逃走と涙
洞穴にたどり着くと、中からは異様な気配と共に、深く気味の悪い呻き声が聞こえてくる。
どう考えても近づきたくない!中に入りたくない!俺の生存本能が逃げろと警鐘を鳴らしているぞ!
だが、再度サーチを使用しても、間違えなくこの中に十六夜がいるようなので、様子を見に行かない訳にはいかないだろう。
「澪、何かあったらお願い」
「大丈夫、九十九は絶対守る」
「十六夜がやばそうなら、あいつを優先してやって?」
「?」
あれ?なんでそんなきょとんとした顔?
「澪?」
「自分以外を優先するなんて、珍しい」
う~ん。澪の中での俺は、どれだけ人でなしになっているのだろうか?さすがに怪我でもしていれば、心配くらいはするからね?
「ところで、澪は中の奴倒せる?」
「たぶん、一人じゃ無理」
「なら、どうにか逃げるしかないな」
洞穴の前に立った瞬間から、冗談ではなく危険を感じていたのだ。もう何年も澪によって刻み付けられた、死の恐怖。それがこの中からは色濃く感じられた。
いきなり突入するのは危険だと思い、俺はもう一度サーチを使用する。洞穴の中の様子を把握するためだ。
「洞穴の一番奥に十六夜がいる。その少し手前に魔獣がいるな。奇襲でズバッといけそう?」
「やってみる」
「もし澪で無理なら、俺がスタンで足を止めるから。その隙に十六夜を回収して離脱。十六夜が魔獣を倒せそうだったら、加勢して倒しちゃおうか」
「わかった」
そう言ってみたが、おそらく十六夜が善戦しているということはないだろう。中から漂ってくる死の恐怖は、そう思えないほどに圧倒的なのだ。
「じゃ、行くぞ!」
自分を奮い立たせて中へ突入する。突入後まもなく、死の恐怖へと接敵する。
魔獣特有の禍々しさがある漆黒の毛皮。天井ギリギリまではある巨大な体躯。全身から力を奪っていきそうなほどに恐ろしい咆哮。
巨大な熊の魔獣が、そこにいた。
後ろから見ても逃げたしたくなる雰囲気に、十六夜は良く一人で立ち向かえたと思う。
「桜観斬月流剣術……月穿」
澪は背後から首筋に強力な突きを放つ。刃は突き刺さるかに見えたが、分厚い毛皮に弾き飛ばされてしまう。
「九十九、無理」
魔犬の首を容易く切り飛ばすことができる澪の刃が通用しない。澪が無理だと言うのなら、これ以上の攻撃は無意味だ。
「十六夜、どこだ! 無事か!」
大声でそう言うが、返事は聞こえない。やべーな、これ。魔獣の攻撃で意識を失ったか、それとも……
「スタンボール!」
熊の魔獣がこちらを振り返る前に、俺は渾身の魔法を叩きこむ。翳した手のひらから、電撃を帯びた光の玉が高速で熊へと襲い掛かる。
「ぐお?」
見事背中に直撃した電撃の玉は、しかし効果が無いようで、魔獣はポリポリと背中を掻いている。蚊に刺された程度ってことかよ。さすがにへこむんですけど。
俺がへこんだ直後に、熊はこちらを振り返る。紅く光る瞳からは、殺意がにじみ出ていた。
「澪、十六夜はいたか?」
「魔獣の後ろ。倒れてる」
この場合の倒れている、と言うのは、五体満足だが生死は不明と言ったところだろう。とにかく、この巨体で通路を塞がれていては、十六夜のところにはたどり着けない。
俺たちのレベルでは、どの攻撃も効かない。ならばすることは一つだけだ。
「澪、俺が囮になって洞穴から出るから、その隙に十六夜を助けてくれ」
「ダメ! 九十九が危ない」
そりゃそうだ、捕まれば間違えなく死ぬ。だけど、こいつを連れて洞穴の外に出ないことには、十六夜を救出できない。筋力も俊敏も、ステータスでは澪の方が高い。でも、攻撃を回避すること、逃げることについては、澪よりも圧倒的に上だという自信がある。
「十六夜は以外と胸があるから、重くて俺だと運んで走れないんだよ」
「胸……私、小さいかな?」
俺の軽口に、澪は自分の胸に手を添えながらつぶやく。そんな深刻に反応しないでくれよ。澪だって一般的に言えばそこそこ大きい方だから。って何言わせんだよ。
すでに熊は臨戦態勢。四足で突進してくる態勢だ。
「俺はこのまま洞穴の外まで走る。お前はどうにかアレを飛び越えて、十六夜を助けてくれ!」
「了解」
「先生の道場で合流しよう!」
そう言い残して、俺は洞穴の出口目掛けて走り出す。後ろを確認すると、すでに澪の姿はなく、見えるのは四足で高速で駆けてくる、巨大な熊の姿だけになっていた。
熊は意外と走ると速い。時速40キロ以上で走ることができると聞いたことがある。俊足のスキルを持つ俺なら、余裕で逃げ切れるだろうが、あまり引き離しすぎると澪たちの方に行ってしまう可能性がある。着かず離れずで逃げながら、どこかで一瞬でも足止めをしないと、十六夜を抱えた澪を逃がしきれない。
「スタンボール! スタンボール!」
しばらく駆けてから覚悟を決めて立ち止まり、後方から襲い掛かる熊に向けて二発の魔法を放つ。熊が軽く腕を振ると、渾身の魔法は掻き消されてしまう。マジかよ!俺の魔法は羽虫の如き威力しかないってか。足止めの一つもできやしない。
「サーチ」
周囲を探ると、まだ二人は洞穴を出たばかりだ。真っ直ぐ山を下りているようだが、完全に逃げ切れる距離まではもう少しかかる。
「それなら……ピットホール!」
「ぐああぁぁ!」
突如目の前に出現した落とし穴に、巨大な体は吸い込まれるように落ちていく。中には土でできた針山が設置されているので、串刺しにでもなってくれればラッキーなのだが……
「ぐわあ!」
「っくぅ」
恐る恐る穴の中を覗いた瞬間、巨大な腕に薙ぎ払われる。腕でギリギリ防御の姿勢をとったが、俺は軽く5メートルは吹き飛ばされ、大木に背中を打ち付けた。
痛い痛い痛い!ガードした両腕が痛い!吹き飛ばされた時にぶつけた背中が痛い!何だかんだ全身が痛い!完全に油断していた。中の確認なんかしないで、穴に落ちた瞬間に逃げれば良かった。
これだけのダメージを受けては、満足に動けない。特に両腕がまずい。焼けるような痛みで肘から先が全く動かせない。
熊の魔獣は、まだ下半身が穴から出てこられないようなので、今のうちに全力で逃げるしかない。もう振り返らない。幸い足は無事だ。どうにか200メートルほど走れば結界の中に逃げられる。
俺は大きく息を吸い込んでから、走り出す。大丈夫だ、俺は恐怖から逃げることだけは得意なのだから!
「い……、いざ……ぶ?」
どこからか、声が聞こえてくる。先ほどまで戦っていた魔獣の声ではない。人の、女の人の声だ。
「だ、れ?」
必死に声を絞り出す。本当にこれが限界な程、全身に力が入らない。
「私」
この淡泊な声は、澪さんだ。アタシのことを心配して、こんなところまで来てくれたんだ。そうすると、魔獣は澪さんが一人で倒してしまったんだろうか。やっぱり、見習い剣士なら一人でも戦える。見習い修道女とは違うんだ……
「ここから逃げる。私が、背負っていくから」
「?」
逃げる?じゃあ、魔獣はまだどこかにいるの?魔獣への不安と、澪さんでも倒せなかったんだという安堵が、アタシの中で入り混じる。
「九十九が囮になってる」
あの和泉さんが、アタシのために囮になってる?そう聞いた瞬間、心がドクンと跳ね上がる。いつもはやる気がないくせに。逃げてばっかりでまともに戦おうともしないくせに。そんな人に、アタシは助けられた?
悔しい、悔しい、悔しい。
アタシは、一人では何もできない。
助けてくれている人たちに、素直に感謝の気持ちを向けられない自分が、すごくみじめに思えた。
そう思った時には、アタシの涙は止めなく頬を伝って地面へと落ちていた。




