第六十六話:市川さんと貴子さん
「ふうん……楽しかったんだ? 良かったわねえ……で、ヤキイモって何?」
オフィスから飛び出して羽田へ向かおうとした矢先、俺は聞き覚えのある声に呼び止められた。
日本人とは思えないプロポーション。やや眉間にシワが寄ってはいるが整った顔立ち。そう、市川さんがすぐそこに立っていたのだ。
「まったく……成田からまっすぐこっちへ寄ってみたんだけど、相も変わらず飛び回ってるのね」
「市川さん! 影山さんに何か言ってやって下さいよ。こないだなんか新しく入った壬生さんとクルーザーで別荘に行ってたんですよ。ケシカランです! 綱紀粛正お願いします!」
服部め、市川さんに告げ口して俺の行動を制限する腹か。先日の志摩旅行が相当腹に据えかねているようだな。
だけど、きちんと報告するなら「新しく入った壬生さんに誘われて、壬生さんのお父さんと一緒にクルーザーで別荘に招待されたんですよ!」だ。意図的に情報を抜いたり歪めたりしているあたり敵意でいっぱいだな服部。
そうか。お前はそういう奴か。
「下で詳しく伺おうかしら。誰とどこに行ったんですって?」
市川さんは親指で背中の方にあるドアを指さした。二人で話があるということか。俺は市川さんに連行されるような感じで服部達の居るフロアから、階下の役員フロアへ向かった。
「俺が週末にどこに行こうが市川さんには関係のない話だろう? とやかく言われる筋合いは無いと思うが?」
「何ヶ月か前なら素直に『あらそう』で済ませたけどね。影山さん、あなた帰国前にロスに寄って私に何か相談してたわよね? 自分の脇が甘いとかなんとか。ああいう話をした後で、どうしてそんなに脇を締めずにいられるの? 相談に乗った私がバカみたいじゃない」
「あ……」
言われてみればその通り。俺は自分の行動の端々をクロエに分析され、そのセキュリティ意識の甘さから自分自身を危機に陥れていたのだった。
市川さんにその相談をして舌の根も乾かないうちに、いくら壬生さんが同行してたとはいえかなり軽率な行動を取ったのではないだろうか。彼女はそのことを言っているのだ。
「……すまん」
「わかってんならいいわよ。で、どこ行くの?」
「……高知に行って、その後長崎に」
「間引き絡みの話?」
「うん……」
「じゃあしょうがないわね。アレ絡みなら私は影山さんのこと邪魔する気は全くないのよ。
ただ、服部君がああなってしまっているのはどうにかしないとね。壬生さんのお嬢さんですって?」
「ああ、貴子さんって言うんだが、服部の好みにどストライクらしい」
「ふうん……とはいえあまりにも生活レベルが違うとなかなか上手くいかないものよ」
「そうだよな。俺だって岡山じゃ市川さんの家に上がれもしなかったもんな」
「それを言わないでよ。悪かったと思ってるんだから……親はともかく私は。そういうことじゃなくて、服部君には服部君にお似合いな人が見つかればいいなって言ってるだけよ」
「そうだな。俺の精神的な健康のためにも是非見つかって欲しいもんだ」
そんな人が居ればだがな、と言おうとしたがやめておいた。壁に耳あり障子に目あり。言わなくても市川さんには伝わっているだろう。
俺と市川さんが二人して苦笑いしていると、役員室の扉がコンコンとノックされた。
「どうぞ」
扉を開けておずおずと入ってきたのは貴子さんだ。
「失礼します……影山社長。相田さんが『市川副社長が帰国しているから是非挨拶に行った方が良い』と仰るのでご挨拶に参りました」
貴子さんは市川さんの方を向いて軽く会釈し、市川さんも立ち上がって貴子さんに丁寧に会釈をした。
「5月よりこちらで財務経理を担当しております。壬生貴子と申します。影山さんにはいつもお世話になっております」
「市川です。ようこそ影山物産へ。歓迎します」
ここでラノベなら美女同士が主人公の俺をめぐって火花を散らせるところだろう。
しかし、あら残念。火花どころか和やかムードだ。市川さんも貴子さんも俺の発言を待つかのように同時に俺を見たかと思えば、お互いを見つめあったりしている。
俺は二人の間で何が起こっているかも分からずオロオロしていた。発言をするタイミングすら掴めない。闇の中を泳いでいるような心許なさだ。
「ふふ、そろそろいいんじゃない? 私もう限界……」
「そうね。これ以上はちょっと可哀想になってきたわ」
二人は互いにパチンと目配せをすると、互いに手を取り合い、1オクターブ声を高くして喜びの表情を爆発させた。
「久しぶりね、イッチー。立派になっちゃって!」
「何年ぶりかしらね。貴子」
それを見た俺はさらなる混乱に陥った。イッチー? 市川さんのことか? え? 知り合い? しかも何年も前から?
「一人だけ、状況がわかってない可哀想な人がいるわ。貴子、説明してあげて」
「くそう。人をアホ呼ばわりしやがって。ええどうせアホですよ。早いとこ説明してくれ」
「あー、はいはい。えーとですね影山さん。イッチーこと市川さんと私は同じ大学の同級生だったんですよ。それが巡り巡って今や二人は上司と部下! なんというか、人生分からないものですね⁉」
「なるほど……世間は狭いな」
「黙っててごめんなさいね。お正月に壬生さんちに行くって聞いた時、もしかしたらと思ってたけどまさか本当に貴子と会ってるなんてね……」
ああ、初めて壬生さんと空港で合った時に壬生さんのことをいろいろ知ってたのはそれでか。友達のご家業で、しかもこれだけ特徴的だとそりゃ覚えてるよな。
「あーだけどイッチー、影山さん結構な堅物だったわ。試しに電話番号渡してはみたんだけど、お父様のアポとって欲しいって一本電話があったきりよ。案外身持ちが固いのね、彼」
貴子さんが若干フランクな話し方になっている。これが素か……?
「身持ちが堅いと言うか、微妙にモテないのよね? いいとこまでは行ってると思うんだけど」
本人を前にして何を言ってるんだこいつらは? 人を値踏みしやがって…… あれ、でもいいとこまでは行ってるって言われたな。どう解釈すればいいんだ?
「ところでイッチー、あなた、見た目が大学生の頃と全然変わっていない様に見えるけど、どうしちゃったの?」
ヤバイ。市川さんの肉体年齢は21歳かそこらの筈だ。昔の市川さんを知っている貴子さんを誤魔化しきれるわけがない。
俺は咄嗟に市川さんの方を見た。駄目だ、市川さんは固まって俺を見ている。目が助けを求める子犬のようだ。おい……誰の脇が甘いって?
「ああ、なるほど、イッチーも影山さんのツボ押しを?」
「つ、ツボ押し?」
「うん。私もこの間、お父様に勧められて影山さんに手のツボを押してもらったの。そしたらお肌のハリは戻るし体の調子は良くなるし、脱皮したみたいな新鮮な気分になったの。イッチーもそれを影山さんにしてもらったんじゃないの?」
「あ、うん。そう。それ! 影山さん凄いのよ! 5、6回やってもらうとね、大学生みたいに若返っちゃって……ハハハ……親に『誰だお前』って言われちゃったわ」
それを聞いた貴子さんの顔がにわかにこわばった。
「なんですって⁉ 私がどんなにお願いしても2回目はなかったのに……影山さん! どういうことですか?」
両手で俺の襟を掴み、前後にガクンガクンと揺さぶる貴子さん。もうどうにでもしてくれ。俺は今日ここでは人権を一切認められない哀れな糞虫的な存在なんだろう。
そういえば服部が言ってたっけ。社長より偉い人が何人も居ると組織的行動がどうとか。嘘つきめ。眼の前の二人は見事な組織的行動で俺を攻撃出来ているじゃないか。ふえぇ。
「た……貴子さん、あれは短期間に何度もやると体に悪いんだよ。ある程度期間を置かないと。ツボを押した翌日、トイレとか凄かったろ? アレは体に物凄い負担がかかるんだ」
「なんだ、そうだったんですか。そうならそうと言って下されば良かったのに」
やっと俺の襟が解放された。もうやだ。お家帰りたい。
「ちょっと! なんで貴子が若返りのこと知ってんのよ?」
貴子さんの手から逃れた瞬間、俺は市川さんにヘッドロックを決められて部屋の隅にそそくさと連れて行かれ、小声で尋問された。
市川さん! 胸! 胸が近い! 嬉しいけど嬉しくない!
「壬生さんに頼まれたんだよ。三十路過ぎて浮いた話の一つも無いから、せめて外見だけでも何とかしてやってくれって」
「いくら壬生さんでも頼まれたからってホイホイやってんじゃないわよ! そういうとこが脇が甘いって言われてんのよ!」
「市川さんだってさっき固まってたじゃないか!」
「う……。ええと……いい? ここは私に任せてさっさと行きなさい! 高知だか長崎だかに用事があるんでしょ?」
「お、おう? サンキュー……?」
ヘッドロックを解かれた俺はなんだかフラフラしながら貴子さんと市川さんに挨拶をしてそのまま羽田へと向かった。
市川さんの脇、確かに締まってたなあ……って、脇を締めるってそういうことじゃねえだろ!
俺は思わずタクシーの床をドン! と鳴らしてしまい、運転手さんをかなりビビらせてしまった。違う。俺のせいだけど俺のせいじゃない。
あ、ごめんなさい運転手さん。警察は呼ばないで……。
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貴子が市川に挨拶に行くという話を聞いた服部は役員フロアへと向かった。先程の別荘の話がどうなったのか、当時者がどう語るのか聞いてみたかったのだ。
そして、社長室のドアの前で服部が聴いたのは貴子の激しい抗議の声だった。
「なんですって⁉私がどんなにお願いしても2回目はなかったのに……影山さん! どういうことですか?」
ドアから漏れ聞こえた声に、その内容に、服部は自分の耳を疑った。
影山がそんなクズだったなんて……あれ、いや、もしかしたらチャンスかも? それにしても僕の貴子さんになんてことを……!
自分の勝手な思い込みを信じ込んだ服部は完全にパニックに陥っていた。だが、彼に出来ることは何もない。
ただ一つ出来ることは、怒りを胸に踵を返して自席に戻ることだけだった。




