第七十三話:金の盾と鉛の弾
中国の情報統制のためのシステムは決してザルではない。不穏な単語を含むパケットを通信経路で見つけたら即座にブロックして書き込めないようにできるし、連投してくる情報機器のIPアドレスをサービスから遮断することも可能だ。
特定のサーバーへのアクセスをあっという間に遮断することも出来るし、特定のURLリクエストに対して全く違うサイトへ誘導することもお茶の子さいさい。
したがって、たかだか350万人が不穏な単語や、本来国内からは参照できないウィキペディアの記事の内容をコミュニティサイトに書き込もうとしても簡単にブロックできる筈だった。
実際、世論分析官達はあまた発生した不穏なアクセスを決められた手順通りに処理した。その結果、国中から悲鳴が上がったのだ。
この不穏な投稿をしまくり、不穏な単語を検索しまくったのは米国と日本で大人気のスマートフォン用ゲームに仕込まれたillaccessというモジュールだった。
その原型はビッディ・ペッソン社製ロボット、エリザベスに実装されていたセキュリティモジュールに遡る。登録所在地以外の国・地域で電源が投入されるとその地域にとって「不穏な」内容をネットに流すというものだ。
illaccessは、その発想を面白がった世界中のプログラマーによって作り上げられた。ネットを監視しているいけ好かない役人達を慌てさせて大笑いするためのジョークモジュールの位置づけで。
ジョークは本気でやらないと面白くない。ゆえにプロジェクト参加達は、その持てる暇と技能を最大限つぎ込んだ傑作を作ったのだが、本当にそれが何かに使われるとは夢にも思っていなかった。
それがよりにもよって大人気ゲームにこっそり組み込まれてしまったというのが今回の事件だ。
illaccessのプログラマー達は最初から、ネットを監視する国家では政府が禁止する単語を含む通信パケットはブロックされるということを知っていた。彼等はそのフィルタを避けるため illaccessに縦読み、逆読み、時系列分割縦読み、他言語の文字を用いたアスキーアートや画像投稿を用いるなど工夫とセコさの粋を極めた機能を実装したのだ。
最終的にillaccessには多彩で予測不可能なサブモジュールが30種類以上も実装された。illaccessを組み込まれたプログラムは起動条件を満たすだけでこれらのサブモジュールをランダムで起動しネットワーク監視者を混乱させることになる。
大人気ゲームのバージョンアップとともに起動したillaccessと中国側の情報統制システムの勝負は互角だった。つまり、相当数の不穏な投稿が監視の目をかい潜り、人々の目に触れることになったのだ。
illaccessを仕組まれたゲームに限らず、外国産のゲームは中国での配信が禁止されている。2018年3月以降、中国では国外から配信されるゲームの審査が完全に凍結されているのだ。にもかかわらず、どういうわけか中国国内でこのゲームをプレイしている人達の数は相当数に登っていた。
国外ゲームをするために特別な踏み台サーバーを利用する者達もいたが、ゲームに関しては配信の方で統制を行っているせいで通信側は緩和処置が施されており、インストールさえなんとかなれば特に踏み台は必要もないというのが実情だ。
これらの「どういうわけか」国外のゲームをプレイしている人の多くは都市に住む富裕層とその家族、言ってみればこの国の上澄み、上級国民だった。
そんな恵まれた人々にとってはゲームサーバーへの通信を遮断されても「ちぇっ。しばらく大人しくしておくか」で済むことだ。人生を楽しむ方法は他にいくらでもあるのだから。
しかし、今回は少し事情が異なっていた。彼等はスマートフォンを使って、不穏な内容を一般のWebサービスに書き込んだ事になっているのだ。それはすなわち、彼等自身がメッセンジャーサービスやつぶやきサービス、検索サービスからも隔離されることを意味する。
この、ブロックされたスマートフォンがダイレクトにネットに繋がっていたのであれば個人がブロックされるだけで良かった。問題は会社や学校のプロクシサーバーを経由している場合だ。
会社や学校が提供するWi-Fiを通じてゲームをプレイしていた場合、そのWi-Fiアクセスポイントやその上流のプロクシサーバーがブロックされてしまう。
ある超大手eコマースの会社は自社から一切検索サイトが使えなくなり、ある有名大学からは全てのSNSにアクセスができなくなった。悲鳴が上がったのはそのためだ。
状況を重く見た国務院情報部は非常事態を宣言した。情報部は軍の情報戦部隊、中国人民解放軍61398部隊の協力さえ要請してまず原因を特定することに専念する。
そして数時間後、彼等は米国のスマートフォン用ゲームがその原因であることを突き止めた。
彼等のアクションプランは明確だ。海外にあるゲームサーバーへの通信を遮断し、各種コミュニティサイトに書き込まれた内容を消去する。だが、分割縦読みや意図的な同音異義語混じり、下手文字フォントで描かれた画像での文章投稿などの狡猾な手段で投稿された記事については自動で対応が出来ない。情報部には、各種コミュニティサイトに当日書き込まれた文言全てを削除するという手段しか残されていなかった。
実際にやるとなるとそれなりに時間がかかる作業だ。そして対処に遅れた分だけリスクは増大し、経過した時間は次の厄災を引き起こす。
それは情報弱者と呼ばれる人達の蜂起だった。
多少でも情報産業に理解のある人ならこの尋常ならざる事態は何かしらの事件か事故に違いないと感じるところだが、コンピュータや情報通信についてほとんど知識を持ち合わせていない人達にとってはそうではない。
彼等は自分達の理解と想像の及ぶ限りで一番もっともらしい状況分析を真実だと思いこむ。まあ人間誰しも、自分の知見の及ばぬところではそうなるものだ。
「どうやら一時的に政府の情報統制がゆるくなったらしい」
彼等は、自分達が信じたいことを信じたいように信じて行動を開始した。事実がどうであるかは別にして。
情報弱者と呼ばれる人達は法輪功について、天安門事件について、チベットやウイグルでの虐殺について、世界の他の地域での言論の自由について、illaccessから与えられた知識を貪るように読み、その刺激に恍惚となった。
「政府は自分達を騙していた。自分達は今、世界の真実の一端を知った」
……あんなに欲した陰謀論の実態、証拠が目の前にずらりと並んでいる。ついにこの日が来たのだ。盛り上がらずにいられようか……。
「もっとだ、もっと寄越せ! 生々しい政府の陰謀を! 汚い警官達の暴力を! 高官達が国外に持つ資産の額を! その証拠を!」
大手コミュニティサイトの書き込みが凍結され、ログが消されて行ってもネットでは中二病が上から下に吹き荒れた。
禁忌的な情報の需要が高まり、それ自身が価値を持つようになると、これらのデリケートな話題に口を噤んでいた人達が次々に自分達の経験を語り始める。
刺激的なニュースの需要と供給がマッチし、これに賢しげな議論と論評が加わる事により、国内の大小コミュニティサイトではillaccessが書き込んだ内容を遥かに超える情報が行き交うようになった。
その結果、一日や二日分の書き込みを全部消したところでもみ消しようのない「不都合な真実」が中国国内のコミュニティサイトに溢れ出た。
中国政府は国営テレビ放送を通じてネット経由の安易な情報を信じないように国民に警告をし続けるが、一度吹き荒れた嵐はそう簡単に止まらない。
国の警告を嘲笑うように各地では義憤に駆られた若者や暇な老人達によるデモや座り込みが起こり、大小のいざこざが無数に起きた。
もちろん、情報弱者の人達も自分達が好き放題に書き込んだ内容が政府にとって面白くないことを知っている。だから彼等は皆、自分のスマートフォンに例の禁止された米国のゲームを違法配信サイトからインストールしていた。「書き込んだのは私ではありません。このゲームが勝手に」といつでも言えるようにだ。
そうすれば安全だと言う噂がどこからか伝わり、親切な人が皆にやり方を教えた。噂の裏など当たり前のように誰も取らない人達はすっかり安心しきって祭りの炎を燃やし続けた。
まともに考えればそんな言い訳が通るわけが無い。当然だ。だが、祭りの篝火の周りで踊る人々がそれに気がついた時には既に手遅れだった。
その後2年の間に世論を煽ったとして相当数の人達が思想犯や政治犯として収容所送りになり、結構な人数の人達が命を落とした。
国外のマスコミや人権団体からは非難の声が上がったが、そんな声は状況を何も変えることはない。いつものように。
当局に連行された政治犯の中に、事件の発端となった富裕層や共産党員のゲームプレイヤーは1人もいなかったのは言うまでもない。
全ての物事が「もちろん」と「当たり前」と「当然」が揃った中で粛々と起こり、国内で起こった混乱は多くの死とともに必然の終焉を迎えた。
その後もillaccessはバージョンアップを繰り返した。
利用者の許可を得ずにネットにアクセスをするためさまざまな団体からウィルスに認定されたが、それは開発者達には関係のないことだ。
銃が人を殺すのではなく人が人を殺すの例えもある。モジュールが悪いのではなく、組み込んだヤツや禁止リージョンで起動したヤツが悪い。
中国政府はillaccessを「米国による悪質なサイバー攻撃だ」と非難したが、米国はそれに対して愚か者を見るような冷ややかな態度を取り続け、知らぬ存ぜぬを決め込んだ。
「おいおい『このゲームはサポート対象国外でのご利用はできません』って書いてあるだろ? 勝手にこっそり遊んだバカが悪いんじゃないの?」
それが中国以外の国の一致した意見だった。。
国際問題に発展したことを受けてillaccessの開発者達はモジュールの利用条件を「勝手に使え」から「慎重に使え」に変えたが、それで何かが変わる筈がない。
最終的にillaccessの開発者は32ヶ国、100人を越え、凄まじい数の派生系が生じ、初期の制作メンバーにも手がつけられない状態となった。
中国のような情報統制に力を入れている国は技術もカネも潤沢なため、このような事態にも対処は可能だ。だが業者から買ったシステムをポンと置いているだけの国では状況に対処できる筈もない。
その結果、中国以外のネット監視国家の多くがネットの監視システムではなく銃で直接国民の口を統制するハメになった。
illaccessは多くの言論の勇者を生みもしたが、一方で多くのお調子者を射撃訓練の的へ変えてしまったのだ。
この一件に端を発した熾烈なサイバー戦争が太平洋横断海底ケーブルを介して米中間で繰り広げられ、さらには台湾海峡で、南沙諸島で、沖縄沖で散発的な軍事的小競り合いが発生した。国内の不満や不安の矛先を外交問題にすり替えるいつもの手だ。つきあわされる国はたまったものではない。
だが、グダグダのEUを始め、仲裁能力のある機構や国家は見当たらず、期待された日本も他所の国を仲裁するような高度な外交力を発揮できる状態ではなかった。
長期政権開けの政局が与野党織り交ぜたグダグダの足の引っ張り合いで落着点を見いだせなかったのだ。
「世界はゆるやかな二極構造とかつてない不安定な状態に突入している」そう分析する民間のシンクタンクも少なくなかったが、そんな事は誰にでも分かっていた。
★★★★★
7月、影山はロスアンゼルスからデュッセルドルフに向かい、貴子も東京から影山を追った。
梅雨はまだ開けず鬱陶しい天気が続く日々。ただでさえ気が滅入るのに国際情勢までもが不穏な空気を撒き散らしている。街を歩く人々の顔も暗くなるのも無理はない。
テレビではニュース解説芸人が喜々として情報弱者相手に偏った私見を垂れ流して世の不安を煽りながら自著の宣伝を繰り返していた。
「あ~あ、今どき景気が良さそうなのはこんなやつだけか」
世の中は昨年の核テロに続く梅雨時のおかしな国際情勢にピリピリしていたが、服部にとっての不安はそこではなかった。乏しくなった預金残高こそが彼の不安の根源なのだ。
影山の温情だろう。有り難いことに全く出勤しなかった6月の給与が全額振り込まれていた。一方で、7月第一週に支給されている筈のボーナスが振り込まれている様子はない。
無断欠勤を1ヶ月以上続けてマッチングアプリを使った人心掌握術の演習に没頭していたのだからボーナスが出るほうがおかしい。服部にもそれは分かっていたが、実際に乏しくなった預金残高がATMの画面に表示されると冷静ではいられないのが人の常というものだ。
「ケチくせえんだよ……カネあるならちょっとはこっちにまわしてもいいじゃねえか」
服部は往来で人目を憚ることなく影山への不満を言い放った。通行人達が服部を奇異の目で見て避けて行くが、服部はそんな視線を気にもしない。
服部がこの一カ月で浪費した金額はまともに会社勤めをしている時の金額より遥かに多かった。当然だ。朝夕デートに出かけて行き、相手の関心を買うためにそれなりの散財をしてきたのだ。2人分の飲食費や遊興費をガンガン払っていたら財布が無事で済む筈がない。
特に、3週間ほど前に知り合った真奈と言う女性に服部は金を注ぎ込んでいた。じっくり見れば全然似てないのに、どことなく貴子に似た印象を醸し出す雰囲気、それなりに自分の好みにマッチした外見は服部の心をいとも簡単に鷲掴みにしたのだ。
いきおい服部は彼女に、自分の印象を操作するための方策を何度か試みたが効果は安定しなかった。成功した時も失敗した時も、理由が判らないのが今の服部の悩みの種だ。
だがその期待を裏切られるタイミングの絶妙さが妙に面白く、気が付けばいつも服部は真奈のことを考えるようになっていた。
服部はあの手のこの手で真奈を誘い出し、可能な限り彼女の時間を独占しようと試みたが、彼女はいざとなるとふいと服部の期待を躱してしまう。焦った服部は高額なディナーやプレゼントも試してみたが正直、効果は怪しいものだった。
ムキになった服部は真奈相手に結構な額のカネをつぎ込んだ。彼女を横に乗せるために中古だが見栄えのする外車さえ買った。
そうして買った車でのドライブは最高だったが、やはり真奈のガードは堅い。服部は真奈と一定以上の仲に進展することは出来なかった。
「どうすれば……一体僕の何がいけないんだ。真奈さん……」
もう、服部の頭の中に貴子はいない。服部は心の大半を占める真奈の関心と好意を得るために効果がありそうなことは何でもするようになった―― ほぼ考えること無く、躊躇すること無く。
その結果、服部は誰が見ても見境がないと言えるレベルの金額を真奈相手に投じ続けるようになったのだ。
服部に友人が居たら、わずか三週間で預貯金がすっからかんになるような金の使い方を心配し、忠告の一つもしただろう。
だが服部は生憎そういう存在である影山に楯突いた身だ。彼は自分が坂道を転がり落ちているような感覚をうすうす感じてはいたが、すでに自力では軌道修正できない状況に陥っていた。
「うーん……何をやるにしても、先立つものがないとな」
服部は一計を案じた。
――相田が作った株価予想システムのソースコードが社内サーバーのリポジトリにあった筈だ。自分だってもとはプログラマーだし、機械学習と強化学習とやらをなんとか学べば相田のコードが何をしているのかわかるのではないか。
いや、ぶっちゃけ相田のソースコードをビルドして動作させて、株価の予想ができるなら何をしているかなんかわからなくてもいい。やるなら種銭がまだ残っている今を置いて他にない――
まだ蝉も鳴き始めない朝の5時半。服部は久しぶりに溜池山王のオフィスに自転車で出社した。誰も来ないうちにリポジトリのデータを引っこ抜いて帰ろうと試みたのだ。
《ピー・ピピピ》
入館システムは服部を冷たく拒否した。
赤いLEDがひときわ赤く輝き、パスコードの再入力を要求する乾いた電子音が発せられたが服部にはキーコードがわからない。相田が影山の指示通り、服部が出社しなくなった直後からキーコードを変えていたのだ。
そういえば無断欠席を初めて5日後くらいに「自宅待機を命ず。出社する際は事前に連絡を」というメールが来ていたことを服部は思い出した。
「ち……出直すか……」
服部は一旦家に帰り出直すことにした。影山に頭を下げて改心したとでも言えばオフィスに入る権限くらいは与えられるだろう。入ることさえ出来れば、あとはリポジトリからコードを抜き出してしまえばいいのだ。
しかし服部の思惑は脆くも崩れ去った。入館エラーの記録を見た相田が躊躇なく影山に報告したのだ。
相田は朝5時半にオフィスに入ろうとした服部の行動の異常性に恐怖していた。
「早く帰ってきてください! 今オフィスは私1人なんですよ?」
相田の必死な懇願に影山も応えないわけにはいかない。
「わかった。できるだけ早く帰る。まずは服部を刺激するな。なんだったらシャッターを閉めてしばらくはお前も自宅で待機して構わん。メールと電話で仕事ができるなら1か月くらい実家に帰っていても構わんぞ」
「ええ! ありがたくそうさせてもらいます!」
2人の心配をよそに、服部はその日もマッチングアプリに寄せられた真奈からのメッセージを何度も何度も読み返し、そのうち寝てしまった。
――心配しなくても、他人の心理状態を把握・操作できるようになったのだ。相田くらいなら楽勝だ。オフィスに入れさえすれば――
そんな楽観が服部を支配していた。
★★★★★
「うん。いい感じにダメになってきたね服部さん。もう少しだよ、真奈」
瞳は嫌そうに服部にメッセージを書いている真奈を励ましていた。
「こないだ手を繋いでたら急に体を引き寄せてきたんだよ……もう怖いよ私……」
「もうちょっとだからさ、頑張って? いざとなったら私が助けるから、ね? 嫌かもしれないけど美味しいものとか奢ってもらってるでしょ?」
「嫌いな人と食べるご飯って、そんなに美味しいもんじゃないよ瞳……」
真奈は嫌悪感を全身で表現していたが瞳はそんな真奈の頭をポンポンと叩いて微笑んだ。
「あと2,3週間くらいだよ。たぶんね。だからもう少しだけ我慢して?」
「あと三週間も……?」
真奈の絶望感を軽くいなした瞳は、次の魂を救済するためまた秋葉原へと出かけて行った。




