第四十一話:暗闇のマニラ
マニラにもう一つ大型の台風が来た後の、照り返しの厳しい土曜日の午後――
ヴァーン……ヴァーン……
突如、MERALCOのオペレーションセンターの壁に設置されていた赤いランプが毒々しく回り、警報が鳴り響いた。それを聞いてセンターに駆け付けた職員達が各方面へ確認を開始する。昼食を中断させられたせいか、その表情は硬い。
「どうした、また上流で何かあったのか? ここんとこ停電が無くて安定してると思ったら……」
部門長がイラつきながらオペレータ達に原因究明の指示を出すが、配電オペレータ達は混乱気味だ。眼の前のディスプレイには送電トラブルは表示されていない。
「いや、街のあちこちで停電していますがこれは……電線を切られていますね」
職員達は状況確認に必死の形相だ。そんな中、職員の一人がオフィスの片隅に置いてあるテレビのニュース番組に目を留めた。
「なんだ……? なんで街なかで電線を切りまくってるんだあいつらは?」
画面には、マニラ市内で電線を切り刻む無軌道な集団が映し出されていた。次々に電線が地面に叩き落とされる様子に息を呑む職員達。暴挙に憤るレポーターが一人、金切り声を上げていた。
「馬鹿な……。何やってんだよ! お前らその電気で仕事したりメシ作ったりするんだろうが!」
センターの職員がテレビに向かって怒号をあげた。原因ははっきりしている。こいつらだ。
ニュースではより太い電線を求めて高圧鉄塔に登り、逮捕された中年男性を大きく報じている。皆、開いた口が塞がらないといった言った目でニュースの映像を見ていた。
「テロか? テロなのか……?」
誰の目にも、テレビに映し出されている映像が、何か政治的宗教的意図があってやっている抗議行動には見えなかった。ただ電線をぶった切って持ち帰る輩が街中に溢れ出している。それだけだ。
パコ地区だけでなくエルミタ、イントラムロス、シングカマス、テエロス、パラナン……パシッグ川河口付近の広い範囲でその蛮行は繰り返された。
ジェロムのせっかくの報告は「何かの間違い」で握りつぶされ、報告されるべき筋には報告されてはいなかったのだ。そのためオペレーションセンターでは初動が遅れ、MERALCOの職員が事態の概要を把握できたのはテレビ局の取材陣に情報を聞いた時だった。
取材のためオペレーションセンターを訪れたテレビ局のスタッフは呆れ顔だ。最前線を取材に来たつもりが、そこにいたのは何も知らず分からず狼狽する視聴者だったのだから。
ジェロムもまた当然、事務所のテレビでこの景色を見ていた。幸いにも事務所までの電線はまだ切られていなかったが、それもいつまでもつか判らない。
ジェロムはマーロンの方をギロリと睨んだ。
「マーロンまさかお前……つまんねえ事を誰かに吹き込んだりしてねえよな?」
「エンジニア・ジェロム。俺は何も言ってませんよ。それより例のボーナスを楽しみにしているんですからね。約束守ってくださいよ?」
「馬鹿野郎……こんなことになった日にゃあ、ボーナスをくれる会社が明日あるかどうかもわかんねぇぞ」
「そんな……俺せっかくちゃんと黙ってたのに……」
ジェロムはマーロンに近寄って、ぐずるマーロンの頭をポンと叩いた。
「よし、お前は俺の言ったとおりアレのことは黙ってたんだな? 偉いぞ、マーロン」
「あの電線のことですよね? だったら今ネットで盛り上がってますよ。ほら」
マーロンはジェロムにスマートフォンの画面を見せた。
ジェロムが画面を訝しげに覗き込むと、画面には街中の電線を切りまくっている連中が得意気に切った電線を掲げている動画が映っている。
こういう写真が今朝から大量にSNSに投稿されているのだ、とマーロンは説明した。
「ネットか……そっちをうっかり忘れてた。こいつばっかりはお前に黙っててもらってどうにかなる問題じゃねえな」
「あの銀の電線、ここら辺だけじゃなかったみたいですね。少しだけど金も入ってるって情報も流れてます」
「そういうこった。おいマーロン、倉庫の方を見に行ってくれ。戸締まりをしっかりしておかないとな」
「え? どういうことですかい?」
「今、外で暴れている連中は電線を手当たり次第ブン捕っているんだろう? だったらウチは一番ヤバい。 倉庫には電線が山積みなんだぞ、違うか?」
「ヤバいだなんて、脅かさないでくださいよ」
「脅かしてるわけじゃねえ。ほら、これ持っていけ」
ジェロムがマーロンに渡したのはホルダーに入った大きなジャックナイフだ。この大きさのナイフが、少なくとも鉛筆を削ったりリンゴを剥いたりするための物ではないことはマーロンにも見ただけで解る。
「これも着ていけ」
次に渡されたのは防刃ジャケットだった。腕を通すとジャキジャキと音がする。重いが着ろと言われれば着るしかない。
「何でこんな物騒なモノを持ってるんですか?」
「お前は知らなくていい。倉庫の中に、そのナイフを見てビビらないヤツがいたらお前はさっさと逃げろ。間違っても電線のために命なんて懸けようと思うんじゃねぇぞ」
マーロンは言われるがままに店の裏口から出て行って、三軒隣にある倉庫の裏口の扉を開けた。
「あっちゃあ……。こりゃ酷いな」
破壊されこじ開けられた表通り側のシャッターと、荒らされ尽くした資材置場。以前ジャスパーの家の工事やらで巻き取ってきた電線もすっかり持って行かれていた。
「そりゃねーよな……。あれ一巻きで軽く40000ペソはしたんだぜ……」
がっくり肩を落とすマーロン。それでも彼はなんとか気を取り直して倉庫の中をスマートフォンで撮影し、ジェロムに報告をした。荒れ果てた倉庫の中の様子を見せられたジェロムは絶句しつつもマーロンの無事の帰還を喜んだ。
「マーロン、よかった。お前が無事で何よりだ。今日はもう帰っていいぞ。仕事になんかならねえからな。
帰り道はくれぐれも気をつけろ。絶対に寄り道はするな。家にまっすぐ帰れ。そしてしっかり鍵をかけてさっさと寝ろ。どうせテレビなんか映らねぇ。
いいか、明日から俺の言うことなんか聞かなくてもいいから、今日だけは俺の言うことをちゃんと聞くんだ」
ジェロムの鬼気迫る物言いに感じ取るものがあったのか、マーロンはコクリと頷き、早々に防刃ジャケットを脱いで帰宅の途についた。
電線が切られたなら本当は張り替えに行くのが仕事だ。しかし今日それをやってもまた切られるだけ。やるだけ無駄だろう―― マーロンが思いついたのはそんな理由だった。
「ちぇっ。せっかくの早上がりだって言うのによ」
マーロンはまだ日の残る帰り道の市場で少しの果物とビールとつまみを買って、まっすぐ家に帰った。さすがに倉庫で見た光景とジェロムの顔が思い出され、フラフラ出歩く気にはならなかったのだ。
「しかし、ジェロムの旦那、どうしてあんなにピリピリしてたんだろう……?」
マーロンの脳裏にジェロムの真剣な顔と声が何度も去来したが、その疑問への答えは出ない。まだ自宅に電気が通っているのを確認すると、マーロンはスマートフォンを充電器に繋げた後、くだらない雑誌を読みながらビールを飲みはじめ、そのうち寝てしまった。
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「さあて、こんな夜は久しぶりだな……」
とっぷりと日が暮れた後、真っ暗な大通りをジェロムは凝視していた。いつもならネオンや街灯が煌々と道行く人々と街を照らしている時間だ。だが通りの喧騒は今日はどこにも見当たらない。
あちこちでガラスの割れる音、人の悲鳴、シャッターを殴る音が聞こえてくる。かろうじて電気が点いていたエリアも、電気火花がパシッと光るのを合図に、徐々に電気が消えていくのが見えた。
市内全域でこんな有様だ。当然、ジェロムの店にももう電気は届いていない。店の中は昼間に太陽光パネルでバッテリーを充電していたLEDのスタンドのおかげで暫くは明るさを保っていたが、その光もだんだんと弱々しくなり、そのうち消えて真っ暗になった。
「嫌な夜だ……」
ジェロムは軍人時代に参加した国連平和維持軍による、リベリア・モロンビアでの治安回復ミッションのことを思い出していた。
それは、絶え間ない疑心暗鬼の記憶だ。夕暮れ時を過ぎると、道行く人の誰もが闇に乗じて自分を狙っているように思え、時には自分に話しかけてきた子供に銃を向けたことさえあった。
仲の良かった同僚はエヴォラにこそかからなかったが、コレラでバタバタ倒れてテントの中で白いクソを垂らして呻いていた。その駐屯地の周囲では、悲惨な衛生状態と狂乱の内戦が民間人を巻き込み三十万人以上が死んだ。
人生で最もクソッタレな何ヶ月か……それを思い出させるほど、その日の夜はリベリアに似ていた。
「やべえ、クソの事を思い出したらクソがしたくなってきやがった……」
ジェロムは雑然と雑誌や伝票が置かれた棚の奥に置いてあった銃、グロック18を取り出すとトイレに行って、用を足しながら磨き始めた。
「こいつを使わなくてもいいならそれに越したことはないんだがな……。
それにしても倉庫のシャッター、あそこまで壊さなくてもいいだろうによぅ……修理にいくら掛かるんだアレ」
ジェロムの電気工事店の倉庫は今日だけで既に3、4回はコソ泥に荒らされていた。何人目のコソ泥がそうだったのかは知らないが、次に来たコソ泥と鉢合わせをしてやりあったらしく血痕がそこかしこに飛んでいる。あと、奥歯らしきものが2本。
一応市民の義務として警察には報告したが、相手にもしてもらえなかった。警察も高圧電線目当てに鉄塔に登る馬鹿どもを押し止めるのに精一杯で、皆出払っていたらしい。軍隊も一部出動しているようだが、事態の収拾には程遠そうだ。
停電は、よほど民度の高い国か国民の行動をガッチリ管理している国でなければ復旧時刻を利用者に教えることがない。特に夜の停電はそうだ。少し頭の回るワルなら復旧時刻までは警備システムが満足に動かないことに気がつくだろう。
復旧の見込み時刻の公開は、盗人にいつまで安心して仕事ができるかを教えてやる事に他ならないのである。
停電が怖いのは、普段からのワルだけでなく、普段は良き市民として暮らしている人間が闇に乗じて豹変する可能性があるところだ。
そしてそんな連中が束になると「あいつもやっている」という集団心理で犯罪に対する心理的ハードルが低くなり、略奪や暴動に発展する可能性すらある。
闇や、自分達に銃を向ける軍隊、警察、あちこちですでに起こっている略奪、さまざまな要因が普段は善良な羊の市民を狼に変貌させてしまう。ジェロムはそれを幼い頃のマニラで、そして軍隊に入ってからはリベリアで嫌というほど見てきた。
今はまだぼちぼちと略奪が始まったばかりだが、この後いくら張り替えても電線が盗まれるようなら都市の生活機能は麻痺してしまう。そうなったらほどなく大規模な暴動が起こるだろう。
犯罪には厳罰を以て、という今の大統領ならこの事態を収めるために最悪の手段を使わないとも限らない。
あの銀の電線は、どれだけの血を吸うのだろう……。
どれくらいトイレで考え事をしていたのだろうか。下半身を晒しながら銃を磨いていたジェロムは近くに物音を感じ取った。誰か店に入ってきて店の中を歩いている。
「誰だ、マーロンか? 今日は帰って寝てろってあれほど言ったろう」
トイレの中から呼びかけてみたが返事がない。
「やれやれ、コソ泥様のおでましか」
ジェロムがトイレから出ていくと、16、7歳くらいのクソガキが転んで足を何かにぶつけ痛がりながら慌てふためいていた。電線をリールごと持っていこうとしたが、予想外に重かったらしい。
侵入者はジェロムの暗がりにズボンが半分ずり落ちたジェロムの姿を見つけ、パニックに陥った。
「落ち着け小僧。盗ったものを置いていってくれりゃあ、手荒な真似はしねえよ」
「クッソおぉぉお! ナメやがってええぇ!」
半べそをかいた侵入者がジェロムに銃口を向ける。セブ島あたりで売られている粗悪な密造銃だ。ジェロムが侵入者に向かって威嚇のつもりで足元に向けて一発撃つと、闇の中で火花がチカっと光り、大きな音がした。
「やれやれ、今日は救急車が来てくれるかどうかわからんぞ……」
侵入者の密造銃が暴発したらしい。辺り一面が血の海だ。声にならない声を出しながら侵入者は転げ回っていた。腕がひしゃげ、指が吹き飛び、顔が破壊され、派手に出血している。
「おい、お前、話せるか? 金はあるか?」
ジェロムは冷徹に侵入者に話しかけた。侵入者は痛さで顔を歪め、百面相を続けている。だがその様子を見てもジェロムは同情する気になれなかった。
「知ってると思うがマニラじゃあ救急車ってなあ呼ぶのにカネがかかるんだ。最低でも2000ペソは要るんだぜ? 一応、911に電話はしてやるが、カネはあるんだろうな? 俺は立て替えねえぞ」
ジェロムが言い終わった後、侵入者は何か言いたそうに首を持ち上げたが、力尽きたのかぱたりと動かなくなった。
「ちっ……俺は医者と牧師の真似事はできねえんだよ……」
ジェロムはとりあえず911に電話をしたが、救急車はいっこうに来る様子が無い。2時間半経ってようやく救急車が来た時、コソ泥の侵入者はショック症状を起こして目を剥いていた。
「こんなのがあと何組来るんだ……ったく」
初日こそ火の手は上がらなかったが、この後マニラでは略奪と暴動が始まった。低層住宅地域は火の海だ。四日目には三年ぶりの戒厳令がマニラ首都圏全体に敷かれたが、暴動は各地に飛び火し、フィリピン政府はこの事態の収拾に更に七日を費やすことになる。
大統領は暴動の扇動者に容赦なく警察と軍隊を差し向け、暴動に参加した人々を徹底的に弾圧して事態を鎮静化させた。この弾圧についても各地で議論は呼んだものの、暴動のあまりの凄惨さがクローズアップして報道されていたため、政権への批判は人権派やリベラル派と言った口だけの連中による薄っぺらいものが少々あっただけだった。
マニラのインフラが再びまともに動くようになるには、さらに3週間以上がかかるだろうと言われている。
この動乱で世界5位、2300万人の人口を誇るマニラ首都圏は8万4000人の死傷者を出し、一部地域では都市機能が完全に破壊し尽くされた。
◆◆◆◆◆
「最初はマニラだったわね」
市川さん、昨晩BSワールドニュースを見たらしい。
「うん。やっと、という感じだね。やっぱり中国みたいに統制の強い社会だと暴動とかは起きないのかなあ? マニラで起こったんだから『起こるところでは起こる』ということか。これが火種になって次々連鎖反応が起こるんだろうな……」
「結局、火事は結構起きたみたいね。インフラも随分ダメージを受けたわ」
「いやあ、暴動って怖いねえ。普段はおとなしい人達が火をつけたり電線を切ったり」
程なく、インドネシアのジャカルタやインドのコルカタで似たような騒動が起きた。ジャカルタでは強い宗教戒律が、コルカタでは第Ⅲ軍第23歩兵師団の機敏な反応が幸いし、マニラほど都市機能へのダメージは大きくはなかったようだ。しかし元々の人口が多く人の命が安い地域だったのか、死傷者の数はマニラ以上だった。
コルカタの騒動がデリーに飛び火した時は、地域の宗教対立や身分制度への不満が同時に爆発したため手がつけられなくなったらしい。
警察組織が完全に麻痺したこともあって騒動は長期化し、27万人もの死傷者が出たようだ。この事態の収拾のため国連平和維持軍の出動さえ検討されている。
驚いたことに、俺と市川さんが訪れなかった国や地域でも同様の騒動が起き、相当数の死傷者が出る騒ぎになっていた。
これは「あなたの街の電線も銀でできているかもしれない」と言うフレーズを誰かがSNSに書き込んだため、その気になった我慢できない人達が行動を起こした結果だった。まあ、書いたの俺なんだが。
「これで十年分くらいはノルマは果たしたが……」
人類は毎年8000万人ずつ増えている。50万人くらい減らしてノルマがどうこう言っている場合ではない。
俺は次の一手を打つために、米国へと飛んだ。




