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数寄の長者〜竹馬之友篇〜  作者: 月桑庵曲斎
第一章 動乱前夜
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第九服 突虚破陣

細川晴宣が細川元常率いる和泉衆に敗れ、香西元盛・柳本賢治らは行方不知となった。

これからゆっくりと河内の失地回復をしていこうとする畠山義宣の前に現れたのは、万に届こうかという大軍であった。

(きょ)()いて(じん)(やぶ)


恋しくは たづねきてみよ 和泉なる

信太の森の うらみくずの葉


 阿波から和泉へ、三〇〇ばかりの兵を連れて岸和田城に細川五郎(ぎょう)()(のたい)(ゆう)(もと)(つね)が入った。元常は細川(すみ)(もと)の側近で、阿波に落ち延びた澄元に従い、累代の本領である阿波国河輪田荘を本拠としているのだが、畠山上総(かずさ)(のすけ)(よし)(のぶ)挙兵に連動した一連の策戦の指揮を取るべく岸和田城に帰城したのである。


「殿」

()(ろう)()か」


 元常が絵図を前にして唸っているところに来たのは年老いてはいるが、(いかめ)しい面構えの(まつ)()()()(もん)(たい)()(まもる)であった。次郎左とは父・(さこう)が隠居する前に守が名乗っていた次郎左衛門尉の略で、左衛門大夫は(さこう)から受け継いだ和泉松浦家累代当主の官途名である。


 守は音も立てず膝を進めると、元常の御前に坐り軽く頭を下げる。


「物見によりますれば、畠山尾州、大和に落ち延びた由に御座居まする。上総介様はこれを追われて大和口に向かったとの御使者の口上。我等もそろそろ出陣の支度を整えるべきと存じまする」


 懐から奉書を取り出して向きを変え、元常に差し出す。包みを荒々しく剥ぎ取ると、九十九折になった書状をバッと開く。喰い入るように読み進める元常。(ひと)(しき)り読み終えた所で、一瞬呆けたように放心したかと思えば、急に身体を縮こめ、次の瞬間諸手を挙げ歓喜の声を迸らせた。


()()した! 出来したぞ、上総殿! 尾州()()()は挙げられなんだようだが、これで和泉の統一も目前ぞ!」

「……()()()()


 子供のように(はしゃ)ぐ元常に、守は眉を(ひそ)めて、(とが)めるような声を出した。守は元常の弟・有盛の養父でもあり、元常の(もり)(やく)でもあったため、誰も居ないときには砕けた物言いになる。小言を言うときは特にであった。


「許せ、次郎左。余りにも嬉しゅうてな」

「嬉しさはお察しいたしまするが、喜びようと言うものも御座いますれば」


 今は近習の者たちも下げている。元常の()(けん)に関わるようなことはなかった。元常もその辺りは(わきま)えている。傅役の前だからこその素の表情であった。


「では、参るとしようぞ!」

「誰かある! 殿がご出陣じゃ! 具足を持てぃ!」


 大太鼓を叩いたかのような大音声を張り上げて、守が近習を呼びつける。讃州家の軍勢と合わせて四五〇〇の兵が岸和田に集まっていた。


「目指すは堺、晴宣が首級ぞ!」


 堺は豪商らが治める自治都市である。堺は室町前期、山名氏や大内氏が拠点としたため和泉守護の在所となり政治と経済の中心であったが、両氏の反乱が鎮圧されると、細川氏の領国となり、守護所は岸和田城に移された。そのため、堺は和泉国の政治の中心ではなくなっている。その上、和泉国守護職は分家の独立を危惧した細川京兆家によって二人守護体制とされた。これは所謂分割統治の半国守護体制ではなく、一つの守護職を二人の合議によって治める共同統治の両守護体制である。さらに、堺は京兆家の直轄領とされ、代官が在堺し、守護権力の及ばぬ地となった。その堺は和泉国の中では最北端にある。

 

 和泉国は海岸沿いに街道が通り、古くは茅渟(ちぬ)と呼ばれており、それ故、和泉国の海を『茅渟の海』とも呼ぶ。河内国から独立した比較的新しい国で、大鳥郡、和泉郡、南郡、日根郡の四郡があり、国力等級は下国、距離等級は近国であった。


 茅渟の海はこの頃既に『和泉灘』と呼ばれている。海の玄関口の和泉大津も堺程ではないが大いに栄えていた。伊勢から和歌山を経由して、船の行き来が盛んに行われていることと、和泉国は河川が多く良質な港が多いため、水軍が数多あり、水運が盛んであることが背景にある。特に岸和田、貝塚、佐野の海賊衆は遠く対馬や五島列島まで出掛けており、松浦(まつら)氏、淡輪(たんのわ)氏、日根野氏、真鍋氏、多賀井氏、大鳥郡の田代氏など和泉三十六人之郷侍衆と呼ばれる国人たちが(ひし)めき合っていた。和泉松浦氏は九州平戸の松浦党、和泉真鍋氏は瀬戸内備中の真鍋水軍、佐野渡辺氏は摂津渡辺氏の分家である。


 この頃の船は、大小様々な()(ざい)(せん)で、船足の短いものも多く、荷物をより多く載せるために甲板がなく、平底竜骨である。その多くが堺から和泉大津を経由して和歌山を目指し、さらに伊勢・尾張へと(わた)った。その中継地である和泉大津は国府の外港で、船首下部を水押造りにして上部を箱形にした(ふた)(なり)(ぶね)や船首を箱形の戸立てにした伊勢船などの大型船は、堺や兵庫津に直接向かうことが多い。大津に入るのは多くが一〇〇石から二五〇石級で、堺や和歌山で積荷を載せ替えていた。


 和泉国の国府が置かれたのは和泉郡で、河内国から分離独立した際、和泉国最大の郡であった。国府は住吉大社と和歌山を繋ぐ紀州街道のほぼ中央に位置する。国府からやや南に下ると和泉郡から分かれた南郡の郡府たる岸和田城があり、堺の南の前哨基地的な位置取りになっていた。京と堺を結ぶ竹内街道を(やく)するのは大鳥郡の中心である深井城で、こちらは堺の東の備えと言える。


 和泉国は川の多い土地で、北から大和川、石津川、芦田川、大津川、春木川、津田川、近木川、見出川、佐野川、田尻川、樫井川、男里川、茶屋川、番川、大川、谷川と実に十六もの川が西流して和泉灘に注いでいた。それ故、大軍が展開しにくく、川が堀となって攻めにくい土地柄である。(ひっ)(きょう)攻め手は街道を使うことになり、守り手は街道や渡しを抑えればなかなか攻め込まれない立地であった。


 日根郡の熊野街道筋にある佐野村に市が立ち、商業の中心地となり、泉南の中心として栄えた。日根郡は日根野氏、渡辺氏が代表的な国人で、佐野は渡辺氏の所領である。日根郡の政治の中心であり、和泉守護所となったのが岸和田城だ。


 岸和田城は戦国期に入って新たに築かれた城で、東北東には岸和田古城と呼ばれる城址があった。既に破却され砦としても使えないようになっているが、南朝を支えた楠木正成が築城した伝説の残る城である。岸和田古城は和田氏が城主となったことから「岸の和田城」が転じて岸和田城と呼ばれるようになった。


 現在の岸和田城は応永年間に山名陸奥守氏清の家臣・信濃民部大夫泰義によって築かれた山城で、この当時としては珍しい海に張り出した水城(みずじろ)である。信濃氏は四代に(わた)って城代を勤めたが、山名氏が和泉国守護を失うと信濃氏も本国に撤退し、細川刑部家が接収した。


 その岸和田城の物見櫓に一人の男がいる。男はじっと物見台から、北を睨んでいた。元常によく似た風貌の男である。


 男は己の焦燥感を抑え、心を落ち着かせたかったのであろう。物見櫓に上り、軍勢が押し寄せていないことを直接確かめた。


 軍勢というものは霧や霞の如く現れたりはしない。(りょう)(まつ)を集め、武具を揃えるなど金の動きが先に起こる。それさえ押さえていれば、何処からどのように攻めるかは分からずとも、いつ頃攻め寄せるかの予想はつく。当然のことだが、このことは商人を莫迦にする偉ぶった大名や勘働きの武将どもにはできない働きだ。男とてそれが分からぬほど愚かではない。だが、確かめずには居られないのだ。


 気休めと解っていても、異変があれば真っ先に知り得るとあって、櫓に登るのが当面の日課となっている。


 いずれにせよ、高国方の軍勢は来る。これは確実なことだった。恐らく十月頭であろうことも予測できている。問題は何日に来るのかだった。

――何処で、如何に迎撃するのか。それとも城に籠もって戦うのか。


 男の頭の中で、策戦が浮かんでは消えていく。元常は絵図と睨み合っており、側には松浦守が居るのだから、少しばかり勝手をしても赦されよう。


 相手の大将は細川晴宣とはいえ、戦上手の香西元盛が実質的な大将であることは間違いない。現在の高国勢の中で唯一無敗の武将だ。そう考えると、策略家であって戦そのものは上手くない細川尹賢が大将ということはない。高国はここらで和泉国を奪い返したいはずで、少なくとも堺との連絡線を安全にしておく必要があった。


 対して讃州陣営の問題は岸和田城に援軍がないことである。糧秣や物資の補充は()(たぎ)水軍がある限り途絶えることはない。大津は岸和田にも近く、大津川の河口北岸にある。大津川を越え、春木川を渡れば岸和田城である。


 今はまだ阿波からの援軍は見込めない。城主たる元常も阿波の所領から出陣していた。それ故、籠城は避けたい。万が一敗けるようなことがあっても、元常は阿波へと逃さねばならぬ。岸和田城を明け渡しても、讃州勢を維持できる方策を考えねばならないか。いや、城に引きつけるよりも、敢えて迎撃に出たほうが、戦に負けても城を失わずに済む可能性が高い。拠点を失わなければ、戦略目的は達成できるのだ。それに堺は三好贔屓が多く、細川高国に従ってはいても、面従腹背。三好氏との繋がりも太い。


「野戦で負けても、城を保てばそれ則ち勝ちよ」


 それには予め兵らには野戦の勝ち負けではなく、城を守り抜けば勝ちであると周知徹底しておく必要がある。兵どもは戦に負けたと感じると離散してしまうからだ。


 男の名は松浦六郎左衛門尉(もり)。細川元有の子で、元常の弟である。細川六郎有盛を名乗っていたが、松浦守の養子となって名を一字名の盛に改めていた。和泉松浦家の家督は継いだが、和泉国上守護家の守護代は未だ養父(松浦守)が務めていた。松浦守は攻めよりも守りに強い男で、元常が細川晴元に近侍するため、阿波の所領に下って留守にしている岸和田城を保持し続けている。


 和泉国の両守護は上守護家と下守護家と呼ばれ、上守護家を細川刑部家、下守護家を細川民部家という。


 上守護家当主・細川五郎(もと)(あり)は細川刑部少輔(つね)(あり)の四男で、(けん)(にん)寺に入って(せっ)(けい)(げん)(ゆう)と号していた。しかし、文明十二年(西暦1480年)、兄・(まさ)(あり)が病に()せると、(げん)(ぞく)させられ、翌年、政有が歿すると家督する。明応四年(西暦1495年)には下守護の細川民部大輔持久と共に畠山尾張守尚順に通じるも、激怒した細川右京大夫政元に攻められ敗れて降伏し、その配下となった。そして明応九年(西暦1500年)、今度は畠山尚順によって岸和田城を攻め落とされ、民部大輔基経とともに戦死する。


 元有の家督は元常が継ぎ、永正の錯乱、両細川の乱においては澄元を擁立したが、船岡山合戦で敗れた。岸和田城を守護代松浦守に預け、阿波の所領河輪田荘を経営し、新たな所領を得ることで劣勢の挽回を図る。伊予国新居郡中村・萩生村二村の穀倉地帯を確保すると真鍋近江守孝綱を代官に任じた。


 高国は上守護家の家督に先年病歿した畠山尚順の子で、畠山稙長の弟・五郎を据え、上守護家を継承させた。それが細川晴宣で、此度の戦は岸和田城を奪還し、名実ともに和泉守護とするためのものである。


 下守護家当主であった基経は細川奥州家の出身で、民部大輔持久の女婿となり、婿養子として家督した。だが、基経に家督を譲ったあと、持久に実子が生まれ、持久は基経を除こうと画策する。政久に家督させるため、元有とともに畠山尚順と結んで基経を除こうとするが、政元に攻められ没落。守護職は基経が保持した。しかし、その基経も畠山尚順に攻められ討死している。


 基経亡き後は政久が下守護家の名跡に復帰、こちらも澄元を支持して岸和田城に拠って高国に守護を免ぜられた。高国は腹心である尹賢の弟に基経の名跡を継がせて弥九郎高基と名乗らせる。


 上守護家も下守護家も讃州派と野州派の争いに二分され、力を弱めていた。そんな中にあっても、岸和田城は讃州勢が抑えており、その中心に居るのが松浦守である。


養父(おやじ)殿はいつまで生きる気だ?」


 独り言ちて憮然とする盛であるが、主殿の方が騒がしくなっていることに気付いた。具足を着けた兵どもが集まっている。


「六郎左衛門尉さま!」


 見知った松浦党の家人が盛に声を掛けてくる。訝しげにどうしたのだと問うと急かすように腕を取った。


「出陣です!」

「先にそれを言わんか!」


 家人を放り出して、本丸へと駆け出す。迷っていた盛の策戦も決まった。


 盛は「どうせ養父(松浦守)殿が先に気が付いて兄上(細川元常)に話しているだろうが戦を担うのは己である」と意気込んで、小さく頷いた。


「陣触れは……右備大将、真鍋近江守孝綱殿」

「おぅ!」

「左備大将、()()日向守清成殿」

「ははっ!」

「中備は(それがし)(つかまつ)る。本陣に刑部大輔(細川元常)さま、後備は松浦六郎左衛門尉(もり)殿」

「畏まって(そうろう)

「船奉行に淡輪因幡守重正殿」

「承った」


 名を読み上げられた和泉衆の武将らが声を挙げる。真鍋孝綱や沼間清成は三十六人衆の旗頭であり、淡輪重正ら国人のまとめ役でもある。


「総勢四〇〇〇。敵は畠山尾州(畠山稙長)が舎弟細川五郎(細川晴宣)率いる二〇〇〇。我らはこれより出陣し、菱木にて迎え撃つ!」


 松浦守が目をカッと見開いて諸将を見渡す。怖じける者も居ない。が、一人だけ、ニヤリと嗤う者があった。(もり)である。


「六郎左衛門尉殿には何か策が――」

「船を預けてはいただけまいか」


 (まもる)が言い終わるのを待たず、(もり)が畳み掛けた。守は左の眉だけを器用に跳ね上げ、じろりとひと睨み。それでも(もり)は臆さなかった。


「さすれば、晴宣が首級に手が届くやも知れませぬ」


 場がざわめいた。敵方には猛将香西四郎左衛門尉元盛があると知っての豪語であった。しかも、(もり)には浮ついたところはない。


「我が弟よ、よくぞ申した! で、策とは?」

「それは……」


 元常の側に進み出て耳打ちする。


「なるほど、のぅ」

「策は秘してこその策にござる」


 胡乱な目を盛に向ける(まもる)であったが、(もり)の言い分にも一理ある。和泉衆は決して一枚岩ではなかった。敵味方に親族が別れており、今は讃州派であるといっても、この間までは野州派であった家もある。何処から漏れるかなど分かりはしない。ならば、知らせぬ方が良いのだ。


「では、方々。出陣じゃ!」

「応!」


 守の掛け声とともに、諸将は手勢の詰所へと向かった。残ったのは、(まもる)(もり)、それと淡輪重正である。


ご舎弟(松浦盛)さま、(それがし)如何(いかが)すればようござる?」

因州(淡輪重正)殿、なに簡単なことよ。我が手勢より二〇〇を回す故、我とともに退路を断つのでござる。船で川を遡り、街道を迂回して、兄上(細川元常)が戦を仕掛ける寸前に后背から襲い掛かれば良い」


 淡輪重正はあんぐりと口を開けた。開いた口が塞がらないというような顔である。それでは敵中に取り残される危険があると言わんばかりであった。


「故に小勢で、一気呵成に敵陣を切り裂いて駆け抜ける。前に進めば、味方に逃げ込めるのだからな」


 盛は意味深に守を見た。呆れた様子の守であったが、意を決して元常に向き直る。


「この役、某が務めまする。中備は六郎左衛門尉に」

「そりゃないぜ、養父(オヤジ)殿。これは俺の考えた策。俺が行かずしてどうするよ」


 守は頭を振って答えた。


「駄目じゃ。そなたには次の松浦を継いでもらわねばならん。儂が死んでも、そなたが居る。そなたが死んだら、この先、誰が殿を支えるのだ」


 有無を言わせぬ重みが守の言葉にはあった。淡輪重正も大きく肯く。それと、攻めの戦は守の方が得意であった。


 数刻後――


 菱木の原には数え切れぬ兵士たちが屍を晒している。そこかしこに倒れた幟の二つ両引の紋だけではどちらの物か判別はできなかった。しかし、意気揚々と南に下る軍勢が勝鬨の声を挙げていた。


 明日には、方々に報せが飛ぶに違いない。「細川晴宣、菱木に敗れる」と。その上、香西元盛・柳本賢治の生死も不明で、軍勢は散り散り。晴宣は這々の態で京へと逃げ帰った。


「探せ! まだ、この辺りに潜んでいるかも知れんぞ!」


 落武者狩りの兵たちが、戦場跡から捜索の網を広げて街道筋を徘徊していたが、男はじっと腰より高い繁みに身を隠していた。


「四郎兄……」

「しっ! 静かにしていろ。夜になれば、この辺りは闇に落ちる。そうなれば、川伝いに逃げられる」


 隠れていたのは果たして香西元盛と柳本賢治であった。三十騎余りも居たものが、今や兄弟二人だけである。緩まぬ追撃の手を掻い潜って、ようやく川辺りに辿り着いた。


 賢治は落ち着いている元盛に改めて畏敬の念を感じていた。賢治にくらべ、元盛は陽気で文盲で粗野であり、戦に於いては猛々しい。だが、莫迦ではなかった。学問をした自分と違うと思っていたのだが、こうしてみると学問とは違う学び方をしていたと言うことが分かる。


「この川は?」

「石津川に流れ込む川の一つで、たしか(すえ)()川といったはずだ」


 陶器川というのは石津川の中流で合流している小川のことで、地元の者でもこの名を知っている者は少ない。(すえ)(むら)で作られた須恵器を運ぶのに用いられたことから陶器川と呼ばれるようになった。水源は阿弥陀池で、辻之で前田川が合流し、平井で石津川に合流する。現代では(とう)()川と読むように変わった。


 元盛の頭の中には詳細な和泉の河川図が収まっているとでも言うのだろうか。賢治にとっては驚きであった。


「石津川を遡れば河内との国境だ。山向こうの河内長野は総州家の御膝下故、警戒は薄いだろう」

「それは(たし)かに」


 この元盛の冷静で状況を読む力を晴宣が認めていれば、この様なことにはならなかったであろう。後悔先に立たずとはこのことであった。


 戦の前に、元盛が戦については先見の明がある故、全幅の信頼を置くよう晴宣へ進言でしていたらこんな事態に陥らなかっただろう。賢治は自分が兄をよく知っていればと臍を噛んだ。晴宣は元服したばかりで、畠山家から来た側近の言いなりである。


 合戦が行われた菱木は和田川と石津川に挟まれた合流地で、岸和田から出た軍勢は和田川を背に陣を張っていた。それを見た晴宣は様子を見るべきと進言した元盛と賢治の言を退け、側近の進言を採った。全軍の渡河を命じたのである。


 賢治も敵方に思惑があるとは思っていたが、対する元常に戦上手の評判はないため、石津川を渡ったまでは何事もなく胸を撫で下ろした。そのことが、賢治に侮りを生んだのかもしれない。さらに進軍の命を下した晴宣に従って、軍を進めてしまった。


 晴宣勢は右備を先に会敵させる斜傾陣で前進した。賢治も本陣から左備に戻れば、意識を前方に集中する。そして、元盛が敵陣と刃を交え始めた途端、后背から矢の雨が降り注いだ。


「後ろから敵だっ!」


 軍勢は忽ち混乱の坩堝となり、そこへ松浦守率いる松浦党が本陣を襲った。


 右備の元盛は孤立し、左備の賢治は晴宣を救うべく本陣へと駆けつけようとしたが、本陣の兵が右往左往するばかりで、行く手を阻まれ、敵の右備が前進してきており、そのままでは身動きが取れなくなる(おそ)れがあった。()む無しと賢治は元盛と合流することを選んだ。


 幸い、松浦守は首級を望まず、陣を駆け抜けただけであったため、晴宣が討ち取られることはなかったが、お陰でいいように陣を掻き回され、寡兵を囲んで討ち取ることもできなかった。


「敗けた、な……」

「五郎、勝敗は武門の常。次の戦いで取り戻せば良い」


 打ちひしがれる賢治を励ますように元盛は笑った。


「して、四郎兄、この先どうするのだ?」

「なんとしても大和へ行く」


 大和へは河内を越えて行かねばならないが、元盛の推察通り総州家の本拠であり、そこに敵将が潜伏していると考えるはずもない。だが、大和での宛が賢治には無かった。元盛にもあるようには思えぬ。


「当ては?」

「勘解由殿が()る」


 賢治にとって、大和は柳本家の本貫がある国であり、ある程度の情勢は把握している。しかし、元盛が大和の情勢に詳しいことは意外であった。この時期の大和は、細川氏と通じた越智氏と古市氏などが没落しており、畠山総州家方と尾州家方に分かれて争っている。


 その没落した一族の中に賢治の柳本雲州家の本家である楊本氏がいた。


「勘解由殿とは柳本の本家のか?」

「そうだ」


 楊本荘は十市氏が占領しており、楊本氏にかつての勢力はない。当てに出来るとは思えなかった。元盛には自信があるようだ。それを信じるしかあるまいと、元盛に従って、石津川を河内長野へ向かって歩き続けた。


 時に大永四年(西暦1524年)十月(10月)一日(27日)のことである。

令和7年1月28日

分割版のリライトに伴う加筆訂正を反映しました。

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