第八十一話:バカが引く風邪と逃げるあいつ
「へっくし!」
7月後半に竹内対策のために無理をしすぎたうえ、夏バテでろくに飯を食わなかったせいだろうか。俺は風邪を引いてしまった。
「夏風邪ですか?」
貴子さんの温かいお言葉。ドイツに一緒に行ってもらった時は別行動が多かったし、その後は教団の一件で俺はほとんどオフィスに来なかったから、今日みたいに朝から顔を合わせているのは本当に久しぶりな気がする。
「夏風邪はバカが引くって言いますからね。伝染さないで下さいよ。バカの方を」
相田は俺への敬意を若干欠いているようだ。以前小説の話でこっぴどく叱られてからというものなんとなく立場が逆転してしまったような気がする。
「調子悪いときくらいもっと気を遣ってくれてもいいんだぞ」
そう言って相田の方を睨んでみたが、どうやら俺の期待は汲み取ってもらえそうにない。より一層きつく睨み返されるだけだった。
「それで株主総会ラッシュの後、自動売買システムの調子はどうだったんだ?」
「それがですね、海外市場の方に大きな動きがあって、『リスクテイカー』がほとんどそっちの方に集中しちゃったんですよ。『コンサバ』は一旦手仕舞いでした。
だから今は利確した現金がダブついてる感じですかね。東証一部企業の業績はどこも惨憺たるものですよ。オリンピック延期やら何やらで皆さん青息吐息です」
『リスクテイカー』はハイリスク・ハイリターンを狙う自動売買エージェントで今の影山物産の稼ぎ頭だ。『コンサバ』は保守的なローリスク運用を前提に作られているエージェントで、こちらは財布の紐をきつめに設定してあるらしい。相田がずっと改良を続けているこの2つのシステムは、あの日伊賀上野のカフェで話していたとおりの進化を遂げている。さすが相田だ。
「まあ……一応儲かってるんだな。それならいいよ」
「7月の利益は13億ほどでした。ところで服部さんはその後どうなったんですか?」
「ああ、一応戻って来るつもりがあるかどうか聞いてはみたんだけどな、戻る気はないってさ。いろいろやらかしたしけじめはつけるって言ってた」
貴子さんと相田の顔に安堵の表情が見えた。そりゃ服部もこれだけ嫌われてたら戻りにくいよな。投資先との関係が良かっただけに少し残念だが。
「いや正直、影山さんと壬生さんがドイツ出張に行ってる間、一人で留守番するのは結構怖かったですよ。ああいう思いはもう二度としたくありませんね……」
「そうか……。ところで、服部の穴を埋める人材は探しているのか?」
「もう次の募集をかけていますわ。いい人を採りますのでご安心下さい」
次は貴子さんが採用を担当するようだ。相田曰く「親の代から人の上に立ってるんだから私よりは人を見る目があるでしょう」とのことだ。貴子さんも張り切って毎日転職エージェントから届く応募者の職務経歴書を読み込んでいるらしい。
そういうのを相田と一緒にやって機械学習で一次選抜とかすればいいのにな。俺ならword2vecを使って全結合の7層くらいにして活性化関数はReLUを……(注1)いや、サンプル数が少ないか……っていかんいかん。人のやる気に水を差しちゃいかんな。
「次の募集は可能であれば市川さんにも面接してもらってくれ。Skypeでも何でも構わんから。2人を信用していないわけじゃないが、折角だしフィルターは多い方がいいだろう」
「そんなにフィルターばっかりかけたら何も残りませんよ。ウチみたいな無名企業で……」
相田はそう言うが、最近ちょっと景気も悪くなってきたようだし、ウチみたいに資金だけは潤沢にある会社って結構人気が出るんじゃないのかな。まあ業態や勤務の実態よりは知名度で就職先を選ぶ人はまだまだ多いか……。
うちは能力主義だから仕事が出来る人なら若手でもどんとボーナス弾むんだけどなぁ……。
「影山さんも面接すればいいじゃないですか。どうして自分は最初から関係ないみたいな言い方してるんですか?」
「あのな、相田。俺が昨年どれくらいここにいたと思ってるんだ? しょっちゅう出歩いて、ここにいた日の方が少ないだろう? ネット環境がない場所へだって行くんだ。俺の面接待ちとかで採用スケジュールをいたずらに延ばしたりしたくないんだよ」
「なるほど……一応自分が不在がちなのは自覚があったんですね。へーえ」
相田は一度再教育をしないといけないな。でも、今のところ稼ぎ頭だしなあ……悩ましい。
「あー、では相田、貴子さん、次の採用についていくつか言わせてくれ」
採用にあたってこれだけは言っておかないと、という事項は選考を始める前にちゃんと言っておかないと、始めてからでは禍根を残す。ここでちゃんと聞いてもらうことにしよう。
「まず『山中瞳』という女性が応募してきても絶対採用しないでくれ。いくら能力が高くても駄目だ。面接をすることも許さん。
次に、男女バランス的に可能であれば男性を頼みたい。俺がハーレムを作ってるとか言われるのは嫌だからな。但し、何が何でも男を入れろと言ってるわけではないからそこは理解してくれ」
「あ……山中瞳さん、もう応募がありましたよ。手元にレジュメ来てます。上智の心理ですってよ。なぜ駄目なんです?」
やっぱりか……瞳め、素早い上にぬかりのないヤツだ。あの後チラチラとあいつの姿を見かけるが、アレはあいつなりのアピールなのだろう。
しかし、さすがに俺もあいつを手元に置く気はない。もうひょうちゃんもいないし、あの串でプスッとやられる可能性がないと判断できるまでは近寄ってほしくない。俺はビビリなのだ。
「ちょっとした知り合いだ、軽く殺し合いをしたぐらいのな。なので今は顔を見たくない。
ああ、ツッコミは禁止で。俺からの要望は以上だ。熱が出てきたから帰るわ」
「ちょ……? 殺し合いって何ですか? この人と何があったんですか?」
相田のゴシップ好きはクロエに通じるものがあるな。理系女子ってどこでもこうなんだろうか?
「相田さん、影山さんはツッコミは禁止だと仰ったのよ。今日はもうお帰りになるようだし聞くのはまた今度になさいな」
貴子さんナイスフォロー。俺は親指を立てて貴子さんにグッジョブと称賛してオフィスを後にした。
その後は病人一直線コースだ。本格的に体調がおかしくなる前に扇町の病院まで行って薬を貰って家に帰って寝る。予定を立てたら即実行。
邪魔する奴は許さない。
◆◆◆◆◆
夜中に目が覚めた。
薬が効いて夕方からぐっすり眠っていたらしい。熱で大汗をかいたせいで喉がカラカラだ。水分をしっかり補給しておかないとまた熱が上がってしまう。
そう思って俺が冷蔵庫の扉をあけたちょうどその時、いつもの通り予告もなく例の白い空間が現れた。
「前回会ってから半年と少しか。結構頻繁に来てくれるじゃないか。案外面倒見が良いんだな」
「今日は特別だ。君が童貞野郎を卒業したお祝いにと思ってね」
そう言われても俺は別に誰ともベッドで男女混合全裸レスリングを愉しんた覚えはないのだが……。
「ああ、この場合はアレだよ。今回は君、他人任せにせず、その手で何人か減らしただろう?」
「そのことか……まあ、確かにそういう意味での童貞は卒業したな」
そうだ。俺は今までゴールドラッシュや群衆パニック等、多くの人が欲で理性をなくすような現象を起こしては相互に殺し合わせて来たのだが、今回は鉄道のレールを空から落とすという直接的な手段で人の命を奪ったのだ。
いろんな稼業で、自分の手で初めて人を殺すことを「童貞卒業」と言うらしいが、こいつはそういう言い回しをどこで覚えてくるのやら……翻訳機が優秀なのか?
「お前がいつぞや言っていた通り、位置情報を派手に使ってみたぞ。意図していたのはああいう使い方か?」
「位置情報を自由に書き換えることができれば質量兵器を使いたい放題になるということが理解できたようだな。ヒント1回でそこに辿り着けたのは君が初めてだ。どうやら私は良い人選をしたらしい」
褒められて悪い気はしない。が、俺にはそれよりも早急に確認しなければいけないことがある。
「俺は少し前に自分の脳を検査したら大きめの腫瘍ができていた。これはお前の仕業だと思っている。違うか?」
「いかにも。その器官を通じて我々の力を君に与えている」
「我々」と来やがった。目の前の「あいつ」は単体ではないということか。それとも特に意味は無いのか……。
「お前に貰った能力を使い込むうちにこの腫瘍が大きくなって、隣接する大脳を圧迫して壊死させたりすることは無いのか?」
「それはない。私が君の遺伝子を弄ったことくらいもう見当が付いているだろう? 君は頭にそういう器官を持った生物として生きていくのだ。ゆえに自滅はしないよ」
とはいえ、角や牙が大きくなりすぎて絶滅した生物もいたからな……。安心はできない。そういえばこいつが本当のことを言うという保証も無いんだった。
「ということは、俺が子供を作ったら遺伝するんじゃないか?」
「酷い人間だな君は……。あれだけ人を殺しておいて自分の子供は作るつもりか。まあ、それくらいの役得はあって良いかもしれんが、程々にしておけよ。それから遺伝だが、もちろん脳の器官に関しては遺伝する可能性はある。一応劣性にはしてあるのだが、不安定なのかたまに次の世代でも発現するようだな」
「その子供が俺のような能力を得ることはあるのか?」
「無いな……それは。器官だけ存在してもそれを動作させるソフトウェアがない。デバイスドライバも、アプリケーションもないから何も出来ない筈だ。小さな子供の頃のまだ脳の使い方が定まってない時期なら何かしらあるかもしれんが、それも成長とともになくなるだろう」
壬生さんところのご長男がそうだったって言ってたな。でもその頃に使い方を覚えて機能遊戯的に訓練を繰り返されていたらどうなんだろう……?
「へっくし!」
突然の俺のくしゃみを見て、「あいつ」は血相を変えた。みるみる顔が真っ青になっていく。こんな「あいつ」を見るのは初めてだ。
「し……失礼する」
「あいつ」は焦った様に空間ごとかき消え、俺は自宅の冷蔵庫の扉を開けたまま立っていた。なるほど、あちらの空間にいる俺は冷蔵庫の前の実体のリファレンスとでも言うべきものだったようだ。
それにしても、今までずっと冷静を保っていた「あいつ」がくしゃみ一つであれほど焦ったのはどういうわけだろうか。もしかしてコロナウィルスやライノウィルスが「あいつ」にとっては致死率の高い病気を引き起こす病原菌だったりするのか?
そういえば俺の授かったDNAプラグイン。あれが存在するということは「あいつ」もDNAを持つ生物なのかもしれない。もしそうなら未知のウィルスほど怖いものは無いよなぁ……。
いかん。そんなことを考えていたらまた体が冷えてきた。もう一眠りしよう。
それにしてもこの世界シミュレータの計算資源ってどうなっているのかという、本当なら俺の得意分野的に一番最初に疑問に思わなければいけないことがどうして「あいつ」と話すタイミングですっかり脳から消え去っているのか、実に不思議だ。
聞きたいことはたくさんあるのだ。キャッシュコヒーレンシはどうしてるのかとか、量子ビットの概念はあるのかとか……。
(注1)大したことは言っていない。自然言語処理をニューラルネットでやったらどうだ、くらいの意味。




