百花 ②
どれだけの時間走っていただろう。息が苦しい。足が痛い。汗が全身から噴き出すようだ。でも、その全てが心地良かった。
「いや~、今日もよく逃げたな~」
そう言って、少年は晴れやかに笑う。きっとボクも、それを見て笑っていただろう。胸の奥でずっとくすぶっていた嫌な気持ちが、この時だけはどこかに吹き飛んでいた。
「それで、お嬢ちゃんは大丈夫?」
「お嬢ちゃんって、ボクは来年高校生になるお姉さんです。身長だってそんなに低くないのに、どこ見てボクを子ども扱いしたです?」
「む……雰囲気?」
「セクハラです」
少年と話をするのは、本当に楽しかった。こうやって誰かと話をするなんて、半年ぶりだ。
「来年高校ってことは、同い年だね。志望校は?」
「こ、ここの近所です」
急なことに、ボクも咄嗟に応えてしまった。それはきっと、ボクの願望だったんだと思う。
「じゃあ、たぶん一緒のところだ。それじゃ、行こうか」
「え?」
少年は、ボクの手を取って再び歩き出した。住宅地を抜け、商店街を通り、一つの学校にたどり着いた。学校の校門は施錠され、校内には誰もいないようで、静まり返っている。
その校門を、少年はよじ登り始めた。
「な、何してるです?」
「いや、お詫びに良い物見せてやろうと思って」
少年は、校門の頂上でボクに手を差し伸べる。少し迷って、ボクは彼の手を掴んだ。
「確かこっちだ」
少年に促されるまま、ボクは彼の後ろをついて校庭を歩いて行く。校舎の周りをぐるりと回って、彼は立ち止まった。
「あっちゃ~。まだ早かったか」
彼がそう言って見上げたのは、大きな桜の木だった。葉も生えていない。まだ蕾もついていない。どこも見るところの無い桜の木が、ボクには凄く美しく見えた。
「え、あれ? ごめん、ここは早く咲いて長持ちだって聞いたんだけど……」
少年がボクを見て慌てだす。どうしたのかと思っていたが、すぐにその理由に気が付いた。
ボクは、泣いていた。
この時の気持ちはわからない。悲しかったのか、辛かったのか、それとも、嬉しかったのか。
「俺が悪かったから、もう泣くなよ」
そう言って、少年は……九十九クンはボクの涙をそっと拭ってくれた。
このことがあったから、ということではない。ただ、あの桜の木なら利用できる。そう思って、ボクは半田高校に入学することにした。
幸い、術式の組み込みも上手くいった。この年の春から、校舎裏に足を運んだ人間から、ほんの少しずつ生命力を集め始めることができた。
これで、千花の命は繋ぎ止められる。
それから、一年が過ぎた。
「こんなちまちました量じゃ、いつまでたっても炎神が動かせねえよ。やる気がねえなら、こいつの命を使っちまうぞ」
それは、ボクたちにとっての死刑宣告だった。ただ千花の命を繋ぎ止めるだけの量では、炎の化け物を動かすことができない。男はそれに苛立って、強硬手段に出ようとしている。
「ま、待って欲しいです。必要な量を言ってくれれば、ちゃんと集めてくるです」
「ざっと、人間の生命力20人分だな。そうすれば、町の一つも浄化できるだろうさ」
一年間で集められた生命力は、10人にも満たなかった。それを、この男は一か月で20人分の生命力を集めるようにとボクに告げた。
生命力を吸い上げる量を増やさなければ、一か月で20人分の生命力を集めるのは不可能だ。最悪、本当に人を殺してでも集めなければいけなくなってしまう。
春休み中に術式を変更して、新学期からは大事にならない限界ギリギリまで生命力を吸い上げていかなくてはならない。そう思って桜の幹に触れた瞬間、違和感に気が付いた。
「術式が、妨害されてるです?」
何者かの手によって、生命力が吸い上げられないようになっていた。
焦りが募った瞬間、桜の木から大蛇の魔獣が現れた。こんなもの、術式を設置した時にはいなかった。これは、術式の妨害と、一般人が近づきにくくなることを目的に、魔石でここに召喚されている。これがいる以上、生命力を集めることができない。
どうにか魔獣を倒そうと試みたが、巨大な体躯に再生能力の高さから、ボク一人では倒すことはできなかった。
こうなれば、正規のワーカーたちに討伐してもらうしかない。幸い、春休み中に『世界樹』の構成員が問題を起こしたせいで、呪術に対して警戒されている。ここで定期的に呪術を使用していれば、ワーカーが派遣されてくるだろう。
春休み中に、桜の木の下で女子生徒が倒れていたという噂が、校内で流行っていた。どうやら、彼女たちは意識不明で病院に入院中らしい。おそらく、大蛇に襲われたんだろう。首筋に牙が付きたてられた跡があったらしい。
事件として取り上げてくれれば、ワーカーが調査に来てくれるかもしれなかったのに、あろうことか学校側は事件であることを隠し、極力校舎裏へ立ち入らないようにと通達するだけに止まった。おかげで、桜の木にやってくる生徒まで減ってしまった。これでは、大蛇が倒された後も、生徒たちが集まることは無くなってしまう。
新学期が始まって三日目。ようやく派遣されてきたワーカーは、九十九クンたちだった。春休み中に、前ハローワーク所長、笹田に襲われ、呪術によって合成された魔犬を討伐したという情報は得ていたが、まさか彼らが担当になるとは思わなかった。
しかし、彼らは桜の木に魔獣が潜んでいることを知らなかった。だから、ボクは九十九クンを連れ出して、魔獣の存在を知らせた。彼らに少しでも早く、討伐してもらうために。
「百花と一緒にどこへでも逃げてやるよ」
あの時九十九クンが言ってくれた言葉を聞いて、全てを打ち明けたい気持ちが沸いてきた。彼らの力を借りて、千花と一緒にあの男から逃げ出したい。だけど、九十九クンたちをこれ以上の厄介事には巻き込みたくない。大蛇を倒してもらうのだって、申し訳ないと思っているのに。
その日の夜に、彼らは魔獣を討伐してくれた。それも、桜の木周辺に巨大なクレーターを大量に作って。ボクはすぐに呪術の術式を組み立てて、クレーターの噂を学校中に広めた。これで生徒たちから生命力を集めれば、人間20人分の生命力などすぐに集められるだろう。
しかし、思ったようにはいかなかった。
術式は起動したが、生命力を吸い上げる速度が遅すぎた。そのせいで、少し体調不良を感じた生徒たちは、次々と教室へ帰ってしまった。これはまずい。集団で体調不良を訴える者が出たら、またこの桜の木が調査される。ボクの存在もばれるかもしれない。
だから、不足した生命力を、ボクの生命力で補った。
後は、満月の夜に活性化した桜の木から、生命力を回収すれば終わりだ。
これで、千花が殺されなくて済む。
でも、これだけの騒ぎを起こしたんだ。もうこれ以上、この学校にはいられない。本気で捜査が始まれば、いずれ足がついてしまう。
たった一年であったが、普通の高校生活は、九十九クンたちと過ごせた日々は楽しかった。
この思い出があれば、きっとこれから先もやっていける。
そう思った時に、なぜか急に涙が止まらなくなった。ボロボロと地を濡らすそれは、ボクの意思など関係無く落ち続ける。声が漏れるようになった時には、どれだけ泣いていただろうか。
気が付いた時には、彼を探していた。
「九十九クン、ボクを……ボクたちを……助けてぇ」
彼に、助けを求めてしまった。




