第3話 婚約破棄の策
「はぁはぁはぁはぁ」
旦那さまは肩で息をしたかと思うと、頭を抑えてイスにどっかりと座り込む。ウオルム様はすまし顔で指を鳴らすと、廊下から水挿しを持った執事が現れた。ウオルム様はそれを受け取り、歩きながら器に水を挿し、旦那さまへとそれを渡した。
旦那さまは一息で水を飲む。
「ウオルム」
「はい」
「私はライラの幸せを考えて、王子殿下との婚約を結んだのだ」
「御意にございます」
「ライラを見よ」
「はい」
ウオルム様は左足を軸に、斜め45度回転し、ライラの方へと顔を向ける。
「どうだ。ライラは幸せか?」
「いえ。悲しみに暮れて泣いておられます。とても気の毒です」
「左様か。親の心子知らずとはこのことだ。将来餓えることもなく、国の中で二番目の地位になり、国民から愛される妃への布石を置いてやったというのに、下僕と死ぬことを選ぶとはなんとも親不孝ものだ」
「旦那さまの心痛、お察し致します」
「ワシはこの二人に罰を与えてやりたい。そうでなくては腹の虫がおさまらん」
「御意にございます」
私はハッとした。旦那さまは私だけに留まらず、ライラにまで罰をお与えになろうとしてらっしゃる。痛い体を引きずって、ライラの前に体を置いた。
「にいや!」
「旦那さま、いけません。ライラは……お嬢さまはなにも悪くない。罰は私だけにお与え下さい。私めを殺して下さい!」
ライラもライラで、私に守るように覆い被さり旦那さまへと叫ぶ。私の背中の傷のせいでドレスはみるみる血に濡れて赤くなってしまった。
「お父様! これ以上にいやを傷付けるなら私は舌を噛みます!」
「いいえ旦那さま! 私だけに罰を!」
旦那さまはイスに腰を下ろしたまま大きく舌打ちをする。
「ウオルム。娘はまだ子どもだ。まだ13年しか生きておらぬ」
「御意にございます」
「それが愛だの恋だの分かると思うか?」
「ライラお嬢さまは聡明でございます。将来王妃という地位を蹴り、農場の三男という不安定なものを選んだのです。お嬢さまにとってはそちらが価値があるのでしょう」
「ワシには分からん」
「私もです」
「だがこのまま舌を噛まれては、ワシは死ぬまで苦しむことになるだろう」
「御意にございます。しかし私は全力で苦しまないようサポート致します」
旦那さまはクスリと笑うがウオルム様はいつものように鼻をツンと尖らせて直立不動のままだった。
──空気が変わった。
旦那さまの声がライラへと優しく通ってゆく。
いつもの優しい旦那さまの声で。
「ライラよ。お前は苦しまなくてはならん」
「……はい」
「今日は苦しむことになると言ったね。ルミナスへの罰を止めたらもっと苦しむことになると」
「……はい」
「これから3年。さぁ大変だ」
その言葉をきっかけに、ウオルム様は指を鳴らすと部屋のドアが全開となる。そこには屋敷中の召使いが立ち並び、広いこの部屋へと入ってきた。
「よいか皆のもの。私はライラに勘当を言い渡す。ライラは庶民に落ちねばならん。しかしそれは3年後だ。王子殿下は3年後に16歳で成人なさる。それまでに王子殿下より婚約破棄して貰わねばならん。それにはライラは国民に恨まれるような悪女にならねばならん。国を揺るがすような大悪女。こんなものに王妃になってもらってはダメだと全ての国民が思うような」
私とライラはなにが起こったのか分からずに呆然と話を聞いていた。
旦那さまは侍女を数人呼んで、これは性格悪いぞと思われるような所業を考えてライラにレッスンするようにと命じた。
仕立物も見た目どぎつい悪を連想させるようなカラーにするようにと命じた。
私にもなにか商売ができるように勉強させてくれる先生と、謝罪や土下座のエキスパートな先生を家庭教師として付けると言ってきた。
ライラは週に一度、庶民と同じ食事。
そして食事や洗濯のレッスン。
それでもなにがなんだか分からなかった。
「ルミナス。お前への鞭打ちは当然罰もある。私からライラを奪おうとしたのだからな。だが先ほど言ったようにライラには大悪女になって貰わなくてはならない。そうでなくては王子殿下より婚約破棄してもらえんからな。それまでライラは公共の場で王子殿下を愛する振りをするのだ」
「お父様。意味が分かりません。なぜ婚約破棄ですの?」
「だからお前は子どもだというのだ。こちらから婚約破棄することもできる。しかしそれでは公爵令嬢のまま。身分的に下男と結婚なんてできん」
「え?」
私とライラは顔を見合わせた。
「愛する王子殿下に向こうから婚約破棄されたら、哀しくて自害するか家出するだろ? 世論もそれが当然だと思うだろう。そんな中、実は公爵令嬢ライラ様が城下で幸せな結婚をしてるなんて誰も思わんだろう」
「そ、それでは──」
「婚約破棄された暁には、屋敷を出て好きなところで二人で暮らすがよい」
「えええええ!?」
私たちが驚く姿を見て、旦那さまとウオルム様は顔を見合わせ微笑み合った後、またこちらへ顔を向けた。
「ワシは必要ないと言ったのだが、ウオルムがどうしても二人の忍耐力を試した後でも遅くないと言ったのでな、あらん限り鞭打ちさせてもらったよ。まあ私怨ももちろん入った。そりゃあ娘を殺そうとしたのだからな。当たり前だ。この世の中には死ぬより辛いことがたくさんあるぞ。だがな、簡単に命を捨てるな。道を開くのだ。そこに生きる道があるだろうからな」
私たちは、その言葉に息を飲んだ。だが二人で声を合わせて返事をした。
「はいっ!」
旦那さまはそれに笑いながらうなずく。そして、立ち並ぶ使用人たちへと号令した。
「よいか。これはライラの幸せな結婚への大切な仕事だ。諸君たちは決して口外しないよう気を付けてくれたまえ。ランドン家の大事な仕事。ライラは悪役を演ずる令嬢となり、王子殿下に嫌われる。ライラがこの家を出るまでの仕事だ。よいな!」
「「「「「はい!」」」」」
みんなが直立不動の姿勢で返事をすると、私たちは嬉しくなった。抱き合いたかったが、私が後ろ手を縛られていたので、彼女が私を胸の中に抱いてくれた。それを見てウオルム様は咳払いをする。旦那さまの手前もあるので、すぐに離れた。
「よかったわ! ああ、にいや……」
「うん、そうだね。ライ……お嬢さま」
「コホン。これライラや」
「はい。お父様」
「これからルミナスをにいやと呼んではいけないよ。将来は夫になるのだろう? にいやでは下男のままだ。ちゃんと名前で呼びなさい。それが夫に対する礼儀だ」
「あ、はい。あの……ルミナス」
「う、うん」
「うふふ」
お屋敷に来てから8年。その間ずっと呼ばれ続けてきた「にいや」という愛称は変わった。顔を赤らめながら言われる呼び捨てに私も顔を赤らめたのだ。
それから3年、彼女は人前では私の名前を怒声のままに呼んだ。
しかしその本当の意味は夫になる男の名前を呼ぶこと。彼女は決してにいやと呼ばなくなった。