第八十七話:泥棒船と巡視艇
「106番か……『むらくも』やな。海保さんや」
親父さんがこともなげに生簀の向こうにいる船を見て言う。
対馬には第七管区海上保安本部対馬海上保安部があり、対馬保安部に三隻、比田勝海上保安署に二隻、合計五隻の巡視艇と一隻の巡視船が対馬を本拠地として海上警備や海上の交通安全のために活動している。
その巡視艇の乗組員達は役目上、地元の漁師達とは適正な距離感を保ちつつも、陸に上がれば同じ対馬市民として漁師達とは多少打ち解けた仲でもある。地元の漁師達も船を見れば誰が乗っているかくらいは知っているのだ。
「どうしたんでしょうね……あれ? 巡視艇の向こうに船がもう一隻ありますよ」
「うむ……」
巡視艇が横付けしているのは小さな漁船で、ちょうど俺達が乗っているのと同じか、少し大きいくらいのものだ。
「あれは韓国の漁船やな。この辺にはあんな船持ってる奴おらんで」
「領海侵犯ってやつですか? 初めて見ますけど、よりによってウチの生簀の近くでなんて……」
親父さんが言っていた生簀荒らし狙いの船だろうか。
新日韓漁業協定が暗礁に乗り上げたため、魚族資源保護の概念が薄い韓国の漁民は自国沿岸の水産資源を取り尽くし、日本の排他的経済水域や領海での違法操業を行うと聞いていたが、それがこれほど身近な事案として降り掛かってくるとは俺も予想外だった。
「せやけどおかしいわ。あの船見てみ。レーダーマストをえらい高いとこに設置してるやろ。あれは巡視艇を早よ見つけてさっさと逃げるための装備や。せやのになんであいつら逃げんと捕まっとんねん……」
と言われても俺達に解るのは、どうやら捕まった船は何かしらの理由でその場から逃げられなかったのだろうということくらいだ。
俺達は巡視艇を向こうに眺めつつも、とりあえず生簀に行って予定通り見学や防犯についての検討をしようと言うことになった。
「あれ、こちらにボートが来ますよ?」
俺達の船が生簀の足場にたどり着いてようやく見学を始めようとした時、巡視艇からゴムボートがやって来てこちらの船に横付けし、乗船許可を求めてきた。
中には2人の男が乗っている。ツーマンセルというわけか。
「影山さん、山本さん、ここは俺に任せて、あんたらは船の反対側で生簀でも見といてくれ。ややこしいことにならんようにな」
彼らとの会話はかなりシビアなものになるらしい。余計な一言が思わぬ事態を招きかねないから俺達は引っ込んでおいたほうがいい、というわけか。
俺達はコクンと頷いて自動給餌器の見学を始めた。ここは親父さんに任せるしかない。
「お仕事中すいません。少しお聞きしたいことがありまして。ご協力願います」
乗船許可を出された2人はこちらの船に乗り込むと無線で何かやりとりをしてから親父さんと話し始めた。
「中村さん、どうしたんアレ?」
開口一番、親父さんは韓国漁船を指さした。名前を知っているってことは知り合いだろうか?
「ああ、まあね。それよりここ、親父さんとこの生簀ですね。ここは何? タイ? ハマチ? 随分大きな生簀ですね?」
中村と呼ばれた海上保安官は親父さんの問いをさらりと躱す。答えられない事態が起こっているということだろう。
「いや、長崎大学の先生らと実験でオキザヨリやらダツやらをここらで養殖しとうよ。ほれ、雑誌に載りよったやろ?」
「ああ、あれってここでしたか。そうでしたか……」
「なんかあったんか? えらいおおくらましい事になっとんと違うか」
「いや、なんでもありませんよ」
「へっぱく言ぅて。なんかあったに決まっとるやろ」
巡視艇に目を向けると、向こうの漁船から巡視艇に遺体収納袋が運び込まれているのが見える。それを見た親父さんは、はぁっと深い溜息をついた。
「あの船の連中、夜中にここの生簀から魚を盗みよぅとしたんか……ほんで上から光当てたんやな……」
「……」
俺が遺伝子操作をしたダツとオキザヨリは夜に上から光を当ててもパニックは起こさないが、光に対して激しい攻撃衝動は起こすようにしてあった。それは覚えている。
つまり、夜中にこっそりここでダツとオキザヨリを盗んでいこうとした生簀荒らしが2,3人まとめてダツとオキザヨリの攻撃の的になったということなのだろう。頭あたりにLEDライトでも装着していたのかもしれない。
「わかった。ワシからは何も聞かん。あ、あとで出頭要請とかあるんか?」
「後日、事情聴取をお願いするかも知れません。申し訳ありませんがその時はお願いします」
「あの……この魚、養殖禁止になったりは……」
それまで生簀の中を見ていた山本社長が口を開いた。2年以上かけて育てたダツとオキザヨリが養殖禁止にでもなったりしたらラーメンチェーン世界展開の夢が潰えてしまう。山本社長にしてみれば気が気ではないだろう。
「養殖魚の魚種の許認可は本官達の管轄外です。ご理解下さい」
中村ではない方の海上保安官がそっけなく答えた。彼の立場からこういった案件に関して何か言うとトラブルになるのだろう。山本社長はすっきりしない顔をしていたがこればかりはしょうがない。
「ダツは何匹、あっちの船におったか教えてくれんか?」
「……大きいのが3匹と、小さい、といっても50㎝はありそうなのが10匹くらいでした」
うげえ……昨日食べる前に見たから解るが、50㎝の包丁が10本、大太刀が3本闇の中を跳んでくるようなものだ。甲板の上の地獄絵図は簡単に想像がつくな……。
「えらい大損や……」
親父さんが苦笑いをして海上保安官達との会話を打ち切ると、彼等は俺達に挨拶をして巡視艇へと帰って行った。たまたまここに居合わせた窃盗の被害者である俺達と、現時点では話すことは無いと考えのだろう。
去っていくゴムボートに手を振ったあと、親父さんは船の甲板にへたり込み、俺達をじっと睨みながら生簀を指さした。
「これ、どうする? このまま育てるか? このままやったらまた泥棒の頭をほがしてまうで」
親父さんがダツの危険性をきちんと認識し、これまで事故が起きないようにかなり気を遣っていたのは俺も知っている。だからこそ、ようやく出荷と言う最後の段階でこんな事故が起きてがっくり来ているのだろう。
「親父さん、俺達は何も悪いことはしてないじゃないか。それに、今日だってこうして生簀を見に来ても魚達はジャンプ一つしない。
おとなしいもんだよ? 酷いことになったのは生簀荒らしの連中が悪いんだって。
親父さんがどうしても嫌なら今回はここで打ち切って、全部引き上げてまた他で始めるけど、それはそれで残念だよ。せっかく2年もやって来たのに……」
「そうですよ。私も泥棒なんかのせいでこのまま終わるのはイヤです。残念極まりない」
山本社長も親父さんを叱咤激励した。彼の立場からは当然の行動だ。
「今年取れた卵はもう孵って、生簀への放流を待っているんでしょう? こんなことそう何度もないでしょうし、落ち込まないで行きましょうよ」
「そうか……そうかなあ……」
「そうだ。海上保安部から呼び出しがあったら知らせて下さいね。俺達は一蓮托生です。親父さん一人で行くこたないですよ」
その後しばらく俺達は親父さんを懸命に説得し、励ました。それが功を奏したのか親父さんも気持ちを切り替えることが出来たようだ。
東京に戻ってしばらく経ったある日、親父さんから連絡が入った。
「やっと海上保安庁から呼び出しが来たんですか?」
「いや、すまん、影山さん。対馬、今、台風が来ててな。時化で驚きよぅダツがようさん生簀飛び越えて逃げよったんや……」
その声は力なく謝罪の言葉が並んでいたが、俺は親父さんを攻めたりしない。
台風は天災だ。親父さんのせいでもなんでもない。この経験を次に活かせばいいだけの話で、親父さんが落ち込む必要など微塵もないのだ。
養殖に使っていたのはマグロの養殖にも使うような大型の浮沈式生簀なので台風にはある程度耐える筈だったが、ダツのジャンプ力が分かっていながら対策していなかったのは失敗だった。山本社長はがっかりするだろうが、養殖を開始したばかりなのでこんな思いもよらぬことはいくつもあって当然だ。むしろ次の世代への良い知見となることだろう。
細かい失敗を乗り越えて、最終的に大きな成功を掴めばいい。反省は有用だが後悔は無用だ。今まで以上にラーメンを作り、ダツを育て、次は地中海でガーフィッシュを育てながら世界のラーメン市場を目指せ。がんばれ山本社長。
そうそう。例の韓国船の事件に関しては、船員を襲ったダツとオキザヨリが生簀から出てきたものか証明できないため、夜の海の不幸な事件としてショッキングなニュース扱いにはなったが誰かしらの責任を問うような刑事事件には発展しなかったとのことだ。
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――これは対馬を台風が襲った日から少し年月の経ったある日の話――
小笠原諸島近辺では、2013年以来断続的に行われている中国漁民による違法なサンゴ漁を取り締まるために海上保安庁が最大級の巡視艇を出動させて日々警備にあたっている。
その日も宮古島ルートで現れた10隻ほどの中国の漁船が巡視艇のパトロール網をかい潜り、闇夜に乗じてサンゴや魚を考えもなしに漁っていた。
2014年あたりに行われた200隻以上の中国漁船による違法操業で、海底は散々荒らされて砂漠化してしまっている。もはやいくら海底をあさってもろくなものは獲れないが、それでも彼等はやってくるのだ。あるものは一攫千金を狙って。ある者は惰性で。
「やっぱりもうこの辺じゃろくなものが獲れないな」
「でも油代くらい取り返さないと、このまま小魚だけ獲って帰っても大赤字だ」
そんな会話をしながら、違法漁民の張は苛立ちつつも海面をライトで煌々と照らし、魚を集めては網を引き上げていた。だが出るのはため息ばかりだ。やはりこの辺りではサンゴも金になる魚もすっかり獲り尽くしてしまったらしい。
「しょうがない。帰り支度でも始めるか」
バシュン
長居は無用、と張が撤収の準備を始めたその時、海面を派手に照らしていたハロゲン集魚灯が2つ、妙な音とともに急に弾け飛んだ。
「なんだ、もう寿命かよ。やっぱりHIDにしときゃよかったかなあ……でもハロゲンのほうが安いんだよなあ……」
張は予備の電球をしまっている船室へ入り、ブツブツ言いながら電球の取替作業に入ろうとした。
バシュン バシュン
次々に消えるランプ、そして甲板でバタバタと暴れる魚の音、船の向こう側で聞こえるうめき声、そして腕に感じる鋭い痛み……
「なんだあ? なんだってんだよ?」
自分の腕に刺さっている1mもあるモリのような魚を見た張はパニックに陥った。直後、バシャンと言う音と大きな水柱が船の横で上がる。魚に飛びかかられた張の弟が海に転落したのだ。張の弟は何か叫んでいたが、なんとか船のへりにしがみつくことが出来たようだった。
甲板でビタンビタンと身体をくねらせ跳ねていたその魚は、船の端から運良く海に戻ったかと思うとまた集魚灯に向かって飛びかかってくる。どうやら狙いは自分ではなく集魚灯だと気づいた張は集魚灯を消し、弟を海から引き上げるとその海域からほうほうの体で逃げ出した。
恐ろしい……夜の海を舐めていた……
張は自分の腕に空いた赤黒い大穴を見て震えが止まらなかった。良く腕で済んだものだ。もし胸や腹だったら今頃命があったかどうか……。
この夜、あちこちの違法漁船でパニックが起こった。凄惨な光景を前にして、誰もが集魚灯を消せばいいと思い至れるものでははない。自分達が何をしていたかも忘れ救難信号を出す船がいるかと思えば、船長が真っ先に突き殺されて身動きができなくなった船もあった。
この夜、闇夜を飛ぶ大魚は7人の人間を直接的・間接的に死に至らしめた。間接的に死んだ人間は船からの転落による溺死が2人、同じ船に乗る船員にパニックに乗じて殺されたのが1人だった。
この魚は後に、海上保安庁の調査でオキザヨリだったということが判明した。温かい海域を好むオキザヨリは日本近海では数は多くはないものの、広く南の海に生息する魚だ。
特別なところで言うと、この騒ぎを起こした小笠原個体群はダツと同じく光に過敏に反応するが、パニックではなく激しい敵対行動を見せる習性を持つところが九州近海の個体群とは異なると後に報告された。
奇妙なことに、同じような習性を持つガーフィッシュが地中海で報告されていた。地中海ではこのガーフィッシュの群れがイタリアやギリシャ上陸を目指す難民を乗せたゴムボートや小さな漁船に襲い掛かり、多数の水難事故死者を出していたのだ。
特にゴムボートは被害が大きく、大型のガーフィッシュによってチューブを貫かれ、浮力を維持できず沈没するケースが多数見られた。ガーフィッシュによる犠牲者数は正確には分からないが数千人とも言われている。
その後オキザヨリは「小笠原の守り神」として地元民に広く認知され、小笠原の漁師達は夜の漁をそれまで以上に控えた。そして、その後何度と無くやって来てはオキザヨリ達に襲われる中国の違法漁民達は次第にその数を減らしていったのだった。




