序服 安赦帰堺
文禄三年 秋――のちに千道安と呼ばれることになる田中四郎右衛門入道紹安は、秀吉の赦免によって堺に帰郷しようとしていた。
安赦されて堺に帰る
生まれしも帰らぬものをわが宿に
小松のあるを見るが悲しさ
文禄三年 秋――
堺の今市町にある千屋の看板が挙げられた商家の前に、一人の男が立っていた。男は懐かしそうに、店構えを眺めている。旅装で上背が六尺を超える男は、武人といわれても不自然ではないが、帯刀しておらず、棍のように長い棒を杖にしていた。それは、飾りも素っ気もなく、山伏の錫杖よりも金剛杖に似る。その姿は僧侶のようでありながら、雰囲気はもっと俗っぽく、眼は穏やかというよりも力強かった。
「貴方さまは……もしや?」
店先へ掃除をしに出てきたのだろう。竹帚を持った使用人が、佇む男を訝し気に様子を伺っていたが、やがて、目を輝かせて声を挙げた。
「間違いない! 四郎右衛門さまじゃ! 旦那さまのお戻りや!」
「これ、茂吉。店先で騒ぐでない」
男は千屋四郎右衛門――田中紹安という堺の豪商で茶人でもある。庵号を道庵、斎号を可休斎といった。茶聖・千利休――堺の豪商・田中宗易の一人息子で、後世に千道安と呼ばれる。四郎右衛門は利休の血を引く唯一の男子であった。
「お帰りをお待ちしておりました」
「長らくであった。皆、息災か?」
「勿論です。みんな、四郎右衛門様のお帰りだぞ」
四郎右衛門に気づいた茂吉が店先から奥に声を掛けた。途端にワラワラと、店の者らが顔を見せはじめる。近くの斗々屋からも人が出てきて、千屋の方に集まって来た。
斗々屋は四郎右衛門の曾祖父・与右衛門の妻の実家である。千屋は与右衛門が岳父左兵衛に支援を受け立ち上げた商家で、祖父・与兵衛から伯父・与一郎に受け継がれていた。利休は千屋の分家であり、その分家を四郎右衛門が受け継いでいる。従弟にあたる和泉国牧野の魚屋喜兵衛――渡辺道通と組んで阿波の塩を商い、讃岐・摂津・飛騨に出店していた。
千屋は利休の実家である。千屋は交易商で、主に印度から木綿や更紗を輸入し、生糸や絹布を輸出していた。
喜兵衛は、蜂須賀阿波守家政に仕えた渡辺与兵衛直と利休の妹の間に生まれた子で、四郎右衛門の従弟にあたる。天正年間に渡辺直が亡くなったため、利休が養育し、四郎右衛門と共に育った故か非常に仲が良かった。
飛騨高山に蟄居していた四郎右衛門は、繋ぎの必要から、喜兵衛に無理を言って千屋の支店を出してもらったのだが、金森家が御用達の塩商人として贔屓にしてくれたため、それ以前とは比べ物にならぬほど稼業は安定した。塩を産さぬ飛騨では塩の確保は貴重であることも理由の一つであろう。加えて法印素玄――金森飛騨入道、諱を長近――は利休の弟子の一人であり、その養嗣子・出雲守可重と孫・左兵衛重近が四郎右衛門に弟子入りしたことも一因であった。
因みに、同年紀州和歌山城主となった桑山修理亮重晴の三子・桑山左近大夫宗仙が同門であり、桑山宗仙は後に片桐石見守貞昌――三寂宗関の師となって、道安の茶統が江戸時代の中心となる繋ぎの役目を果たすが、それはまた別の物語である。
四郎右衛門が千屋で阿波の塩を取り扱い始めたのは、舅父・三好筑前守長慶が亡くなり実家を支えようとする母・伊音と、三好宗家と距離を取り始めた父がすれ違い始めた頃だった。
堺の塩は芸予諸島――即ち安芸国と伊予国の島嶼に覇を唱えた村上水軍に頼りがちであったため、三好氏は独自の確保を狙っていた。四郎右衛門は父とは別に商売をしたくなり、阿波の海塩を取り扱い始めたのである。
十河民部大夫一存の子で、三好宗家を継ぐことになった従兄の三好左京大夫義継が信長公に臣従してから、四郎右衛門はようやく父と和解した。
その後、天下も定まり、平穏な世になると思っていたが、今度は父が切腹させられてしまった。それも、天下人・豊臣秀吉の勘気を被ってである。四郎右衛門も利休と共に秀吉公の茶堂として仕えていたが、連座して蟄居謹慎の身となり、飛騨高山の金森家がその身を預かった。
利休の切腹より三年経った。
妹婿の四郎左衛門――竹田四郎左衛門、庵号を少庵は利休の後妻・宗恩の連子で、能楽師の金春家の庶流で宮王と冠した竹田三郎鑑氏《宮王三入》の子である。四郎左衛門はその間、流寓していた処を蒲生氏郷に匿われ会津若松で蟄居し、麟閣を建てている。
ようやく勘気の解けた秀吉は、四郎右衛門と四郎左衛門を赦した。先に京に入ったのは四郎左衛門で、それを聞いた素玄に請われ、四郎右衛門はようやく重い腰を上げたのだった。
四郎右衛門自身は飛騨高山の隠居暮らしが気に入っていたのだが、妹婿が戻ったのに、利休の嫡子が戻らぬというのも秀吉から再度の勘気を被ることになりかねないと、弟子の金森可重・重近父子にも説得され、致し方なしと京へ向かったに過ぎない。
堺にも既に赦免の話は届いていて、店の者らもいつ四郎右衛門が戻るかと心待ちにしていたそうだ。口々に喜びの声を挙げ、下女が奥に知らせに行ったらしい。出てきた者の中に、従弟の道通の姿もある。道通は和泉国日根郡牧野に住して居るのだが、たまたま、こちらに寄っていたのだろうか。
「|四郎右衛門!」
伯父の田中与一郎康隆も顔を出した。慌てて奥から出てきたのだろう、息を切らしている。横で支えているのは従弟の五郎左衛門で、叔父・与五郎の次子にして三妹・莉玖の夫でもある。その向こうにいるのは六郎左衛門で、叔父・水落与六郎宗恵の子である。
「伯父上、ご無沙汰でございました」
四郎右衛門はその場で深々と頭を下げた。
康隆は利休の実兄であり、利休の死に際して四郎右衛門が連座したため、一時、千屋を預かってくれている。紹和は康隆を輔けて、千屋を切り盛りしていた。
「四郎右衛門さま……」
奥から妻・登喜も出てきた。四郎右衛門の目頭が熱くなる。利休の死から三年もの間、文の遣り取りしかできなかったのだ。ここには、血の繋がらない身内は居ない。あふれる涙を隠すことなく、四郎右衛門は登喜を抱きしめた。
「いつまでも立ったままでもなんですから、中へ」
道通が気を利かせて中へ誘う。気付けば、近所の人々も何事かと顔を出していた。追っ付け、天王寺屋の津田家や薬屋の今井家からも人が来よう。
「中でゆっくりいたしましょう」
四郎右衛門は道通に頷き返し、登喜を支えながら、与一郎へと微笑んで、中へと姿を消した。与一郎は、その後ろ姿を見て「よう似ておる……」と零した。
四郎左衛門に遅れること半月、京に戻った四郎右衛門は、利休の弟子であった古田織部助重然の京屋敷の門を叩いた。秀吉への赦免の御礼を取り次いでもらうためである。古田織部は快諾し、即日謁見の手配を済ませた。当日は所用で同席できぬので、同門の細川越中守忠興が介添えするところまでの段取りをするほどの気配りである。
「古織殿には、感謝の言葉もございませぬ」
深々と頭を下げる四郎右衛門に古田織部は苦笑いを浮かべていた。
「道庵殿、おやめ下され。某、利休さまのことは見送ることしかできませなんだ……せめてもの償いでござるよ」
淋しげに織部が笑う。四郎右衛門には、父が居ないことを深く哀しんでいるのが感じられた。
謁見すれば父を殺した男としての憎しみを秀吉に感じるかと思っていた四郎右衛門であったが、実際に目通りが叶うと、そんなことは露程も感じることはなかった。
(小さくなられた……)
実際に秀吉は小さくなっていた訳ではない。巨きくみせていた覇気が萎んでおり、小兵のただの老人がそこにいた。秀吉が利休を懐かしんで、昔話に花が咲く。まるで自分が処刑したことを忘れているかのようだった。
「紹安よ、再び余に仕えい」
「太閤さま、その儀は何卒、御容赦願いたく」
四郎右衛門は平伏して懇願した。しかし、秀吉は四郎右衛門の話など聞かぬ。スッと立ち上がるとスタスタと歩き出した。呆気に取られて微動だにせぬ四郎右衛門を見て
「紹安、付いてくるがよい」
と言って再び歩き始める。
四郎右衛門は傍らに控えていた三斎を振り返ると、大きく肯き返され、戸惑いつつも、後を追った。
暫くすると、秀吉は狭い座敷へと入った。大広間などの広い場所で、華美な席を好んていた秀吉が、侘びた座敷――しかも、利休が好んだ二畳敷に、である。
四郎右衛門も腹を決め、中に入ると、秀吉は客座に坐っている。四郎右衛門に茶を点てよということであった。致し方なしと、勝手口へと下がり、水屋ヘ道具を取りに行く。水屋には整然と並べられた道具があり、茶堂らが滞りなく仕えていることが分かった。そこに並ぶ道具はかつての秀吉が好んだ綺羅びやかな名物ではなく、侘びた珠光好や利休好の道具であった。目を引いた黒茶盌は剽げた器で、噂に聞く古織――古田織部の好みであろう。四郎右衛門はこの織部黒で秀吉に茶を点てようと決めた。
「利休によう似とる……」
点前を見ながら、秀吉はそう呟いて、大きく頷いた。四郎右衛門は黙ったまま、ひたすらに茶筅を揮う。旨い茶を煉ること以外、頭の中から追い出すのだ。無我の境地とは「何も考えないこと」ではなく、ただ一つのことに集中することである。
その座敷にいたのは天下人・豊臣秀吉《よし》ではなく、死出の旅に怯えて、残される子のために忙しなく動き回ろうとする老人だった。
「利休の遺品な……あれを、そちに返そう」
「……あれは太閤さまに献上した物でございます」
四郎右衛門は自分の胸を指して首を振る。
「そうか。……ならば、そちの義弟に息子がおったであろう」
「猪之吉のことでございますか?」
猪之吉とは四郎左衛門の長男で、喝食となっている修理のことで、猪之吉は喝食になる前の名前だ。のちに千宗旦を名乗る現在の千家の祖である。
「昔、利休があれを小坊主に使っておってな、愛らしゅうて小姓にしようとしたら、利休は喝食に入れてしもうての。そちが受け取らぬなら、あれに取らせよう」
四郎右衛門は深々と手をついて平伏した。
この辺りの感覚が、武家と商家の違いなのかもしれない。四郎右衛門にとって大事なのは千家の家督と、独立独歩で確立できる茶風だった。父の猿真似であっては、父の教えを実現できぬ。父の手を守り、修めてのち、旧弊を破り、父の教えから離れねばならなかった。何より利休の教えは「他人と違うことをせよ」である。その教えを継ぐということは利休と同じことをしてはならないということであり、利休は茶風を継いで欲しいとは考えていなかった。
それは、利休と違う茶の道を歩むということだった。利休の道具を受け継げば、他人は利休と同じ道具組みや茶風を心の何処かで求めるであろう。それでは利休の猿真似になり、四郎右衛門は何処に在るのか。滅私の思想など利休にも四郎右衛門にもありはしなかった。
それと、四郎左衛門は足萎えである。幼い頃に戦に巻き込まれて負った怪我が治らず、足を引き摺っていた。仲が悪く反目している相手とはいえ、一応妹婿でもあり、義弟である。道具を継げば、それなりに暮らしていけようとも考えた。堺の本家とは違う茶家としての千家を立てればよい。
四郎右衛門は理想に殉じる人ではなく、政商となるのも嫌であった。しかし、茶風とは生きていてこそ体現できるものであり、先ず生きていなければならない。権力争いに巻き込まれるのは御免だが、力がなければ面倒事が逃れることは出来なかった。
「茶堂として仕えるようにな。利休の茶は、そちにしか点てられん」
秀吉とて四郎右衛門と利休の茶風が違うことは分かる。しかし、それは美味い茶をどう出すかの道筋が違うだけで、父子は同じ茶の美味さに辿り着いていると見た。それこそが秀吉にとって利休の茶である。茶の本義は美味いことであると、秀吉は秀吉なりに茶を極めていた。
「かしこまりました」
四郎右衛門は観念して、水屋へと下がった。
そして、着の身着のままであった四郎右衛門に、秀吉は御伽衆として邸宅を与え、堺に戻る許しを与えた。こうして赦免されただけでなく、御伽衆となって四郎右衛門は戻ってきたのである。
「なんと……」
与一郎は絶句している。四郎右衛門としては登喜に秀吉より賜った京屋敷に来てもらい、千屋は引き続き与一郎と喜兵衛に任せ、ゆくゆくは紹二に譲ることにしたいと四郎右衛門は言う。四郎左衛門には秀吉から利休の聚楽第屋敷が与えられた。
「四郎右衛門さまはそれで宜しいので?」
喜兵衛が訝しんだ顔で、利休の遺品が連子の子に受け継がれることを問い質してきた。思うところは分かる。宮王竹田氏は秦姓で、千屋田中氏は源氏であることに引っ掛かりがあるのだ。
「我らは商家であって、商いが本分。欲しければ儲けて買うなり、作らせるなりすれば好い。茶の湯を以て禄を喰むは本分に非ず」
そうは言っても、御伽衆として仕えるということは禄を喰む。聞けば四郎左衛門は御伽衆を辞退していた。
四郎右衛門はそれだけを言い残し、奥へと消えた。登喜が、旅装を解いて寛げるよう部屋着を用意したのである。喜兵衛は首を傾げた。
「あれはどういうことやろか」
喜兵衛はそばにいた六郎左衛門に尋ねてみる。
一頻り頸を傾げた紹和は微妙な顔をしたまま「まだ、伯母上のことが尾を引いているんかねぇ」と、宣った。
それはあるまい……と喜兵衛は思う。稲は利休と仲直りするように四郎右衛門に遺言しており、それを受け容れられず、悩んでいたことを知っているからだ。
「伯父上の才を受け継いでいる唯一の御人との自負か」
喜兵衛はそう独り言ちる。この喜兵衛が江戸時代、阿波千家を名乗って千道安の系譜を継いだ茶家の祖となる。
「喜兵衛さま、旦那様がお呼びです」
下女が、喜兵衛を呼びに来た。四郎右衛門が堺に滞在できる日は僅かである。少しでも多くを語りおきたいと、喜兵衛も慌てて奥へと向かうのであった。
(四郎右衛門さまには跡継ぎが居らん。ならば、舅父上との父子のことは、よくよく聞いて書き遺して置かねばなるまいて)
喜兵衛は折りをみて四郎右衛門に昔話をせがむ事にしようと決めた。四郎右衛門もそれを嫌がらず、四季折々に語って聞かせることになる。
「茶が渡来したのは、平家全盛の折でな……」
蜀地方の喫茶法が流行したのは、宋の三代皇帝真宗の皇后・劉娥――益州華陽県の出身――の点てた茶を真宗や四代皇帝・仁宗が好んだことに始まる。これを日本に伝えたのは臨済宗の開祖・葉上房栄西であった。
天台宗の僧であった栄西は、形骸化し貴族政争の具と堕落した天台宗を立て直すべく、平家の後援で仁安三年四月に宋に留学し、九月に帰国した。
文治三年、再び入宋した栄西は仏法辿流のため印度渡航を願い出るが許可されず、天台山万年寺の虚庵懐敞に師事。 建久二年、懐敞より臨済宗黄龍派の嗣法の印可を受け、「明菴」の道号を授かり、帰国。その際、宋で入手した茶の木の種を持ち帰って肥前霊仙寺にて栽培を始め、日本の貴族だけでなく武士や庶民にも茶を飲む習慣が広まるきっかけを作った。宋の喫茶は日本の様に禅宗に根付いたものではなく、広く茶芸として親しまれている。
承元五年、栄西は『喫茶養生記』を著すと、建保二年、三代将軍実朝が二日酔いで苦しんでいる時に、茶の効用を説いて茶をすすめ、『喫茶養生記』を献上した。
栄西から茶の種を譲り受けた明慧房高弁は、栂尾の高山寺で茶を育て、茶の栽培を行った。鎌倉後期になると、禅寺が全国に伝播し、各地で茶樹の栽培がおこなわれるようになる。このことが日本における茶と禅の密接な結びつきの端緒であった。
その品質には産地間で大きな差があり、最高級とされたのは京都郊外の栂尾で、特に「本茶」と呼ばれた。
栂尾以外の茶は「非茶」とされたが、禅寺の裏山の「山茶」、洛外の茶園の「京茶」、他には「宇治茶」、「八女茶」など産地茶は非茶の中でも上物とされた。
栄西・明恵らが、求道の精神の助けに茶を用いたのに対し、真言律宗の思円房叡尊・良観房忍性らは慈善救済の方便として用い、茶を庶民に振る舞ったことで、結果として喫茶が広まることになる。
その頃、宋で「闘水」から発展した「闘茶」が輸入され、武家を中心に流行した。これは、歌合せや絵合せなどの社交的遊戯が素地となり定着する。闘茶の後は宴会となり、武家から庶民にも爆発的に広がった。鎌倉末期から南北朝・室町初期に闘茶は最盛期を迎え、幕府は度々闘茶禁制令を出すことになる。
闘茶も流行によって複雑化したが、最も広まったのは「四種十服茶」であった。これは、四種類の茶を十服点てて飲み比べ、本茶を言い当てた数を競う。加えて、大名の間で、支那渡来の道具や鎌倉以来の伝来品――唐物を蒐集することが流行し、盛大な闘茶会や宴会が催された。佐々木道誉などの「婆沙羅大名」らによって莫大な賞金賞品を賭けた「百服茶」なども行われている。これが整理され、現在の千家で行われる七事式の一つ「茶カフキ」となった。
闘茶全盛の最中、応永元年に足利義満が子・義持に将軍職を譲ると、洛外の北山に別邸を建築し幽棲した。これによって北山文化が興り、寝殿造りの邸宅から書院造りのある邸宅が増えていく。そして、徐々に闘茶会ではない、茶会が開かれるようになった。
また、この時期、宇治茶の品質が向上し、栂尾茶と並んで本茶に数えられるようになり、献上された宇治茶を義満が褒め、「無上」という銘を贈っている。
義持の嗣子・五代義量が亡くなると、義持は後嗣を立てず、そのまま歿してしまい、籤引きで青蓮院門跡の門主であった義満の子・義円が指名された。しかし、幼少であったため、元服後に将軍となることとなる。この間、将軍職は空位となり、管領・畠山左衛門督満家が権力を掌握した。
六代将軍となった義教は、軍制改革や将軍親政を行い、幕府の威信回復に努める。悪御所と綽名されるほど、苛烈で厳しい処断を行ったと言われるが、茶湯に興味を示し、同朋衆に茶の湯を仕切らせた。これは、茶の湯を幕府の権威付に利用した最初の例である。身分や信頼に応じて席次を決め、拝見などの可否を席次によるなど、現在の茶の湯における規則の基を定めた。これが茶湯御政道の始まりである。
また、管領や守護大名の力を削ぐために家督継承に積極介入し、大名家の内訌を誘発してしまった。このことがのちの応仁の乱の遠因となる。
嘉吉の変で義教が殺害されると九歳の嫡子・義勝が七代将軍となったが、僅か八ヶ月で病死してしまった。そこで義勝同母弟の義政を管領・畠山左衛門督持国らが後見することになり、義政は八歳で八代将軍となる。
足利義政といえば、暗君の代名詞のように言われるが、元々暗愚だった訳ではなかった。義政の周囲は政治を恣にする者たちの対立があり、思うような政治を行えず、関心を失っていったのだ。その闇に閉ざされた義政の心を救ったのが茶の湯である。義満に仕えた同朋衆・毎阿弥の子である能阿弥と義政によって茶の湯は確立した。
義政は義満の北山鹿苑院に対して東山慈照院を建てる。そして、此処を拠点に東山文化を啓いていった。東山文化は北山文化の絢爛豪華な様式に対し、義政が万葉集を愛したことからも分かる通り、枯淡閑寂をその根柢に擁する。まだ漢作唐物中心の世界ではあったが、侘数寄の蕾が付いたと言えた。
「曾祖父さまがまだお元気だったの頃のことだが……」
四郎右衛門門は一頻り茶の歴史を語り終えると、曾祖父のことを話し始めた。道通は反故に走書きで四郎右衛門門の話を書き起こしていく。
この物語は、田中四郎右衛門紹安が渡辺喜兵衛道通に語った千家三代の物語である。
■服題解説
和製漢文風に改題しています。
安とは紹安(道安)のことです。この当時、利休も「休」や「易」と和製漢文の中で略されていたりしますので、紹安の場合は「安」であったかと思われます。
■和歌解説
生まれしも帰らぬものをわが宿に
小松のあるを見るが悲しさ
土佐日記 帰京より
生まれた我が子も亡くなり、この家に帰らないのに、留守の間に我が家に生えたての松があるのを見ることは悲しいことだ
『土佐日記』の帰京にある歌で、帰京した紀貫之を待っていたのは荒廃した自宅でした。管理を頼んでいた隣家の無責任ぶりに落胆するしかありません。あてにならない人情に悲哀を感じながら荒れ果てた庭を見ると、留守の間に生えた小さな松がありました。その姿に幼くして死んだ娘を偲び、生まれたての命とはかない死とをくらべて、悲しみを新たにしたのでしょうね。
■登場人物
田中道安【たなか どうあん】
■配役■伊藤英明
生歿年■天文十五年〜慶長十二年二月十七日
戦国時代から江戸時代初期の茶人。堺千家の主。始め紹安。後に道安。号は、可休斎、不休斎、眠翁、泉南道安老人など。本作では四郎右衛門★。田中宗易の長男。母は宝心妙樹。宝心が没し利休が再婚すると、以後は利休と折り合いが悪くなり若い頃に家を出た。のちに利休と和解するも、義弟・少庵との折り合いは悪く、終生茶会に同席しなかった。秀吉没後、慶長六年、細川三斎に招かれ、茶頭となり、豊前水崎で三百石を拝領。慶長十二年、豊前の地にて死去。
渡辺道通【わたなべ どうつう】
■配役■加瀬亮
生歿年■不詳
本作では永禄六年生とする。利休の妹と渡辺与兵衛の子。喜兵衛のち長左衛門。魚屋立安。阿波千家の祖。天正の初め頃に蜂須賀家政に仕えた渡辺与兵衛が戦死したため、利休が養育した。のち道安の右腕となり、阿波で魚屋を起ち上げる。
田中康隆【たなか やすたか】
生歿年■不詳
本作では永正十三年生。利休の兄で、与一郎。史実では詳しいことは分かっていない。本作においては、千屋を継いだ。分家した利休も千屋を名乗り、利休切腹と道安蟄居により、一人千屋を切り盛りした。慶長七年歿。
■題字解説
赦免帰堺は、四郎右衛門紹安が秀吉の勘気が解けて、赦され、蟄居を免ぜられたことと、それにより堺に帰ったことを意味します。