序服 安赦帰堺
文禄三年 秋――のちに千道安と呼ばれることになる田中四郎右衛門入道紹安は、秀吉の赦免によって堺に帰郷しようとしていた。
安を赦して堺に帰す
生まれしも帰らぬものをわが宿に
小松のあるを見るが悲しさ
紀貫之『土佐日記』より
堺の今市町にある商家の前に、一人の男が立っていた。秋風が足元を男の旅垢を洗い流すように吹いている。男は三年振りにみる鵆屋の看板に父の面影を重ねていた。そこには、飛騨高山を発つ時には感じなかった郷愁が涌き上がり、水に流したとはいえ、母への仕打ちに募らせた父への憎悪も僅かとはいえ無いではない。ただ、頂きにたどり着いてもなお、研鑽を忘れ得ぬ偉大すぎる父への畏怖、さらには周りのその血を受け継ぐ者への期待と、結果を求められる重圧だけが、自らを取り巻いていたことを思い出させた。今はそれに、相反する父の遺志を奉じたい気持ちと、父を超えたいという敵愾心ではない思いとが交錯している。この三年という年月が、父の背を見つめることができるまでに成長させていた。
上背が六尺を超える男は、武人といわれても不自然ではないが、帯刀もしておらず、棍のように長い棒を杖にしている。それは、飾りも素っ気もなく、山伏の錫杖よりも金剛杖に似ていた。その姿は僧侶のようでありながら、雰囲気はもっと俗っぽく、眼は穏やかというよりも力強い。
「なんぞ……ごよんで?」
店先へ掃除をしに出てきたのだろう。竹帚を持った使用人らしき初老の男が、佇む男を恐る〱話しかけてきた。が、すぐに「あ……」と間の抜けた声を挙げる。
「あんたさぁ、しろえもんさぁじゃろ? しろえもんさぁじゃ!」
その男は舌っ足らずに壮い男の名であろう仮名を連呼する。男は田中四郎右衛門紹安、鵆屋の屋号を持つ堺の豪商である。庵号を道庵、斎号を可休斎といった。茶聖・千利休――田中与四郎宗易の一人息子で、後世・千道安と呼ばれる利休の血を引く唯一の嫡子である。
嫡子とは、嫡母から生まれた子をいい、長子でなくとも家督者となることが多かった。四郎右衛門には別家を立てた庶出の兄・吉左衛門がいる。
「これ、茂吉。店先で騒ぐでない」
「もうしやけ、ござやぁせん」
「お前は変わらんな。皆、息災か?」
「そりゃぁもう。おぉ~い、しろえもんさぁのおけぇりだぞ!」
茂吉が店先から奥に声を掛けると、店の中から何事かと様子を窺う者が出始めた。近くの斗々屋からも人が覗き見ている。
斗々屋は鵆屋ある中浜筋を挟んだ向かいにあり、四郎右衛門の曾祖父・与右衛門の妻の実家である。与右衛門は岳父・左兵衛に支援を受けて鵆屋を立ち上げて独立し、子・与兵衛、嫡孫・与一郎に受け継がれたものの、与一郎は与四郎の才を買って家督を譲ったのだ。
「ところで――この幡はまだ変えて居なかったのか」
「はた――ぁあ! あンのキレでごぜますか」
四郎右衛門は鵆屋の軒先にたなびく裂地をみつけた。日に灼け古びれてはいるが見るからに唐物裂である。印度更紗――遠く天竺から齎されたもので、赤を基調とした鮮やかな色合いが目立つ布だ。更紗に描かれる花唐草柄は異国情緒あふれる手描きの草花文や動物・人物・寓話・神話などがあるが、これには印度松が描かれていた。父・与四郎が四郎右衛門に選ばせたことを思い出させる。
これは母との思い出の品でもあった。印度更紗の中央にある千鳥の刺繍は母が幾日も掛けて仕上げている。囲炉裏の傍で刺繍をする母の膝に寝ぼけ眼で縋り付いていた子供時代が鮮やかに蘇ってきた。この千鳥を格子状に連ねたのが『利休間道』という白と紺の糸で織りだされた極細の縞地の名物裂で、大名物『松屋肩衝』の仕覆に用いられている。ここでようやく父が母を深く愛していたのだと気がついた。
「よいちろさぁが、このままぁにせぇ、と」
「伯父上が」
「あぃ」
茂吉が与一郎の口真似をするので四郎右衛門は吹き出した。あの頃は四郎右衛門も与一郎や与四郎と同じ邸宅に住んでおり、伯父に可愛がってもらった記憶がある。その伯父が変えなかったのは、父が母を深く愛していたことを知っていて、そのことを自分に知らしめるためにも変えなかったのではないかと素直に思えた。
「そういうことか」
四郎右衛門は母も父を愛していたが、時代の流れと家と言うものがどうしても二人の溝となったことに気がついた。父とてどうして苦しまずに居られようか。
茂吉によれば、堺にも既に赦免の話は届いていたらしく、舗の者らもいつ四郎右衛門が戻るかと心待ちにしていた。出てきた者の中には表弟・喜兵衛の姿もある。喜兵衛は和泉国牧野の魚屋の屋号を持つ商人である。父は蜂須賀彦右衛門家政に仕えた渡辺与兵衛直で、利休の妹との間に生まれた子である。天正年間に渡辺直が亡くなったため、与四郎が養育し、四郎右衛門と共に育った。
「四郎右衛門!」
その声は少し嗄れていて、父に似ていると四郎右衛門には感じられた。それは伯父の与一郎のものである。慌てて奥から出てきたのだろう、少しばかり息を切らしていた。横で支えているのは堂弟・五郎左衛門で、叔父・与五郎の子で三妹・莉玖の夫でもある。その向こうにいるのは六郎右衛門で、季父・水落与六郎宗恵の子だ。
「ご無沙汰いたしました」
「何を言うか。よう、戻ったな」
与一郎は、これで肩の荷が下りるという顔をして、四郎右衛門の肩に手を載せる。その手の軽さに伯父の苦労が偲ばれ、四郎右衛門はその場で深々と頭を下げた。与四郎の切腹に際して四郎右衛門が連座したため、与一郎は主のない鵆屋の商いを支えてくれている。五郎左衛門も六郎右衛門も与一郎を輔けて番頭をしていた。
「伯父上に御迷惑はござりませんでしたか」
「儂のことなどどうでもよい。そなたは不自由せなんだか」
「はい。金森様のお陰で」
「ならば好い」
与一郎の目に涙が浮かんでいた。実の弟に先立たれ、壮い甥までが短命に終わってはやるせない。せめて、自分が目の黒い内は――と思うのは、子のない与一郎の親心、四郎右衛門は子も同然なのだ。
金森様とは、飛騨高山藩三万八千石の金森出雲守可重のことである。可重の父・金森飛騨入道素玄は利休の弟子で、四郎右衛門を案じてくれたのだ。
藩とは、明治以降に公称となった歴史用語で、諸侯が治める領地、およびその統治組織のことをいう。古代中国の周で、王室を護衛する諸侯を藩または藩屛と呼んだのが由来とされる。転じて、国を冊封された諸侯一般、およびその領地を指すようになったが、この当時は使われていなかった。江戸時代になると領分と呼ばれるようになるが、呼称としては侯であり、幕府の命も藩主個人宛に出されており、金森家や高山侯というのが実情に近い。
金森家に匿われた四郎右衛門は喜兵衛に鵆屋の支店を出させ、塩の取引を任せている。それを聞いた金森家が御用達の塩商人として贔屓にしてくれたため、それ以前とは比べ物にならぬほど稼業は安定した。塩を産さぬ飛騨では塩の確保は貴重であることも理由の一つであったが、金森可重とその嗣子・左兵衛重近が四郎右衛門に弟子入りしたことも一因である。
この金森重近が後に姫宗和と呼ばれ、現代に続く茶陶の作家や塗師を見出し、のちにその雅な茶風で一世を風靡した。また、同年紀州和歌山城主となった桑山修理亮重晴の三子・桑山左近大夫宗仙が同門であり、桑山宗仙は後に片桐石見守貞昌――三寂宗関の師となって、た四郎右衛門の茶統が江戸時代の中心となる繋ぎの役目を果たすが、これらは別の物語である。
「母の供養も儘なりませんで」
「仕方あるまいよ。今日はゆっくりして、明日にでも往くが好い。儂も共をさせてもらう。商売は六郎右衛門も頼りになるでな」
「私が頼りないとの当て擦りですか?」
横から笑いしながら五郎左衛門が軽口を挟む。あぁ、そうだ、これこそが家であった――と、四郎右衛門は心の底から安堵した。言いたいことを溜め込まず、気軽に言い合う――あの父でさえ、口数は多い方だった。
「堂兄あっての鵆屋ですからね。最近は他の土地からも塩を扱うようになりまして、蝦夷の――」
「その辺にしておけ。いつまで四郎右衛門を立たせておくつもりだ」
五郎左衛門を持ち上げるように六郎右衛門が花を持たせようとするが、呆れ顔の与一郎が話を遮った。
四郎右衛門が阿波の塩を取り扱い始めたのは、舅父・三好筑前守長慶が亡くなり実家を支えようとする母・伊音と、三好宗家と距離を取り始めた父がすれ違い始めた二十歳の頃だった。
それまで堺の塩は芸予諸島――即ち安芸国と伊予国の島嶼に覇を唱えた村上水軍に頼りがちであったため、三好氏は独自の流通を狙っていた。そこで、四郎右衛門は父とは別に商売をしはじめ、阿波の海塩を取り扱い始めたのである。
粟屋を起ち上げた四郎右衛門は三好家を後ろ盾として商売を広げていった。そして、塩だけでなく、藍などの染料も取り扱い始め、阿波の物産は粟屋に限るとまで言われるようになる。
十河民部大夫一存の子で、三好宗家を継ぐことになった表弟の三好左京大夫義継が織田信長に臣従してしばらくの後、その仲介で四郎右衛門はようやく父と十年越しの和解をした。そうなると、四郎右衛門も信長の茶頭として仕えた父の手伝いをするようになる。
信長の茶頭となった父は、羽柴筑前守秀吉と知遇を得て、懇意となり、四郎右衛門はどちらかというと秀吉の実弟・小一郎秀長や義弟・木下弥助吉房と交流するようになっていった。その中で本能寺の変が起こり、秀吉が天下人へと躍り出る。父とともに四郎右衛門も羽柴家を経済面から支える政商としての道を歩むことになった。この頃には粟屋の屋号を下げ、鵆屋の屋号を用いている。これは父・与四郎が鵆屋の家督を伯父・与一郎から譲られたからであった。
天下も定まり、平穏な世になると思っていた天正十九年、今度は父が切腹させられてしまう。それも、天下人・豊臣秀吉の勘気を被ったからだ。四郎右衛門も共に秀吉の茶頭として仕えており、これ連座して蟄居、洛外追放となった。
そして、利休の切腹より三年経った。
妹婿の四郎左衛門――竹田宗淳、庵号を少庵は利休の後妻・宗恩の連子である。父は能楽師の金春家の庶流で宮王と冠した竹田三郎鑑氏だ。四郎左衛門は流寓していた処を蒲生飛騨守氏郷に匿われ会津若松で蟄居し、その間に麟庵――後の麟閣を建てている。
ようやく秀吉の勘気が解け、利休の弟子である蒲生氏郷・細川越中守忠興・古田織部助重然らや徳川内大臣家康の働きかけもあり、四郎右衛門と四郎左衛門は赦された。先に京に入ったのは四郎左衛門で、それを聞いた素玄に請われ、四郎右衛門はようやく重い腰を上げたのだった。
四郎右衛門自身は飛騨高山の隠居暮らしが気に入っていたのだが、妹婿が戻ったのに、利休の嫡子が戻らぬというのも秀吉から再度の勘気を被ることになりかねないと、弟子の金森可重・重近父子にも説得され、致し方なしと京へ向かったに過ぎない。
「四郎右衛門さま……」
奥から妻・登喜も出てきた。四郎右衛門の目頭が熱くなる。利休の死から三年もの間、文の遣り取りしかできなかったのだ。ここには、血の繋がらない身内は居ない。あふれる涙を隠すことなく、四郎右衛門は登喜を抱きしめた。
「苦労を掛けたな、於登喜」
「男君……」
気付けば、近所の人々も何事かと顔を出していた。追っ付け、天王寺屋の津田家や薬屋の今井家からも人が来よう。
「いつまでも立ったままでもなんですから、中でゆっくりいたしましょう」
喜兵衛が気を利かせて中へ誘う。四郎右衛門は喜兵衛に頷き返し、登喜を支えながら、与一郎へと微笑んで、中へと姿を消した。与一郎は、その後ろ姿を見て「よう似ておる……」と零した。
四郎左衛門に遅れること半月、京に戻った四郎右衛門は、利休の弟子であった古田織部助重然の京屋敷の門を叩いた。秀吉への赦免御礼を取り次いでもらうためである。古田織部は快諾し、即日謁見の手配を済ませた。当日は所用で同席できぬので、同門の細川越中守忠興が介添えするところまでの段取りをするほどの気配りである。
「古織様には、感謝の言葉もございませぬ」
深々と頭を下げる四郎右衛門に古田織部は苦笑いを浮かべていた。
「道庵殿、おやめ下され。某、利休さまのことは見送ることしかできませなんだ……これはせめてもの償いでござるよ」
淋しげに織部が笑う。四郎右衛門には、父が居ないことを深く哀しんでいるのが感じられた。
「謁見まではここを我が家と思うて遠慮のうお過ごしなされ」
「御厚意忝なく。京屋敷なども召し上げられたままにて、高山侯様の御屋敷へ伺おうかと思うておりました」
織部は笑顔を残して、退席した。
数日後、四郎右衛門は秀吉に謁見を許された。拝謁すれば父を殺した男としての憎しみを秀吉に感じるかと思っていた四郎右衛門であったが、実際に目通りが叶うと、そんなことは露程も感じることはなかった。
(小さくなられた……)
実際に秀吉は小さくなっていた訳ではない。巨きくみせていた覇気が萎んでおり、小兵のただの老人がそこにいた。秀吉が利休を懐かしんで、昔話に花が咲く。まるで自分が処刑したことを忘れているかのようだった。
「紹安よ、再び余に仕えい」
「太閤さま、その儀は何卒、御容赦願いたく」
四郎右衛門は平伏して懇願した。しかし、秀吉は四郎右衛門の話など聞かぬ。スッと立ち上がるとスタスタと歩き出した。呆気に取られて微動だにせぬ四郎右衛門を見て
「紹安、付いてくるがよい」
と言って再び歩き始める。
四郎右衛門は傍らに控えていた三斎を振り返ると、大きく肯き返され、戸惑いつつも、後を追った。
暫くすると、秀吉は狭い座敷へと入った。大広間などの広い場所で、華美な席を好んていた秀吉が、侘びた座敷――しかも、利休が好んだ二畳敷に、である。
四郎右衛門も腹を決め、中に入ると、秀吉は客座に坐っている。四郎右衛門に茶を点てよということであった。致し方なしと、勝手口へと下がり、水屋ヘ道具を取りに行く。水屋には整然と並べられた道具があり、茶堂らが滞りなく仕えていることが分かった。そこに並ぶ道具はかつての秀吉が好んだ綺羅びやかな名物ではなく、侘びた珠光好や利休好の道具であった。目を引いた黒茶盌は剽げた器で、噂に聞く古織――古田織部の好みであろう。四郎右衛門はこの織部黒で秀吉に茶を点てようと決めた。
「利休によう似とる……」
点前を見ながら、秀吉はそう呟いて、大きく頷いた。四郎右衛門は黙ったまま、ひたすらに茶筅を揮う。旨い茶を煉ること以外、頭の中から追い出すのだ。無我の境地とは「何も考えないこと」ではなく、ただ一つのことに集中することである。
その座敷にいたのは天下人・豊臣秀吉《よし》ではなく、死出の旅に怯えて、残される子のために忙しなく動き回ろうとする老人だった。
「利休の遺品な……あれを、そちに返そう」
「……あれは太閤さまに献上した物でございます」
四郎右衛門は自分の胸を指して首を振る。
「そうか。……ならば、そちの義弟に息子がおったであろう」
「猪之吉のことでございますか?」
猪之吉とは四郎左衛門の長男で、喝食となっている修理のことで、猪之吉は喝食になる前の名前だ。のちに千宗旦を名乗る現在の千家の祖である。
「昔、利休があれを小坊主に使っておってな、愛らしゅうて小姓にしようとしたら、利休は喝食に入れてしもうての。そちが受け取らぬなら、あれに取らせよう」
四郎右衛門は深々と手をついて平伏した。
この辺りの感覚が、武家と商家の違いなのかもしれない。四郎右衛門にとって大事なのは鵆屋の家督と、独立独歩で確立できる茶風だった。父の猿真似であっては、父の教えを実現できぬ。父の手を守り、修めてのち、旧弊を破り、父の教えから離れねばならなかった。何より利休の教えは「他人と違うことをせよ」である。その教えを継ぐということは利休と同じことをしてはならないということであり、利休は茶風を継いで欲しいとは考えていなかった。
それは、利休と違う茶の道を歩むということだった。利休の道具を受け継げば、他人は利休と同じ道具組みや茶風を心の何処かで求めるであろう。それでは利休の猿真似になり、四郎右衛門は何処に在るのか。滅私の思想など利休にも四郎右衛門にもありはしなかった。
それと、四郎左衛門は足萎えである。幼い頃に戦に巻き込まれて負った怪我が治らず、足を引き摺っていた。仲が悪く反目している相手とはいえ、一応妹婿でもあり、義弟である。道具を継げば、それなりに暮らしていけようとも考えた。堺の本家とは違う茶家としての千家を立てればよい。
四郎右衛門は理想に殉じる人ではなく、政商となるのも嫌であった。しかし、茶風とは生きていてこそ体現できるものであり、先ず生きていなければならない。権力争いに巻き込まれるのは御免だが、力がなければ面倒事が逃れることは出来なかった。
「茶堂として仕えるようにな。利休の茶は、そちにしか点てられん」
秀吉とて四郎右衛門と利休の茶風が違うことは分かる。しかし、それは美味い茶をどう出すかの道筋が違うだけで、父子は同じ茶の美味さに辿り着いていると見た。それこそが秀吉にとって利休の茶である。茶の本義は美味いことであると、秀吉は秀吉なりに茶を極めていた。
「かしこまりました」
四郎右衛門は観念して、水屋へと下がった。
そして、着の身着のままであった四郎右衛門に、秀吉は御伽衆として邸宅を与え、堺に戻る許しを与えた。こうして赦免されただけでなく、御伽衆となって四郎右衛門は戻ってきたのである。
「なんと……」
与一郎は絶句している。四郎右衛門としては登喜に秀吉より賜った京屋敷に来てもらい、鵆屋は引き続き与一郎と喜兵衛に任せ、ゆくゆくは紹二に譲ることにしたいと|伝えた。四郎左衛門には秀吉から利休の聚楽第屋敷が与えられる。
「四郎右衛門さまはそれで宜しいので?」
喜兵衛が訝しんだ顔で、利休の遺品が連子の子に受け継がれることを問い質してきた。思うところは分かる。喜兵衛は、宮王竹田氏は秦姓で、鵆屋田中氏は源氏であることに引っ掛かりがあるのだ。
「我らは商家であって、商いが本分。欲しければ儲けて買うなり、作らせるなりすれば好い。茶の湯を以て禄を喰むは本分に非ず」
そうは言っても、四郎左衛門は足萎えを理由に御伽衆を辞退しており、四郎右衛門まで御伽衆を断っては秀吉の勘気を再び被りかねない。
四郎右衛門はそれだけを言い残し、奥へと消えた。登喜が、旅装を解いて寛げるよう部屋着を用意したのである。喜兵衛は首を傾げた。
「あれはどういうことやろか」
喜兵衛はそばにいた六郎右衛門に尋ねてみる。
一頻り頸を傾げた紹和は微妙な顔をしたまま「まだ、伯母上のことが尾を引いているんかねぇ」と、宣った。
それはあるまい……と喜兵衛は思う。稲は利休と仲直りするように四郎右衛門に遺言しており、それを受け容れられず、悩んでいたことを知っているからだ。
「伯父上の才を受け継いでいる唯一の御人との自負か」
喜兵衛はそう独り言ちる。この喜兵衛が江戸時代、阿波千家を名乗って千道安の系譜を継いだ茶家の祖となる。
「喜兵衛さま、旦那様がお呼びです」
下女が、喜兵衛を呼びに来た。四郎右衛門が堺に滞在できる日は僅かである。少しでも多くを語りおきたいと、喜兵衛も慌てて奥へと向かうのであった。
(四郎右衛門さまには跡継ぎが居らん。ならば、舅父上父子のことは、よくよく聞いて書き遺して置かねばなるまいて)
喜兵衛は折りをみて四郎右衛門に昔話をせがむ事にしようと決めた。四郎右衛門もそれを嫌がらず、四季折々に語って聞かせることになる。
「曾祖父さまがまだお元気ったの頃のことだが……」
四郎右衛門は昔、祖母から聞いたという曾祖父のことを話し始めた。喜兵衛は反故に走書きで四郎右衛門の話を書き起こしていく。時に文禄三年九月――
この物語は、田中四郎右衛門紹安が渡辺喜兵衛道通に語った千家三代の物語である。
■服題解説
和製漢文風に改題しています。
安とは紹安(道安)のことです。この当時、利休も「休」や「易」と和製漢文の中で略されていたりしますので、紹安の場合は「安」であったかと思われます。
■和歌解説
生まれしも帰らぬものをわが宿に
小松のあるを見るが悲しさ
土佐日記 帰京より
生まれた我が子も亡くなり、この家に帰らないのに、留守の間に我が家に生えたての松があるのを見ることは悲しいことだ
『土佐日記』の帰京にある歌で、帰京した紀貫之を待っていたのは荒廃した自宅でした。管理を頼んでいた隣家の無責任ぶりに落胆するしかありません。あてにならない人情に悲哀を感じながら荒れ果てた庭を見ると、留守の間に生えた小さな松がありました。その姿に幼くして死んだ娘を偲び、生まれたての命とはかない死とをくらべて、悲しみを新たにしたのでしょうね。
■登場人物
田中道安【たなか どうあん】
■配役■伊藤英明
生歿年■天文十五年〜慶長十二年二月十七日
戦国時代から江戸時代初期の茶人。堺千家の主。始め紹安。後に道安。号は、可休斎、不休斎、眠翁、泉南道安老人など。本作では四郎右衛門★。田中宗易の長男。母は宝心妙樹。宝心が没し利休が再婚すると、以後は利休と折り合いが悪くなり若い頃に家を出た。のちに利休と和解するも、義弟・少庵との折り合いは悪く、終生茶会に同席しなかった。秀吉没後、慶長六年、細川三斎に招かれ、茶頭となり、豊前水崎で三百石を拝領。慶長十二年、豊前の地にて死去。
渡辺道通【わたなべ どうつう】
■配役■加瀬亮
生歿年■不詳
本作では永禄六年生とする。利休の妹と渡辺与兵衛の子。喜兵衛のち長左衛門。魚屋立安。阿波千家の祖。天正の初め頃に蜂須賀家政に仕えた渡辺与兵衛が戦死したため、利休が養育した。のち道安の右腕となり、阿波で魚屋を起ち上げる。
田中康隆【たなか やすたか】
生歿年■不詳
本作では永正十三年生。利休の兄で、与一郎。史実では詳しいことは分かっていない。本作においては、千屋を継いだ。分家した利休も千屋を名乗り、利休切腹と道安蟄居により、一人千屋を切り盛りした。慶長七年歿。
■題字解説
赦免帰堺は、四郎右衛門紹安が秀吉の勘気が解けて、赦され、蟄居を免ぜられたことと、それにより堺に帰ったことを意味します。
■改訂■
令和7年12月6日
茶の歴史については、別の形で挿入することにしたので、全面改訂いたしました。




