明八年、応仁の乱で衰退した官津――大内氏に下げ渡された兵庫津に代わって、幕府の命を受けた湯川宣阿によって、堺は対明貿易の拠点となった。摂津湾に面した海濱には納屋が立ち並ぶようになり、今や海外と国内の物流が交差する日本最大の商業都市である。
納屋というのは貸倉庫のことで、堺には納屋を各種の問屋や座に貸し付けることで財をなした町衆が多い。納屋を生業とする家は油屋の伊達家、天王寺屋の津田家、能登屋の阿佐井野家、皮屋の武野家、銭屋の松江家、千屋の田中家、鉄屋の藤井家、薩摩屋の石川家、日向屋の池永家のほか、富那宇屋や和泉屋、納屋、木屋、臙脂屋、錺屋、茜屋、塩屋などがあるが、筆頭は備中屋の湯川家で、いずれも会合衆である。
堺の会合衆は十人衆を筆頭に、年々その数を増やし、現在三十六名を数えるが、大半が湯川一族か、その姻戚だ。この会合衆が町衆の中心となって、堺の町を治めている。会合衆は本来十人衆の呼び名であり、三十六人衆は納屋衆であるが、人々は気にせず会合衆と呼んでいた。
町衆はそれぞれの生業の座のようなものである。能楽師から、刀剣や鎧などを扱う武器商まで堺にはない座がない。その座の中で生き馬の目を抜くような駆け引きが、表向き和やかに繰り広げられていた。堺は商人の街ではあるが、盛衰の激しい街でもあり、血深泥の戦さは無い代わりに、商いもまた戦さである。直接血を流さずとも、明日をも知れぬ命であることに変わりはなかった。
当年二十五歳の与兵衛に、父の与右衛門――田中忠隆はそろそろ身代を譲ろうかとも考えていた。準備も整えて、もうしばらくは大旦那として後見をせねばなるまいと言っている。が、納屋の仕事も順調であり、会合衆への顔見せも恙なく終えていた。店に与右衛門が居らずとも特に不都合はないのだから、単に仕事好きなだけだろう。
千屋は、戦乱に巻き込まれ流浪した与右衛門が斗々屋の番頭となり、婿となって岳父・左兵衛の援助で興した商家である。才覚があったのか、瞬く間に商いを広げて納屋衆となり、三十六人衆に名を連ねた。近頃は与兵衛に店を預けて隠居し、茶の湯三昧と洒落込みたいと零している。
与右衛門は仙波(大阪市中央区船場)の生まれであり、仙波は千波とも書かれるので、「千」の字を取ったのだと与右衛門は吹聴している。斗々屋の斗は柄杓枡のことであり、容量の単位だ。二つの斗を通して量り売りをするのは油で、ゴミや不純物の混入を避けながら、量をきちんと量るためには相応の技術が要る。左兵衛は既に亡く、義兄・与左衛門が家を継いでいた。
与右衛門は妻帯したのが遅く、子供は与兵衛だけであったから、大事にはされてきた。ただ、与右衛門はあまり家庭を顧みず、仕事に明け暮れる毎日で、余り一緒に居た記憶はない。それ故、与兵衛は与右衛門が茶の湯に興味があったことを知らず、蔵を検めた時に驚かされた。若い頃、京に居たと聞いているので、その頃に習ったものだろうか。
茶の湯は近頃、堺の納屋衆の間で流行り始めたもので、元々は京都の武家それも公方や大名の周辺で行われていた。闘茶から賭け事の要素を無くし、唐渡りなどの珍しい器物を観て、愉しみながら茶を飲むのを主体とする遊興である。これを大和(奈良県)から出た村田珠光が今様に改めて、町衆にも馴染めるようにした。高価な唐物だけでなく国焼の茶道具も使われる茶の湯を侘数寄という。この頃、国焼といえば六古窯――瀬戸・丹波・信楽・備前・越前・常滑であるが、珠光が取り上げたのは備前と信楽であった。
この頃、堺で一番の茶の湯巧者といえば、天王寺屋助五郎――津田宗柏だ。京都で村田珠光に茶の湯を直伝されており、弟子は四〜五十人ほどもいる。まだ息子が若く、隠居ができぬと嘆いていた。表弟の新三郎も茶の湯が得意で宗伯の戒名と引拙の号を得ており、中継ぎを任せたいらしい。
与兵衛も天王寺屋助五郎の手解きを受けてはいるが、身になりそうもないと、自分では思っている。ただ、納屋衆や大名家との付き合いに茶の湯は欠かせないため、仕方なくやっているだけだった。それ故、目利きや宗匠を目指そうとは思えない。
半刻ほどまえ、妻の紗衣が産気づき産婆――今でいう助産婦――を呼んだのだが、厳しい顔で長く掛かると早々に母屋を追い出されて所在なく、座敷に籠もるしかなかった。
一番上の多呂丸が今年六歳になったとはいえ、二番目は二歳にもならぬ内に鬼籍に入り、三番目は生まれてまもなく母親を連れて逝っている。男寡夫では不都合が多かろうと周りに言われ、二年前、斗々屋の親戚筋から紗衣を後添えに迎えて、初めての子供なのだ。
若い与兵衛にも悩みはある。それは兄弟が居らず、子が少ないことだ。何かあったときに六歳の子供が一人では何か困る上、商売は兄弟がいた方が心強い。分家するにも身内が安心だ。備中屋の湯川家は代々子沢山で現在では十六の分家すべてが会合衆に名を連ねている。田中家もそう有りたいと与兵衛は思っていた。
その上、後添えとはいえ正室である紗衣のことも考えれば、長男には別に店を構えさせ、新しく生まれる子供にこの店を譲るのが無難だろうかとも思えた。いや、逆に紗衣とその子を分家させるか。
「まだ……男子と決まった訳やあらへんけどなぁ……」
しかも、多呂丸はまだ六つである。海の物とも山の物ともつかぬ童だ。与右衛門健在の今、事を急くこともありはしないと独り言ちて頭を振った。
紗衣がまだ子をなしていないころ、使用人の中には「後添えさまは石女でございましょう」などと、多呂丸に追蹤するものがあった。多呂丸は歳相応の正直な性格であったから、そのまま与兵衛に伝える。そこまで見越してのことかどうかは分からなかった。
商人としては、その正直さが、莫迦正直にならず、誠実さになればいいとは思った。自分ならばどうするだろう。阿る使用人は毒になるとそやつを信用しないのも一つ、窘めるのも一つ、ただ、そういう奴は世間の噂話を拾ってくるのに長けているから、耳目として重宝するというのも間違いではない――などと考えながらはたと気づいた。
「多呂丸はまだ六つぞな」
与右衛門はいつも羨ましそうに天王寺屋助五郎の二人の子の話をしていた。孫がほしいのは分かるが、自分が子を沢山作らなかった所為でもあろうに、責任をこちらに押し付けるのは辞めてほしいと与兵衛は不満だらけである。
「子をなさなんだのは親爺殿やないか……」
好々爺然として、女子に手をつけることもせず、兄弟姉妹を設けなかった与右衛門を嘆いてみせる。だが、だからこそ、気は急く。先の三好家の当主であった三好筑前守之長が亡くなった折、跡取りの修理大夫長秀は既に身罷っており、次兄・孫四郎長光、三兄・芥川次郎長則も亡く、長兄の養子となっていた末子の孫二郎長基が二十歳で当主とならざるを得なかったのが、たった二年前の話である。
近年は将軍跡目や管領家の家督争いもあり、戦が頻発しており、近隣諸国では戦火に巻き込まれた商家も多いと聞く。堺だけがまだ戦火の外に在ると言ってよかった。
ふと気づくと、松風が老けすぎて遠浪になっていた。随分とぼんやり考え込んでしまったものである。
松風は釜の音の一つで、釜の音にはいくつかの段階があった。「無声」「松風」「遠浪」「岸波」「蚯音」と、音の大きさと高さで呼び方が変わる。無声が最も小さく、岸波が最も大きい。また、低い風切りの音が次第に甲高い音になるが、これは鳴金という釜の内底に据えられた鉄片が奏でており、最も高い音である蚯音は、ミミズが鳴く(と信じられていた)「キュー」という音であった。この内、最も茶の湯に適した湯の音は松風である。つまり、茶の湯の釜の湯温は沸騰するほど熱くなかった。
その他に「蟹眼」「連珠」「魚眼」という湯相の呼び方もある。これは、泡の大きさのことで、最初は小さい蟹の目のようであるものが、連なった真珠のような泡が出て、最後は魚の目のような大きな泡がボコボコと出てくることを意味していた。湯相としては連珠となるのがよい。これは好く炭が盛らず枯れず、燃え続いている様を表していた。
「いかんいかん。茶の湯の最中に考え事とは」
手に取ったままの柄杓を横に構え直し、合を水指の中ほどまで沈め、清らかな水を取ったところで、汲み上げる。釜の口に運んで、水を差すと、一瞬だけ無音となり、再び松風を奏で始めた。水指とは水を入れておく器で、巾五寸の陶磁製の筒桶で共蓋が格上とされる。合とは竹でできた柄杓の先にある筒状の受けのことで、やや傾けた状態でほぼ一合入ることから、合と呼ばれていた。
さっと、柄杓を釜底までくぐらせ、合が鳴金に強く当たらぬように止め、温められたばかりの湯を取って、湯返しをする。
「茶でも飲んで落ち着かな」
独り言ちても与兵衛の心はまだ落ち着かぬ。
茶は心を落ち着かせると言われているのだが、落ち着くのではなく、落ち着いてやらねばならぬのだろうと与兵衛は思っている。子供の時分は「遊興に金など使っていられるか」と見向きもしなかったが、代替わりして会合衆に名を連ねるともなれば、そうも言っていられなかった。商家の当主ともなれば、風流を解さぬは無粋と蔑まれる。二十代になると茶会などに招かれるようになり、与兵衛も少しは茶道具を集めていた。但しここにあるのは与右衛門の道具であり、自分のものは茶垸だけである。
千屋にある殆どの茶道具は天王寺屋を通じて手に入れたもので、宗柏の好みなのか与右衛門の好みか、青瓷の物が多かった。
耳を澄まして母屋の様子を伺うが、紗衣の子は、まだ生まれそうにもない。凪いだ松風が、再び荒々しく鳴りはじめた。
与兵衛の目の前には青瓷の茶垸が黒塗青貝の天目台に載せてある。この当時、茶垸といえば天目や天目形の物を指す。青瓷の場合は本来「石偏に完」と書くそうだが、この字は現在残っていない。
茶垸は真塗――艶のない黒く深い漆塗の台子の手前、唐銅鬼面風炉の前に置かれ、台子には青瓷の皆具が並ぶ。皆具とは並べられた道具が一様の素材で出来ていた。後世では同じ作家の同手の物を指すが、この時代にはまだ無い。寄せ皆具と言って、違う作家のものを寄せ蒐めて似たような色調のものを見つけるのである。
青瓷水指に青瓷杓立。共に陽刻の唐草文が釉薬の下から精緻な造形を覗かせている。器膚の色の似た道具はなかなか揃わぬものだが、どうして手は幾分違うものの、余程の目利きが揃えたのだろう、違和感がない。それだけに唐銅で深鉢形のこぼしがそれに添えられているのが惜しかった。
こぼしとは後世の建水のことで、湯や水を棄てるための器をいい、泪とか水翻などと書くこともある。与右衛門も青瓷のこぼしを探してはいたが、気に入る物がなく、色も合わず、仕方なしに無難な物で済ませていた。いずれも唐物だが、名物ではない。ただ、与兵衛は気に入っていた。高価すぎるものは分不相応であり、気軽に使えぬものだ。色の合う青瓷のこぼしが見つかれば、茶会を開いてみようと思うかもしれぬ。
与兵衛は抹茶が飛び散らぬよう、見込みの脇に湯を垂らし、おもむろに茶を煉り始めた。今で言う濃茶である。天目での濃茶は力を入れ過ぎれば天目が揺らぐ。優しく丁寧に茶筌の柄を振った。天目台にしっかと押し付けるように左手を副え、右の臂で煉る。与兵衛が用いた茶筌は現在でいう「天目立て」という些か柄の長い天目専用の茶筌だった。
柔らかい上品な茶の香りが立った。照りも申し分ない。満足げに笑みを浮かべて、茶筌を茶垸に預け、少しばかり湯を足すと、再び茶筌を手にする。客が居る訳ではない。手持ち無沙汰な上に落ち着かぬゆえ、無聊に茶でも点てようかとはじめたのだ。が、やはり心ここに非ずである。
じっと、点てた茶を見つめると、清水のような茶垸に抹茶が写り込んでいた。ゆっくりと茶筌を引き上げ、一呼吸、茶筌から垂れないように心付けて、茶入に並べる。
茶垸の高台は熱い。特に青瓷は熱を通してしまう――それも好い青瓷ほど薄いため、掌に熱湯を押し付けられているようになるのだ。故に与兵衛は懐中から帛紗――現代では古帛紗と呼ばれるもの――を取り出し天目を載せると、そのまま一口茶を喫もうとした。
その時、急に陽が翳りをみせる。雲一つなかった空がみるみる暗くなった。
ポツリ。
空から雨が落ちてきたかと思うや否や、夕立かと見紛うばかりな雨である。まだ、昼九つを過ぎたばかりだというのに。
「……むぅ」
与兵衛は急に不安に駆られた。それを圧し殺すかのように一口喫む。
舌の上にどろりとした抹茶が広がった。心を洗うような香りが鼻腔をくすぐり、爽やかな茶の甘みが口当りを軽く感じさせる。そして深いコクのある渋みが喉を通り、与兵衛を満足させた。流石に栂尾と並び称される宇治七茗園の一つ、祝茗園から取り寄せたものである。
「ふぅ……」
続けて二口。飲み干すように上を向いた。
時折聞こえる大声は、産婆のものだ。まだ、産声は聞こえない。いや、まさか。茶垸から口を離して頭を振った。
(悪うことを考えれば、その通りになるやないか。きっと元気な男子が生まれるよって……)
急に変わった空模様に感じた不吉さを振り払うように、天目台に茶垸を戻す。改めて湯を取り、茶垸に注ぐと、薄茶のような残り湯になった。茶垸を取り上げ、ゆっくりと三度湯を廻す。解けるように、吸い痕が消え行き、元の清水のような青瓷の器膚が姿を現す。そして、ゆっくりとこぼしに湯を空けた。
雨は激しさを増している。激しい風と雨であった。終いには雷が鳴った。
ニャァァァ――ニャァァァァ――
雷の音にも関わらず、微かに聞こえた猫のような声。これは産声に違いない。そして、母屋に挙がるどよめいた声。おそらく安堵の声に違いない。続いて、ドタドタドタという足音が近づいてきた。
「与兵衛! 与兵衛よ! 男子や、男子が生まれたで!」
晴れやかな与右衛門の声が廊下の向こうから聞こえる。与兵衛は、願いがかなったことを知って、思わず柏手を打った。その手に茶垸を持っていたことなど、すっかり失念して。天目がこぼしに中る。
ガチャン!
バンッ!
甲高い音がして、それと同時に障子が開いた。そこには喜色を浮かべる与兵衛の姿の脇に、欠けて転がる青瓷茶垸があった。与右衛門は啞然とする。
「与兵衛……」
与右衛門の声に、我に返った与兵衛は、与右衛門の視線の先を辿る。そこには、唐銅のこぼしにあたって口造りが缺け、ニュウの入った茶垸があった。
「それは先日、おぬしが宗匠から譲って頂いた茶垸であろう?」
「はい……。思わず手ぇ放してしまいました……」
与兵衛が首をすくめてしまったという態を取るが、嬉しさで笑顔のままであり、与右衛門もつられて笑ってしまった。若い頃は細身であった与右衛門も、體は丸みを帯びて、中年相応になっている。缺けてしまった茶垸は十貫で譲ってもらった唐物だ。しかし、今は惜しいと思う気持よりも、男子誕生の喜びが勝っている。
「まぁ、缺けてしまったものは仕方ない。直しに出せばええ」
「このカケをみる度に、志郎丸の生まれた日ぃを思い出しますやろなぁ」
何を暢気なことをと与右衛門が言おうとしたが、あまりにも嬉しそうに笑っている与兵衛を見るにつけ、言う気が失せた。与兵衛は欠片を茶垸の中に入れ、茶垸を天目台に載せる。与右衛門の言う通り、後で職人に頼んで金継ぎをしてもらう必要があった。缺けたままでは、使うことはできない。だが、漆塗の職人に知り合いはないかった。天王寺屋に紹介でもしてもらうのが良いかと、頭の片隅に追いやる。そんなことよりも、赤子が産まれた嬉しさで心は占められていた。茶垸を見て嘆くのは、後日のことである。
与右衛門が見上げた与兵衛は既に茶垸を忘れ、赤子のことだけを考える父親の顔だった。駆けだしたいほどの喜びを抑えて、静かに母屋へと戻る息子の後ろ姿に、与右衛門は思わず笑みをこぼした。
「志郎丸か」
与右衛門は多呂丸に弟ができたことを喜ばしく思いながら、火の始末もせず、母屋へ向かった与兵衛の後始末をするべく、道具を片付け始めた。外はにわか雨であったのか、再び雲は消え、五月晴れの蒼穹が戻っている。土が湿り気を帯び、雨の名残りだけがあった。
「入ってよいか?」
「だんさん、もうかまへんで」
産婆に断りを入れて、部屋に入ると紗衣が赤子と並んで横になっていた。綿貫の上掛けから肩を覗かせて、脱力した汗だくの顔を見せている。
「だんさん、男の子です」
「よぅやったな、紗衣。よくぞ産んでくれた。ありがとうやで」
紗衣の手を取り、与兵衛は涙ぐんでいた。この時代赤子を産むのは命懸けであり、死亡率も高い。腕のいい産婆と医者は缺かせぬ存在であった。
「産後の肥立ちが悪うといかん、ようけ休むんやで」
「ありがとうございます。それで、この子の名前は?」
既に名前は決めてあるものの、与兵衛は口にするのを一瞬躊躇った。というのは、この頃、命名はお七夜といって産まれて七日目の夜に宴を開いて命名書を飾ったからである。故事に倣わねば子の魂が攫われるといわれていた。だが、二人目も三人目も、お七夜をしたというのに身罷っている。
「志郎や。多呂、治郎、弥郎と名付けたよって、な」
多呂丸のときはお七夜の前に命名書を明かしてしまい、与右衛門に大目玉を食らったのだが、その多呂丸だけが生きていてくれているのに肖ったといえた。
大永二年五月朔日、干支は壬午年丙午月丙午日の午の刻。午の四変、まさに神馬の誕生である。
【本歌】
めづらしく けふたちそむる 鶴の子は
千世のむつきを かさぬべきかな
詞花和歌集 賀 伊勢大輔
めずらしくも今日のこの日に飛び立ちはじめる鶴の子は千年にわたって睦月(=正月)を重ねていくでしょう
伊勢大輔は、平安時代中期の日本の女流歌人。大中臣輔親の娘。高階成順に嫁し、康資王母・筑前乳母・源兼俊母など優れた歌人を生んだ。中古三十六歌仙、女房三十六歌仙の一人。
【登場人物】
田中与兵衛
生歿年■明応六年(1497)〜天文九年(1540)
利休の父。千屋の次期当主
配役■桂文枝
田中与右衛門
生歿年■〜天文七年(1537)
田中与兵衛の父。千屋の当主。
配役■林与一
田中紗衣★
利休の母で、与兵衛の後妻。
配役■堀内敬子
利休の生家が「魚屋」ではないのは、実は「魚屋」という漢字表記が「大正時代からの慣例である」という事実を知ったためです。ただし、江戸時代初期に「斗々屋」という表記はされていたので、その表記に従いました。
序章から第一服へ変更しました。
2022.11.2
ルビの振り方を一部変更し、分かりにくい文章を直しました。
2022.11.29
加筆修正。
切合の説明を加えました。
2023.1.23
加筆修正。
武野新五郎の皮屋が皮革の取り扱いではなかったこととが分かり、修正しました。