第六話:マルコフモデルとコンプライアンス
相田を追い払った後、俺は再び報告書の作成作業にかかったが、それも存外早く終わってしまった。数週間ごしのデバッグに比べたら一瞬だこんなもの。
一方、服部に任せている機能テストの方は、結果が出るまでにはまだ少し時間がかかるようだ。
思いもかけず時間が出来たし、レグエディットについて判った事を整理することにしよう。
まず判ったのは、高次元知的生命体が作ったこのゲームとやらは徹底した物理シミュレーションで、しかもマルコフモデルを利用しているということ。
簡単に言うと「未来の状態は今の状態のみに左右される」というルールを採用しているということだ。
よって、俺が何かのレジストリを書き換えたとしても、その影響が過去に及ぶことはない。過去に影響が及ぶことがないので、改変された過去が原因の新たな突拍子もない未来もまた、現出しない。
だから俺が自分の発生時間を24年と10ヶ月前と書き換えたところで、役所の出生届や学生時代の記録が自動的に書き換わるわけでもないし、周囲の記憶が操作されるわけでもないのだ。
あくまで、「今」何かを書き換えたら「次から」それが反映される。
また、物理シミュレータなので、俺のレジストリには父や母の名前もなければ学歴も勤務先も電話番号も住所も所持金も記載されていない。そんなものは高次元知的生命体の物理シミュレーションには無意味な情報だからだ。
そのような情報は、地球人が勝手に社会情報を管理するために構築・使用しているもので、このシミュレーションはそんなものとは関係なくただひたすらに物理現象をシミュレートしていくものらしい。
だから、レグエディットは社会に存在する電磁記録とは相性が悪い。というか、レジストリの情報を書き換えたところで社会に存在するコンピュータシステムの情報が書き換わる事はないのだ。
もちろん、コンピュータというオブジェクトに対して介入出来ない事はないが、データやプログラムに介入するのではなくオブジェクトとしてのコンピュータの何かしらを書き換えることが出来るに過ぎない。
よってレグエディットを使っても、パソコンのケースをステンレスからプラチナに変えることはできてもメモリやディスク上のデータを書き換えることは事実上、できない。
事実上といったのは、できるかもしれないが俺の脳の処理速度よりパソコンのメモリやディスクの内容が書き換わるスピードのほうが圧倒的に速い上に、俺の脳がパソコンへの出力の仕方を知らないからだ。
たとえば、「あ」という文字は最近のコンピュータではE38181という数字として記録される(注1)が、俺の脳にはこのコード変換を自動的に行う機能はない。これができなければコンピュータの電磁記録を書き換えることなど不可能なのだ。
コンピュータへの介入はともかく、生物のレジストリ改編は本当に面倒くさかった。
生物の作りは複雑すぎるのだ。体の作りでさえこれなのだから脳なんて想像したくもないくらい面倒くさいに決まっている。こんなものが75億も動いてたら、俺が管理者でも減らさなければと思うだろう。
そして、レグエディットでは人間の脳は扱えないこともわかった。単純に、人間の脳を解析してレジストリに書き換えるワーキングメモリが俺の頭の中にはないからだ。したがって、俺は他人の思考を左右することはできない。
今でこそ解るが、レグエディットが俺の小脳に書き込まれたのは、「あいつ」が俺の大脳に負担をかけることを避けたためだ。小脳は人間の脳細胞を最も多く保有する器官で、一千億前後の脳細胞を有するのに対し大脳は数百億しか脳細胞を持たない。レグエディットはその差を気にしなければならない大容量プログラムということなのだろう。
レグエディットはおそらく、まず小脳の領域をある程度確保するため、該当領域の脳活動を一時的に停止した後どこかに退避する。その後、どこかに圧縮されて保存されていたレグエディットのプログラムが確保された小脳の領域に展開され実行される。用が済んだら領域が開放され、退避していた脳活動が再ロードされる。この間、退避していた機能、多くは身体の制御機能が損なわれるというわけだ。UNIXシステムでいうメモリスワッピングという仮想記憶システムがこれに相当する。
もし、人間の脳がもっと大きな容量を持っていればこのようなことはしなくても良かったのだろう。「あいつ」にとっては人間の脳は悩ましいほどには大きいが必要な機能をインストールするには小さすぎたのだ。
リソースが逼迫したシステムを持つ、ということがどういうことなのかを「あいつ」は最も実感できるやり方で俺に教えたのかもしれない。
最後に宝くじの件だが、これはまだ実験結果が出ていない。
宝くじの当選確率をくじ券側で書き換えたとして、本当に当選するんだろうか?
宝くじのシステム側に「ここに100%一等賞があたる券があるよ」という事実がどのように作用するのかは結構重要な実験だと俺は思っている。結果を待ちたい。
余談だが、俺の身体知は「絶対イケる」と言っている。
◆◆◆◆◆
「許しませんよ。女子社員と一対一で会食なんて」
プロマネの市川さんが、肉をおごれ、ブランドのバッグをよこせと騒ぐ相田の言動に釘を刺しにやって来た。
いいぞ市川さん。でもなんだか釘を差されているのは相田ではなく俺のような気がする。そうだとしたら理不尽この上ないな。
市川さんは俺より一年先輩の女性社員だ。本来なら市川さんが相田を指導する筈だったのだが、エンジニア志向の相田の指導をマネジメント志向の市川さんが担当するのはどうかという話になったため、相田の技術指導は俺、業務指導は市川さんということになっている。
ちなみに市川さんはその美貌がフロア中に轟く有名人だ。170㎝ほどのスラッとした身長と、同じ人類とは思えない7,8等身のプロポーション。たまに廊下ですれ違う営業部の連中から「廊下の天使」と呼ばれているらしい。
「影山さん、ハラスメントについてのコンプライアンス指導が厳しい昨今、まさか女子と一対一で会食とかしませんよね?」
「もちろんですよ。市川さん。それに相田は会食ではなく金品を俺に要求しているんです。しかも何の見返りも提示せず。これはれっきとしたコンプライアンス違反です」
「ああっ! 影山さん裏切りましたね? いいですよ! バッグはいいです! だから肉! 肉だけでも!」
相田が焦って会話に割り込んできた。
「はぁ……影山さん、見返りを期待して女子社員に金品を渡したらそれこそアウトですよ。会食に話を戻しますが、こういう場合はどうしたらいいか研修でやりましたよね?」
「異性の社員との会食は一対一を避けて行うこと」
「ですね。その方向でお願いします。私もご一緒しますから、人事が早くやれとうるさく言ってきている新人のケアレビューという形でやっちゃいましょう。ノー残業デーの水曜日にでもいかがです?」
「僕もぉぉぉ! 僕もお願いします! お願いしますよ!」
中山だ。涙ぐましいなおい。
「中山さん、今のお話の会食は配属直後の新人のケアのための会食という名目で、会社から一人2000円の予算が出ます。予算の対象者はエルダーである私と影山さん、そして新人の相田さんです。あなたの分は出ませんよ?」
さすが市川さん、そういえばそのなんとかケアは確か先週金曜日までにやれって人事通達が来てたっけ。
デスマーチがあったんで市川さんが人事と調整してくれてたんだよな。
「残念だな。中山。お前には今度個人的になんか奢るから。それに、お前が食いたかったのは2000円のメシじゃねえだろ?」
「うう〜。市川さんと相田さん、二人とメシが食えるならその程度の出費なんて……」
うなだれる中山。
何を妄想していたか知らんが、俺は別にこの二人と合コンするわけじゃないんだぞ。むしろ、綺麗どころを前に仕事の話しかできないんだ。仕事の席で眼の前にメシの皿が置いてあるだけ。そんなものを羨むな。
俺は、心の中で中山に同情しようとして失敗した。
「中山さん、影山さんとのご飯の話はまた今度にして頂戴。じゃ、水曜日、お店予約しておくから。予約取れたら会議通知飛ばすからよろしくね、影山さん」
「解りました……影山さん、こうなったら肉だけは絶対におごってくださいよ。絶対ですよ」
俺の背中に中山の恨めしそうな視線がぶすぶすと突き刺さる。しょうがない。今度あいつを焼き肉につれていってやるとするか。
程なく、市川さんから店と時間が会議通知で知らされてきたので俺は「参加」リンクをクリックしておいた。
◆◆◆◆◆
水曜日のランチタイム。場所は周辺の会社のOL達が昼飯のためにこぞって集うオサレ空間。
そこで俺は市川さんと相田とアラビアータの大盛りを前に緊張していた。
市川さんが相田のケアレビューをノー残業デーにやると言っていたので、俺はてっきり夕食どきにやると思っていたのだ。それがランチタイムを利用して行う予定だったと俺が知ったのはついさっきのことだった。
会議通知はちゃんと見ておくもんだな、と軽く反省。しかし、なんだこの俺の場違い感は?
新人のケアという名の不満聞き取り調査は通り一遍の質問と無難な回答であっという間に終わり、あとの時間は女子会にも似た会食の場となってしまった。
おそらく市川さんはそれを見越してここを場所に選んだのだろう。女子会っぽい場で本音を引き出すつもりでなおかつ自分も楽しむ気だ。さすが市川さん、女子力と仕事双方が鬼レベルだ。
女子二人の会話が弾む中、俺は空気のように扱われていたのでアラビアータで口の周りを真っ赤にしながら二人のたわいない会話を聞いていた。
「それで、相田さんは休みの日は何をしているの? ストレスフルな仕事だからきちんとリフレッシュしなきゃだめよ?」
「大丈夫でっす。学生時代からラノベ書いてるんですが、休日はその執筆をガンガンやってリフレッシュしてます」
「あら、どんな小説? 芥川賞とか直木賞とか狙ってるの?」
「んだから、ラノベですよ。ジュブナイルとか異世界転生とかああいうやつ。最近はWebで公開できるんで出版にこだわらず私みたいな素人でも作品を公開できるんです」
「ああ、私もいくつかはアニメとかでみたことあるわ。へー、そういうの書くんだ……」
「留学生時代、日本語を使う機会がどんどん少なくなっていって『いかん、このままじゃボキャブラリーが衰退する』って思って書き始めたのが始まりですかね。
以前は書籍化の話も来てたんですが、論文と学会で忙しくて、編集さんにメール返せなくなって立ち消えになりました」
「じゃ、出版されてたら今頃、コミックス化とかアニメ化とかされてたかもしれないの?」
「あんま、そっち狙いじゃない感じだったんですが似たような設定のアニメが当たってた時期だったんですよね。
今は異世界転生して魔王になっちゃった主人公が人類を滅ぼすぞーってあれこれ作戦を考えたりするようなラノベを書いてるんです」
俺はアラビアータを食う手をピタリと止めて二人の会話に神経を集中した。
「人類を滅ぼす? なんかどぎつい内容なのかな?」
「あたしの小説では、魔王が人間の滅ぼし方をいろいろ考えるってのがストーリーのコアなんですよ。
チート能力を使って急に天変地異を起こしたり、魔王軍が人間を大量虐殺したりすると勇者が現れて、逆に魔王が殺されてしまう。だから寿命が長いことを利用してできるだけ穏便に、勇者が現れないように、自然に人間の数を減らしていくってストーリーなんです。
毎回滅ぼし方を考えるのが大変です」
なんというご都合主義! なんというタイムリー! こんなところに人口削減のネタ……いや、俺と悩みを同じくする人間がいたとは!
言ってることも妙に納得が行く。確かに人間は馬鹿じゃない。俺の行く先々で大量虐殺が起こったり石が金になっていたりしたら当然俺は疑われて、勇者ではなくどこぞの国家保安組織とか軍とかに身柄を拘束されて誰にも知られず消されてしまうに違いない。
「URLかタイトルを教えてくれ……読んでみるわ」
この流れなら会話への乱入はアリだろう。どこにあるんだそのアンチョコは……教えて欲しい! 是非読みたい!
「やですよ。職場の人に見られることを想定して書いていませんもん」
要求はすげなく断られたが、まあ、ストーリーとジャンルを聞いたし、あとはキーワード検索でなろう系サイトを回れば見つかるだろう。
こうして、中山垂涎のランチミーティングは穏便に終了した。他の二人にはどうだったかわからないが、俺にとっては大収穫のランチミーティングになったかもしれない。早速、相田のラノベを見てみなければ。
その日のうちに、相田のラノベのタイトルは見つかった。
★転生したチキン魔王は人類絶滅の詔を下す。ただし猶予は300年★
作:アイーダ月ヶ瀬
……名前がアイーダって……別に隠す気は無かったかもしれんな。
俺はしばらく相田のラノベを読み耽り、ネタに喜ぶとともに少し困ったところも見つけた。服部と中山っぽいキャラのBLシーンがあることはあいつらには伏せておかなくては……。
(注1) UTF-8の場合