第七話:逃避行への誘い
「影山さん、今のご自分の状況をちゃんと理解してますか?」
相田と市川さんとのランチミーティングの翌週、俺は市川さんに会議室に呼び出された。
「え……と。あの、異性の社員と一対一でミーティングするのはアレだったんじゃ」
「私からのミーティング要請ですし、影山さん、何もしてこないでしょう? それとも私に何かします? もしそうなら今すぐ悲鳴を上げて助けを呼びますよ。そうでないならこのままお話を続けたいんですが」
「はあ。確かに市川さんになにかする度胸はありませんね。どうぞ、悲鳴をあげることなくお続けください」
なんだろう。市川さんの口調が厳しいぞ。表情も、普段に増して厳しさを感じる。
「では……まず先週末、中山くんと相田さんにも焼き肉を奢ってあげたそうですね? 結構いい肉を」
「ええ、おごらないといつまでも不平を言いそうなので」
「相田さんについては先週のケアレビューでガス抜きをしたつもりだったんですが、無理でしたか……。それで、その時の金額は?」
「それ、関係あります?」
ちなみに3人分で10万4800円。今回は俺も若返った胃袋に流し込むように食ったので後悔はない。
「関係あるから聞いてるんですよ。ぶっちゃけた話、今、影山さんは上層部から目をつけられているんです」
「何で俺が上層部に目をつけられるんですか。相田とのメシにはちゃんと中山も誘って一対一になるのは避けましたよ。
金にしたって、競馬で勝った金で後輩にちょっと贅沢な肉を奢った、それだけじゃないですか? エライ人達はヒラがいい肉を食うのはけしからんとでも言うんですか?」
一通り俺に喋らせると、市川さんは、ふぅ、とため息をついた。
「影山さん、あなたの仕事って何でしたっけ?」
「知ってるでしょ。エンジニアですよ。人工知能システムの構築が最近までの俺の仕事です。……で、それがどうかしましたか?」
「影山さん、あなたが奢った肉の代金は、何で稼いだものですか?」
「競馬ですよ。宝塚記念の三連単。いけませんか?」
「いけないことはないですよ。税金とかどうなるか私は知りませんけどね。それで、今私が問題だと思ってることはですね……上層部が、『影山さんは人工知能を使ったすごい精度の競馬予測システムを作ったんじゃないか』って言ってることなんです。
実際、この間テストが終了した株価予測システムはすごい成績を上げてるじゃないですか。今のところ非公表ですが業界最高スコアですよあれ。親会社の銀行で話を聞きつけた運用部の人達が、発注主に渡さずこっちによこせと言ってきてるくらいです」
それを聞いた俺は頭の中が真っ白になった。
ああ……そこかぁ……。
考えてなかったぁ……。
そうかぁ……。
あははは……。
しまったなあ……。
うふふ……。
迂闊だったなあ……。
どうしよう……。
三秒ほどフリーズ、そして再起動。強化されたメンタルのおかげか早い。
調子に乗った服部が宣伝をやめないせいで俺の財布の分厚さはすでに部署の中では知らぬ者が居ない程になっている。飛騨牛が米沢牛になり、奢ったとされる金額が数倍に膨れ上がり、完全に噂は独り歩き状態だ。
金を持ってる筈が無いヤツの金回りが急に良くなると、その理由を是が非でも知りたくなる人間は一定数存在する。そしてそういうヤツらは本当のところはどうでも良くて、与えられた情報から自分が納得したいように推測するものだ。
俺の仕事と競馬の予想の間には勘ぐれば納得できるだけの関係もある。で、俺が競馬予想システムを作ったのではという珍説が俺の周囲ではほぼ確定された事実に……と、こういうことか。
「仮にそれが事実だったとして、それで何で上層部に目をつけられるんですか?」
「私も、例えばって形でしか教えてもらえてないんですけどね。例えば、『うちの社には的中率のすごい競馬予想システムを構築できる人工知能エンジニアがいる』という風聞はそれなりに営業ツールとして使えるそうです」
「やだなあ。それ、絶対に『じゃあ、やってみせろ』って言われますよね」
「そうですね。他の例では、影山さんの予想した勝馬投票券を発注側の担当者に渡して受注を有利にしたりするなんてことも」
「なんだそれ? それは賄賂なんじゃないですか?」
「レースの勝敗が決るまではただの紙切れですよ。宝くじを贈ったりすることもあるじゃないですか。そもそも、贈収賄が罪になるのは公務員とそれに準ずる身分を持つ者に限られますし……。
まあ、私も法律については詳しくないのでなんとも言えませんが、そういうことを言い出す人がいるってことです」
「なるほど」
「もし影山さん作の競馬予想システムなるものが存在し、それが馬の血統に関連しているものだとすれば、競走馬の生産に関する血統コンサルティング業を始められるのでは、と言う人も居ましたよ」
「それでか。最近、中途半端に襟を立てて口を開けば起業だ投資だとウェイウェイ言ってるおかしなヤツらが俺をチラチラ見てるのは……」
「SNSに毎日のように飲み会の写真を上げる人達はマジで影山さんのことを狙ってますよ。影山さん、完全に彼らにターゲットロックされてます」
「で、市川さんはその競馬予想システムを俺が本当に作ったかどうか、確かめてこいと言われたんですか?」
「確認はしてくれとそれとなく頼まれましたよ。ですが、私は影山さんがそんなもの作ってないと思ってます。
影山さんが競馬新聞を読んでるところなんて見たこともないし、今まで馬券自慢をしたのも聞いたことがないですからね。もし、秘密で開発していたのなら当たり馬券が出たとたん派手な行動に出るのもおかしいじゃないですか。
何より、20連勤のデスマーチ中にそんなものを作ることなんかできないでしょう?」
「そのとおり、俺は馬券の予測システムなんか作ってませんよ。あの日はたまたま浅草のウィンズで気の向いた馬券を買っただけ。だから、賭けたのもほんの五百円ほどです。
もし俺がそんな優秀なシステムを作っていたら、せめて5万円は賭けていたと思いませんか?」
「私は影山さんをよく存じ上げてますから、そうなんだろうなあと信じることはできるんですけどねぇ……。それでですね、影山さん、ご自宅の戸締まりとPCのパスワードロックは厳重にしてます?」
「どういう意味ですか?」
「今はまだウワサの初期段階ですが、そのうちあなたの家に押しかける者、あなたの留守中にあなたのパソコンを盗み出そうとする者、あなたをグデングデンに酔わせてヒントだけでも聞き出そうとする者、あなたのパソコンの中身を盗もうとする者などが出てくるだろうということですよ。特にギャンブルに負けて借金でクビが回らないような状況に陥った人は噂だろうがなんだろうが……ホントに何をするかわかりませんからね」
「なんか、すごいリアルで怖い話ですね」
「私もビットコインで大負けした時、頭に血が上ったことがあります。
人間、お金で精神状態も行動も大きく変わりますからホント気をつけたほうが良いですよ。最悪、身柄を拘束されてあんなことやこんなことをされるかもしれません」
もう、俺のテンションはだだ下がりだ。俺が地球と人類の行く末についてやきもきしている間、俺の回りの人達は皆、俺を食い物にしようと手ぐすねをひいていたというのか。
「具体的に、どうすりゃいいんでしょうね」
「競馬予想システムが本当にあるなら、いっそJRAに買い取ってもらうのも手でしょうね。彼等は何百億円出しても買い取ってくれると思いますよ。だってそのシステムが流出すれば今後競馬の興行は成り立たなくなるんですから」
「うわあ残念。予想システムあればよかったのに」
「ないなら、これから影山さんは噂の競馬予想システムがないことを証明するという悪魔の証明をしなくてはならないでしょう。しかも自分の周囲に気を配り、防犯やクラッキングに最大限に気を配りながら、です」
「めんどくさいなあ。会社辞めようかな……」
「それはよしたほうがいいですよ。会社辞めたりしたら、それこそ予想システム一本で食っていくって言ってるようなものじゃないですか。拉致コース一直線です」
どうしろって言うんだ。ほんと。
「そこでですね……システムがないこと前提で、個人的に影山さんに情報提供……というか提案があります」
「なんでしょう?」
「部長から聞いたんですが、うちのグループに商社があるじゃないですか。そこから、コンピュータが分かる人で海外勤務が出来る人を2,3人欲しいと言ってきてるらしいんですよ。
影山さんTOEICとか900点超えてましたよね? ほとぼりが冷めるまで、海外に逃げるというのはどうでしょうか? 来週から社内募集があるそうですけど、応募してみません?」
「なるほど。確かに俺の危険は減りますね。でも、たかが噂で海外逃亡とか、話が大きくなりすぎてるような気がしますよ。大丈夫なんですかうちの会社?」
「まぁ……株価予測システムの成績が良すぎたのが仇になりましたね。あれで噂の信憑性がぐっと高まりましたから。
馬券の時期も悪すぎました。自分の評価が高まったことで自分の首がどんどん締まるなんておかしな話ですけど、私もびっくりしています」
「確かに……。ところで、馬券システムの存在確認は上から言われたとして、まだ未発表の社内募集案件まで教えてくれるなんて、市川さんはどうしてそんなに俺に親切にしてくれるんですか?」
市川さんはちょっと困った顔をした。
「うーん。影山さんのお肌が最近やけにピチピチだからかなあ?」
「……今の、セクハラですよね」
「どう取ってもらっても構わないですよ」
……どう取ればいいんだろう……?
◆◆◆◆◆
それから一週間。
俺は、普段あまり話さない連中から何度も飲み会に誘われるようになった。ウェイウェイやかましい連中がやたらと起業家を目指す人達の集まりとやらに俺を誘ってくるのだ。
そして同時に、気が抜けない日々がやって来た。
家のカギの回りに細かい傷が日毎に増えていたり、会社では俺が離席している間に誰かが俺のパソコンにログインしようとした形跡が何度もあったり。まさに市川さんの言っていたとおりの展開だ。
そんなことが重なるに連れ、俺は日常生活の一挙手一投足を慎重に行わざるを得なくなっていった。
しかし、この会社は銀行の直系子会社で社員もそこそこ良家の子女の筈だろう? どうしてこんなにおかしな連中で溢れてるんだ?
そんな怪しげな周囲の空気に惑わされながらも俺は市川さんに勧められたとおり部長と相談した。もちろん、海外勤務が前提の系列商社への出向に手を上げるかどうかについてだ。
「人工知能部門には相田もいるから俺が抜けてもそこまで極端な戦力ダウンにはなりません。それよりも、このままだと社内から犯罪者が出るかもしれませんよ」
犯罪者のくだりが効いたのだろう。俺の渾身の説明に部長も納得してくれ、俺はめでたく部長推薦をもらえた。
系列商社への出向が決まったのは夏も過ぎた9月のことだった。