第2話 死ぬより辛い
激痛が全身を走る。このムチで何度も叩かれたらそのまま死んでしまうかもしれない。身は切れ、血が流れる。旦那様は息荒く叩くことを中断した。
「止めて! お父様!」
部屋の影から出てきたのはライラだった。ライラは血が流れる私の背中に覆いかぶさって泣きながら叫んだ。
「ライラ、どきなさい!」
「いいえ、どきません。にいやを叩くなら私も叩いて!」
「本当かライラ。本当にそれでいいのだな」
ライラの体が激しく揺れる。驚いているのだろう。旦那様の怒りが分かる。今の旦那様は憤怒の神と同じだ。
たとえ娘でも許さない。許されない。
このままムチで旦那様は私を打ち殺すのかもしれない。
「……いいえ、よくはないです」
ライラは私から離れた。離れてしまった。
でもそれでいいんだよライラ。私の代わりにキミが打ち据えられたって私は何も嬉しいことなどない。
むしろ悲しい。私はいいんだよライラ。君のために死にたいと思っていたんだもの。あの時から。
あの時、旦那さまは君を呼んだよね。下僕の私も君について旦那さまのこの部屋に一緒に来た。そこで伝えられた、君と王子殿下の婚約。
私はおめでとうございますというもののショックだった。すでに君を愛してしまっていたと気づいたから。
君と部屋に帰ってきて、二人ともぎこちない会話を二、三したことを憶えてる。
会話が止まって二人で見つめ合い、同時に泣いてしまったあの時。
「愛してる」と最初に言ったのはどちらだったか。互いに食い込むように抱き合って夢中だったから忘れてしまった。ずっと一緒にいたいと初めてのキスをしたよね。
あの時からずっと。いやその前からなのかも知れない。今生では結ばれない恋ならば、来世を誓って心中する計画を進めた。
君はその日を待ち望んでいた。
あの決行の夜にしょぼくれたロウソクを立てて私たちは二人きりで結婚式をした。そのあとお屋敷を抜け出したんだ。
計画通り行っていれば、今頃二人で楽園の門にたどり着いていただろうに。
旦那様のムチを握った手がまた振り上がる。ライラは両目を固くつぶった。
苦痛の一撃。
旦那様の罰は10打、20打と続いた。
私の背中は腫れ上がり、皮は破けた。だが苦痛で叫んだりしなかった。奥歯をきつく噛み締めてこのまま死んでしまうことを望んだ。
「旦那様」
ドアを開けたのは家宰のウオルム様だった。初老で前頭部に髪はない。残った髪も全て白いがそれらはぴっちりと後ろに向かって櫛で揃えられている。燕尾服に身を包み、後ろ手を組みながら旦那さまへと近付いた。
旦那様はウオルム様にムチを預けた。自分が疲れたから、ウオルム様に叩かせるのかもしれない。
「ウオルム。こやつしぶといぞ」
「まことにもって」
「こんなものが、大事な娘を拐かしたかと思うと腹の虫が治まらん」
「そこはご主人さまの思い通りに」
旦那さまはゆっくりとライラの方へと顔を向ける。ライラは震えながら右を見て目を逸らした。それに旦那さまはため息をつく。
「ライラ。こんなもののために死のうとしたのか。下賤な小さな農場の三男。領地を巡察してる際に轍にはまった馬車の車輪を馬をなだめて轡をひいて脱出させた、ウンガルの片田舎メゾで産まれた賢い小倅。役に立つと連れて来て8年。知らぬ間に恩と役目を忘れて王子殿下の婚約者である娘と心中しようとするとは!」
旦那さまは声を張り上げる。しかし私は涙を流した。あの時のことを覚えていてくださった旦那さまを裏切ってしまった。しかしライラを愛する気持ちは止められなかった。
「旦那さま。私は不遜にもお嬢さまを愛してしまいました。旦那さまを裏切ってしまいました。お嬢さまは私なぞ愛さずに王子殿下の元へ行けば国家の母となれたのに。私のせいでございます。私がこの家にこなければ。あの時、馬車を引かなければ、こんなことにならなかった! どうかこの私をご成敗下さい!」
「にいや! いけないわ! にいやがいなくなったら、私はとても生きてはいけない!」
ライラは駈け寄って私の体にしがみつく。旦那さまはそんなライラを睨みつけ叫んだ。
「ライラ。まだそんな情をもっているのか。だからお前は子どもだというんだ。これからつらいことが起きてもなににもたえられん」
「で、でも。せめて背中の血を拭わせて……!」
私は力なくライラを肩で押す。彼女は踏ん張りがきかずに床に倒れ込んでしまった。そんな彼女へ微笑みを送った。
「いいんだライラ。君はこんな辛いものを見るべきじゃない。できれば部屋から出て行って欲しい。私がいなくなったら自分の幸せだけを考えるんだ」
旦那さまは「ライラ」と呼んだことに激高し、ウオルム様の手から鞭を奪い取って、私の頬を叩き付ける。ライラの叫び声が部屋に響く。私は叩かれた反動で床に倒れた。