第三十三話:忍の里の相田
翌朝、俺は盛大に寝過ごした。
午前10時半、チェックアウトまであと30分。時計を見て飛び起きた俺は荷物を抱えてフロントへ走った。
「あ……あれっ?」
チェックアウトは間に合ったが、今度は車のキーが見当たらない。焦ってあちこちのポケットを探っている時に、女将がやって来て俺に言った。
「ちょっと落ち着いて、朝ご飯でも食べて行かはりません?
なかなか起きはらへんから朝ご飯、お部屋にはお運びしませんでしたけど、取っておいてありますよって……。こっちの食堂でなら今からでも召し上がっていただけますけど?」
俺はこういう粋な計らいに弱い。加えてこの山あいの空気は素晴らしく、俺はついつい朝飯に茶碗2杯もかき込んだ。
「ごちそうさん」
宿の行き届いたおもてなしで落ち着きを取り戻した俺は、車のキーもなんとか見つけ、予定通り月ヶ瀬方面に車を走らせた。
国道368号線から外れた急な山の間を縫うように走り、信号もほとんどないような細い道を1時間ほどかけて抜けると、目の前に小さなダム湖が現れる。湖にかけられた橋を渡ると風光明媚な農村の風景が広がっていた。
「この辺でいいかな……」
俺は車を止め、電話をかけた。
「よう、相田。元気か?」
「影山先輩スか? 今日はまたいったいどうしたんスか?」
「いや聖地巡礼ってやつをな……。今ようやくその聖地に着いたんで景色を楽しんでいるところだ」
「ほえ?」
「俺の好きな小説家でな、あ、いや、Web小説なんだけどな……アイーダ月ヶ瀬ってのがいてさ。月ヶ瀬ってどうも地名らしいじゃん? だから奈良県の月ヶ瀬に来てみたんだ。そしたらアイーダの方でお前の名前を思い出したんだよ」
「なんスかそりゃ……? 聖地巡礼は作品の中に出てくる土地や施設に赴くもので、作者の名前を辿るもんじゃありませんよ?」
「ははは……そうか。こりゃ失敗したな。
ところでお前、奈良だったよな? ここも一応奈良市なんだが月ヶ瀬ってわかるか?」
「……影山先輩、回りくどい話はいいっスよ。私が月ヶ瀬に住んでること知ってるんでしょ?」
「いやまぁ、アタリをつけていたというぐらいだ。旅行中でな、これから岡山まで行くんだが、その前にちょっと会えるか?」
「岡山ってことは市川先輩の家に行くんスか? 結婚のご挨拶スか? 金持ち同士がくっついたら庶民にはいくら待ってもお金が回ってこないっスよ。あーやってらんねース」
「市川さんと俺が結婚とか、本人の前で言ったら目を吊り上げて怒るのはお前も年末にその身で体験してるだろう。カネについてはその……なんだ。愚痴もちゃんと聞いてやるからどっかでお茶でもしようや」
「その、こういう田舎なんで男の人と一緒にいると、もう明日にはそこら中に知れ渡ってしまうんスよ。申し訳ないんスけどちょっと離れたとこまで行ってもらっていいスか?」
「あーそりゃ気がつかなかった。すまん。希望の場所はあるか?」
「ここからだと上野に出るのが便利です。上野でどっかファミレスにでも入りましょう」
「お前がそれでいいならいいぞ。お前、移動手段はあるのか?」
「家の車があります。場所はお任せしますんで決まったらメールで知らせてください」
「わかった」
道々に見えるイノシシ鍋や玉こんにゃくのノボリに気を引かれながらも伊賀市の中心部に向かうと、市街地が見えてきた。
「どっちを見ても忍者ばっかりだな。ここは……馴染みのない街をうろちょろしても疲れるだけだし、さっさと相田と落ち合う場所を決めてしまうか」
しばらく街道沿いを流していると広い駐車場があるカフェを見つけたので、ここで相田を待つことにする。
「しかし、きったねえなあ……」
白が基調色の俺の車は昨日散々泥飛沫を被ったせいで茶色と灰色の斑模様になっていた。うっかり拭くと細かい砂利が塗装を傷つけてしまうのでそれもできない。早いところ洗車してくれるところに行かないと……。
「うぉ、BMWすか。めっちゃ金持ちっぽいですやん影山先輩」
20分程で相田が現れた。トレードマークのノースリーブは健在だ。
「フェラーリやランボルギーニだと、芸能人やスポーツ選手はともかく俺みたいな人間では必要経費として認めてもらえないんだよ。BMWのスポーツタイプはギリギリ認めてもらえるらしい。だからこれなんだよ」
「そうなんやぁ。あーでも昼ご飯、なんか高いモンでも奢ってもらおうかと思ってたのに、カフェとは先輩も気ぃ効かんなぁ、しょもな……」
「いや、朝飯が11時で、しかも結構食っちまったからな……スマン。ところで、お前関西弁話すんだな? なんか新鮮だわ」
「まあ地元やし……。逆に東京弁喋ってたらめっちゃ白い目で見られますよ。先輩も気ぃつけてください」
そんなことを言われても急ごしらえの関西弁など喋れない。しかし、確かにこのあたりで東京と同じ話し方をすると周りの人がぎょっとした顔をしてこちらを見るのは何となく分かるのだ。
なので俺は極力、関東弁ではなく標準語を話そうと思った。波風はできるだけ立たない方がいい。
カフェに入って席に着くと俺は相田に一通り、何があったのかは中山から聞いたと伝えた。相田は俯いてしばらく話を聞いていたが、顔を上げて俺の方を見てこう言った。
「それで? わざわざ私に会ぅて、影山先輩は何をしたいんですか?」
相田の質問は昔とかわらず単刀直入だ。
「それはまあ、後でちゃんと話すよ。それよりお前今、どうやって暮らしてるんだ? ニートか?」
「ニート言うたらニートやけど、所謂デイトレーダーっス。影山先輩が作った株価予測モデルを、個人的にバージョンアップして使てます。それで株式投資をして運用益で暮らしてます」
なるほど。俺の書いたコードではなく、ニューラルネットのアイデアを頭の中に入れて家でイチから作り直したのか。そりゃあエキスパートじゃないとできない……というかエキスパートってやっぱ凄いな……。
「あのシステムにそんな個人投資家向けに使える柔軟性はなかった筈だが?」
「私にかて、それぐらいは作れますよ先輩。それに、影山先輩のシステムやと現状の株式市場には対応できない部分があるんで、そこを直しました」
「現状の市場に対応できないのはどんなところだ?」
あのシステムは運用開始直後は業界最高スコアを叩き出していたと聞いたが、もう市場に対応できなくなったのか……。
「ここンところAIを使った投資判断をしているところがかなり多いんですよ。大手の年金機構なんかがそうなんですけど、巨大な資金を持ったところがAIを使って投資判断をすると、チャートが今までと違うパターンを描くんです。
影山先輩の作ったニューラルネットワークのモデルは平成に入ってから今までのチャートパターンと他の従属変数を30個ほど、それにIR資料をベクトル化したものを学習させたヤツですやん?
せやけど厳密には日本やと2015年、アメリカやと2007年ぐらいからこのAI投資判断のパターンが見え隠れしてます。せやから私はこの年より前か後かで一旦、教師データを分けるべきやと思たんですよ。
ほんで私は2015年以降のチャートとIR資料を3系統、LSTMとTCNと、あとはフルモデルのGPT-4で学習するようにして、投資判断側AIで協議するように実装しました。投資判断AIのメインは強化学習スね。
個人投資家の動きによって若干ブレますけど、それでもAI投資市場に適応する投資AIを作ったことで投資効率は相当上がってます」
「すごいな。それでバリデーションエラーがちゃんと有意に収束するのか……パフォーマンスはどれぐらいだ」
「2ヶ月で275%です。これは短期寄りにコンフィグレーションを設定しているからっス」
「元金がでかけりゃすごいことになるな」
「そこなんスよ。私、留学時代に結構あちこちから奨学金を借りててその返済が大変なんです。そっちのほうにだいぶ可処分所得を使ってしまって貯金が少ないんスよ。だからあまり元金は大きくないんス」
「奨学金、どれぐらい借りてたんだ」
「色々合わせてざっと2500万円ぐらいです。会社で結構もらえてたんで返済もできるかなと思てたんですけれど、あきませんでしたね……会社辞めてしもたし。ぶっちゃけ今は貯金してた数十万円を元手に、ようやく資金を100万円台に増やせたような感じです」
この歳で2500万円の借金をしてまでアメリカで勉強をして、帰ってきたら2年も経たずにパワハラでリタイヤというのはいくらなんでも可哀想だろう。
俺の中でゲス森への行き場のないヘイトが高まっていくのが判る。おのれゲス森……。
「よし、解った。お前のその人工知能と投資に関する知識を俺が買うということでどうだ?」
「私のニューラルネットワークモデルを買うってことっスか?」
「お前のモデルを買うというよりお前自身を買いたい。お前の言うことが本当なら、今後投資用のニューラルネットは市場の変化点を自分で見つけて、自動的にモデルの最適化をしなければならんだろう。その自己進化プログラム、俺には組めるかどうか自信がない。お前にやってもらえれば安心だ。
俺と市川さんがやっている会社で影山物産という会社があるんだが、来月から資金運用ファンドを始めようと思っている。ベンチャー投資を前提に考えているが、普通に株式投資もやってもいい。お前そこの投資マネージャーやらんか?」
「はあ? 投資マネージャーというのは何か、証券会社での長年の勤務経験とかそういうのが必要なんと違いますか? そうやのうても資格とかいるんと違いますのん?」
「俺達は資金を外部から調達しない。つまり、他人様の金を扱うわけじゃないからそんなにかしこまらなくていい。影山物産の現預金があまりに大きくてな。それを運用する手伝いをしてほしいだけだ。
お前は目の前にある影山物産のカネをちょこちょこ増やしていけばいい。給料は弾むぞ」
「マジっスか? そんなん願ったり叶ったりなんですけど……ぶっちゃけた話、お給金はおいくらぐらい貰えるんスか?」
「俺は世間の相場を知らないからな……とりあえずアメリカのAI技術者の上位ぐらいを考えてくれ。相場はいくらぐらいだ?」
「5000万から1億ってとこじゃないスか」
「よし、だったら年に1億出そう。市川さんにこの後許可を取ってくるから、身の回りの整理をしておいてくれ」
「本当に? マジで言うてますか影山先輩? 年俸1億て阪神の西岡より多いですよ? 大丈夫なんスか?」
なぜ俺が阪神の西岡選手の年俸を知っている前提で話すのか。知らんぞそんなもん。相田が相場を言ったんで上の方で答えただけだ。
「いらないなら減らすぞ。俺はお前がスタンフォード帰りで、一流のAI技術者だと思うから一流のAI技術者の年俸を提示しただけだ。お前が自分を三流だと言うのならいくらでも下げてやるが」
「いえいえ、それでお願いします。お心変わりのございませんよう」
「それとな」
「はい?」
「まだ沢森が憎いか?」
「多分、一生許せませんね」
「そうか。だったら俺と一緒に復讐の企画も練るか?」
相田の顔が明るくなった。我が意を得たりという顔だ。
「影山先輩、話のわかる人やったんですね……」
「なんだそりゃ。まあ話はここまでだ。メシまだだろ? 何でも好きなもの頼め。奢ってやる」
「オゴリか……せやったらもっと高い店にしてくれたらええのに……」
「ここじゃ駄目か? 見てみろよ、このピザなんか美味そうじゃないか。それにこれから岡山までぶっ飛ばすんだ。腹いっぱいだと眠くなってしまうだろ」
「あ、それもそうスね。安全第一スね」
相田がきのこのクリームソースパスタのセットを食っている間、俺は沢森をどうしてやろうかと考えていた。ちょっと思いついては相田に感想を聞いてみて、その後うーんと唸るのを繰り返すのだがどのアイデアも決め手に欠ける。ぶっちゃけ「ざまぁ」な爽快感がないのだ。
結局この件は、後日ちゃんと時間を取って企画を練って、「沢森さんには生きていたことを後悔してもらいましょう」ということになった。
「じゃあ、元気でな」
相田との話し合いはなんだかんだで30分ほどで終わった。いつも思うが、頭のいいヤツと話をすると話が短い時間で済む。俺はドロドロのBMWに乗り込んで窓を開け、相田に手を振って出発しようとした。
「あの……影山先輩。身辺の整理はいいんスけど、私、どこで働くんスか?」
……え……?
「あー、そのへんはまた連絡するわ。支度金振り込んどくからあとで口座情報、メールしてくれ」
「うぃーす」
考えてみれば影山ファンドにはまだ社屋がない。相田を出勤させるにもどこに出勤させて良いのかまだ決まってなかった。あとで市川さんに怒られるだろうな。
相田と別れた後、俺は再び車を走らせ名阪国道から中国自動車道へと入り、一路、岡山へ向かった。
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若い番号の台風がいくつも赤道付近で発生しつつある中、中国人民解放軍海軍所属空母「遼寧」を中心とした練習艦隊は青島港から出発した。
折角の練習機会でもあるので、海上での訓練をするために遼寧とその護衛に当たる艦隊には艦載機「殲15」20機を始め、さまざまな実践兵器が搭載されている。
今回の航行は長距離遠征なのでできるだけ燃費効率を上げなくてはならない。各艦は船体を軽くするため、フル装備を避けつつもそれなりにゴツい兵器群を適宜選択して積み込んでいた。
出航後、練習艦隊は東シナ海から宮古海峡を抜けて太平洋の公海上を南進し、オーストラリアのダーウィンにあるクナワラ海軍基地およびパース沖のガーデン島に寄港。両基地で補給を受けた後に喜望峰を回って北上し、ギニア湾に向かう予定だ。
この練習艦隊の進行ルートは親善艦隊の名に恥じないよう、極力周辺国を刺激しないように外交部と国家軍事委員会によって慎重に考え抜かれたものだ。繊細な配慮が求められる南沙諸島を含む南シナ海を避け、可能な限り公海上を航行するなど、この艦隊派遣が平和協力目的であることを、中国脅威論を唱える軍事研究家さえもが認めざるを得ないほどだった。
実際に予定されたルートではこの練習艦隊は、中国政府の長い間の要請にもかかわらず台湾と国交を維持しているスワジランドの近傍や、最近まで台湾との国交を維持していたサントメ・プリンシペおよびガンビアの沖を通る計画になっていた。
そのため、この艦隊派遣は全くの平和目的ではなく何かしら外交的な圧力をこれらの国に示す目的があるのではないかと言う者も居たが、そのような意見は「中距離弾道弾の実験を繰り返して他国を挑発するのに比べたらかわいい示威行動」と一蹴されていた。
艦隊は台風の波をかき分け進んだ。多くの命と少しの思惑を乗せて。
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東京、南麻布にある中国通商部の建物の中では、今日も王と楊がそぼ降る雨を見ながら日々の業務に追われていた。
彼等には、自分達のレポートが発端となって、今現在遼寧が太平洋を南下していることなど知る由もない。影山のことすら日々の業務の中で忘却されつつあった。
「そろそろ夏至ですねえ、王儿」
「そうだな。妻がワンタンを作ると言っている。お前も我が家に来て食べると良いよ。楊」
「お、儿の家ではまだ、夏至にワンタンを食べるのですね。嬉しいなあ」
どこまでも通常運転の2人だった。