第五十五話:休眠卵
翌日、俺とデルフィノさんはレンタカーでサンパウロから北西に150㎞のところにあるチエテという小さな町に向かった。クルージング等の観光アクティビティで知られるチエテ川にほど近い、小さいがどことなく郷愁を誘う街だ。
なんとなく小学生の時の夏休みを思い出す。この街は俺が育った日本の片田舎にそっくりなのだ。
「なんだブラザー、その白くて気持ちの悪い芋虫は」
俺が持っている白い芋虫を見て、デルフィノさんたら気持ち悪がっていらっしゃる。女子高生でもあるまいに……。
「これはカイコガっていう蛾の幼虫だ。こいつの繭から絹が採れるんだぜ。中国じゃこれの蛹を唐辛子で炒めて食うんだそうだ。俺の国でも蛹を食っていた地方はあるらしい。食えばなかなか美味くてデルフィノさんも気に入るかもしれないよ?」
「止めてくれ……俺もサバイバルでいろんなものは食ってきたが、普段食わないものってのは、食わなくていいならそれに越したことはないんだ」
ここチエテは20世紀中盤から後半にかけて、日系移民が主体となって大製糸工場を操業し、養蚕をブラジルの一大産業に押し上げた土地だ。
20世紀初頭にイタリア系移民によって始められたブラジルの養蚕は、20年ほどもすると日系移民が参入して拡大を続け、外貨獲得のための主要産業へと成長していった。
ブラジルの養蚕業の中心はその後、隣のパラナ州に徐々に移って行ったが、ここチエテにはまだカイコを飼っている農家も多い。俺は道沿いに生える桑の木を探して車を走らせ、ようやく小さな桑畑を見つけ、近くの農家に頼んでカイコを見せてもらっていたのだ。
「ブラザー、俺も何もこれを食おうなんて言ってないさ。ただちょっとこいつらに用事があったんだ。悪いけどあそこの親父さん相手に通訳してくれないか? 俺はこいつらの休眠卵が欲しいんだ」
「む……虫の卵を? まさか食うのか?」
「そんなことしないって言ってるだろ? 醤油をかけて食ったりしないし、こっそりお前のメシに混ぜたりしないから安心してくれ。
いいかい。シルクはカイコがいないと取れないんだ。だけどカイコも生き物だからね、卵が予定通りうまく孵らないこともある。
養蚕農家はそんなときのために休眠卵をスペアとして取っておいたり買ったりすることもあるんだ。
だから、この辺で休眠卵を扱っている業者がいないか聞いてみてほしいんだ」
「じゃあ、その休眠卵とやらの入手先をここの親父さんに聞けば良いんだな?」
「その通りだ。頼むよ」
デルフィノさんは桑畑でカイコの餌の葉を刈る親父さんとひとしきり話し込んで、その後こちらに軽い足取りで帰ってきた。
「ここらでは養蚕農家同士で休眠卵を融通しあうことがあるそうで、この農園でも休眠卵を1シーズン分くらいは持っているそうだ。いくつ欲しいのかって聞かれたぜ。どうする?」
1匹のカイコガが一度の産卵で生む卵の数は500から700と言ったところだ。品種によっては他の蝶類と同程度の300個前後と言われている。高級な絹を吐く品種ほど卵が少ないかと言えばそういうわけでもないらしいが、あまり高度に品種改良をしすぎると卵の孵化率が低くなることがあるそうだ。
「そうだな、最低でも2万個くらいあると嬉しい」
「おうふ……そんなに大量に、いったい何に使うんだ……やっぱり食うんじゃねえのか?」
「ブラザー……俺の今の仕事を覚えてるか? バイオの研究に使うんだよ」
「いいや、日本人てのはいろんな物を食うって言うからな。昨日も見たこともないような変なものばかり食ってやがったし、ほんとにライスにかけて食うんじゃねえだろな?」
昨日の寿司屋の寿司ネタがアフリカ育ちのデルフィノさんの目には相当奇妙に映ったらしい。アワビやトリ貝は別に変なものじゃないと思うんだが、俺が頼んだ寿司を見るたびに悲鳴を押し殺したような声を上げていたのは他の客の手前、勘弁して欲しかった。ほんとに。
「食わないって言ってるだろ? ああもう! いいから4万レアルでいくつ買えるか聞いてきてくれ!」
「あれに4万だと? 気は確かかブラザー?」
4万レアルはだいたい日本円で120万円くらい。農家にはありがたい臨時の現金収入になるような価格を提示しただけのことだ。いきなり飛び込んできて適正価格にこだわる様な無粋な真似を俺はしない。できれば笑顔でWin-Winの関係を築くのが俺のやり方だ。いや、綺麗ごとだってわかってはいるけどさ。
「ああ正気も正気だ! それでな、それだけ出すんだからクーラーボックスもくれと言っておいてくれ。頼んだぞ」
「……わかった。クーラーボックスだな?」
再び親父さんのところに行ったデルフィノさんはうまく交渉をしてくれたようで、俺は親父さんが持っていたほぼ全ての休眠卵、しめて3万個あまりをクーラーボックスごと譲り受けることができた。
クーラーボックスは卵を冷温保存するのに使う。休眠卵はだいたい5℃くらいで保存しないとダメになるデリケートなものなのだ。
「じゃ、帰ろうか。帰りの運転は任せていいかな?」
俺はその日サンパウロのホテルに帰るとすぐにディゾルブ移動でカーソンの自宅に戻り、買っておいた三菱の小型低温恒温器の中に休眠卵を入れておいた。
恒温器はその名の通り、温度を一定に保つ機械で、これを使うことで休眠卵が傷まないように保存することができる優れモノだ。逆に鶏の有精卵とかを孵化させることもできるぞ。しないけど。
冬のカーソンの自宅の中は別に恒温器を使わなくても十分寒かったが、俺は恒温器のスイッチをONにして、再びサンパウロに戻ったのだった。
◆◆◆◆◆
明けて翌日、ナガオさんとデルフィノさんと俺は今度はサンパウロから北東へ400㎞の場所にある小さな町、ミナスジェライス州のバルジニャに向かった。
信号なんか殆ど無いけどほどほどに舗装されている一直線の道が400㎞も続いている。アクセルは気ままに踏み放題の野中の一本道……そんな381号線をひたすら進むと3時間ほどでバルジニャに到着できた。
この辺りはコーヒー園がちょいちょいとあり、気候も良く蝶が多く飛ぶ土地でもある。もう2ヶ月もすると乾季が来るが今はそこそこに蒸し暑い。サンパウロに比べるとかなり暑いと言っていいくらいだ。
東京-仙台間が365㎞なので、サンパウロから400㎞北東へ移動するのも気候区を一つ跨ぐくらいの移動ではあるのだろう。
道々、ナガオさんの身の上話も聞くことができた。両親が日系の移民で自分は二世だということだった。日本経済のバブル期に借金をして日本に出稼ぎに行き、表と裏の両方の仕事で結構なカネを稼いだが、当時勢力を伸ばしつつあったイラン人マフィアとテレフォンカードの縄張りをめぐるトラブルがあり、身の危険を感じてブラジルに帰ってきたそうだ。
ブラジルに戻った直後に日本でバブルが崩壊したことを聞いて、複雑な思いをしたのだとか。
日本にいる間、ナガオさんは「金持ちというのは実に理解のできないカネの使い方をする」ということを学んだそうだ。
刀剣や珍奇なペット、奇妙としか言えないおかしな芸術に大金を支払う日本人達を見たナガオさんは、世間には自分の嗜好に大金を支払う人間が結構いるのだなと感心したらしい。
蝶がカネになるのを知ったのはその頃なんだろうな。
日本で稼いだカネを元手に、ナガオさんは親が経営していた小さな農園を観光農園にしたところ、時流に乗れたのかそこそこ繁盛したのだそうだ。うん。この辺から知ってる。
その勢いに乗って日本にいた時から温めていたアイデア、小石川植物園で見たような蝶園を併設したところ、最初は結構な人気があったのだが、蝶が好き過ぎる人達が一般の観光客ともめ事を起こすようになったようだ。
ここまで話したナガオさんの中で何かのスイッチが入ったのか、急に身の上話はどこかへ消え、その後は蝶界隈の人間に対する恨み言が延々と個人名や大学名とともにつぶやかれ始めたので俺は生返事で適当に聞き流した。
他人の負の感情をまともに受け取るなんてストレスの高そうなことを、今の俺はやってはいけないのだ。
「ああ、次の角を右に曲がって、しばらく行ったら右側に赤茶けた建物があるからその前で止まってくれ」
愚痴を不意にやめたナガオさんがハンドルを握るデルフィノさんに指示を出し、デルフィノさんはその指示通りに車を進め、そして止めた。途中給油を1回しただけでほぼ休憩なしの運転は体力の塊に見えるデルフィノさんでも疲れたようだ。首や肩をゴキゴキいわせて軽いストレッチをしている姿が痛ましく見える。
「ふぅ……ケツが痛いのなんのって……」
「またケツか……前世で何かケツに恨まれるような事でもしたのか?」
「はぁ? なんだそりゃあ? ずっと座ってりゃあケツがおかしくなるだろうが?」
「いや、俺はならないけど……」
「ワシも……」
「話の分かんねえ奴らだぜ。まったく……」
益体もない話をしながら俺達はナガオさんに導かれるまま、道路から見えないように建てられている温室へと入っていった。
外から見ればはトマトでも栽培しているかのように見えるがこれは植物によるカーテンだ。天井からは陽光が差し、蝶の生息に必要な水場や砂場が人工的に作られている。所狭しと様々な種類の広葉樹や草花が植えられており、咲き乱れている花から花へと色とりどりの蝶が飛んでいた。
「なんだここは……天国か?」
デルフィノさんが目の前に不意に現れた光景に戸惑っている。無理もない。ついさっきまでテラローシャの赤い土と乾いた砂とアスファルトと枯草、少しばかりの雑木林といった景色をずっと見続けていたのだから。
「ほれ、ここがお目当ての蝶園やデ。そこにコカノキがあるやろ。アグリアスやったらあの辺にいる筈やナ」
そういわれてもコカノキというのは……と探しているとデルフィノさんが短い悲鳴を上げた。
「おい、なんだこりゃあ! 取ってくれよ」
タテハチョウの仲間が何種類か、デルフィノさんの汗を吸おうと頭や腕にたかりはじめたのだ。振り払えばひらひらと逃げていくが、10秒も経つと戻ってくる。この辺の蝶はちょっと大きくて怖い。デルフィノさんがうろたえるのも解る気がする。
「お、いた。デルフィノさん、動かないでね」
「なんだか知らんが、早く取ってくれ!」
デルフィノさんはパニック寸前だ。泣き声にも聞こえる声で喚いている。
ナガオさんが白い補虫網を持ってデルフィノさんに近づき、デルフィノさんの肩に停まったベアタミイロタテハをナガオさんはさっと傷つけないように掬い上げて採った。お見事。
「ん。これはメスやナ。あとオスは……おったおった」
ナガオさんは雌のベアタミイロタテハを虫かごに入れ、今度は網を持って俺のほうにやってきた。
「ほい」
ナガオさんは鋭い目つきで剣道の打ち込みのように補虫網を俺の頭に振り下ろした。雄のベアタミイロタテハは俺の頭に停まっていたらしい。これで俺達の今日の目標は達成だ。
「これでええやろ。で、育てんのか? 殺すんか?」
「あ、生きてるままでお願いします」
「わかった。じゃ、これナ。持っていけ。蝶はどれも、成虫になったらそんなに長いこと生きられへんからな。すぐ死んでも文句言うたらあかんで?」
ナガオさんは俺にベアタミイロタテハのつがいが入った虫かごを渡してくれた。
「わかってます。どうも無理を聞いていただいてありがとうございました」
「かめへんて。せやけどそのチョウ、ワシから買うたて絶対言わんといてな」
「大丈夫。言いませんよ」
俺はデルフィノさんが知ったらびっくりするような謝礼をナガオさんに渡し、デルフィノさんとナガオさんを連れてまたサンパウロに戻る途についた。
「普段、あの温室は誰が面倒見てるんです?」
「ああ、ベネズエラの虐殺から逃げてきた子がおってな……面倒見たる代わりに蝶の面倒見てもろてんねん。チョイチョイあのコカノキの葉っぱとか持っていきよるから困ってんねんけど、まあそれ以外は真面目やしナ……」
「虐殺……」
俺がやらなくても率先してやってる奴がいるもんなんだな。先進国基準だと南米の大都市はどこもかしこも毎日虐殺が起きてると言われてもおかしくないくらい銃の乱射や強盗殺人で死者が出てるけど。
「あれ、でもその子、今日はいませんでしたね?」
「そらあんた。平日は学校やがな。もう学校始まってるで」
「あ〜そういえば、ちょうど長期休暇明けの時期なんですね」
ナガオさんの篤志家という意外な一面を見てひとしきり感心した後、俺達とナガオさんは最初に出会ったリベルダーデの和食レストランの前で別れた。
「これでアンタとはもう、一切関係なしや。悪いけどそれで頼むワ」
「わかりました。このことは誰にも話しませんよ」
ほな、と一言挨拶を交わした後、ナガオさんは和食レストランの二階への階段を上がっていった。一体二階に何があるんだろうか。それは考えても仕方ないので俺達は長いドライブの疲れを癒すべく、ホテルへの帰路についた。
「おい、日本語で何言ってんだかわからねえけど、多分、今日のことは口止めされたんだろ? その蝶はそんなにヤバいもんなのか? 絶滅危惧種だとかヤバい毒をもってるとか……?」
「いや、そんなことはないよ。それより3日後にはアマゾンに行くよ。ここからがブラザーの本領発揮だぜ」
「そのヤバそうな蝶はどうするんだ?」
「標本にでもするさ。綺麗だもんな。しばらくは殺さないってだけだよ」
その夜、俺は二匹のベアタミイロタテハをカーソンの家に持っていき、ガンガンに暖房と加湿器をかけた部屋に置いておいた。
「あとは、現地に行くのと……あと、これが面倒なんだよなあ……」
俺は3万個の休眠卵を暖房のない部屋に持ってきて、レグエディットで、まず卵のDNAの中から産卵数にかかわる部分を抽出し、それを暖房の効いた部屋にいるミイロタテハのDNAの該当部分に移植した。
これで完成したミイロタテハの雄雌のDNAをクリップボードにコピーし、3万個以上ある卵一つ一つのDNAにペーストで上書きしていく。5:1くらいの割合でメスを多めに。
これで孵化した卵は全て、カイコガ並みに卵を産むミイロタテハの幼虫になる筈だ。
1個1秒でも10時間。まあ実際は1個に1秒もかからなかったので思ったよりは辛くなかった。部屋が寒かったのと、目がしょぼしょぼしたこと以外は。
ミイロタテハのDNAは56メガバイトくらいだ。人間のDNAが750メガバイト前後と言われているが、俺は人間のDNAを操作した実績がある。であれば、その13分の1の蝶のDNAを2匹分クリップボードに入れることなど……多分できている筈だ……多分。




