第八十八話:若返りと焼き肉
「困ったわね……」
影山が対馬に行ってしまい、一人取り残された市川は自席でポツリと呟いた。
影山を追いかけてナイジェリアに行ったのが5年前。4年前は鉱山会社を売り飛ばし、3年前は影山とアジアの各都市へ。2年前は C&V twins. の起ち上げと運営で米国に長期滞在。去年はベネズエラだ。
よくもここまで自分の体を酷使できるものだ……5年前に影山に若返りの施術を受けていなければこれだけの激務をこなせはしなかっただろう。そう考える市川の顔には苦笑いが浮かんでいた。
しかし、その若返りが最近は市川の悩みの種でもある。戸籍上32歳の市川の見た目は20歳そこそこのまま、この5年変化していない。
これは市川自身が希望したことなので誰を恨む筋合いのものでもないが、最近は戸籍上の年齢と肉体年齢の乖離が思わぬトラブルを引き寄せたりもしていた。
例えば C&V twins. の仕入れ交渉の時だ。OEMメーカーや工場と契約しようと市川が責任者として交渉の場に赴くと必ず相手にぎょっとされ、次に侮られる。
商談相手の中国人に「大人をからかうもんじゃない」「お父さんを呼んできなさい」と言われることすらあった。自分の身分を証明するためにパスポートを見せなくてはならなくなったことも一度や二度ではない。
先日など、販促キャンペーンでヒューストンにビクトリアを連れて行った時に、アルバイトの店員に「ビクトリアさんになんて口のきき方してんだい! このガキ!」と腕を掴まれて引き倒され、怒鳴られたりもしたのだ。
もちろんこういった誤解はきちんと説明すれば簡単に解けるのだが、市川は最近はその説明をすることがそもそも煩わしくなってきていた。
影山に頼み込んでこの身体を手に入れたものの、今では自分が順当に歳をとっていたらどうなっていたのだろうかと思うことすらある。
最近ではシャーロットのほうが市川より年上に見えてきたのもそれなりに問題だった。
周りの人間も慣れたのか、この件についてはあまり踏み込んで来ないが、あと10年経ってまだこの外見だとさすがに各方面からそれなりの追求があることだろう。
その時にどうすれば良いのか……いっそ今年からは真面目に歳を取るか……
「でも、焼き肉食べてもスイーツ食べても3日かそこらで体重が元に戻るこの身体はやっぱり捨てがたいわ……困ったわねえ……」
そう言って市川は二度目の深い溜め息をついた。
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「困ったわねえ……」
自宅の鏡の前で貴子がポツリと呟いた。
影山物産の欧州での最初の投資案件はスフヤーンというイラク系ドイツ人の経営するスーパーマーケットだ。ここ半年、貴子はその経営指導にあたっていた。
仕事がようやく一区切りついて帰国したところ、影山から貴子に嬉しいご褒美が待ち受けていた。
以前から折に触れ影山にねだっていた若返りの秘術―― それをついに受けることが出来たのだ。
体感的にだが自分の身体は20代の中盤……23〜24歳くらいにも若返っただろうか。貴子はそれくらいの軽さを感じていた。爆発的な新陳代謝で身体の栄養分をあらかた持っていかれた状態でも時差ボケが吹っ飛ぶほどの快適さだ。
どうやら市川と影山の話し合いでこのくらいの肉体年齢にされたようなのだが、どうして市川がそこに絡んでいるのか、釈然としない部分もある。だが、そんなことが小さな事に思えるほど素晴らしく身体が軽い。今なら何でも笑って許せるだろう。そう感じる貴子の中で影山の評価が何段階も上がったのは言うまでもない。
しかし問題もある。まず着る服がない。化粧品も全部買い直し。これでは会社に行けるわけがない。
今持っている服は全部、肉体年齢30歳の自分に似合うようにコーディネートして買ったものだ。中には職人と長い時間をかけて相談し、仮縫いと採寸を繰り返して作ったような服もある。
ところがいざ若返った身体でクローゼットの中の服を着ると、やはりどれも「似合わない」以外の言葉が出てこない。鏡を叩き割りたくなるほどの絶望感が貴子を襲っていた。
昔着ていた服で今も残っているのはいかにも当時の流行のものばかり。何故こんな服を残してあるんだろうかと自分の頭を疑いたくなる。
この時貴子は服を買い替えたくても服を買いに行くための服がないデッドロックに陥っていた。
昔は良く利用した百貨店の外商も、今では担当が代わってしまい、似合いそうな服をいくつか見繕って自宅に持ってきてもらうという手も使えない、まさに八方塞がりだったのだ。
結局、貴子は新入社員時代の僅かな期間だけ袖を通していたスーツを着て銀座に服を買いに出かけることにした。自宅詰めの運転手が運転する車で銀座に向かう途中、貴子は「渋谷のほうが良かったかも」と思いもしたが、渋谷の混雑は今の自分には無理だと考え直し、そのまま銀座へと向かった。
若返りの後の爆発的な新陳代謝のせいでフラフラなのだ。座って買い物が出来る銀座の方が良いに決まっている。
貴子はその日、家の名義のブラックカードを使い倒して買い物を堪能したが、血が足りないのかフラフラは止まらなかった。体は軽いのに、どこか力が入らず自分の体なのにどうにも頼りないことこの上ない。
「困ったわねぇ、血が足りないわ。何か精のつくものを食べないと……」
まるで吸血鬼のように血が……血が……と言いながらフラフラ銀座を歩いていた貴子は、買った服を全部運転手に押し付けて、自分は銀座の街の喧騒の中へと消えていった。
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「困ったな……」
その日在宅勤務の名目で出社しなかった相田は自宅のマンションで鏡を前にして固まっていた。
鏡の前には普段相田が使わない化粧品群がずらりと並べられており、膝の上には「マイナス5歳を目指す大人のワンポイントメイク術」という本が広げられている。
「ぱ……パール感? セミマット? クリーミー? ヒートショックプロテイン? どうしてこの本はどこにも定義を示してない言葉をバンバン使ってくるんだ?」
自称「グラマーなプログラマー」だった相田もコスメ関係には疎い。女性雑誌でオススメされていた化粧品を片っ端から通販で買うことはできても、それを自在に使いこなせるかどうかは推して知るべし。
18歳から米国に渡り学問一辺倒で過ごしてきた相田が化粧品を本格的に使い始めたのは社会人になってからだったので、知識や経験、そして技量……いわばリテラシが足りていないのだ。ライナーを持つ手が震え、左右のバランスさえ取れないのが今の相田の化粧の実力である。
では何故相田が今さら山のような化粧品を前に格闘しなくてはならないのか……?
明らかに年を取らないどころか若返っている市川、初めて会った時からいっこうに歳を取らない貴子と毎日顔を合わせている相田は、二人の若さは化粧の技術にあるのではないかという仮説を立て、それを立証することにしたのだ。
化粧だけでなく、二人の財力をもってすればエステにも行き放題、何ならどこぞにいるかもしれない「ゴッドハンド」的なエステティシャンに施術してもらうことも可能だろう。
あの二人の若さに対する執着はどこから来ているんだろうか。50〜60歳の御婦人でもあるまいに……と相田は不思議に思っていたが、このまま状況を看過していればどうなるかに考えが及んだ時、相田は自分の身に戦慄が走るのを感じた。
途中実家に帰りもしたが東京に来てはや5年、そろそろ三十路にリーチが掛かった自分の身体に何の手入れもせずに居たら、戸籍上の年齢はともかく見た目は3人の中で最年長になってしまうだろう。毎年発行する会社のパンフレットに載せる写真で、自分だけが歳をとっていくのだ。
それは……それだけは避けたい……それが相田が山のような化粧品をと若返りメイクの教本を買った原因だった。
「背に腹は変えられへんしなぁ……しゃあない、これや」
化粧が想定よりうまくいかないことに業を煮やした相田は、女性誌に書かれているインドの秘術、アーユルヴェーダの施術をしてもらえるとかいうエステティックサロンのうち、自宅から最も近いところに電話を入れて飛び込んだ。
一通りのカウンセリングを受け、全身アロマとマッサージのフルコースを頼み、勢いに乗って回数券と全身お手入れセットもエステティシャンの進めるままに買ってしまう。相田の勢いは止まらない。
「うわあ気ぃついたらえらい散財やん……いや、それにしても疲れたぁ……あかん……なんか食べな身体がもたん……」
エステで2時間、カウンセリングと施術で揉みしだかれて頭も身体もグニャグニャになった相田は体力を使い果たし、財布の中身をちらりと見ると早い夕飯を食べに家と反対方向へ歩いて行った。
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「あ」
「あら」
「ん?」
三人は偶然、銀座の焼肉店の前で顔を合わせた。互いに何かを言いたげだったが言葉が出てこない。
「3名様ですか? 本日全席禁煙ですがよろしいでしょうか?」
元気の良いアルバイト店員が三人を出迎え人数の確認をすると、市川は困ったように貴子と相田の方を見て、苦笑いしながら答えた。
「ええ、三人です」
その日、市川は脂の乗ったカルビとハラミを麦飯の上に載せてたらふく食べ、貴子は血を補うべくハツや豚レバーを浴びるほど食べ、相田はそれを見てどうでもいいやと思い、上ミノとタンとイカを金網の隅っこで焼いてはもそもそと食べた。
三人は最初、注文以外のことで口を開かなかったが、そのうち誰かが影山の悪口を言い出すと場はそれ一色となり、途中からアルコールが入ると本格的にグダグダになって行った。
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「今日は静かですね」
「こんな日もあるんだな。ちょっとホッとするね」
その日、午後8時過ぎまでオフィスに残っていた田辺達は、役員と上級管理職が誰一人いない現場でのびのびと仕事ができる環境を満喫し、たまにはこんな日があってもいいねと笑って帰宅した。




